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2025年5月26日
ふじのくに⇄せかい演劇祭2024 劇評コンクール 審査結果
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2024の劇評コンクールの結果を発表いたします。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。
(応募数12作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選2作品)
(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
廣川真菜美さん【トリゴーリンこそ令和のかもめだ】(『かもめ』)
■優秀賞■
寺尾眞紀さん(『かちかち山の台所』)
夏越象栄さん(『白狐伝』)
■入選■
小長谷建夫さん(『楢山節考』)
中島悠平さん【『楢山節考』における音楽の位置ーー俳優とチェロのダイモルフィズムについて】(『楢山節考』)
■SPAC文芸部・横山義志の選評■
選評
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2024 作品一覧
『白狐伝』(演出・台本:宮城 聰 製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター)
『かもめ』(作:アントン・チェーホフ 演出:トーマス・オスターマイアー 製作:ベルリン・シャウビューネ)
『友達』(演出:中島諒人 作:安部公房 製作:特定非営利活動法人鳥の劇場、SPAC-静岡県舞台芸術センター)
『楢山節考』(上演台本・演出:瀬戸山美咲 原作:深沢七郎 製作:SCOT)
『かちかち山の台所』(演出:石神夏希 製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター)
『マミ・ワタと大きな瓢箪』(演出・振付・出演:メルラン・ニヤカム 製作:ラ・カルバス・カンパニー)
ふじのくに⇄せかい演劇祭2024■選評■SPAC文芸部 横山義志
「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」「ふじのくに野外芸術フェスタ2024」劇評コンクールには計12作品の応募がありました。内訳は『白狐伝』4、『かもめ』4、『楢山節考』3、『かちかち山の台所』1でした。
私は、劇評を以下のような基準で評価しています。
1)(粗筋ではなく)上演がきちんと記述されているか
2)(とりわけ今その作品を上演する意味について)明確な視点が提示されているか
3)その劇評を読まなければ気づかなかったような発見があるか
最優秀賞や優秀賞に選ばれた作品は、自分が見たはずの舞台でも、新たな視点から、驚きをもって思い出させてくれるものでした。
2)については、題名がつけられている劇評のほうが、焦点が定まっていて、印象深いものになる傾向があるように思いました。
今回、最優秀賞に選ばれた廣川真菜美さんの『トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ』は、この作品を今上演することの意味を、とても納得のいく形で解釈されています。廣川さんによれば「かもめの剥製を見て、その存在を思い出せないトリゴーリン」は、「求められている自分」に適合しようとして「自身から湧き上がる」ものを見失っている私たち自身の姿なのです。
優秀賞に選ばれた夏越象栄さんの『白狐伝』評も、臨場感をもって俳優の演技や舞台美術、衣裳などを描写しつつ、ちょっとした細部に目を凝らしながら、「境界線」を越えて異質な存在に歩み寄り、痛みを覚悟しながらも「真心」を交わすことの可能性について、スリリングで心を動かされる分析をされています。
もう一本の優秀賞、寺尾眞紀さんの『かちかち山の台所』評は、今回この作品について応募があった唯一の劇評でした。山道を2時間近く移動しながら見る作品なので、客観的に分析するのが難しかったのではと思います。そのなかで寺尾さんは、ご自身で山道を歩いた身体感覚を鮮やかに描写しつつ、それが「今まで主流とされていた側「じゃない方」の声を聴く」ための方法でもあったことを看破されています。
みなさんの劇評のおかげで、今年も新茶の季節に上演できた作品一つ一つをもう一度じっくりと味わうことができるのがとてもうれしいです。たいていのことは家にいながらでも体験できる世の中になりましたが、みなさんの文章を読むと、その時、その場だけで起きたことに、体ごと向き合ってくださったのを感じます。みなさんの体験をおすそわけしてくださり、本当にありがとうございました。またみなさんの劇評を拝読できるのを心待ちにしております!
SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■最優秀賞■【かもめ】廣川真菜美さん
トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ
オスターマイアー演出のシャドウビューネ版『かもめ』は「今、なぜ、この作品を上演するのか」という問いに⾒事に応えた作品だった。
