2015年7月8日

『マハーバーラタ』 モスクワ日記(6)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月30日

初日が明けたので、今日はちょっと遅めの10時劇場集合。俳優は13時のトレーニングから。リハーサル室がちょっと小さめなので、小さめの動きで訓練。
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国営放送が再びニュースで稽古の様子を取材。

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開演前のメイク室。

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本番二日目。当日券を求める方々。

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初日には海のものとも山のものとも知れない作品なので、大笑いするお客さんと戸惑っているお客さん、という比較的大味な反応だったが、今日は昨日より落ち着いた客席で、集中して物語に着いてきてくれている感じ。ギャグにも爆笑せず、クスクス笑って次の場面の演技もじっくり見てくれる。ずいぶん反応が違うものだ。

宮城さんの作品がモスクワに来るのは、これが二回目。前回は『メデイア』で、2001年に劇団ク・ナウカとして、メイエルホリド・シアターセンターでの公演だった。実はク・ナウカという名前はロシア語の「科学へк науке」から来ていて、ロシアの演出家メイエルホリド(1874~1940)の「ビオメハニカ(バイオメカニックス、生体力学のロシア語読み)」と呼ばれるメソッドとも関係がある。メイエルホリドは歌舞伎を含む東洋の様式的な演劇に影響を受け、「日本のスパイ」との嫌疑をかけられて粛清された。つまりこの名前は、ロシア経由で日本の伝統演劇に向かう、というちょっと複雑なアプローチを示していた。だが、この『マハーバーラタ』でも、パーカッションが刻むテンポのスピード感とユーモアで、伝統演劇でないということはきちんと伝わっているようだ。

最後の一音が鳴り終わると同時に、競い合うように「ブラヴォー」の声。演劇祭の関係者からも、これだけ盛り上がるのは久々だと聞いた。

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早速ロシア第1チャンネルがニュースで三分半にわたって取り上げてくれた。大高さん、宮城さんのインタビューもたっぷり使ってくれている。
http://www.1tv.ru/news/culture/286911

東洋との縁も深いお国柄なので、オリエンタリズムを越えた評価がなされるきっかけになればよいのだが。


2015年7月1日

『マハーバーラタ』 モスクワ日記(5)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月29日

いよいよ初日。スタッフは今日も9時に劇場集合。俳優は12時のトレーニングから。

いつも楽屋口から入って、薄暗い楽屋で過ごしていたが、はじめて劇場のロビーに出てみると、外光がふんだんに入って、けっこう明るい。かなり広いバルコニーがある。

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劇場の外は噴水があるすてきな公園になっている。笛を吹く牧神。

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このモソヴィエト劇場も、ふだんは俳優のアンサンブルがあるレパートリーシアター。演劇祭の受け入れ担当者アンナさんによれば、モスクワにはこういう劇場が300くらいあるという。世界でも有数の劇場都市。この町の目が肥えたお客さんたちは、どう受けとめてくれるのだろうか。

ロシアの劇場では、よく「劇場美術館」というのがあって、ロビーの一角に劇場の歴史に関する展示がある。

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そして廊下には、これまで劇場に所属していた俳優や上演してきた作品の写真がびっしりと飾られている。

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もちろんチェーホフの作品はどこの劇場でも必ず上演されている。

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このモソヴィエト劇場は1940年から1977年まで、ソ連時代を代表する演出家・俳優の一人、ユーリー・ザヴァツキーが芸術監督を務めていた。ザヴァツキーはスタニスラフスキーの弟子で、ソ連邦人民芸術家や労働英雄の称号を得て、スターリン賞やレーニン賞を受賞している。名前の通り、ソ連を代表する劇場だったと言える。

ザヴァツキー時代のフランスツアーのポスター等々

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昨日の大高さんへのインタビューでスタニスラフスキーやチェーホフについての質問が出たのは、こういう歴史を前提としているわけだ。この劇場で極東の劇団がヒンドゥー教の神話を上演するというのも、モスクワっ子にとってはちょっと複雑な心境なのかも知れない。

モソヴィエト劇場を襲撃する象の群れ。象はスタニスラフスキーシステムでは演じにくいかも。

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18時15分ロビー開場。ビュッフェでコーヒーを飲む方がちらほら。徐々にお客さんが増えてくる。入り口で立っていると、プログラムを売っている女性が、「コンニチワ!私、北海道に行ったことがあるんです。ボリショイ・サーカスで」と話しかけてきてくれた。なんと以前はアクロバットをやっていらしたらしい。一緒に「ドーブルイ・ヴェーチェル(こんばんは)!」とお客さんを迎える。19時開演だが、定時になっても人の流れは全く途切れず。開演は基本10分押しらしい。

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月曜日の夜だが、客席はほぼ埋まっている。演奏隊の俳優が一人登場してくるたびに拍手が起きる。ちょっとおとぎ話的な舞台に、お客さんもはじめはどう反応していいか戸惑っているような印象だったが、猟師がダマヤンティー姫を口説く「Love is touch!」の台詞でどっと受け、あとはどんどんお客さんが乗ってきた。「婿選び式開催記念、ダマヤン・ティー、新発売。フクースナ(おいしいよ)!」と、コサックダンスバージョンになったCMの場面ではかなり盛り上がった。

ロシアのお客さんは打楽器の演奏をかなりじっくり聞いてくれている。お客さんのなかで、スタニスラフスキー的感性とストラヴィンスキー的感性が闘っていたのではないか。最後の場面、ドラムに合わせて手拍子が起こり、演奏が終わった途端に次々と人が立ち上がっていく。ドラムソロへのリスペクトなのか、特に吉見さんへの拍手が大きい。

劇場を去って行くお客さんに「スパスィーバ(ありがとう)!」と声をかけると、多くのお客さんが、笑顔で胸に手を当ながら「スパスィーバ!」と応えてくれる。なんだか去りがたい感じになっているのは、公演がうまくいった証拠だろう。

