劇評講座

2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)、『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

■入選■
「孤独な」言葉と観客
ー「彼方へ 海の讃歌」(クロード・レジ演出)、「若き俳優への手紙」(宮城聰演出)
(2010年6月12日静岡芸術劇場と舞台芸術公園楕円堂にて観劇)

坂原眞里

クロード・レジの舞台は暗い、とどこかで読んだことがあった。初めて観るその舞台は、暗い、確かに暗い。闇の中に、楕円堂の円蓋と梁が、そして舞台中央の演台の四隅に立つポールが暗灰紫色に浮かび上がる。どこか崇高な空間に身を置いているようでもあり、あるいは濃く滞る靄の中、埠頭とその後方のドームから成る夜明け前の光景を眺めているようでもある。

やがて、ただ一人の出演者ジャン=カンタン・シャトランが「埠頭に」立つ。そして、2時間余、両腕を大きく頭上に上げ脇に降ろす動き(その動線に電光が走り、劇場の闇を神話的次元へと引き上げる)と、頭をそらせるなどのわずかな動作を除いて、その場に同じ姿勢で立ち尽くす。大半は闇の中である。大柄とはわかるが、重く厚みのある体躯も穏やかな顔立ちも、上演が終わるまでその全容が観客の目に入ることはない。彼の背後上方に日本語字幕が出るが、それも私にはかすんで読めない。配られていた原詩の日本語訳を開演前に斜め読みしておいたので、その記憶に助けられつつ、幸い難解ではなかったフランス語を時に目を閉じて聞き入った。

一人の男が埠頭に立って港を眺める。船の出入りが、旅への渇望を激しく掻き立てる。かつて船乗りたちが放恣の眼差しを注いだ場所を経巡りたい、海賊の蛮行をも味わってみたい…リスボンの孤独な勤め人だったらしい作者のペソアにも、フランスのロートレアモン伯爵やアルチュール・ランボーのような文学上の心の兄たちがいたのではなかったか。しかし、やがて直截な暴虐性を増すペソアの言葉は、「年古りたる大わだつみ」の威容それ自体に向けられるマルドロールの敬礼とも、読者を「非情の大河」くだりに連れ出すスウィングとも大きく異なっている。クロード・レジによる声の演出に関して言うなら、それは明らかに、フランスの演劇人アントナン・アルトー後の、声もまた舞台芸術表現における物理的要素ととらえ、その身体性を重視する流れに属しているが、ここでもまた、「海の讃歌」の声の演技は、アルトーが晩年に行った録音の声とは大きく異なる。聴く者に空間の変容さえ感じさせるアルトーの変幻する声(「神の裁きにけりをつけるため」)は、猥雑なイメージを含む悪夢をたわませ、反転させ、人間の解放を希求する。これに対して、レジが行ったのは、リバイアサンが呻き、嘆き、のたうち回るかのようなペソアの言葉を、つまり、近代文明も穏やかな幼年時代も馴致しえない人間性の闇のマグマを、ファドに憑依させたフランス語で擬態することであった。

「埠頭」の男は、歯間から絞り出すように息を吐く。身体の内奥の闇、肉の壁をこすり上げて噴出する声、叫びとなって突き出す顎。体液のように温かく、泥のように重い、荒れ狂う声。男の影は時に巨大な岩塊、時に後足で立ち上がり咆哮する獣にも見える。また時に、多数の身体が多数の声に乗ってうなるようにも思える。神話的位相が縮んで、生身の男の影が現れ、聴く者を怯えさせる鬱屈とした呻きを漏らすことがある。そんなとき、私は、頭の片隅に昔LPレコードで聴いた清明なフランス語の「酔いどれ船」を甦らせ、笑いの炸裂をも生むアルトーの異言に逃げ込もうとした。

つまり、レジの企てが人間性の負のマグマを現出させ、観客をしてそのおぞましさ、哀しさに立ち会わせることであったとしたら、それは完璧な成功だったのだ。そして、「海の讃歌」が、周到な演出と信じがたい強度を保つ声のパフォーマンスによって、驚嘆すべき希有な作品となっていたことは確かである。

オリヴィエ・ピィの「若き俳優への手紙」もまた、孤独な言葉の舞台であった。しかも、おそらく、人間性の負のマグマ以上に客席に届かせることの困難な、正しさを主張する言葉である。そのような言葉は、演じれば演じるほど胡散臭くなりかねない。それに、そもそも表題からして、一般観客は「手紙」の対象ではない。加えて、その主張は、「初めに、ことばがあった」キリスト教の、その「ことば」に奉仕すべき演劇の言葉の擁護である。それをいかにして日本の観客に届けるか、演出の宮城はこの困難を充分意識していたようだ。そして、能の形式を援用することで、ほぼ見事に難題をクリアした。公募による美術も演出の意図によく適っている。

橋がかりを思わせる朽ちかけた木橋のベンチに、長い白髪に異形の女が座っている。となると、たいていの日本人観客の場合、女の語るであろう言葉を聴く体勢にスイッチが入ってしまう。ここで、私たち観客はさながら諸国遍歴の僧となって、孤独な言葉に耳を傾けるのだ。

女が批判する演劇界の現状は戯画化されていて、彼女の訴えが粗雑に思えたり、「御ことば」の訳語で「手紙」の世界が一転狭くなるかの印象を受けたりするが、それはピィの原作の問題である。

ピィの企てと演出力は、静岡デビューの二作よりも、その翌年の三作の方によりよく現れていた。その内の一作「少女と悪魔と風車小屋」が、2011年春に宮城の演出で上演されるという。どうなるのか、今から楽しみだ。

2010年6月2日

「Shizuoka春の芸術祭2010」劇評講座!

カテゴリー: 告知

「劇評ワークショップ」と「深蒸し茶流 劇評塾」の2本柱で本年度の劇評講座はさらに充実!観劇だけじゃ物足らない…と思っているそこのアナタ!「感動を言葉にする技術」を磨いて、観劇体験を深めてみませんか?