これまで⽇本でも多数『かもめ』を⾒てきたが、今回の『かもめ』が決定的に違ったのが、作品の焦点をトリゴーリンに当てていたことだ。なぜトレープレフでもなく、ニーナでもなく、トリゴーリンなのか。それはトリゴーリンに焦点を当てることこそが、「今、なぜこの作品を上演するのか」という問いの答えだからだ。
作品はドイツで作られているので、「令和」を当てはめることは憚られるが、上演された国の、時代の切り取りとして敢えて「令和」を使わせてもらうと、令和は⼀億総SNS時代とも称される時代だ。多くの者がSNSで⾃らの意⾒や気持ちを述べ、他者の意⾒や気持ちを⾒ている。時には「⾒ている」を通り越して「監視している」時代である。
時代の潮流に乗り⼈気作家になったとしても、スキャンダルで⼀瞬にして⾜元を掬われる時代だ。持ち上げるときは天⾼く持ち上げ、叩くときは粉々になるまで叩ききる。それ故、名声を得たものは常に「求められている⾃分」であり続けなくてはならない。
名声を得ていなくても、社会で抹殺されないためには「求められている⾃分」を常に表現していなくてはならない。そんな時代だ。
そんな時代に『かもめ』を上演するならば、なにになったらいいかわからないトレープレフでもなく、なりたいもののために犠牲を払うニーナでもなく、「求められている作品」と「本当にやりたい作品」との乖離に悩むトリゴーリンが適切なのである。社会の中に適合し、名声も得て、パートナーがいて、他者から⾒たら憧れられるような存在にも関わらず、時代の要請に応えるばかりになり、作家の原点である、⾃⾝から湧き上がる「書きたいもの」を書けずにいる。「⾃分」を後回しにし、⾃分の本能に従順でいられない。常に理性が働き、正しくあろうともがいている。「なりたいもの」に⽬を輝かせるニーナに思いを寄せるシーンも、このトリゴーリンの描き⽅であるならば、若い⼥性に⽬移りしたと捉えられがちなところを、トリゴーリンのキャラクターを描き切るシーンに瑞々しく⽣まれ変わるのだ。
「時代」というふわふわしたよくわからないものに適合しようともがき、悩む姿は間違いなく今を⽣きる私たちそのものである。
だからこそ、時に観客を「今、ここにあるもの」としている演出がとても効果的なのだ。
観客にサッカーボールを⾶ばしてみたり、観客を実際にモデルにして模写してみたり、様々な⼿段を使って、演者たちから観客に視線がいく。私たち観客は⾒ている側から急に舞台上に乗せられる。物語の中に⼊り込む。この効果は実に巧みで、現代の、常に誰かに⾒られている状況を表出させているのだ。
そして、その⾒られ⽅は⼀⽅向ではなく四⽅⼋⽅からなのであり、その点で囲み舞台であることは⾮常に合理的な配置である。
また、劇場の形に縛られず、⼤胆に本来の舞台⾯に客席を配置し、空間を狭めていることも作品の濃密さとマッチし、独特の息苦しさを感じさせ、⼀⽅で⾼い天井から照らされる照明は広⼤な⼤地を思わせる。⼼情と場所の表現が空間⼀つで⾒事に表現されていた。
場所、という点では殆どをビーチチェアのみで表現していたことも作品の強度とテーマ性、俳優の⾒事な演技を際⽴たせるための素晴らしいアイディアだった。ビーチチェアから受けるバカンスの印象は、「とどまれなさ」につながり、全体として作品のテイストを明るくしていた。
舞台装置からトリゴーリンに焦点を当てた点に話を戻そう。
トリゴーリンは撃たれたかもめを⽬撃したところからニーナと親しくなる。そして剥製になったかもめを⾒せられたトリゴーリンは、このかもめの存在を思い出せず、その時にはニーナとの関係は解消している。
そう、死んだかもめが剥製になるまでの期間は、トリゴーリンとニーナが恋愛関係であった期間だ。トリゴーリンが「求められている⾃分」から逸脱し、本能に従おうとしたうたかたの2年である。しかし、本来の⾃分を取り戻そうとしたトリゴーリンは、その試みに失敗し「求められている⾃分」に戻ってしまったのだ。だからこそトリゴーリンには、かもめからはじまり、かもめで終わった時間はもはや亡きものなのである。思い出したくても思い出せない、尊くも儚い、幻の時間だった。かもめの剥製を⾒て、その存在を思い出せないトリゴーリンで終幕するこの『かもめ』はまさに、社会の正しさに絡め取られたトリゴーリンの哀愁をもって締めくくられるのだ。
そして、これこそがオスターマイアーから現代のアーティストに対する警鐘なのではないだろうか。時代や評価という他者の⽬にさらされ続けた結果、本当に作りたいものから逸脱し、本質を⾒失った作品ばかりが登場していないだろうかというオスターマイアーからの問いでもあるのではないだろうか。
『かもめ』にはたくさんのすれ違う愛が登場したが、このオスターマイアーからの愛ある問いがすれ違いにならないことを切に願う、そんな作品であった。
SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■優秀賞■【かちかち山の台所】寺尾眞紀さん
二つの殺人事件の物語である。
化けた狸も人として数えるなら、だけれど。本物の藪の中から「藪の中」が始まる。川の向こう、彼岸から魂も語りだす。
坂道や階段、足元がぬかるむ場合もあり、トレッキングシューズや長靴を推奨、なるべく両手の空いた出立ちで、2時間近く歩くので水分補給必須、雨天時は雨ガッパ着用で傘NG、……こんなに注文の多い演劇も珍しい。だが逆に「演劇」という途方もなく準備と手間暇のかかる代物を、観客がフカフカした椅子にもたれて(時には眠気に襲われたりもしながら)漫然と眺めているのは随分と不平等だということにあらためて気づく。この劇は、不平等のシーソーに木の葉やら小石やらをのせてバランスをとる試みだ。カチカチ山の上で観客は、汗をかき自分の脚で物語を辿らなければならない。転ばないよう注意するのも自己責任だ。考えてみれば当たり前のことなのだが、「雨が降った時の身の守り方」さえマニュアルを読まねばならないほど、生き物としての力が衰えているのが情けない。