終演後、国営放送による宮城さんのインタビューがあった。洗濯等を終えて、23時頃退館。


『マハーバーラタ』 モスクワ日記(4)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月28日

今日は夜にゲネ(本番前の通し稽古)。スタッフは今日も9時に劇場集合。よく見ると、楽屋入り口のけっこう高いところに歓迎の言葉が貼ってある。身長差を思い知らされる。

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ロシア人化したダマヤンティー姫。
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照明・音響の調整がつづく。俳優は12時のトレーニングから。

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劇場の地下はラビリンス。至るところに「出口выход」と書いてあるのだが、どこから出ればどこにたどりつくのか、さっぱりわからない。

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今日はプレスが15人くらい。ロシア国営放送等々。

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ゲネ開始前、大高さんのインタビュー。

「どういう気持ちを表現していますか?」
―「私たちは気持ちは表現しません。観ている人が気持ちを感じ取ってくれればいいのです。」
「スタニスラフスキーシステムはご存じですか?」
―「とてもよくできたシステムだと思っていますし、個人的にはとても興味深いけれども、私たちの舞台は様式が強い舞台なので、あまり関係ありません。人間の気持ちではなく、運命を伝えたいと思っています。」
「チェーホフはご存じですか?」
―「チェーホフ、もちろん!」と、露文出身の大高さんがロシア語で答える場面を撮って、インタビュー終了。

今回、このゲネが本番前は唯一の通し稽古となる。駿府城公園でやったばかりとはいえ、だいぶ勝手が違う舞台。今回は床面が真っ白なターポリン(テントなどに使うビニール系の素材)で、これまでの生成りの床と色味もだいぶ異なり、ちょっと幻想的な雰囲気。記者たちがひっきりなしにシャッター音を響かせている。

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俳優等は22時頃退館。衣裳部・制作部は洗濯後、23時頃に退館。


2015年6月29日

『マハーバーラタ』 モスクワ日記(3)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月27日

スタッフは9時に劇場集合。今日は一日雨らしい。蒸し暑かったり、ちょっと涼しかったり。まあ静岡とそれほど変わらない気温なので、過ごしやすい。湿度が高いので、俳優さんの喉にはいいが、打楽器には乾いていた方がいいという。むずかしいところ。

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モソヴィエト劇場は20世紀に作られた劇場だが、19世紀までの西欧の劇場のように馬蹄形の客席で、舞台の両脇にバルコニー席がついていたりする。「台詞を聞く」芝居には悪くないが、客席の構造上、どうしても見切れ席が出てしまう。(公演までは一階客席にシートがかけられています。)

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チケット料金は1500ルーブル~5000ルーブルと、最高で日本円換算12,000円以上になり、けっこう高い。ただ、演劇科の学生は国立劇場なら無料では入れるのだという。どの席からでもきちんと見ていただけるよう、入念に客席をチェック。

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15時サウンドチェック。打楽器の音が響き渡ると、ようやく劇場がマハーバーラタ仕様になったような気がしてくる。場当たりもできた。1000席近い劇場ではあるが、アヴィニョン石切場や駿府城公園に比べると、だいぶコンパクトな空間。とはいえ、ダマヤンティー姫役の美加理さんによれば、リング上舞台では円周100メートルの舞台を一周するところを、今回は客席を回ることになって、「100メートル走が障害物競走に」なり、逆に運動量は増えるかも、とのこと。演奏スペースが変わるので楽器の配置が変わり、演奏する楽器が変わってしまった俳優さんも少なくない。

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22時頃退館。昨日よりちょっと早いが、チェーホフ演劇祭で先月から連日働きづめのモソヴィエト劇場スタッフを休ませるためだという。照明デザインの大迫さんによれば、「照明はまだまだ。明日一日、はじめて使うLEDの調整です」とのこと。明日はいよいよゲネ。


『マハーバーラタ』 モスクワ日記(2)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月26日

8:40ホテルのレセプション集合、9時に小屋入り。

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装置のトラックも無事に到着。屈強なロシアの舞台班が、重い木箱をどんどん運び出してくれる。

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ロシアの劇場では客席の真ん中に大きな通路があるのも普通らしい。なんだかもったいない気もするが、俳優が客席から登場するには絶好の配置ではある。

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早速各班に分かれて作業。アヴィニョンの石切り場と違って、ちゃんとした劇場なので、作業がスムーズ。

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この劇場では昨晩まで伝説的バレエダンサー、シルヴィ・ギエムが踊っていて、楽屋で残り香を探す人も。

▼ こちらはヘアメイク用の楽屋
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今回、上演場所として提案されたのは1923年創立のモソヴィエト劇場(Театр Моссовета)。ソヴィエト連邦が誕生して間もないころに作られた。当初は私設の劇場だったらしいが、のちに「モスクワ市ソヴィエト(評議会)劇場」を意味する現在の名前に改称された。『マハーバーラタ』はアヴィニョン演劇祭でのリング状舞台を完成形として、それ以外の形式ではもう上演しない方針だったが、モスクワでも有数の歴史を誇るこの劇場での上演を熱望され、「プロセニアムバージョン最終上演」として公演することになった。

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作業は順調に進み、俳優は19時前に退館、翌日は午後入りに。スタッフは23時頃退館。


『マハーバーラタ』 モスクワ日記(1)

SPAC文芸部 横山義志
2015年6月25日

午前3時半、芸術劇場前に続々と人が集まってくる。おはようございます!あ、こんばんはかな?等々。東名高速を飛ばしていくなかで、徐々に夜が白んでくる。

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12時成田発。10時間のフライト。

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シベリアを通り過ぎ、ウラル山脈を越えると、見渡す限り平原が広がるなかに、忽然と巨大な街が姿を見せる。人口1200万人。そこから一歩出てしまうと、あの茫漠とした大地が広がっているかと思うと、そこに降り立っていくのがどことなく不安になる。