☆☆劇評ワークショップ☆☆

課題演目をご観劇いただき、事前に劇評を提出していただきます。これをワークショップ参加者全員がお互いに読み、意見交換を行います。SPAC文芸部が講師として劇評の書き方/読み方を指導します。
●課題演目:宮城聰演出『若き俳優への手紙』
●開催日時:7月9日(金)19時
●会場:静岡芸術劇場ホワイエ
●参加料金:無料
●お申込み:6月29日(火)までにメールで劇評をお送りください。その際、お名前、電話番号、住所、をお知らせください。劇評は事前に参加者全員に配布します。
■メールアドレス:mail★spac.or.jp  ※★を@に変えてご使用ください。

☆☆深蒸し茶流 劇評塾☆☆

従来の「SPAC劇評講座」を一新し、「SPAC深蒸し茶流 劇評塾」を開設します。従来どおり劇評を募集し、すべての劇評をSPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)が講評し返信します。それに加え、新たに、入選者だけでなく準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ここで3回入選した投稿者は卒業!プロの書き手としての活動をSPACが応援します。
●字数:2000字程度
●締切:批評対象の舞台を観劇した5日後必着
●投稿方法:メールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。メールの場合件名欄に、FAXの場合1ページ目の冒頭に、郵送の場合封筒の表書きに、「投稿劇評」と必ず書いてください。
■メールアドレス:mail★spac.or.jp  ※★を@に変えてご使用ください。
■FAX番号:054-203-5732
■住所:〒422-8005 静岡市駿河区池田79-4「(財)静岡県舞台芸術センター投稿劇評係」宛
※原稿には、住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号等複数の連絡先、観劇日を明記してください。
※入選者には原稿料10,000円をお支払いし、SPACホームページに劇評を掲載します。SPACの公演に1回分御招待します。
※準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ただし原稿料はありません。

2010年5月21日

『ペール・ギュント』(宮城聰演出、ヘンリック・イプセン作)

カテゴリー: ペール・ギュント

坂の上の雲、または私が私である呪い
~宮城聰版ペール・ギュント

柳生正名

ペールの波乱万丈の一代記を舞台上に観て、思い巡らせたのは「私が私であるという病」についてだ。いやむしろ「呪い」というべきか。「自分が 自分であること(アイデンティティ)」自体は、自らに選択の余地のない、唐突で、意味不明な事柄でしかないのだから。それゆえ、人は「自分探し」に心を奪われてやまないのだ。

今回、宮城聰は舞台上に、客席にむけ傾斜したお立ち台風の第二の舞台を設け、その上での演技を役者に求めた。お立ち台の床には「振リ出シ(スタート)」「上ガリ(ゴール)」の場所と、それぞれ賽の壱から六までの目を刻んだ双六の升目が描かれる。背景も同様の意匠で、お立ち台と背景はいわば鏡像関係にある。前半は、背景に戦前の少年雑誌の付録「日本人海外発展双六」が重ねて映写された。「私が私である」ことの呪いに取り付かれ、「自分探し」の旅を繰り広げる主人公ペールの生き様に、帝国主義列強の角逐する世界に突如投げ出され、国家としての「自分探し」に奔走する戦前の日本の姿が、重ね合わされるわけだ。

役者たちは京劇並みの身体性を駆使し、舞台の賽の壱の目に穿たれた穴を抜けて登場・退場する。これが舞台に、アニメやTVゲーム風のスピード感と仮想現実(バーチャル)で重層的な世界観をもたらす。演技の質も心理主義にかぶれた新劇調でなく、今風に言えばキャラ立ち志向。それが、テーマの重さから来る圧迫感を和らげ、観客が終幕、そのテーマに直面させられる際の衝撃を逆に増幅するだろう。

お立ち台から退場した役者は、主役(タイトルロール)を除く全員が、白装束に早替わりするやいなや舞台脇に回り、様々な楽器で複拍子的リズムパターンを入れ替わり奏していく。文字通り、脇を固めるわけだが、その中の一人に、宮城は主役に匹敵する劇的重心を担わせた。開幕前から舞台上に座り込み、賽を振って戦争双六に没入する少年めいた人物がそれだ。

物語は、彼がペールをお立ち台の振リ出シに据え、魂を吹き込むことで始まる。各場面の伴奏音楽も彼が指揮をとることで、二時間四十分にわたる壮大で数奇な男の遍歴物語は、軍国少年の妄想とも、世界の命運を賽の偶然の出目に託す神の遊びとも、解釈可能となる。

この双六の上ガリ(ゴール)は、ペールの自分探しの旅が破綻していくのに並行して、訪れる。五幕半ば、乗り込んだ船が難破すると、自らの内なる声が防空頭巾を被った姿で現われ、己の日和見的エゴイズムを糾弾する事態に直面する彼。舞台に東京大空襲さながらの破局(カタストロフ)が現前するこの場面、背景の双六盤の上ガリにライトが当たった瞬間、爆音とともに舞台装置は倒壊する。皮肉にも、明治以降の日本が血眼で追い求めてきた「坂の上の雲」(舞台には井上馨の名を持つ王さえ登場する)が指先に触れた瞬間、その国土も、ペールが皇帝の座を願う野望も、無に帰する。

ペールの「自分探し=生」が終焉に至る大団円、決定的な役割を担うのがソールヴェイだ。原作では、物語の冒頭から一途に彼を愛し、待ち続ける彼女こそ、ゲーテの言う「永遠に女性的なるもの」の具現した姿として描かれる。常にその場限りの欲望に身を任せ、結果からは素早く身をかわしてこそ、自分は自分、と信じてきたペール。彼女は、そんな彼の男根(ファルス)的エゴを突き崩した上で、残った釦(ボタン)ひとつ分にも値しない人格を受け入れ、自分こそ彼の帰る場所、母たる存在と宣言する。

しかし、宮城の演出はイプセンの描いた、このようなソールヴェイ像を見事に裏切る。ペールの今際(いまわ)の際(きわ)に、彼女があの双六に興じていた少年と一人二役であることを暴いて見せるのだ。これが意味するのは、彼女が、実は永遠なる女性ではなく、しかし、世界のすべてを企図し、偶然の介入を許さぬ父なる神とも違う、単に遊び好きで気まぐれな存在にすぎない、ということだ。事実、彼女は人生の幕を迎えたペールに着せ替え人形のドレスを着せ、再び彼を双六の振リ出シに立たせる。