実際に何が起こったのか。その答も観客が自分で見つけなければならない。注意深く目を凝らして歩く。道端に縁石の上に、化けた狸の通った痕跡を見つける。捧げ物か、それとも落とし物か。そして事件の生々しい証拠らしきものまで。伸び過ぎた筍に見とれているうちに、さりげなく置かれたそれらを見逃してしまう人もいるだろう。反対に、目に入る全ての物が怪しく疑心暗鬼になって、民家の玄関先で遊ぶ親子に尻尾が生えていないか目をこすってしまうかもしれない。あの家の植木鉢の並べ方はどうも普通じゃない。捨てられた古タイヤに生える雑草の具合も、なんだか不自然じゃないか?山のひんやりした空気が里山のそれと混じる境界線のあたりから、どうしたって小さな不協和音が生まれてくる。「婆汁殺人事件」と「報復泥舟事件」はその歪みから始まったのだろう。それを和音に変えるために、オーボエ奏者は唐突に林の中に立ち、鶯の声に一心に合わせる。観客も一瞬、自分が山と調和できたような幸せな錯覚を覚える。
人に化けた狸や兎、あの世から語りかけてくるお婆さんの言葉は、イヤホンを通じて観客に届く。ザーという微かな雑音も混じる小さな装置は、周りの竹林や鳥の声、花々の色に比べて悲しいほど不恰好なのが残念だ。ただし、そんなぎこちない異物を通じてしか彼らの声を聴きとれないほど退化してしまったのは、人間たち自身の責任である。
彼らは、突然現れる。その姿を見つけた時の喜びは期待以上だった。さっき通り過ぎたアレ、アノ人、どこか妖しい……気のせいか……と振り返った第一印象が当たった時の嬉しさ。それはつまり演劇の仕組が成功したということなのだが、観客にとっては、向こうの世界と繋がれたという喜びだ。俳優を媒体、ミディアムとして「向こう側」と繋ぐ、という手法は石神夏希氏の演出作品に一貫していると感じる。
もうひとつ一貫しているのは、今まで主流とされていた側「じゃない方」の声を聴くことだ。
カチカチ山から聴こえてくる声は、少々やさぐれているけれど意外と常識的で言い分にもいちいち頷ける、唯の悪者とはけっして呼べない狸。正義の味方というには狡猾で計算高さが鼻につくけれど、見かけは可愛い兎。兎は婆汁の作り方にも詳しくて、迂闊に信用するのは危険だ。お婆さんの語りからは、お爺さんとの関係に微妙なズレが生じていた事実も発覚する。神社の前で振る舞われた「お婆さんの粟餅」は、柔らかくきめ細かく手がかかった仕上がりだ。「粟餅作っとけ!」と重労働の餅つきを簡単なことのように頼まれて、言い返せなかったお婆さんの繰り言はあの世でも続く。実は世界のどの地域でも力仕事は女性が担当することが多い、という話を思い出した。
そして、そもそもの発端の当事者であるお爺さんは……登場しない。今まで一番大きな音量だった声をミュートにして、不明瞭で微かだった声のボリュームを上げている。
狸の犯行動機が予想と違ったことも新鮮だった。人間の勝手でダブルスタンダードな倫理に対する、山の哲学である。この犯人は「殺人」を「救済」や「大地との同化」と捉えている節もあり、報復を担当した兎の解決策の方が暴力的にも見えてくる。
時折り山の精霊たちが悪戯を仕掛けてくる。羊歯の飛行機が飛んでくる。茂みから飛び出したり、茶畑を駆け降りたりする俳優たちの身軽さは、確かに何かが憑いているようで見惚れた。鈴木清順監督の映画『陽炎座』の狸囃子を追って彷徨うシーンに紛れ込んでしまったようで、最後に一座が踊る姿が登り道の先に見えてきた時には、本物の陽炎座に辿り着いた嬉しさが込み上げて来た。
その終点で、観客にご褒美が振る舞われる。青々したえんどう豆のおにぎりと熱々の鶏汁、綺麗な水色の冷たいお茶。山の景色を眺めながらしみじみ美味しくいただいた。が、丁寧によそってもらったお椀を覗いた時、ほんの一瞬何かが頭をよぎったのは間違いない。
SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■優秀賞■【白狐伝】夏越象栄さん
「距離感」と「境界線」。この言葉ほど昨今、その意味と在りようを問い直す必要がある言葉はないのかもしれない。
身近な人間関係から過剰に距離を置いて線を引き、自分の世界にこもる人がいる一方、SNS(交流サイト)で気の合う誰かと、世の中と、つながっていないと不安になる・落ち着かないという人も少なくない。
二つの言葉はどちらも、他者やコミュニティーと関わる上でとても重要な概念で、これらの取り方・捉え方を間違えれば、無用なトラブルや争いを引き起こす。
相手と自分との境界線(違い)を見極め、その上で適切な距離(接し方)を取る――。一言で言えば簡単だが、難しい。2024年5月5日、駿府城公園で上演された、SPACの「白狐伝」はその課題について示唆に富んだ作品だった。
物語は、白狐のコルハ(ムーバー=美加理、スピーカー=宮城聰)の視点を中心に展開する、人間の保名(同=大高浩一、同=若菜大輔)との異類婚姻譚。演出・台本の宮城氏が、昨年上演した「天守物語」の「続編」と述べる通り、同作で天守から脱出して結ばれた富姫たちの「その後」と見ることもできるものだった。
変化の宝玉を持ち、自然の中で狐の女王として暮らす狐と、人間の世で国守として生きる保名。両者は互いに異界の異質な存在で、交わるためにはどちらか、あるいは互いに「境界」を越えなければならない。では、それをどのように表現するのか。