モスクワへ。なんだか妙な感慨がある。演劇をよくご覧になる方は、チェーホフの『三人姉妹』で、何度となくこの言葉を聞いただろう。姉妹にとってモスクワは、憧れと希望の代名詞だった。

今回『マハーバーラタ』一行が向かっているのは、モスクワで開催されるチェーホフ国際演劇祭。アヴィニョン演劇祭やエディンバラ演劇祭と並んで、ヨーロッパで最も重要な演劇祭の一つである。これまでストレーレル、ピーター・ブルック、ムヌーシュキン、ペーター・シュタイン、マルターラーといった巨匠たちがプログラムを彩ってきた。

去年のアヴィニョン演劇祭で、たまたま劇場で隣の席になったチェーホフ演劇祭のディレクターが、挨拶もそこそこに「宮城さんに会いたい。いつ、どこで会えるだろうか?」と真剣な面持ちで切り出してきたのを思い出す。前の晩に『マハーバーラタ』をご覧になったらしい。それから一年も経たないうちに、モスクワを訪れることになった。

「ただいまの現地時間は、よんじ…ろくじゅっぷんでございます。」ロシア人客室乗務員が澄ました声でシュールなアナウンス。「じゅうろっぷん」と言いたかったらしい。機内でクスクス笑いが起きて、なんだかちょっとホッとする。16:30頃モスクワ着。

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通関の手続きなどに時間がかかり、ホテルに着いたら20時を過ぎていた。スーパーで食料を買い込み、明日以降に備える。24時まで開いているスーパーがあったりして、ロシアもすっかり様変わりした印象。


2015年6月28日

シンポジウム:アングラ演劇は死なず! ―小劇場運動の50年―

4/29に行われましたシンポジウムの要約版です。
ぜひご一読ください!
☆連続シンポジウム、詳細はこちら

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オルタナティブ演劇大学
アングラ演劇は死なず! ―小劇場運動の50年―

◎登壇者
菅孝行(演劇評論家)
中島諒人(演出家・鳥の劇場主宰)
◎司会
大岡淳(演出家・劇作家・批評家/SPAC文芸部)

 2015年4月29日、舞台芸術公園稽古場棟「BOXシアター」でオルタナティブ演劇大学の4回目が開催された。60年代演劇の当事者でもあった評論家・菅孝行氏と、鳥取で地域と連携した活動を続ける演出家・中島諒人氏を迎え、1960年代に起こった演劇運動を振り返った。以下、抜粋である。

■不可避に運動的な場所から
大岡 今回は「小劇場運動の50年」という副題をつけました。演劇が運動であるということを聞いても、ピンと来ない時代になってしまいました。演劇をやること、つまり劇団に参加し、演出家や作家と支え合いながら作品をつくっていくことが、不可避的に、社会性や政治性を帯びて運動にもなる、ということが、今、演劇に携わる人からすると、どうもよくわからないところではないかと、勝手に忖度しています。運動としての演劇という観点から、まずは菅さんに語っていただきたいと思います。
 「アンダーグラウンド」と呼ばれる演劇が実際に世の中に登場したのは、60年代中頃です。担い手となる世代が、既存の演劇に違和感や不満や苛立ちを持つようになったのは、1960年頃です。寺山さんとか蜷川さんとかやや年長の方を別にすると、そのころ20歳ぐらいですね。私は、こだわりがあって「アングラ」といいません。「60年代演劇」と呼ぶことにします。アングラは侮蔑的他称だからということと、そう呼ぶと風俗と見なすことになると思うからです。「60年代演劇」は運動です。
運動って何でしょうか?目の前に、先立って存在している規範とか価値観に疑いを差し挟んで、壊そうとしたり、揺るがそうとしたり、関節を外そうとしたりして行う様々な試みでしょうかね。それはひとつのアクションと別の幾つかのアクションとの衝突から成り立つ。そこには流動的な関係が成立し変動する。ダイナミックな活動形態を伴う批評と言ってもいいかもしれません。何らかの主張がなければ絶対に運動は成立しない。先立つ演劇に対する強い違和感がなければ、別のものを作ろうとは思わない。師匠に弟子入りして一人前になればいい。そういう訳にはゆかないなあ、と感じたのは、私は割と早かったという自信があります。70年代、私は自分で集団を作って活動しましたが、私自身は芸術家としてモノになりませんでした。でも偉そうにしゃべっているのは、そのせいです。 