この幕切れは、イプセンがこの詩劇の後、十二年を経て「人形の家」を書き上げた事実を連想させる。観客は、振リ出シに戻ったペールが今度はノラとして、夫の着せ替え人形でしかない己を拒否し、「真の自己」を求めて踏み出していく姿を、そこに重ねないだろうか。かくして、イプセンの紡ぐ自分探しの物語は「ペール・ギュント」という作品の枠をも超え、宮城の掌上で輪廻めいた円環を形づくる。あたかも自分が自分たることが、生き替わり、死に替わり、性差も越えて引き継がれる「呪い」であることを裏付けるように。

一方、司馬遼太郎の小説に描かれるように、有史以来、国家は常に男たる自己を追求してきた。この幕切れを目の当たりにして、そうした営みが、わが国では終戦とともに振リ出シに戻り、戦争放棄という女性的原理の下で新たな双六を始めたのではないか、と気付かされた。その後、六十年を経て、なお自分探しの病に全身を侵され続けている現状にも。ならば、イプセンを「優れた詩人は共同体の予言者でもある」と評する宮城自身が今、日本の予言者たり得るか―ふと、そんなことを問うてみたくなる今回の舞台だった。(了)

『ペール・ギュント』(宮城聰演出、ヘンリック・イプセン作)

カテゴリー: ペール・ギュント

「スタトゥスを待つキウィタス」を!
―宮城聰演出 イプセン『ペール・ギュント』劇評

森川泰彦

この上演の空間を形作るのは、背景面には垂直に、床面には傾斜をつけて置かれた巨大な二つの双六盤である。そして物語の始まる前から、背景盤には「国民五年生新年号附録」の「日本人海外発展双六」が映写され、舞台前面では、新聞折の兜を被った腕白坊主がボード上で戦車や戦闘機のおもちゃを動かし遊んでいる。これは劇世界全体がこの子供の双六遊びであることを暗示し、また彼は、幼少のペールであると同時に黎明期の帝国主義日本の寓意でもある。軍国主義国家の成長ゲームたるこの双六は、各場面の終わりに枡目を照らして浮いたかと思えば沈むペールの人生を辿りながら、轟音と煙を伴い半壊することで敗戦を表し、彼の最期において「上がり」ならぬ「振り出し」にスポットを当ててその再生を示す。今回の演出の大きな特徴は、主人公の人生を終戦までの近代日本国家の歴史に重ねたところにあるわけだが、こうした美術(と衣装や旗)によって、それが(後述の例外を除き)元の物語を大きく損なうことなく、簡潔明瞭に舞台化されているのである。

こうした個人と国家の重ね合わせゲームは、一方が北欧の民話由来の人物、他方が極東の現実の国家という外観の大きな相違にもかかわらず、両者の本質に強い平行性が見られるが故に高い説得力を持つ。ペールは、欲望し自己実現する主体として個人的な自己同一性を形成し、かつ他害原理(ミル)を内面化せず世界規模で他者を踏みにじる(奴隷売買等)が、他方、帝国主義時代に開国した日本もまた、当時の欧米に同一化して列強として国家的な自己同一性を確立し、国際規範を弱肉強食と解して、植民地の獲得・支配に乗り出していったからである。

さらに今回の舞台では、そうした抽象的解釈表現のレヴェルで妥当だというに止まらず、具体的演技表現のレヴェルで豊かな肉付けがなされていた。双六盤には複数の枡目に穴が空けられ、役者を穴や舞台奥に一瞬で消し、出没させ、あるいは体を適宜埋めることで容易に人物間の高低差を作り出す。こうした特長が役者の高度な身体技術と共に活用され、豊かな運動感と多様な造形美を舞台にもたらしてゆくのだ。この簡素な空間は、森から妖怪の宮殿、砂漠、嵐の海といった状況に応じて千変万化し、舞台脇で行なわれた打楽器系の生演奏と相まって、3時間近い上演を飽きさせない。演奏をソールヴェイ役者が指揮するのも、鐘によってペールを救い見守る彼女の役割に符合するのであり、総じて、いわゆるブレヒト的(記号論的)演劇として優れた舞台だったと考える。

しかしながら疑問もあり、3点指摘しておく。第一は、トロルの面々に元勲らの名札を付けるなど、その宮廷を明治日本の政界に見立てた点である。これは、日本を表すペールがその退嬰性をトロルと共有することや、ドヴレ王国が、作者イプセンが故国の郷土意識を皮肉った戯画でもあることからくるのだろう(ⅰ)。しかし、共通点はあってもトロルはあくまでペールの他者というべきだし、この場には、異文化交流における理解と無理解、同化と抵抗、さらには植民地支配をめぐる諸言説が読み取れる。そして、トロル的生き方を否定したつもりが脱していなかったことを最後に悟るペールの人生は、近代化に遅れたアジアを蔑視しそこから離脱した(脱亜)つもりが、最も野蛮な国として破綻したことを自覚するに到る日本の道程と通じ合うのだ。とすれば王国は、封建的だった当時の朝鮮や清に当てはめるのが順当だろう。

第二は、ペールが猿に襲われる場面のカットだ。ここは、自己同一性をめぐる興味深い洞察が示されるのに加え、植民地人に対する宗主国の非人間視と彼(女)らの抵抗の寓話となりうる箇所であり、しかも短く活劇性に富む。付け加えるのに大した負担はなく、これを切るくらいなら盗人の場面を削るべきだろう(ⅱ)。

第三はソールヴェイの希薄化であり、彼女の重要性に鑑みればこれが最も重大である。彼女がペールを待つ場面も省かれ、見せ場のはずのラストのペールとの対話も刈り込まれている。そしてペールに嬰児服を着せるソールヴェイ役者は、腕白小僧の白い衣装で現れ(死装束?)、そこでのソールヴェイは子供のペールにすり替えられてしまう。老年期のペールは、幼少期の己の手で再生することになり(自己蘇生?)、これが日本の再生に重ねられるのである。演出家は、なぜ要となるこの場面にかかる改変を加えるのか。演出ノートには、「『国』を『人格』でイメージするとき、その人格はつねに『男性』」とあり、日本の国に重なるのは男性のペールでしかありえないということらしい。そう考えれば当然、女性のソールヴェイに対応物を見出せないことになるのである。