SPAC版白狐伝ではそうしたイメージを、人造の舞台のみならず、会場の駿府城公園の地形も生かし、文字通り広がりと奥行きを持たせながら、視覚化させることに成功していた。
序盤、舞台上でコルハの宝玉を狙う悪右衛門(同=貴島豪、同=吉植荘一郎)に追い回されるコルハは、狐のまま、どこか操り人形めいたぎこちない動きで逃げ回る。その彼女を追う、分身人形の兵士。彼らはコミカルな印象を与える半面、「個」としての境界線があいまいな存在であることを皮肉っているようにも感じられた。
その後登場する保名と、その恋人である葛の葉(ムーバー=美加理、スピーカー=宮城聰)も、舞台上でやりとりが展開する。葛の葉は、直前コルハとは対照的に柔らかな身のこなしで、たおやかな、実に人間らしい女性だ。
続いて、舞台が赤く染まり、後方の並木道の辺りから、悪右衛門率いる敵軍が舞台へ向かって進んでくる。舞台上は保名と葛の葉のいる阿倍野の国であり、観客は保名と葛の葉に同化する。突如として「舞台」に奥行きが生まれることで、舞台の向こう側からやって来る悪右衛門が、外界からの侵略者であることを強烈に印象付けた。
負傷した保名は国を追われ、山野を逃げ惑う。その姿を見たコルハは動揺し、自身が葛の葉に成り代わって保名を支えようと決める。逡巡しながら狐から人へと変わっていく彼女の発する言葉はぎこちなく、ところどころ不自然に疑問形の抑揚が付き、自身の発する言葉自体に確信を持てていない様子だ。「人間の言葉」と「狐の言葉」をおっかなびっくりすり合わせていくようにも見えた。
このくだりは、ムーバーである美加里氏と、スピーカーの宮城氏の2人だからできる芸の妙だろう。この瞬間、コルハは境界線を越えたのだ。
この後、コルハは狐の妖精たちを使い、悪右衛門に復讐する。この時、妖精たちはライト付きの台車を使って舞台上を縦横無尽に駆け回る。視覚的に楽しませるのが主眼だろうが、ここで、兵士や悪右衛門を罠に掛ける際に台車に載せるというのも、「手中に落ちる」という表現にみられるように、「妖精たちのパーソナルスペースに取り込まれ、そのペースにのまれた」ことの比喩と受け止めるのは、深読みがすぎるだろうか。
葛の葉に扮したコルハと出会った保名は、コルハを葛の葉と信じ、千切れた袖を返却する。両者の衣装はシルエットも柄も全く同じだが、前者は銀で、後者は金。観客の目には袖だけが色の違う奇異な服装に映るが、保名は気付かない。
色の違いは、深読みするとコルハの銀が月の色、ひいては獣が跋扈する夜の世界を示し、葛の葉の金は太陽に象徴される、人の生きる昼の世界を暗示しているのではないか。夜を示す衣装の中に1点、金色の袖を付けたコルハは、昼と夜の境界線にいるとも解せるように思う。この袖をコルハに与えたのが、コルハを人にならせしめた保名であることも示唆的だ。
逃げ延びた2人は、やがて子をなし、人として穏やかな生活を送る。この間のコルハは表情豊かで、所作もたおやか。序盤に登場した本物の葛の葉同様、実に人間らしく見える。しかし、その生活は葛の葉の侍女との出会いにより、終止符を打たれる。
子を残し、保名の元を去ろうとするコルハは、人に変化した時とは逆に、たちまち狐へと戻っていく。動きはぎこちなくなり、言葉もたどたどしく、人の所作、人の言葉を奪われていく。発作のようにのたうち回りながら、たおやかな女性の表情から、ロボットのような無表情へと変じていく中、わずかに残る「人らしさ」にしがみつくように筆を走らせる様は、発語の退化とあいまって、痛々しくすらあった。
保名は本物の葛の葉と再会した後、庵に戻り、書き置きを見てコルハを探すが返事はない。子を抱えてその母親を探す保名。すると、舞台の向こう側の並木に照明が灯され、そこにぽつんと立つコルハが出現する。この瞬間、保名は境界を越えることはできずとも、歩み寄ろうとしたように思う。しかし、コルハは動かず、何か言いたげなまま姿を消す。
その後、保名の傍らには葛の葉らしい女性が立ち、コルハの子どもをあやしているところで幕が引かれた。しかし、その女性がコルハなのか、葛の葉なのかは判然としなかった。
異なる「文脈」を持つ異質な存在でも、互いに歩み寄れば、境界を越えて「真心」とでもいうようなものを交わすことができるのではないか。しかしそのために、境界を越える者は、相応の痛みを覚悟しなければならなない。そんなメッセージが込められている作品だと感じた。
文末ではあるが最後に、公開目前に逝去された葉山陽代さんのご冥福をお祈りしたい。
SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■入選■【楢山節考】小長谷建夫さん
「一つ、お山に言ったら物を云わぬこと」
「一つ、山から帰る時は必ず後ろをふり向かぬこと」「一つ……」
あれほど念を押された部落の掟を、辰平はことごとくぶち破った。
おっかあを山に残した下り道、楢の木の間に白い粉が待っているのを見た途端、辰平は足を返し猛然と山を登り始めるのだ。
岩の前に坐っているおっかあの前まで来て、辰平は叫ぶ。「おっかあ、雪が降ってきたよう」「おっかあ、ふんとに雪が降ったなあ」
いつの間にやら村の風習に同化させられてきた観客は、掟を破った辰平がどうにかならんかと心配させられながらも、いままでほとんど這いつくばって生きてきたような辰平が、両足に力を込めて立ち上がり叫ぶ姿に、心を震わされるのだ。言葉は「雪がふってきた」であるが、それはおっかあへの愛と感謝と万感の思いが込められていた。