で、何がおかしいと思ったのか。新劇というのは、ロシアとかドイツとか、西欧を手本にして、歌舞伎などの近代以前からの芸能である「旧劇」に対抗して明治末期から始まった日本の近代演劇ですが、その新劇は、現実の写しを一生懸命やっている。戯曲はそのためのことばで書かれているし、演技も美術も照明も、その戯曲に書かれた言葉を、まるで横のものを縦にするように、舞台の上に写している。芸術としての構築物なのだから、現実から切断されていなければならない筈なのに、時間も空間も設定された世界も、全部現実の写しである戯曲をさらに写すというフレームワークの中に全て入ってしまっている。そのフレームワークこそ新劇の方法だと思った。文学座とか芸術至上主義系のグループもあったですが、主流は、俳優座とか民藝とか新協とか、社会矛盾を衝いて批判することを主題とする左翼的演劇です。社会矛盾は確かにあるし、それには腹立つけれども、演劇として別のやり方はないのか、という苛立ちが強かった。きっと既存の演劇を支えている方法の裏づけている思想、歴史観、哲学、そういうもの全体に対する苛立ちでもあったに違いありません。その全体をひっくり返さないと、新しい演劇は生まれないのではないかという思いが強かったです。
大岡 菅さんのご紹介を補足します。学生時代に演劇をおやりになっていて、卒業されてから、『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』というマニフェストをお書きになりました。俳優座の演出家・千田是也を仮想敵にした激烈な批判です。この時は、「アングラ演劇」「60年代演劇」という言い方はされていない。演劇評論家・扇田昭彦氏から見れば、思想的にアングラを切り開いた画期は、菅さんの『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』ではないかという歴史的評価があります。70年代に入ってから、不連続線という劇団の活動に入っていかれました。現在も演劇批評を、政治や社会の批評と並行してやっておられます。
 『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』を書いたのは62年です。別役実さんの『象』は書かれていましたが、世に知られていない。いわゆる「60年代演劇」はまだ全く表に出てない時期です。『試行』という雑誌に62年の暮れに掲載され、本になったのは67年。撮影所務めをしていたこの5年のうちに、私は運動の場から少し取り残されて、「60年代演劇」の中心的な担い手たちは先を走っていました。
「60年代演劇」は、運動ではあったけれども、必ずしも政治的な演劇をやっていたわけではありません。どちらかと言えば、先行世代の人たちが政治的な演劇をやっていたので、違った方法、というだけでなく違ったテーマ、違った造形を、という意識が強かったのでしょう。政治劇という意味では、黒テントの『ブランキ殺し上海の春』(佐藤信作)は政治劇だと思いますけど、ストレートな政治劇はそんなにたくさんはないんです。
時代とか歴史とかとの関係意識のありかたとしては、日米安保条約改訂と三井三池争議の渦中にあった60年に<目覚め>ちゃったという意味ではもちろん政治と無関係ではない。1960年は、今ではもう夢物語みたいなことですけれども、日米安全保障条約なしで非戦非武装、という社会党の路線がまだリアリティを持っていました。60年の安保条約改訂に対する反対闘争があり、毎日、十何万人が国会を取り囲むような状況でした。演劇で別の選択をしようという決断は、政治での別の選択―それは保守派のした選択と違うという反政府・反体制という意味であると同時に、反体制の主流の立場と違う選択という意味、つまりは広義の「新左翼」という意味―があるのではないか、という直観によって、新しい演劇運動が促されていた面があると思います。
忘れてはいけないのは、三井三池の炭鉱争議です。エネルギー革命で、石炭を石油に切り替えて文明化しよう、と政府も大企業も大々的に近代化へ舵を切った。この動きの中で、野垂れ死にするのを拒む炭鉱労働者の闘争の最後のピークが60年ころです。60年安保闘争のピークが60年6月、三井三池闘争のピークが7月から8月でした。
こうした事態に、意地でも無関心というスタンスを貫こうとしたのが鈴木忠志だったと思います。でもそれは、いわばパラドックスで、鈴木忠志とか別役実とか言った人たちは、共産党系の先輩が制圧していた早稲田大学の自由舞台という学生劇団のリーダーシップをひっくり返して、劇団の理念や演目や流儀を一変させた。別役さんとは、新島のミサイル基地建設反対運動を一緒にやったこともありますし、翌年の1961年、運動は停滞していましたが、政治的暴力取締法反対、とかいって連日小さいけどデモはあるわけですよ。で、国会前に行くと鈴木さんたちに会うんです。リーダーたるもの、劇団活動としてデモの先頭にも立たなくてはならなかったんでしょう。彼は、三島由紀夫や福田恒存や小林秀雄で教養を積んだ人ですから、中心的な問題関心は、当時の政治闘争とは関係ない筈なんだけど、国会前で会うわけです。60年代演劇がその初心において運動だったというのはそういうことだと思ってもらえればいい。一つの立場を選ぶと、そうではない立場とぶつかり合う。そうすることによって自己形成をせざるをえない。そういう渦の中で演劇を始めた。そういう意味で、60年代演劇の原点は、運動的にならざるをえなかった。