しかしかかる家父長主義的?国家把握は、この演出のための解釈には狭すぎる。国家をめぐっては伝統的に、統治機構としての国家(status)と、共同体としての国家(civitas)という大きく二つの概念の系譜があるが、国家が男性として表象されるというのは、前者の、軍隊や警察といった消極国家の機能を念頭に置くからだろう。しかし、後者の、下位社会を包摂した民族共同体の有するイメージは大家族であって、母をもその主要素としている(ⅲ)。帝国主義政策を支えたのは「銃後の守り」としての社会であり、ファシズムの基本思想はそうした「母なる大地」に根ざすことでもあるのだ。

だとすれば、国家を擬人化する場合、男性個人で表すのは暴力的国家機構に止め、国家共同体については女性を含む小家族に置き換えるのが妥当である。そしてかく捉えれば、軍国日本と同視すべきはオーセとペールの母子となり、その後の民主日本は新生ペールとソールヴェイの「夫妻」に対応させうる。貧窮の中、息子を溺愛し共に夢見る攻撃的なオーセは、彼の非行を怒りながらも庇ったが、天皇を崇拝し版図拡大を願うかつての貧しい日本社会=国民もまた、軍部の暴走を危惧しつつも支持し続けたのである。そしてソールヴェイとは、大正デモクラシー以降抑圧された社会の健全な契機の象徴であり、戦後アメリカ(=父なる神)の民主化政策が、それを育んだということになる(農地改革等)。彼女によるペールの救済を、戦後日本の平和主義や自由民主主義に基づく再出発とその後の経済発展に、その問題点も含めてそのまま重ねられるのだ。つまり、生涯ペールを待ち続けたソールヴェイは、望ましきスタトゥスを待ち続けた善きキウィタスと見做しうるのであり(高度成長期の衣服で示せよう)、個人としては非現実的なその行為も国家=社会としてはむしろ自然なこととなる。従ってこの舞台の演出方針からも、ソールヴェイについて原作を尊重することは可能でありかつ望ましい。冒頭の少年も、ペール役者が演じるのが順当だったと思われる。
(2010年3月14日観劇)

(ⅰ)毛利三彌『イプセンの劇的否定性』p471
(ⅱ)狂人の場面も惜しいがやや長いか。
(ⅲ)さらに前者も、社会保障のような積極国家の機能において母性的側面を有している。

2010年3月6日

SPAC劇評講座が新しくなります!

カテゴリー: 告知

新しい劇評講座は「劇評ワークショップ」と「劇評塾」の2本柱!

①劇評ワークショップ
1年間に4回、参加型のワークショップを開設します。課題演目をご観劇いただき、劇評を提出していただきます。これをワークショップ参加者全員が読み、意見交換を行います。SPAC文芸部が講師として劇評の書き方/読み方を指導します。
◇第1回目
課題演目:宮城聰演出『ペール・ギュント』
開催日時:4月7日(水)19時 会場:静岡芸術劇場ホワイエ
参加料金:無料

お申し込み・お問合せ:SPAC芸術局TEL.054-203-5730  mail@spac.or.jp

②劇評塾
従来の「SPAC劇評講座」は常連投稿者のレベルがあがり、優れた投稿者の方が繰り返し当選するようになりました。そこで一新し、劇評塾を開設します。「ペール・ギュント」でも劇評を募集します。ただし今回からは、入選者だけでなく準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ここで3回入選した投稿者は卒業!
プロの書き手としての活動をSPACが応援します。
※従来の「SPAC劇評講座」掲載者ですでに3回以上掲載されている方は来年度より投稿資格がなくなります。代わりに、SPACから劇評執筆を依頼します。

◇字数:2000字程度
◇締め切り:批評対象の舞台が上演された5日後必着
◇投稿方法:メールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。メールの場合件名欄に、FAXの場合1ページ目の冒頭に、郵送の場合封筒の表書きに、「投稿劇評」と必ず書いてください。
◇原稿には、住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号等複数の連絡先、観劇日を明記してください。
◇すべての投稿劇評にSPAC文芸部が講評し、返信します。
◇入選者には原稿料10,000円をお支払いし、SPACホームページに劇評を掲載します。SPACの公演に一回分ご招待します。
◇準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ただし原稿料はありません。

2010年1月16日

『オペラ 椿姫』(鈴木忠志演出、飯森範親指揮、ジョゼッペ・ヴェルディ作曲、フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ台本)

カテゴリー: オペラ 椿姫

椿姫の鏡像

奥原佳津夫

オペラの上演は専ら音楽面からの評価がなされ、舞台上演の演劇的な面については、二義的な扱いを受けるのが通例である。多くの場合演出もストーリーを語る上での意匠に留まるか、音楽とは乖離した舞台表象に終始してきたので、それも無理からぬところではある。鈴木忠志演出『椿姫』の特異な点は、その演劇的な表象と音楽との拮抗が、作品の構造にまで立ち入ってなされたことであり、まさに演劇面からの評価が必要な上演と思われる。

演出の要諦は、ヒロイン・ヴィオレッタを男性の側の理想、願望としてしか存在しえない幻、虚像として捉えたところにある。テノール歌手は作曲者ヴェルディとして常に舞台上に居続け、去来する幻想の中でアルフレードとなる趣向。序曲でヴェルディの父親役の俳優が登場し「まだ幻を見ているのか?」という台詞が交わされるのに意表をつかれるが、その設定故に場面転換や時間経過の幕間を要しないため、歯切れのよい演奏(飯森範親・指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)は間断なく、むしろ演奏の密度は高い。(第一幕から第二幕一場、第二幕二場から第三幕は続けて演奏される。)「乾杯の唄」では、水を持った看護婦が登場し、ヴェルディの幻視は精神を病んだ(と看做される)域であることが示される。恋の病ならぬ、病としての恋、その結晶たる幻が椿姫なのである。そもそもこのヒロインがいかなる虚像であるか、原作に遡って確認したい。デュマの原作小説『椿姫』で、作者の実体験から著しく美化された虚構のヒロインに与えられた名はマルグリットであり、物語は彼女の死から始まる。語り手は、改葬のために掘り起こされた骸に対面させられ、その後、恋人の回想する生前の椿姫の物語を小説化する、という再話の手法が採られており、マルグリットは二重のフィルターを通した虚像として、読者の前に立ち現われる。さらにこの『椿姫』が劇化上演されたのを観て創られたヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタは、さらなる鏡像と云えるかもしれず、そこには作曲者自身の経験も写しこまれているらしい。