辰平に対し、口を開くことなく、「けえれ、けえれ」と手の甲を振るおりんの全身にも、茣蓙の周りにも、私たち観客には確かに見えた。うっすらと白く雪が積もり始めているのを。
衝撃の舞台であった。それも心にも腹にもずしんと来る重い衝撃であった。上演台本の瀬戸山美咲恐るべしというべきか。
約七十年前、深沢七郎による小説「楢山節考」が世に出た時、同じような衝撃が日本文学界を襲ったようだ。
舶来のヒューマニズムや個人主義、美意識を弄んでいた文学者たちは勿論だが、日頃より人間の内面の醜さ、脆さなどをえぐり出してきたつもりの自然主義の作家、私小説作家たちなども一様に大きなショックを受けたと言う。全身を理論武装したつもりであった者が、突然股間から濡れた生の手を差し込まれ、心臓を掴まれたような感じ、いやそれは小生の勝手な解釈だが、そんな感じだったようだ。
さてしからば、今回のSPAC春の演劇祭出品の演劇「楢山節考」と七十年前の小説「楢山節考」の与える衝撃が同じものかといえば、ある部分同じでもあり、またある部分は大いに異なるものと云うべきであろう。異なる部分の多くは、七十年前と現代日本の環境の変化にあることは勿論だ。
あらすじを一応振り返ってみる。慢性的な食糧不足の続く山村では、口減らしのために役に立たなくなった人間、つまり年寄りを山へ捨てる風習(と言うよりも義務、掟に近い)があった。もうすぐ七十歳となるおりんは、懸案だった息子の辰平の後添いを見つけ、自分の山行きの支度を始める。母親への愛情から、それに消極的だった辰平も、やむなくおりんを背負い山へ向かう。屍の累々と続く山を登り、清浄な岩の前におりんを下ろした辰平は、下りの帰り道で雪が降って来たのに気付く。辰平は矢も楯もたまらず、掟を破り、おりんのもとへ駆け上る。
おりんに向かって叫ぶのが本稿冒頭の場面である。
「楢山節考」が中央公論に掲載されたのは1956年である。日本が大戦に破れ米国をはじめとする連合軍に無条件降伏したのが1945年。そこから国民総飢餓の時代が始まる。56年と言えばわずかその十一年後、まだまだ飢餓を引き摺り、「戦後」とさえ言われない時代のこととなる。
片や年間522万トンという食品廃棄を続けている現代日本。多くの日本人は口減らしという概念は理解できても、心身全体で受け止めることなどできまい。
後妻となる玉やんが、なかなか家に入ってこれず、おりんに見つけてもらい言い訳をする。
「うちの方もお祭りだけんど、こっちへ来てお祭りをするようにって、みんなが云うもんだけん、今日来やした」
もとの部落の方では、他の部落の後家に行く女に飯を食ってもらっては困るのだ。それは玉やんだって知っているし、おりんの方だってよくわかっている。祭りを祝うという大義に包み込んでいる会話なのだ。
申し訳なさそうに言う玉やんと、「そうけえ、さあさあ」と息子の後家が気にしないようもてなすおりん。玉やんの遠慮がちな表情、おりんの後家を気遣う表情。姨捨という非情な行為と対極をなす人と人との温かい繋がりである。
老人は今や七十五歳以上が2005万人、全人口の16パーセントという時代。高齢者問題は食糧事情などは消え失せ、痴呆症問題、老々介護問題、医療費問題など多岐にわたる。
これほど社会環境が異なるのに、七十年前と同様(本当に同じものかはさておき)の大きな衝撃を与えてくれたのはなぜか。
今回の「楢山節考」の三人の演者、おりん、辰平、お玉は、重厚なチェロの演奏のもと、山村の貧しい部落と貧農の暮らしを現出させた。
楕円堂の漆黒の空間が三人の動きにうずくように息づいた。考えてみれば、当然だ。なにせ制作されたのが利賀山房である。三人が身を寄せ合い、土に這いつくばり生きている演技も、鈴木メソッドの影響が色濃い。
辰平は母親を山に捨てる事など嫌だと思い続けていたが、結局は捨てざるを得なくなる。
現代においても親捨ては日常茶飯事のようなものである。その多くは個人生活を維持するために、年老いた親を施設へ送り込む行為である。
介護生活を続け、共倒れにならないように、寧ろ推奨されている行為であり、現代日本社会の掟とさえなりつつある。
無論、誰もが喜び勇んで親を施設へやるのではない。悩み、悲しみ、苦しんだ結果なのだろう。
しかし、この物語でもそうだが、一旦社会の掟となったら、人間は罪悪感を忘れてしまうのだ。その恐ろしさを思い出させてくれたのが、この舞台であった。
掟を破って、山を駆け上がり叫ぶ辰平。
「おっかあ、雪が降ってきたよう」
その万感の思いに、我々は心を震わさずにはいられなかったのだ。
それにしても、おりん、玉やんの演技、ふんとによかったなあ。
SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■入選■【楢山節考】中島悠平さん
『楢⼭節考』における⾳楽の位置
――俳優とチェロのダイモルフィズムについて
瀬⼾⼭美咲演出の『楢⼭節考』について、上演された舞台と⾳楽の位置関係を探ってみたい。結論を先取りすれば、この舞台は、俳優の群とチェロの独奏がコインの表裏のようにダイモルフィズム(同質⼆像)として成⽴していた、といえる。
ダイモルフィズムとは、同じ化学組成だが、異なる結晶の形が現れる現象などを指す。
加えて本稿では、今村昌平の映画『楢⼭節考』で⾳楽を担った作曲家・池辺晋⼀郎のオーケストラとパイプオルガンのための作品『ダイモルフィズム』を着想の起点としている。この作品はパイプオルガンをオーケストラとみなし、両者を対⽐することで「同質なものの⼆つの像」が舞台上に⽴ち現れることを表現しようと企図された。