■前近代の表象をめぐって
中島 60年代演劇の前史について質問があります。戦後の新劇があって、劇作家・田中千禾夫さんなどもそこにいらっしゃいました。60年代演劇が始まる前の、新劇の側からの60年代前史になる動きとしては、どういうことがあったんですか?
 敗戦直後に書かれた『雲の涯』とか1960年代中ごろの『自由少年』とか、田中千禾夫さんの戯曲は、結果的に、「アングラ」と呼ばれる演劇の方法や問題意識とつながっているところがあると思います。すでに演劇のプロの端くれになっていた若い人たちの中で、新劇の内側から新劇は嫌だと宣言する人たちが出てきた。そういう発想の手掛かりのひとつに千禾夫さんのことばとか方法があったのではないでしょうか。
しかし、前史として一番典型的なのは、青年芸術劇場だと思います。特別劇団員に劇作家の福田善之さん、演出家の観世栄夫さんがおられた。中心メンバーは米倉斉加年、岡村春彦など劇団民藝の養成所三期生です。民藝に決別宣言をして劇団をつくり、試演会をやった後、若き日の福田さんや宮本研さんの作品で劇団活動を始めた。安保闘争のデモは皆勤だった劇団です。新劇主流からは警戒されたし、新劇界の批評家たちの評判は悪かった。運動的にはそこが新劇内反新劇の起点、「60年代演劇」の前史、ないし前史の前史になると思います。福田さんと私の「共作」である『ブルースをうたえ』を上演した自由劇場という、もともと共産党系だった若手の劇団もありました。もう一つ、1960年に寺山修司さんが『血は立ったまま眠っている』を書かれています。これを上演したのが劇団四季です。 
反新劇という意味では、四季の浅利慶太さんのほうが「60年代演劇」より先ですね。三田文学の1955年12月号に「演劇の回復のために」という既成新劇打倒宣言の文章を書かれています。今の劇団四季を見ると、「どこが?」と思われるでしょうけど、出発点は、ラシーヌのアレクサンドランとか、フランスの文語的演劇を規範にして、朗誦的な詩劇を日本の演劇の中につくりたいという目的意識で集まった劇団でした。慶応と東大の学生劇団です。それがリアリズム批判を始めた。私は初期の四季のファンでした。ところが、60年代に四季は化けます。アメリカのブロードウェイ・ミュージカルを基軸にする訳です。60年代の四季はもう表現者としては敵だなという感じですが、50年代に劇団四季と浅利さんの果たした役割は大きいし、何らかの意味で、60年代演劇の導きの糸になっているところがあるかもしれないと思います。ほかにも個別に見れば、劇作家の秋元松代さんとか色々いますね。私は、代表人格としての千田是也さんを標的に新劇に喧嘩を売ったんですが、新劇の中では、実は千田さんが一番、戦後新劇の矮小なリアリズムではダメだということをわかっていた人だったんだと、恥ずかしながら後になってわかった。
大岡 千田さんは、本当はメイエルホリド(ソ連の俳優、演出家。スタニスラフスキーの写実主義に対抗し様式性や身体性を重視した)のこともよくわかっていたし、ブレヒト(ドイツの劇作家。「感動」より「思考」を促す演劇を志向した)のことも日本で一番早く注目した人だった。浅利慶太の場合、スタニスラフスキー(ソ連の演出家。モスクワ芸術座を設立。リアリズムの旗手であり、その方法論は世界中に広まる)以来の系譜が日本の新劇の主流になったことに対する反発があるわけですよね。フランス古典からさらにさかのぼって古代ギリシアという西洋演劇の正統に行く。オーソドキシーはむしろこっちなんだと主張したわけですね。
 フランスの劇作家ジャン・アヌイが占領下のパリで『アンチゴーヌ』を上演した。ソフォクレスを翻案した芝居です。これにサルトルが「沈黙の共和国」で言及した。ナチスへの抵抗劇だとして広く感動を呼んだという事実もあって、浅利さんたちの共感はそれとも無縁ではなかったわけです。
大岡 前近代的な表象を取り入れるという意味では、劇作家・木下順二の民話劇も、アングラの前史ということになるかもしれません。
 木下順二さんはなかなかものだと私も思いますけど、同時代の風潮からすると、反米愛国を唱えていた共産党の文化論の中に日本の伝統の再発見というテーマがあるんです。反米愛国闘争には、民族の伝統から財産を掘り起こさなければいけないという考え方です。
大岡 木下順二の場合、戦前から民話研究をやっていましたしね。
 ええ。ご本人には別のコンテクストがあった。でも『夕鶴』が大評判になって労演(全国に組織された勤労者演劇協議会の略称。現在の演鑑の前身。)などでどんどん上演される時は、木下さんの意思とは無縁に共産党の文化運動を木下さんの作品が担った、というよじれがあったと思います。日本的な近代に対して疑いを投げかける民話劇を作ったという歴史的な意義はあると思いますけど、同世代の感覚からすれば、どっちかというとあっち側の人という感じでした。尤も、福田善之さんの師匠だという認識はありましたが・・・。
中島 前近代的な姿。土方巽さん(舞踏家。暗黒舞踏の創始者。60年代演劇に多大な影響を与える)もそうですが、ああいったものが、当時、どういう風に捉えられていたのか興味があります。例えば、「演劇を民衆のものに」といった時に、木下順二さんの文脈の中で民話劇が出てくるのはわかるのですが、でも、前衛的な感覚で言えば、否定すべきものでもあるわけじゃないですか。土方さんが東北に根差して、「俺の子どもの頃はこんな風だったんだよ」と言った時に、身体、衣装などに前近代的なあり方が出てくることに関しては異議を差し挟む余地はないんだけれども、色んな形で、貧しい農村の貧しい身体のありようが出てくると。そういうことが、確かに反近代になる、戦後の教条的な民主主義への反発になるということはわかるけれども、だからと言って、そこに行くのかという違和感はなかったですか?
 もう少し話は複雑だという気がします。農民の貧しい身体というのだけれど、日常性に穴をあける衝撃的異形であれば、土方さんは何でもよかったんではないですか。そうであれば運動になる。寺山修司さんは津軽に強いこだわりがありますが、本質はウルトラモダニストだよね。絶対に前近代が好きな人ではないですよ。フレームワークとして定着した日本的近代の<制度>を壊そうとしたときに、ウルトラ近代へ行こうというエネルギーと、後ろ側へ戻ろうというエネルギーと、彼の中で綱引きしている。鈴木忠志さんは、前近代的なイメージを喚起してジャーナリスティックに話題を呼んだけれども、あの人の頭の中にあるのは前近代ではない。確かに世阿弥が彼の理論にも入り込んでいるけれど、前近代回帰なんて考えてないでしょう?「60年代演劇」という運動は、到達しえていない別の近代と、失われてしまった近代以前と、両方の幻想や表徴に依拠することによって、今ここにある制度的な感性や制度を打ち破りたいと考えただけのことではないかと思います。