この上演では、登場人物はそれぞれのエリアから大きく移動することはなく、ことにヴェルディとして作曲の机に向かいつつ唄うテノール歌手は、幻想世界に踏み込むことはない。その分、後半(第二幕二場)では幻想のアルフレードとして吹き替えの俳優が登場することになる。第三幕への転換での、この幻想のアルフレードがヴィオレッタを抱きしめるようにして彼女の外套を脱がせる演出は特筆に値する。物語の上では誤解を抱いたまま外国にいる筈の彼が、あえてこの場に登場するとなれば、それは作曲者ヴェルディの幻想であるアルフレードのさらにその願望が生んだ幻であり、めくるめくような虚像の乱反射が舞台上を闊歩していることになる、それは合わせ鏡の中で虚像が虚像を生みつづけるように。(思えば、この上演に登場するヴェルディはもちろん、作品から逆算された虚像としての作者であり、伝記に照らせば彼は宿屋の主人である父親の元を幼くして離れているので、「ヴェルディの父」という精神性を感じさせる登場人物もまた、得体の知れない幻である。)簡素な舞台美術は、大きな長方形の枠がいくつも重なりあって吊られているのが特徴的だが、ヴィオレッタの居室の場面で同じ枠の姿見が使われると、なるほどと納得がいく。このセノグラフィは、実体を持たぬ虚像の乱反射をのぞき見るための装置なのである。

この上演にはエピローグが付く。「過ぎ去りし日々よ」のフレーズが煽情的に奏でられる中、死んだヴィオレッタが起き上がり、背景のパネルが飛んで、はるか彼方まで延びた白い道を、降りしきる紙吹雪にかき消されながら歩み去ってゆくのである。一見サービス過剰で無くもがなの演出と思ったが、彼女の歩み去る先に、鏡合わせのようにこちらを向いた劇場の客席を認めた時、この幕切れこそ演出上の必然と得心した。彼方に並ぶ客席は、上演中のホールと背中合わせに位置する芸術劇場の客席―白い道は芸術劇場の舞台上に延びていたのである。彼女の死=退場は、すなわち鏡あわせになったもう一つの舞台への登場なのだ。かくして虚像は架空の世界の中に完結する。叶わぬ理想や願望を映しこんだ幻を音楽の内に留めようとしたのがヴェルディの楽曲だとするならば、今回の演出は、云わばその返歌としての「虚像」を演劇的表象の内に立ち上げて見せた巨匠の力技である。冒頭に、演劇的な表象と音楽との拮抗と書いたのは、このような意味による。
(於.グランシップ・中ホール大地 2009.12.11所見)

2010年1月15日

『夜叉ヶ池』(宮城聰演出、泉鏡花作)

カテゴリー: 夜叉ケ池

『夜叉ヶ池』の劇構造
奥原佳津夫

SPACの『夜叉ヶ池』は、泉鏡花の名がイメージさせる日本的な情緒を拭い去った、無国籍なドラマとして立ち上がっていた。装置は簡素な屋台ひとつ、セリを使ったスピーディな展開―土の匂いを感じさせない現代演劇として演じられた鏡花戯曲は、その特殊性に向かうよりは普遍性に光があてられ、全編を覆う打楽器の音色も手伝って、汎アジア的な水神伝説の水脈に連なる様相である。演出者(宮城聰)は、旧来の新派や歌舞伎の制約から戯曲を解き放つ一つの方法を提示するとともに、戯曲に寄り添う丁寧な演出によって、小説に於いては、細部にこだわるあまり構成はバランスを欠きがちと評される鏡花が、その戯曲に於いては意外にも強固な劇構造を築いていることを再確認させた。

まず、家系的にも能楽と由縁の深い鏡花だが、その怪異ものと云われる小説には、語り手が伝聞によって物語る再話の形式が多く(よく知られたところでは『高野聖』『春昼』など)、ワキを介して異界が披かれる能の形式の影響が夙に指摘されている。この上演では、都会と山奥の物語とをつなぐ山沢学円(僧籍にある設定)を客席から登退場させているが、大詰、折り重なる主人公たちの骸に手を合わせる姿には回向のワキ僧の面影が濃く、上演の枠組みを固めた。また、雨乞いを断行しようとする村人たちが、手にした太鼓を一斉に叩き続ける演出は、閉塞的な連帯感や、権力者の横暴にも付和雷同する村落共同体の性質を明確に描いて、実に効果的であった。泉鏡花は、社会の通念や固定観念に抑圧された個人を描くことでそこに疑義を呈する、いわゆる観念小説で世に出た作家だが、やがて人間社会の軋轢をたやすく一蹴する存在として、異界の超越的な視点を作品に導き入れる。この『夜叉ヶ池』でも、もちろん白雪姫ら異界の者たちは、人間界の価値観、現世の桎梏をはるか高みから見下ろすアンチテーゼであるわけだが、その意味では、鏡花は破壊すべき対象を実に正確に見定めていた、と云えるだろう。

こうしたドラマの構造が明確になったについては、分かり易さを心がけたであろう演出もさることながら、再演を迎えて、俳優陣の演技がこなれてきたことの功も大きい。初演時には、鏡花の言葉に喋らされている観もあったが、特に学円を筆頭に、晃、百合との場も消化されて胸に落ちる台詞になった。そのため、続く妖怪たちの場面との演技の質の違いが克明になり、結果、どこか人形めいて切れ切れな台詞を語る百合が、人間界と異界との境にある存在であることが際立った。夜叉ヶ池の魔物たちは、人間界に隣接して棲んでも直接交わることはない。白雪姫が百合の唄声に心動かされるように、ただ白蛇に魅入られたとも噂される彼女を通じて、その消息を聞くばかりである。図式化するなら―つまり、固陋な村人たちと対極をなす異界の者たちの間に一本の線を引けば、その中間点に位置するのが百合であり、そして、客席の我々が棲む現実世界から、自身物語と化した晃を訪ね、舞台上の異界へ踏み入る学円の足取りをもう一本の線とするならば、二本の線の垂直に交わるところに、この『夜叉ヶ池』のドラマは広がっているのだ。