瀬⼾⼭版『楢⼭節考』もまさにこの対⽐が⾒て取れる。すなわちオーケストラ=俳優の群、パイプオルガン=チェロという構図だ。それぞれが『楢⼭節考』という物語を表現する「同質」のものとして存在するが、実際に現象として舞台に⽴ち現れてくるのは俳優とチェロという「⼆像」となる。
こうしたある種の⾒⽴てを駆使し、詳しく舞台を⾒ていきたい。まずは瀬⼾⼭の演出の要諦を押さえておこう。瀬⼾⼭は深沢七郎原作の『楢⼭節考』を再構成して上演台本を作り上げ、舞台演出を施した。
『楢⼭節考』の物語はいわゆる「姥捨⼭」「棄⽼伝説」を扱った⼟俗性が強い内容で、現代のわれわれの⽣活からは簡単に想像することが難しい⽣活様式が描かれる。それは姥捨・棄⽼という習俗そのものもだが、瀬⼾⼭が「動物的」と表現する⼈間同⼠の関係性の濃密さ、あるいは粘度の⾼さに由来するところが⼤きい。
こうした⼟俗的で粘度の⾼い物語に対し、瀬⼾⼭は以下のような演出的アプローチを⽤意した。
(1)登場する俳優を3⼈だけに絞る。
(2)感情的な役のセリフより説明的な地の⽂を多くする。
(3)リアリスティックな⾝体表現を抑制する。
これらはいずれも表現を「削ぎ落とす」作業だといえる。この削ぎ落としたアプローチの結果、なにが起きたか。舞台上には、物語の持つ粘度の⾼さとは対極の、とても淡々とした時間が流れることになった。
そして、淡々と物語が展開されるがゆえに、翻って『楢⼭節考』の⾻格そのものがーー楢⼭に棄てられた先⼈の⽩⾻のようにーー舞台上に現出することになった。
リアリズム演劇が物語の世界をリアルな⼿触りでそのまま舞台化するのに対し、瀬⼾⼭のアプローチは『楢⼭節考』の⾻格を顕にし、物語のさまざまな出来事をフラットに提⽰することに主眼が置かれる。このアプローチにより、観客は『楢⼭節考』を第三者の先⼊観なしに⾒て、聞いて、考える機会を得た。
これが瀬⼾⼭演出の要諦と考えられる。そして本稿の趣旨に沿えば、その演出に基づいて上演された3⼈の俳優の群=オーケストラが、ダイモルフィズムにおけるひとつめの「像」となる。
さて、瀬⼾⼭は削ぎ落としたアプローチで『楢⼭節考』を⾻格だけにして観客に提⽰したにもかかわらず、正反対の「付け加える」アプローチとして以下の
演出を施した。
(4)チェロ独奏を上⼿に配し、幕開けからカーテコールまで、ほぼ全編を通して演奏させる。
このチェロは多彩な表現を舞台にもたらした。重厚な低⾳の響きは⼭々を吹き抜ける⾵にも地鳴りにも聴こえ、チェロを裏返してボディを叩く特殊奏法は⼭に住む者の⽣活⾳にも獣の跳梁する⾳にも聴こえた。こうした写実的な描写がある⼀⽅、終盤のクライマックスに当たる姥捨の場⾯ではバッハの無伴奏曲⾵の極めてエモーショナルな演奏で、物語を⽂字通り劇的に盛り上げた。
チェロの独奏は、俳優の群による物語の⾻格を提⽰するアプローチとは異なり、リアリズム演劇に近い粘度の⾼さで物語の⼟俗性を担保していた。この⽴ち位置は、⾻格を提⽰する役割の俳優の群との対⽐で、観客に感情的に物語を理解させる役割を担っていたといえる。
そして、こうした⾳楽の位置は、俳優の群によって演じられる⾻格の表現とはまったく相容れず、別次元の存在として舞台にあった。このチェロの独奏が、ダイモルフィズムにおけるもうひとつの「像」といえる。
ここまでをまとめよう。瀬⼾⼭版『楢⼭節考』は、以下の異なる「⼆つの像」が舞台上に対⽐されることで成⽴していた。
ひとつめの像は、削ぎ落とした演技で物語の⾻格をフラットに提⽰し、観客に物語を先⼊観なしに考えさせる俳優の群。
ふたつめの像は、物語の粘度の⾼さや⼟俗性をそのまま引き受け、物語を写実的・感情的に観客に伝えるチェロの独奏。
そして、これら⼆つの像は『楢⼭節考』という「同質」が根底にあって初めて現出してくる。⾔い換えれば『楢⼭節考』という「同質」が、俳優とチェロという「⼆つの像」を伴って舞台上に対⽐的に顕現していたといえる。
こうした異なる⼆つの像ーーダイモルフィズムが舞台上に⽴ち現れていたのが、瀬⼾⼭版『楢⼭節考』の最⼤の特徴だ。
演劇が、書かれた戯曲のテキストと決定的に違うのは、テキストが舞台として⽴体化される瞬間の快楽にある。とするならば、瀬⼾⼭版『楢⼭節考』はとても刺激的にその⽴体化が⾏われていたのではないだろうか。
2025年5月17日
SPAC秋→春のシーズン2023-2024 劇評コンクール 審査結果
SPAC 秋→春のシーズン2023-2024の劇評コンクールの結果を発表いたします。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。
(応募数15作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選3作品)
(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
小田透さん【パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス】(『伊豆の踊子』)
■優秀賞■
寺尾眞紀さん(『伊豆の踊子』)
吉野良祐さん【オクタヴィアンの言葉は奪い去されて…】(『ばらの騎士』)
■入選■
小長谷建夫さん【ドタバタ喜劇の終わりは】(『ばらの騎士』)
寺尾眞紀さん【殺されたのは誰か】(『お艶の恋』)
原田陽菜さん【お艶の抗いと命のエネルギー】(『お艶の恋』)