■持続の方法を見つける
中島 アングラ演劇を社会運動として見た場合、なかなか捉えようが難しくて、いかんせん、東京一極集中だったという問題点があると思うんです。大学進学率が昭和40年代頃からもの凄い勢いで上がっていき、都市に大学生という若者が出てくる。歴史的に振り返っても、新しい社会層が、新しい自由を手に入れた時に、その自由をどう扱うかという中で、おもしろい演劇が生まれてくることがあると思います。60年代では、自由でそれなりにお金もある学生たちを前提にしながら、そういう人たちが層をなし得たのは、事実上、東京という場所しかなかった。アングラ演劇はそういう場所の運動で、しかも敵を見つける時は結集しやすいけれども、多くの社会運動がそうであるように、敵がいなくなった時、急に先が見えずに収縮していく。社会運動として激しさはあったんだけれども、その先に対して影響を与えることができなかったのではないかと思います。私は鳥取で活動していて、2006年に始めた頃に、先行世代はなんて仕事をしなかったんだろうかと思いました。こんなに仕事をしないって、先行世代、どういうことだ? と。要するに、60年代演劇は東京一極集中だから地方では何もできなかった。一方で、地方で活動していたのは、労演などの演劇鑑賞会の人たち。つまり新劇系の人たちが地方でネットワークをつくってやっていたんだけれども、本当の意味で演劇をおもしろいと思い、それを通じて人間や社会が変わっていく可能性を提示することがほぼできていない。所詮、演劇は一部の愛好家のものという状況をつくることしかできていなかった。わかってはいたけれども、あらためて愕然としたところがあります。それを思うのは、鈴木忠志さんの活動が参照項としてあったからです。唯一、鈴木さんの活動が、富山県の利賀村という場所で集団を維持し、継続的に社会とコミュニケーションをしている。事実上、そういう活動は利賀村しかなかったのではないかと。私自身も、鈴木さんの前例がなければ、鳥取での活動を考えなかっただろうし、あるいは、受け入れる側も、ちょっと変わったコミューンだろうくらいの受け入れ方で、意味合いをわかってくれる人はいなかったのではないかと思います。社会には、演劇は趣味にすぎないという感覚しかなかった。タレントになることが演劇の社会化なんだろうと揶揄されるくらいのものです。劇場人として演劇人として専門家としての俳優や舞台技術者のありようが全くつくられてこなかったことが、アングラ演劇の活動を捉える上で、私としては非常に残念に感じました。
 「60年代演劇」の最大の欠陥は、維新派とか例外はあるけれど、ほぼ東京地域限定だったことです。当然それは歴史的な制約なんですが、皮肉なのは、新劇も、観客組織のレベルで言うと全国に広がっているけれども、地域のそこここに表現者が立ち上がってくるという風にならなかった。そういう意味ではやっぱり東京中心の流儀なんですよ。共通のマイナス要素を抱えている。鈴木忠志さんから聞いた話なんですが、亡くなった演出家の渡辺浩子さん(劇団民藝に所属し、後に新国立劇場の演劇部門初代芸術監督となる)は鈴木さんの自由舞台の先輩に当たりますが、鈴木さんたちがプロとして劇団を始めようとした時、渡辺さんが鈴木さんたちに「あなた方はよき観客になりなさい」と説教したらしい。
大岡 渡辺さんは、その頃、もう民藝にいらした?
 若手演出家として『ゴドーを待ちながら』を民藝で演出する前後でしょうね。「観客になりなさい」というのは労演の組織化と絡めて言っているわけでしょう。新劇もそれなりに運動として頑張っていたんだけど、未来世代を観客にする、地方も観客にする、表現者は自分たちだという特権意識は抜けない。じゃあ「60年代演劇」にそれに替るものがあったか。黒テントの全盛期は、かなりの全国展開の組織力を示したけれど、彼らの公有地闘争も頓挫する。新劇へのアンチで突出した時は滅茶苦茶エネルギーがあった。でも、利賀と静岡を拠点に出来た鈴木忠志を除いて、皆、継続的な組織力はないんです。
「60年代演劇」も始まりの時から50年以上経ちますから、なるべく客観化して考えないといけない。最大のマイナスは東京にしか根づけなかったことでしょう。芸術表現で言うと、演劇が運動であるならば、己は何者かという眼差しを己の外に作り出して、表象しなくてはいけない。つまり他者を表象しなくてはいけない。しかし、「60年代演劇」は、観客に向かって「俺はお化けだぞ」「俺は他者だぞ」って脅して歩いたけれども、「俺たちにとってのお化けとは何か」を、つまり、他者を表象できなかった。これはほとんど演劇評論家の佐伯隆幸さんの我流の受け売りです。そこが大きな限界だった。評論家の武井昭夫さんに「運動的でない」と批判される眼目は、別に労演みたいな組織を作らなかったことではなくて、そこだったんじゃないですか。
中島 それは非常によくわかります。日本だと制度がない。周りを威嚇することでしか自分を守れないという状態にどうしてもなっちゃうんです。この間、SPAC芸術総監督の宮城さんがおっしゃってたんですが、表現は、凄く不安で孤独なことで、自分だけが社会の中の居場所を持てないと感じる。ぼくなんかも居場所がないとか特殊なことをしているといった、変な自意識でもあると思いますが、そう思っちゃうところがあるんです。そういう時に、日本だと、河原者だと居直るか、高等な芸術だと言い張るか、両極端に触れるしか、自分の守り方がないという状況が続いてしまった。
 近代主義でやると高級な知的芸術。打倒する側は河原者を演じる。
中島 そこのところで、集団性を持続できたかどうかが、うまく社会に対する回路をひらいていくために重要だったという面があるのではないかと思います。
 運動としてはそうでしょうね。さっき、「俺はお化けだぞ」って脅したと言いましたが、怖い「お化け」はいっぱいつくったよね。麿赤兒(俳優、舞踏家。唐十郎の状況劇場に参加の後、舞踏集団大駱駝艦を主宰)だって怖かったし、四谷シモン(人形作家。状況劇場に参加)だって大久保鷹(状況劇場の俳優)だって怖かった。唐十郎(劇作家、俳優、演出家。状況劇場を主宰)も白石加代子(女優。鈴木忠志の早稲田小劇場に参加)も怖かった。そういう表象が持つ運動的な意味は絶対あったと思うんだけど、<異形>の意味を開いて通じさせないと運動としてはまずかったんじゃないか。いくつかの例外を除くと、うまくいかなかったという気が、つくづくします。芸術性のレベルでそうだったということと、運動論、組織論のレベルとパラレルな感じがします。

