スカパンに仮面を被せること
奥原佳津夫
舞台は、ジュークボックスからオールディーズが流れる数十年前の港町の庶民的なカフェのイメージでしつらえられている。登場人物は、現代衣装ではあるが、口以外を仮面で覆った主人公をはじめ、極端な扮装で素顔を隠した道化芝居の趣。陽気で屈託のない演技は、まるで人形劇を見るようで軽快である。スカパンが主人に袋を被せて打ちすえるよく知られた場面も、女主人に黒いビニール袋を被せる演出は、ともすると陰惨になりかねないのだが、暴力性がまったく気にならないほどに架空の世界ができあがっていた。
この上演で最も重視されていたのは、いわゆる「ライブ感」であり、客席との一体感だろう。劇中の新聞記事に時事ネタ(この日は「今日は県知事選投票日」)を取り込んだり、俳優が盛んに客席に降りて観客に接触したり。終幕での、スカパンの瀕死の重傷の偽計は、口上役と通訳者によって、上演を中断するアクシデントとして述べられる。躍動感ある演技に客席は盛り上がっていたし、その点では充分成功と云えるだろう。
以下、無いものねだりをすれば―まずはその上演形式の意外性の無さである。この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーの独特の手法を考えた時に、この『スカパンの悪だくみ』は、あまりにも予想どおりの仕上がりだったことだ。先年上演された『プンティラと召使マッティ』は、仮面劇と道化芝居の手法が、ブレヒトの叙事的戯曲に思わぬ効果をもたらしたが、モリエール劇の中でも笑劇的要素のまさる『スカパンの悪だくみ』は、そもそも戯曲自体がこのカンパニーの手法に近すぎるのだ。演劇史的な観点に立てば、この戯曲は、古代ローマ喜劇とコメディア・デラルテの影響を直接に受けながら(むしろなぞりながら)モリエールの書いた喜劇だが、むろん仮面劇ではなく、近代劇との過渡的な作品と捉えられることが多い。その『スカパンの悪だくみ』を仮面劇で、道化芝居的な手法で上演するということは、かつて大道で上演された、ライブとしてのコメディア・デラルテの復権、という方向性を持つものと云えるし、モリエール戯曲に近代劇的な解釈を無理にも持ち込もうとした時代に対する批判としても有効だと思う。
ただし、その現代化が安易にすぎたようだ。風俗を現代化するだけでは、古典戯曲を現代に生かすことにはなるまい。
知恵者の従僕、というには後ろ暗い、どこかいかがわしげな雰囲気の赤毛のスカパンに、颯爽たるトリックスターとはなりえない現代的な屈折を期待したが、それ以上踏み込まれないので、人物像も人物間の関係性も、特に現代的な視点が見られるわけではない。前述のとおり、客席との交流は達成していたが、珍妙な扮装の登場人物がドタバタ喜劇で場を沸かせるだけでは、演劇芸術の知的な愉しみには遠い。(もちろん、軽快な笑劇の演劇的な価値自体を否定するのではないが、戯曲に依存した安心感からか、密度の低い皮相な笑いが散見されたのが惜しまれる。)
コメディア・デラルテの現代演劇への復活としては、ジョルジョ・ストレーレル演出の『二人の主人を一度に持つと』を嚆矢にあげられるだろうが、その上演は、舞台上に常にプロンプターを置くことによって文学の優位性を示し、コメディア・デラルテの復権と同時に、その歴史的な終焉を描く周到な演出である。
現代演劇として、スカパンにあえて仮面を被せるためには、そうした複眼的な視点が必要だったのではあるまいか?
一つの独自の演劇手法を確立し、自家薬籠中のものとした演出者(とカンパニー)の、進むべき道は二つしかない。一つは、様式化を恐れず、ひたすらに洗練の度を増してゆくこと。もう一つは、あえてその手法がなじまぬテクスト(題材)に対峙して、両者の化学反応の如き新生面を拓くことだ。おそらくは洗練を望まないこの演出者の次回作に期待したい。
(於.静岡芸術劇場 2009.7.5所見)