■SPAC文芸部・大澤真幸の選評■
選評
作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2023-2024
『伊豆の踊子』(台本・演出:多田淳之介 作:川端康成 映像監修:本広克行)
『お艶の恋』(演出:石神夏希 原作:谷崎潤一郎『お艶殺し』
『ばらの騎士』(演出:宮城聰、寺内亜矢子 作:フーゴー・フォン・ホーフマンスタール 音楽:根本卓也)
秋→春のシーズン2023-2024■選評■SPAC文芸部 大澤真幸
2023年「秋から春のシーズン」、SPACでは『伊豆の踊子』『お艶の恋』『ばらの騎士』の公演を行いました。これら3作品に対して、全部で15本の劇評を送っていただきました。熱心に鑑賞した上で、劇評を書き、応募してくださったすべての皆さんに、まずはお礼を申し上げます。
応募いただいた劇評をずっと読んできましたが、平均的なレベルが上がってきているのを感じます。かつては素朴な感想を記しただけのものが何本もありましたが、今では、ほとんどの応募作が、批評的な意識をもって作品を分析し、解釈できています。
ここでは、最優秀作と優秀作に関して、評価のポイントをかんたんに書いておきます。
まず小田透さんによる『伊豆の踊子』の劇評。これが最優秀作品です。多田淳之介さんの演出のいくつもの工夫を非常に繊細に分析し、その意味を的確に、そして豊かに解釈している点がすばらしい。冒頭の「『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台」という要約が、作品の雰囲気をよく言い当てています。伊豆の林道の映像を背景にした俳優たちの旅姿が、YouTuberの自撮り映像を連想させるなどという指摘はなるほどと思わせますし、弁士風の解説者と俳優の身体の反応が、宮城聰の「二人一役」と少し似ているといった指摘などもおもしろい。大音量のダンスミュージックには、ブレヒト的な異化作用をもっているという解釈なども、検討に値するものだと思いました。
二つある優秀作のうちのひとつは、寺尾眞紀さんの、やはり『伊豆の踊子』を論じた作品。寺尾さんの劇評は、芝居に描かれていることから、背後にある社会的現実を読み取っているところに特徴があります。この芝居は、主人公である学生と踊子の間のごく淡い恋の話ですが、この恋は、エリートの帝大生と下層の踊子たちとの間の階級格差が背景にしていて、そのことが、たとえば「上」の旅館と「下」の木賃宿等々のかたちで芝居の至る所に現れている。寺尾さんはこのことを正確に見抜き、踊子のありそうな将来――踊子自身はまだ自覚していない将来――を密かに想いながら哀しみを感じている。冷静な分析に基づく感情移入に私は好感をもちました。
もうひとつの優秀作は、吉野良祐さんによる『ばらの騎士』の劇評。これは、オクタヴィオンの「言葉ってすごいね」という台詞を端緒におきながら、言葉、とりわけ愛の言葉について考えた、非常に知的な批評になっています。元帥夫人との一夜を思いながら、言葉の力を讃嘆していたオクタヴィオンが、最後にゾフィーと結ばれたときには、一言も発しない。この最後の場面では愛の言葉はどこにもないのか、というとそうではない。オクタヴィオンが発すべき愛の言葉は、周囲の多数の他者たちの身体に分散され、空間化されたかたちで現れているのだという、吉野さんの鮮やかな解釈に感心いたしました。
January 18, 2025
SPAC秋→春のシーズン2023-2024■最優秀賞■【伊豆の踊子】小田透さん
パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス
これはきっと『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台。川端康成の原作は裏切ってはいない。英語化されてもいない。それでも、わたしたちが無意識的に期待してしまいがちなステレオタイプはズラされている。学生の一人称の物語を補完するように、旅芸人の物語が対位法的に組み込まれる。いまの伊豆の映像が大写しになる。現代的なポップミュージックやダンスミュージックが騒々しいまでの大音量で鳴り響く。滑らかに連続したシーンが、断続的に、急激に、転換する。にもかかわらず、ここには不思議な納得感と説得力がある。つねに予期せぬ驚きがある。演出家の多田淳之介はわたしたちに痛快な不意打ちを食らわせてくれる。ただし、不安にまでは至らない、安全な範囲内で。
主人公である学生はいかにもそれらしい格好。学帽に袴に黒の外套。下駄に、肩掛けにしたメッセンジャーバック。しかし、彼が出会う旅芸人一座は、着物を1990年代原宿の美学で再構成したかのような、原色系のグランジ風。メイクも、歌舞伎の隈取をギャルメイクで脱構築したような、エキゾチックな日本風。そのくせ、宿の女将たちや宿泊客たちは、コミカルな昭和風。異なる時代様式が混在している。純日本的というよりも、エスニックな視点から再創造された、愉しくフェイクな日本性。
臆面もなく差し挟まれる、まったくステルスしていない「観光演劇」。川端が晩年を過ごした鎌倉の自宅を模したという軒先のような舞台、の壁面の横長の大スクリーン、に大写しになる伊豆の風景、は半実写的な背景として機能する、がところどころで劇の流れをストップさせる、観光プロモーションとして。たとえば、山道をゆく道中のシーンで、地理的な脈絡はあるとしても、物語的な必然性はない観光案内が始まる。まったくあざとく、あざとさしかないにもかかわらず、不思議なことに、余計なものが混入したという感じがしない。