2015年4月29日 舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」にて
構成:西川泰功


2015年6月25日

<萌目線。vol.121>モスクワへ、モスクワへ!!

Filed under: 萌目線。

間も無く『マハーバーラタ』チーム、ロシアはモスクワへと出発いたします!!

チェーホフ国際演劇祭にて、最後のプロセニアムバージョン公演です。

昨日まで芸術劇場に組まれた仮舞台装置で稽古してきましたが、
この光景を見るのはもうこれで最後。
歴史のある作品だからこそ、丁寧に大切に、でも思いっきり花咲くように!やってきたいと思います。

今のロシアの方々の目に、この作品はどんなふうに映るのでしょうか。
モソヴィエト劇場の舞台で、この作品はどんな進化を遂げるのでしょうか。

楽しみで仕方ない反面、改めて気を引き締めていこうと思う出発前夜であります…!!

小道具や楽器や衣裳から、スタッフさんが使われる機材や工具なども、ツアーメンバーみんなでしっかりパッキングしました。
何日も前から少しずつ用意してきたので…準備は万端なはず!!

現地の様子もお届けしたいと思っておりますので、みなさまよかったらまたこちらのブログチェックお願いします!!

☆モスクワ公演の詳細はこちら


2015年6月19日

【『舞台は夢』新人日記】​ ​vol.​2​:​フィスバックさん、静岡大学に登場!<後編>「演劇祭は何の役に立つか」

皆様こんにちは!制作部の塚本です。
前回のブログでは、フィスバックさんが5月27日に静岡大学で行った講義のレポートとして、主にフィスバックさんと『舞台は夢』を紹介させていただきました。
今回の<後編>では、この授業のテーマである「演劇祭は何の役に立つか」という問いに迫ります!(講師:SPAC文芸部・横山義志)
 

 
話はまずフランスのアヴィニョン演劇祭の紹介から始まりました。
世界最大の演劇祭であるアヴィニョンで、フィスバックさんは過去に何度も作品を上演しており、また俳優としても他の演出家の作品に出演しています。
そして何を隠そう、SPACも2014年に公式プログラムとして招かれて『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜』『室内』の二演目を上演しています。
『マハーバーラタ』は崖に囲まれたブルボン石切場という空間に巨大な円形の舞台を出現させました。今年の野外芸術フェスタの、駿府城公園での上演で同じ舞台セットをご覧になった方も多いかもしれませんね。

アヴィニョン演劇祭には毎年、約9万人もの人々がつめかけます。
上演プログラムは「イン」(演劇祭が招聘する公式プログラム、約40作品)と「オフ」(自主参加による上演)に分かれており、オフではなんと1000以上の演目が上演されます。
劇場では実現することの難しい、4~5時間程の長い作品でも上演できるのがアヴィニョン演劇祭の「お祭り」的な雰囲気の魅力の一つだとフィスバックさんは言います。

アヴィニョン演劇祭にはさらに規格外の作品もあります。
1996年にフィスバックさんは俳優として『わたしの竜よ、飛べ』という作品に参加したそうですが、なんとその上演時間は9時間。お客さんも途中で眠ったり起きたり…、終わった頃には俳優と観客が抱き合いたいような気分になるそうです。フィスバックさんはその時の感覚を徹夜したときの感覚に喩えていました。
徹夜して真夜中まで起きているときって、なんだか普段の自分とは違う気がしませんか?感受性がものすごく研ぎ澄まされたような…。フィスバックさんはそれを「魔術的体験」、「夢を分かちあう時間」と呼びます。そうした体験ができるのが、演劇祭の大きな魅力の一つなんですね。

ちなみに2014年のアヴィニョン演劇祭では『ヘンリー6世』という作品が上演されましたが、その上演時間を聞いて驚くなかれ…なんと18時間です!!
演劇ファンでも少し腰が引けてしまうかもしれませんね。でもちょっと、観てみたい…。

そんなアヴィニョン演劇祭ですが、始まりは第二次世界大戦後の1947年。ジャン・ヴィラールという演出家が、アヴィニョンの教皇庁の前庭で野外演劇を行うよう要請されたのがきっかけでした。当初は「アヴィニョン芸術週間」という名前で、ダンスや絵画の展覧会も盛んだったといいます。

フィスバックさんによれば、開催当初から変わらないアヴィニョン演劇祭の目的は大きく分けて2つ。

●脱中心化(地方分散化)=すべてのフランス市民が芸術にアクセスできること
●芸術というものを通じて、人々が「自らを教育する」ことが可能になること

当時のフランスは、演劇といえばパリの劇場でしか上演されないことがほとんどでした。『舞台は夢』の作者であるコルネイユの作品も、パリでしか観られなかったと言います。
そこで、フランスの南、アヴィニョンで行われる演劇祭は、パリ以外の場所に文化を届けようという地方分散化の最初の大きな動きとなりました。
それにしても、文化の一極集中という状況、ちょっと日本と似ていませんか…?

そして二つ目の「芸術を通じて人々が自らを教育する」。
これって、どういうことでしょう?
ハテナが浮かんだところに、講義を受けている学生さんからフィスバックさんに質問がありました。

「フランスでは、芸術=教育なんですか?」

なるほど、確かに日本では芸術というと教育よりも娯楽に近いものとして受け取られているかもしれません。
フィスバックさんはこのように答えます。

「教育を受けるということは、他者(自分と違う存在)が存在することを受け入れるということ」

アヴィニョン演劇祭が始まる前の第二次世界大戦で、各国は大きな被害を受けました。
そのような経験によって、フランスではフィスバックさんのいう「他者を受け入れる」ための教育が重視されるようになったのかもしれません。
つまり、自分とは生まれも育ちも文化的背景も異なる他者を恐れず、どちらが良いとか悪いとかではなく、純粋に「違う」ということを理解することです。
そしてそのような教育のためには、学校教育だけでなく、芸術が大きな意味をもつと考えられたのでしょう。

アヴィニョン演劇祭には外国の作品も多く招聘されています。
それによって、人々は「いま、海外では何が起きているのか」を知ることができます。
グローバル化が進んだ現代では、世界中の情報が簡単に手に入るようになりましたが、本当に外国のことを知るためには、その国の芸術を自分の目で見て、肌で感じることが大事なのかもしれませんね。

フィスバックさんは続けます。
「演劇は旅に似ています。登場人物に感情移入したり、風景をイメージすることでできる、内面的な旅です。それは日常生活の中ではできない旅です。そしてそのような旅の中で、人々は自分の人生においてどう生きるかということを考えます。優れた芸術作品に出会うということは、自分の人生の意義について考えることなのです・・・」。