一方、魔物たちの描写には、物足りぬものがないでもない。鯉、蟹、鯰の精霊は、ユーモラスな被り物めいた衣装の女優たちによって屈託なく演じられ、作品全体の印象を軽いものにしており、現代的な意匠としてそれなりに評価できるのだが、今回の再演では、白雪姫までも初演時の好演に比べ幼く演じられているのが気になった。周りの眷属たちとは釣り合いが取れて、作品全体の色分けとしては明瞭なのだが、その恋の情熱には、ある種デーモニッシュなものが必要なのではないだろうか?原戯曲大詰のト書きに、村人たちに「立ちかゝつて、一人も余さず尽く屠り殺す」とあるように、この魔物たちは禍々しい荒神でもあるのだ。そうした残酷さ、グロテスクさも鏡花の資質のうちであり、彼の描く異界の者は、人間世界の尺度の届かぬ曖昧さのうちにある。村人たちが百合を襲う場のスリリングな立ち回りや、大詰のスペクタクルの爽快さなど、見所も工夫され上質のエンターテインメントに徹した上演に、欠けたものを求めればやはりこの部分であろう。

基本的にストーリーラインに沿った演出だが、唯一の改変はラストシーン―「晃、お百合と二人~熟と顔を見合わせ莞爾と笑む」という主人公たちの彼岸の幸福を示すト書きを削除した、というより、執拗なまでにこのト書きに逆行したことである。白雪姫が語りかけても自刃した二人は伏したまま。演出者は、甘すぎる幻想に都合よく身を任せず、距離を置くように現実を対置したのであろうし、その点は納得できるのだが、カーテンコールの間も遺体として留まり続けるのは、念が入りすぎて却って奇異である。
(於.静岡芸術劇場 2009.11.1所見)

2010年1月12日

『ドン・ファン』(オマール・ポラス演出、ティルソ・デ・モリーナ、モリエール他原作)

カテゴリー: ドン・ファン

ドン・ファンとドン・ジュアンの折衷の末路
―オマール・ポラス構成・演出『ドン・ファン』劇評

森川泰彦

この舞台の基本戦略は、前回の『スカパンの悪だくみ』や前々回の『プンティラ旦那と下男マッティ』と同様、高度な舞台造形技術を駆使した「幻想的笑劇」である。今回は演出家子飼いの劇団での公演ではなく、短期滞在による日本人の俳優・スタッフとの創作ということで、その造形の水準に一抹の不安があったのだが、幸い全くの杞憂に終わった。

赤茶色の板を敷き詰めた床面と、微妙な変化を帯びた様々な単色に彩られる背景幕に包まれた抽象的空間が、立ち上がる幻想の基盤である。そこに玉座や衝立といった最小限の事物が適宜配置され、幕が巧みに使用される。原色の醸し出す華やかさを残しつつも複雑な色合いを交えて質感を高めたそれらは、簡素だが豊穣なポラス的空間を具体化してゆく。そして役者の顔立ちを残しながらも誇張した半仮面が、彼(女)らを脱人種化しつつ、その身に纏う装飾性に富む衣装と共にかかる異空間に溶け込ませる。そこにテアトロ・マランドロ的身体が見事に展開されたのだが、お手本とすべき映像があったにせよ、短期間であそこまで習得していることには驚かされた。外国人の演出の際に時折起きる台詞回しの不統一もなく、その聞き取りに苦労はいらない。それらを前提に、ティスベアの嘆きなど例外もあるが、小柄な役者の演じるふんぞり返った国王や原作にはないドン・ファンの女装など、秩序転倒的な身体技に基づく練り上げられた可笑しさが、次から次へと繰り出されてゆくのである。まるで生命を持つかのように動く杖の曲芸的な使用や、絶妙のタイミングで騒々しく撒き散らされる金物がかき立てる混乱感、物音に呼応して小さく飛び上がってはドスンと落ちる役者が錯覚させる大地の揺れなど、細かい芸の積み重ねも素晴らしい。またエルビラの訪問の場面では、清楚なポワントで入場した彼女のトゥシューズを脱がせて収蔵品とする仕草により、ドン・ファンの説教への無関心と彼女への欲望の再燃、さらにはその欲望の幻影追求的性格を美的洗練の内に象徴してみせた。そして、舞台上空を覆う石像の出現は仕掛けの楽しさで最後を盛り上げ、幻のごとく一瞬で消える回転する逆さ吊りで示されたドン・ファンの地獄落ちが、その残虐美によって幕切れに強い印象を残すこととなったのである。

しかし他方で、この舞台からは前二回にはない中途半端さが感じられた。そしてその原因は、個々の舞台形象というより、それらが表象する物語全体の構成にある。今回用いられた台本は、ティルソ・デ・モリーナの『セビーリャの色事師と石の招客』を基に、後半を中心にモリエールの『ドン・ジュアン』を取り入れたものである。それは、前者にある結婚による解決というカーニヴァル的回復の常套手段を取り払い、モータ侯爵を同じくドン・ファンの友人で恋人がその標的となるオクタビオ公爵に吸収させるなど、その簡略化・単純化を図る一方、金貨を餌に極貧の信仰者に瀆聖を迫る場面を導入するなど、後者に強く見られる不信心の主題を強調する。確かにテクストは巧みに繋げられており、造形の卓越もあってそれほど大きな瑕疵は見えない。しかし基盤となった前者のドン・ファンが、臨終に告解すれば足りると考える愚かな信者に過ぎないのに対し、後者のドン・ジュアンは確信犯的無神論者である。苦言も呈するが基本的に主人の同志であるカタリノンと、絶えず主人に抵抗を試みるスガナレルの差も大きい。こうした異質な人物の折衷は新たな創造となっておらず、逆に彼らの性格や相互関係を曖昧にすることで、各々の長所を相殺しているのだ。殊にそれは、結末で告解の機会を与えられなかった部分の省略と相まって、性格不明のプレイボーイの大袈裟な破滅を印象付けることになった。その最期は、物語の表層を疾走するトリックスターの最終的な加速に必要な軽さも、信念あるリベルタンの超越的な殉死ないし享楽(ラカン)への突進に不可欠の重さも、共に欠いていたのである。