それはおそらく、多田の演出が最初から、疑似的なヴァーチャル体験の共有に狙いを定めているからだろう。やや解像度の低い伊豆の山道や林道をバックに、客席のほうを向いて足踏みする俳優たちの姿は、YouTuber的な自撮り映像を思わせる。1990年代から2000年代初頭にかけて隆盛を極めたノベルゲームのようでもある。舞台がそもそもスクリーンであり、観客はその視聴者にしてプレイヤーなのだ。わたしたちは舞台に登場する予期せぬものに驚かされつつ、それらを「そういうもの」として受け入れてしまう。
にもかかわらず、わたしたちは、与えられたコンテンツの受動的な消費者になるわけでもない。劇冒頭に置かれた前口上は、すべてが作り話であることを自意識的に宣言する。『伊豆の踊子』それ自体が、旅の一座によるひとつの演目のように、物語内物語のように見えてくる。そして、作品外的なメタコメンタリーや作品内の字の文を朗読するナレーターは、軒先のような舞台に上がることはないだろう。作品内の会話文を演じる俳優たちとは別の次元があることが、視覚的にも空間的にも明示される。パフォーマンスの重層性が、物語の虚構性を担保し続ける。
しかしながら、舞台上の複数の位相はつねにつながっている。弁士的な解説者が字の文を読み上げる。すると、SPAC芸術総監督の宮城聰の二人一役の手法を髣髴とさせるように、学生や踊子が読み上げられた言葉に身体的に応える。踊子や学生はセリフを口にすることはない。しかし、過剰なまでの親密さをただよわせつつも、直接的な接触に至ることはすくないふたりの静かな身体の暖かな距離感が、川端の散文のやわらかなてざわりを具現化させる。朗読される文体と、視覚化された登場人物の関係性から、川端の抒情性を二重に味わうという、贅沢な体験。
けれども、それ以上のものがある。多田の舞台は、主人公たる学生がみずからの孤児根性を克服し、いい人だと言われたことに感動する自己憐憫的な物語以上のものになっている。自己憐憫性は、「幼いことであった」と若かりし頃を振り返る後年の川端本人の言葉を呟く弁士的ナレーターによって相対化されるだろう。川端が描かなかった物語の裏面が、旅芸人たちの悩みや苦しみ、叫びや抗議として前景化されるだろう。
その顕在化を担ったのは旅芸人の女性陣。その際たる瞬間はパフォーマンス後半部におかれたラップ。「旅芸人お断り」というローカルな立て看板に、旅芸人はリリックで応酬する。ノリのいい音楽が、腹に響くほどにビート感の強い問答無用の大音量でディスコのように響き渡る。伊豆の観光映像が流れていたスクリーンに、アグレッシブな社会批判の言葉が洪水のようにあふれ出す。
ただし、そのようなプロテストが、あくまでもポップなコンテンツとしてパッケージ化されているところに、多田の演出のとっつきやすさとお行儀の良さがある。旅芸人を見下す社会に抗議する旅芸人のラップは、パフォーマンス内パフォーマンスであるからこそ許された反抗であるようにも見えてしまう。男たちに翻弄される女たちを、健気にも、荒んだ感じにも演じ切ることは、問題の所在が社会構造にあるのか、悪辣な男ども個人にあるのかを、曖昧にしてしまう。子どもを亡くした旅芸人の体調不良は、現代に蔓延するネオリベ的な自己責任論からすれば、自業自得のように見えてしまう。俳優としての経験を積みながら旅芸人に身をやつした男も、身分違いの恋を自ら諦める踊子の諦念的な態度も、センチメンタルな共感は誘うかもしれないが、そこに社会革命を誘発するような起爆性はないだろう。多田のアダプテーションは、川端の物語を社会性に開いておきながら、そこを共感的な回路に閉鎖してしまうきらいがある。
そのほうが口当たりのよい「観光演劇」にはなる。悲恋のように描かれた学生と踊子が、悲劇のように描かれた旅芸人夫婦が、エピローグ部分で、仲睦まじいカップルとして、新たに子を身ごもった夫婦として、21世紀の現代において自撮りを愉しむ観光客になっているのは、ハッピーエンディングではある。反抗的なリリックを炸裂させていた旅芸人と、男どもに翻弄されていたその友達が、屈託なく観光している。病床に臥せっていた老人も、偏見をあからさまにしていた女将も、クイア的なパフォーマーも、幸福を謳歌している。みんながしあわせな観光ユートピア。
しかし、それがフェイクにすぎないことに、気づかされないわけにはいかない。わたしたちは「観光客」というカテゴリーに加わることでしか、新自由主義的で資本主義的なこの世界ではそれなりに裕福な消費者になることによってしか、仮初で束の間の幸福を謳歌できないのではないか。だとしたら、このような「観光客」の回路にそもそも参入することができない人々は、どうなるのだろう。
とはいえ、これだけは言っておくべきだろう。多田はエンターテイメント性を演出するために、やかましいほどの音量でダンスミュージックを流すけれど、それはおそらく、娯楽性のためだけではなく、ブレヒト的な異化作用のためでもあったのではないかという点。1990年代的なものから伝統的なものまで、2010年代20年代的なものまで、さまざまな時代の様式が節操なく召喚されるこの舞台は、きっと、ノスタルジーでも未来志向でもなく、いまここで生起しているヴァーチャルでありながらも生々しいパフォーマンスと批判的な関係を切り結ぶための意図的に導入された断絶ではなかったかという点。このギリギリの批判性を見逃す者は、多田淳之介の演出の誤解者であるはずだ。