さて、この講義を受けた学生さんたちは何を考えたでしょうか。

私自身は、演劇に対する自分の認識が大きく変わりました。今までよりもっと、作品のもつパワーが体に染み込んでくるような…そんな感じがしています。
このブログを読んでくださった方にも、「演劇祭はなんの役に立つか」という問いを通じて、フィスバックさんの言葉を届けることができていたら幸いです。

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​9~10月 SPAC新作
『舞台は夢』
演出: フレデリック・フィスバック
出演: SPAC
静岡芸術劇場
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2015年6月7日

【『舞台は夢』新人日記】​ ​vol.​2​:​フィスバックさん、静岡大学に登場!<前編>

こんにちは、制作部新人の塚本です。

前回ブログ​では演出部・守山から、『舞台は夢』の稽古模様を報告させていただきました。

演出家フレデリック・フィスバックさんの頭の中にあるイメージを、SPACの俳優たちがいかに形にして表現していくか、そしてお互いのイメージにずれがあれば、それをどう擦り合わせていくか…
悩みながら、楽しみながら稽古の続くそんな日々の中、5/27にフィスバックさんが特別ゲストとして静岡大学の授業に登場しました!

授業のテーマはズバリ、「演劇祭は何の役に立つか」。

うーむ。私たちSPACのスタッフにとって演劇はすでに身近な、なくてはならないものになっていますが、そうでない方、「演劇なんてみたことないよ」という方にも演劇に接していただくためには、これはじっくりと考えなくてはいけないテーマなのです…。
授業を受けている学生の方々も、SPACに何度も足を運んでくださっている演劇ファン。周囲の友達や家族に演劇の魅力を伝えようとするとき、きっと頭に浮かぶテーマなのではないでしょうか。

演出家として、まさに演劇に「人生を賭けている」フィスバックさんなら、きっとひとつの答えを与えてくれるにちがいない。ワクワクした雰囲気の中、授業が始まりました。

まずは講師であるSPAC文芸部の横山からフィスバックさんの紹介。

普段は温和でとても話しやすいフィスバックさんですが、演出家としての経歴は超ド級。フランスで行われている世界最大の演劇祭、アヴィニョン演劇祭では何度も公式プログラムとして作品を発表し、時に俳優としても出演。2007年には演劇祭のメインアーティスト(提携アーティスト)として二つの大作を発表し、他の招聘作品の選択にも関わっています。

ちなみに今回SPACで上演する『舞台は夢』​。
​フィスバックさんは2004年にも上演しているのですが、その時は​​140公演を越える記録的なロングラン・ヒット​​だったそうです。映画ならともかく、俳優さんたちが毎回生で演技をすることを考えると、なんともびっくりです…。

そしてフィスバックさんから『舞台は夢』の紹介。

作者・コルネイユが『舞台は夢』(原題は“L’illusion Comique”​/「演劇の幻想」の意味)を書いた17世紀は、フランスの古典劇と言われる作品群が書かれはじめた頃だそうです。

古典劇というと、難しそうで、学問的、というイメージがありますが、フィスバックさんによれば、『舞台は夢』はむしろ古典劇の前、バロック時代の作品に近いそうです。

​​バロック演劇の特徴とはなにか?それは「祝祭的、民衆的」ということだそうです。平たく言えば、「お祭りみたいで、誰がみても楽しい!」ということですね。

そして『舞台は夢』のもう一つの特徴、それは、「演劇を見ている観客」について書いた作品である、ということ。

改めてあらすじを簡単に紹介すると、「行方不明の息子を案じた父親が魔術師に頼んで、現在の息子の姿を幻影として見せてもらう」というお話です。すると息子の人生はやたらに波乱万丈である、なんだか変な人物がたくさん出てくる、これはどういうわけだ、となるわけですが、実は息子は俳優になっていたのです。つまり、父親は息子の出演している演劇を見せられていたわけで、それを私たちは劇中劇としてみることになります。

フィスバックさんによれば、『舞台は夢』の父親は、「息子の演劇の中に自分と息子の関係性を見い出して、それを観客として客観的にみることで救われる」のだそうです。

…なんだかややこしくなってきました。

でもつまり、私たちが『舞台は夢』を観るということは、息子の芝居を見る父親の姿を通して、私たち自身の姿を観る、ということなんですね。それでは、このお芝居を観ることで私たちはどんな風に救われるのでしょうか…それは劇場でのお楽しみです。

さて、まだまだある『舞台は夢』の魅力、いくつか紹介していきます。

​​●​若者が自分を解放する物語!

主人公のクランドールは家出をして父親から逃れ、そして俳優になっていたわけですが、いつの時代も若者が「自己実現」するためには一度、居心地のよい環境から脱出する必要があるんですね。

​​●キャラクターが面白い!

コルネイユは若い人物、特に若い女性を描くのがうまかったそうです。まだまだ男性優位の意識が強かったこの時代に、コルネイユは登場人物のリーズというキャラクターを通じて、自分を主張していく芯のある女性を描きました。

それから私個人も大好きなマタモールというキャラクター。いくつもの国を制覇したとか、女性にモテすぎて大変だとか、いつも大ホラばかり吹いているのですが、決して悪い人物ではなく、どこか憎めないお笑い担当です。でも実は「嘘を通じてしか生きられない」というちょっと哀しい側面も見え隠れしたり…

ここには紹介しきれないほど、『舞台は夢』にはさまざまな要素がてんこもり。フィスバックさんは「劇場でお客が体験しうる、あらゆる感情を体験できる作品だ」と言っていました。うーん、公開が待ちきれないですね。皆さんもぜひ、劇場で自分だけの『舞台は夢』の魅力を見つけてくださいね!

<フィスバックさん静岡大学に登場!>後編ではフランスのアヴィニョン演劇祭を例に、いよいよ「演劇祭はなんの役に立つのか」というテーマに迫ります!

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​9~10月 SPAC新作
『舞台は夢』
演出: フレデリック・フィスバック
出演: SPAC
静岡芸術劇場
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