また『ドン・ジュアン』の切り貼りは、さほど効果的なものとならない。というのもこの作品の特長は、「言葉」とそれに対応する「行為」の乖離という主題の下に、豊かな細部が構築されていることにあるからである。結婚を誓って女を騙すドン・ジュアンは、同様に借金取りの家族を気遣って見せ、父の前で改心したふりをし、神を口実にエルヴィールの兄の追及をはぐらかす。そしてスガナレルも、主人を怒らせまいと一般論を装って諌め、あるいは堂々と批判しようと試みたものの体が言葉についていかないか、支離滅裂の論理展開になってしまう。また主人の非道を非難する彼自身が、己の借金を踏み倒そうとする。この劇においては、こうした言行不一致の数々が、悪漢の企みが煽り立てる背徳的快感や道化の振舞いがもたらす滑稽感など時に思索へ誘いもする多様な情動を引き起こしつつ、複雑に変奏されてゆくのである。かかる主題論的統一の下に置かれることで、この芝居で発せられる全ての言葉は疑惑の眼で眺められるようになる。エルヴィールが「真心」から悔い改めを説くのも、まさにダ・ポンテのオペラ台本で顕になっているような「夫」への激しい欲望と一縷の希望、それを否定せんとする葛藤を秘めての行いであることが、その言葉とは裏腹に暗示されてしまうのだ。しかし言行不一致をめぐる主題の布置を欠く今回の上演では、このような建前と情念の二重性の軋みは現れにくい。

そして作品全体に張り巡らされた連関が生み出すこの疑念は、まさにドン・ジュアンが戦った現世での信仰に対する来世での神の保証をも揺るがすものである。彼がはっきりと口にする偽善者の言行不一致だけでなく、神の言行不一致(その救済の否定)さえもが、彼個人の見解を超えて構造的に語られることになるからだ。一見、不信心者の処罰によって正しき秩序が取り戻されるかに見せかけつつ、その背面で不信による信の破壊を示してしまう、ここにこの劇の凄さがある。それは、代弁者をこしらえ上げて自己の信念を宣伝させたり、敵を戯画化して溜飲を下げるといったレヴェルの「批判」ではない、芸術を構成する宗教批判なのだ。しかし今回の摘み食いが付け加えたのは中途半端な重みであり、そこにかかる凄みはない。

結局わざわざ折衷テクストを作る必要などなく、単にどちらかを使えば良かったのだと考える。ティルソなら、原作の持つ「格調」に対するドン・キホーテ的パロディとして独自に一貫し得ただろう。この舞台でも、ティルソの部分では概ね表層的な笑劇性が維持されていた。その路線ならば、騙してきた女が差し出したように死神に騙されて差し出した手を摑まれ、秘蹟に与れず地獄落ちするという回帰的落ちで、何ら不都合はあるまい。モリエールにも大いに期待できよう。元々道化役のスガナレルの活躍の余地は大きく、ピエロまでいる。そしてポラス的笑劇化は、哲学的深遠と隣り合わせの対話とも両立しうるばかりか、信と不信の矛盾と反転を際立たせたどす黒い笑いの世界を、運動感豊かに創出しえたはずなのだ。
(2009年10月11日観劇)

2009年10月12日

SPAC秋のシーズン2009 劇評募集!

カテゴリー: 告知

春の芸術祭にひきつつづき、「SPAC秋のシーズン2009」でも劇評を募集します!

SPAC文芸部(菅孝行、大岡淳、横山義志)がすべての投稿劇評を講評し、返信します。優れた劇評はSPACのホームページに掲載します。入選された筆者には原稿料をお支払いするほか、SPACの公演に1回分ご招待します。

演劇に触れて、受け取った感情を、あるいは疑問を、言葉にしよう!、と思い立った方々、ぜひ、ふるってご応募ください!

■資格/「SPAC秋のシーズン2009」の舞台をご覧になった全ての方
■批評対象/「SPAC秋のシーズン 2009」の全ての舞台
■字数/2000字程度
■締め切り/批評対象の舞台が上演された5日後必着                   ※ただし『ドン・ファン』の劇評は観劇日に関わらず2009年10月17日締切
■投稿はメールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。
Eメールの場合:mail@spac.or.jp(必ず件名欄に「投稿劇評」とかいてください。)
FAXの場合  :054-203-5732(必ず1頁目の冒頭に「投稿劇評」と書いてください。)
封書の場合  :〒422-8005静岡市駿河区池田79-4
(財)静岡県舞台芸術センター宛(必ず封筒の表書きに「投稿劇評」と書いてください。)
■原稿には、住所、氏名(ペンネーム可、ただしペンネームの方は本名・ペンネーム両方)を明記してください。
■観劇日を明記してください。
■連絡方法/連絡がとれやすいよう、自宅の電話番号、FAX番号、携帯電話番号、メールアドレスなど複数の連絡方法を書いてください。

2009年8月16日

『スカパンの悪だくみ』(オマール・ポラス演出、モリエール作)

前衛的正統の喜劇
―オマール・ポラス演出 モリエール『スカパンの悪だくみ』劇評

森川泰彦

まず、テクストから検討しよう。この物語の骨格を構成するのは、単純明快な幾何学的人物配置を元に展開する、次から次へと課せられる課題と、それに対する意表をつく解決の連続である。前半の二人の息子の窮地は、スカパンの小気味良いペテンによってとりあえず救われる。後半では、ペテンがバレたことによって振り出しに戻ってしまったばかりか、スカパン自身が処罰の危険にさらされるという窮地に陥るわけだが、そうした増幅された課題は、なされた結婚がなされるべき結婚であることが明らかとなり、当初の課題そのものが遡及的に消失してしまうことで、「解決」されるのである。スカパン自身も、その才覚だけでなく、その「解決」感の高揚のおこぼれにあずかって許されることになる。

そしてこの作品は、古典中の古典とされる喜劇であり、多くの喜劇と同様、カーニヴァル性をその本質としている。父親の留守中にその許しなく結婚するという息子の行為は、父権的秩序への反抗であり、父を頼るのではなく、召使に頭を下げる行為はさらにかかる秩序を転倒させる。こうして幕を開けるカーニヴァルは、召使が息子のために父親=主人を見事騙して金を巻き上げ、さらには棍棒で叩きのめすという父子と主従の二重の逆転を頂点に、真相が発覚して召使が権力を失うことにより衰退を始め、どこの馬の骨とも知れなかった二人の娘の出自が明らかとなり、結婚によって新しい秩序が確立する大団円へ至って終焉するのである。またその過程においては、真理と虚偽、本質と仮象といった前者が優位する二項対立的秩序も、転倒と再転倒の運動を経ることになる。召使の力の源泉は、演技という仮象による虚偽が生む脅しであり、その化けの皮が剥がれ、本質が顕わになり真実が明らかになることで脅しはその効力を失うのだ。そして、スカパンの悪だくみによってではなく、結婚した娘が結婚するはずの娘であり、卑しいはずの娘が卑しからぬ娘であることが明らかになることによる最終的解決は、仮象と虚偽に対する本質と真実の逆転勝利を意味している。

このようにこの物語は、嘘のような嘘の成功が観客を引き付けよく楽しませつつ、それを加速させた挙句、練り上げられた御都合主義というべきどんでん返しにより物語全体の相貌を一変させつつそれを完成させて終わる。開放感とともに安心感を与えてくれるそうした筋立てを持つこの戯曲は、単純だが技巧を凝らした極めて人工的な作品なのである。

それでは、かかるウェルメイド・プレイをどう演出すべきか。字幕付映像が市販されているコメディー・フランセーズの『スカパンの悪だくみ』(ジャン=ルイ・ブノワ演出)だと、スカパンの執念深さに焦点が当てられる。裁判所に代表される体制への怨念、階級的抑圧への憤怒を抱えた人物の抵抗と諦念という側面が強調されるのである。そうした演出はそれなりに一貫した読みに基づいているし、その翳のあるスタニスラフスキー・システム的な演技も一定の説得力を持つ。この作品が飽きるほど繰り返され、差異化を図ることが求められるような状況なら、こうした近代劇的読み直しも選択肢の一つに入って当然である。しかし同時に、そうした「深さ」は、笑劇であるために必要な「軽さ」とは対極の「重さ」を否応なく舞台に持ち込むことで、この劇の最良の性質を減殺してしまう。

これに対しオマール・ポラス氏は、そうした特性を尊重し、この作品を徹底的に笑劇として提示する。この言わば表層の演劇を、深層を加えたいという誘惑に屈することなく貫いてみせたのである。この演出では、この戯曲の源流であるコンメディア・デッラルテがそうであったように、登場人物は性格類型として現れる。彼(女)らは、おとぎ噺の登場人物ほどではないにせよ、「平面性(M・リューティ)」を有する人物であって、近代劇の登場人物のような内面の深みを持たないのだ。しかもそうした演出は、高度な舞台表象技術を駆使して遂行される。それは、笑いのために技術を使うというより、技術を見せるために笑いを言い訳にしていると言えるほどなのである。

上演台本は、アフタートークで話題になったようにジェロントの性が変更されていた他は、ほぼ原作通りであった。そしてこの修正も、演出家自身が説明していたように、家父長の権威が失墜し母親の地位が向上した現代の家庭に照らしてみれば、説得力に富む。母親が財布の紐を握っていることが珍しくない現代において、ケチ役を母親が担うのは「自然」なのだ。そしてこの母親への変更は、二人の親を明確に差異化すると共に、その息子を奇怪な「お坊ちゃま」に発展させ、息子二人を差異化することにもなる。こうして境遇が似ていて区別が曖昧になりがちな二組の父子は、父子と母子の組み合わせとなり、物語は分かりやすくなった。

舞台は、三原色に霞をかけたような水色、ピンク、薄黄で彩られた、シャガールを思わせる華麗な美術で飾られ、観客をおとぎ噺的異空間に誘う。そこでは、半仮面によって鼻や歯や耳を誇張し、その振る舞いと相まって笑劇固有の間抜けさを辺りに波及させる役者たちが、そうした仮面劇でなければ存在しない独特の〈笑劇的身体〉を現前させ、〈笑劇的空間〉を立ち上げる。そして現代的に改良されたコンメディア・デッラルテ的演技が漲らせる機敏な運動感を基盤に、歌あり、踊りあり、クラッカーありと使えるものは何でも使う貪欲な雑種性が、まさにカーニヴァル的祝祭感を盛り上げるのだ。どんな可憐な美女が登場するのかと思いきや、アカ抜けない眼鏡娘が現れ、どんな恐ろしい大男が登場するのかと思いきや、吹けば飛ぶようなチビ老人が登場する。あるいは、観客を巻き込んでおいて「あいつのせいだ」といって逃げるスカパンの図々しさも可笑しい。

そして特に素晴らしいのは、この演出オリジナルの母子の「怪演」ぶりである。ジェロントは、上品さなき上流夫人といった風の強烈なエゴを持つ女傑で、親同士が言い争う場面では、ここぞという瞬間に相手のトランクを蹴り飛ばす。そして二枚目役のはずのレアンドルは、ポルノ雑誌を片手に登場する子供大人で、子供のような大人の間抜けさや頼りなさと大人のような子供の傲慢さや狡猾さを併せ持ち、状況に応じてその二面を往き来する。こうしてポラス氏は、現代の母や子の一面をグロテスクに戯画化して見せるわけだが、これは、モリエールが当時やっていた人物類型に対する風刺の現代版でもある(ⅰ) 。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『じゃじゃ馬ならし』について、正統にとって代わるものではない後衛的前衛であると書いた(ⅱ)が、反対にこの舞台は、現代化を施しつつもテクストを真正面から活かすものであり、前衛的正統なのだと言うことができる。
(2009年7月4日観劇)

ⅰ 例えば『ヴェルサイユ即興劇』の中で明確に語られている。               ⅱ 拙稿『フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛』(SPAC投稿劇評)