2015年6月19日

【『舞台は夢』新人日記】​ ​vol.​2​:​フィスバックさん、静岡大学に登場!<後編>「演劇祭は何の役に立つか」

皆様こんにちは!制作部の塚本です。
前回のブログでは、フィスバックさんが5月27日に静岡大学で行った講義のレポートとして、主にフィスバックさんと『舞台は夢』を紹介させていただきました。
今回の<後編>では、この授業のテーマである「演劇祭は何の役に立つか」という問いに迫ります!(講師:SPAC文芸部・横山義志)
 

 
話はまずフランスのアヴィニョン演劇祭の紹介から始まりました。
世界最大の演劇祭であるアヴィニョンで、フィスバックさんは過去に何度も作品を上演しており、また俳優としても他の演出家の作品に出演しています。
そして何を隠そう、SPACも2014年に公式プログラムとして招かれて『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜』『室内』の二演目を上演しています。
『マハーバーラタ』は崖に囲まれたブルボン石切場という空間に巨大な円形の舞台を出現させました。今年の野外芸術フェスタの、駿府城公園での上演で同じ舞台セットをご覧になった方も多いかもしれませんね。

アヴィニョン演劇祭には毎年、約9万人もの人々がつめかけます。
上演プログラムは「イン」(演劇祭が招聘する公式プログラム、約40作品)と「オフ」(自主参加による上演)に分かれており、オフではなんと1000以上の演目が上演されます。
劇場では実現することの難しい、4~5時間程の長い作品でも上演できるのがアヴィニョン演劇祭の「お祭り」的な雰囲気の魅力の一つだとフィスバックさんは言います。

アヴィニョン演劇祭にはさらに規格外の作品もあります。
1996年にフィスバックさんは俳優として『わたしの竜よ、飛べ』という作品に参加したそうですが、なんとその上演時間は9時間。お客さんも途中で眠ったり起きたり…、終わった頃には俳優と観客が抱き合いたいような気分になるそうです。フィスバックさんはその時の感覚を徹夜したときの感覚に喩えていました。
徹夜して真夜中まで起きているときって、なんだか普段の自分とは違う気がしませんか?感受性がものすごく研ぎ澄まされたような…。フィスバックさんはそれを「魔術的体験」、「夢を分かちあう時間」と呼びます。そうした体験ができるのが、演劇祭の大きな魅力の一つなんですね。

ちなみに2014年のアヴィニョン演劇祭では『ヘンリー6世』という作品が上演されましたが、その上演時間を聞いて驚くなかれ…なんと18時間です!!
演劇ファンでも少し腰が引けてしまうかもしれませんね。でもちょっと、観てみたい…。

そんなアヴィニョン演劇祭ですが、始まりは第二次世界大戦後の1947年。ジャン・ヴィラールという演出家が、アヴィニョンの教皇庁の前庭で野外演劇を行うよう要請されたのがきっかけでした。当初は「アヴィニョン芸術週間」という名前で、ダンスや絵画の展覧会も盛んだったといいます。

フィスバックさんによれば、開催当初から変わらないアヴィニョン演劇祭の目的は大きく分けて2つ。

●脱中心化(地方分散化)=すべてのフランス市民が芸術にアクセスできること
●芸術というものを通じて、人々が「自らを教育する」ことが可能になること

当時のフランスは、演劇といえばパリの劇場でしか上演されないことがほとんどでした。『舞台は夢』の作者であるコルネイユの作品も、パリでしか観られなかったと言います。
そこで、フランスの南、アヴィニョンで行われる演劇祭は、パリ以外の場所に文化を届けようという地方分散化の最初の大きな動きとなりました。
それにしても、文化の一極集中という状況、ちょっと日本と似ていませんか…?

そして二つ目の「芸術を通じて人々が自らを教育する」。
これって、どういうことでしょう?
ハテナが浮かんだところに、講義を受けている学生さんからフィスバックさんに質問がありました。

「フランスでは、芸術=教育なんですか?」

なるほど、確かに日本では芸術というと教育よりも娯楽に近いものとして受け取られているかもしれません。
フィスバックさんはこのように答えます。

「教育を受けるということは、他者(自分と違う存在)が存在することを受け入れるということ」

アヴィニョン演劇祭が始まる前の第二次世界大戦で、各国は大きな被害を受けました。
そのような経験によって、フランスではフィスバックさんのいう「他者を受け入れる」ための教育が重視されるようになったのかもしれません。
つまり、自分とは生まれも育ちも文化的背景も異なる他者を恐れず、どちらが良いとか悪いとかではなく、純粋に「違う」ということを理解することです。
そしてそのような教育のためには、学校教育だけでなく、芸術が大きな意味をもつと考えられたのでしょう。

アヴィニョン演劇祭には外国の作品も多く招聘されています。
それによって、人々は「いま、海外では何が起きているのか」を知ることができます。
グローバル化が進んだ現代では、世界中の情報が簡単に手に入るようになりましたが、本当に外国のことを知るためには、その国の芸術を自分の目で見て、肌で感じることが大事なのかもしれませんね。

フィスバックさんは続けます。
「演劇は旅に似ています。登場人物に感情移入したり、風景をイメージすることでできる、内面的な旅です。それは日常生活の中ではできない旅です。そしてそのような旅の中で、人々は自分の人生においてどう生きるかということを考えます。優れた芸術作品に出会うということは、自分の人生の意義について考えることなのです・・・」。

さて、この講義を受けた学生さんたちは何を考えたでしょうか。

私自身は、演劇に対する自分の認識が大きく変わりました。今までよりもっと、作品のもつパワーが体に染み込んでくるような…そんな感じがしています。
このブログを読んでくださった方にも、「演劇祭はなんの役に立つか」という問いを通じて、フィスバックさんの言葉を届けることができていたら幸いです。

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​9~10月 SPAC新作
『舞台は夢』
演出: フレデリック・フィスバック
出演: SPAC
静岡芸術劇場
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2015年6月7日

【『舞台は夢』新人日記】​ ​vol.​2​:​フィスバックさん、静岡大学に登場!<前編>

こんにちは、制作部新人の塚本です。

前回ブログ​では演出部・守山から、『舞台は夢』の稽古模様を報告させていただきました。

演出家フレデリック・フィスバックさんの頭の中にあるイメージを、SPACの俳優たちがいかに形にして表現していくか、そしてお互いのイメージにずれがあれば、それをどう擦り合わせていくか…
悩みながら、楽しみながら稽古の続くそんな日々の中、5/27にフィスバックさんが特別ゲストとして静岡大学の授業に登場しました!

授業のテーマはズバリ、「演劇祭は何の役に立つか」。

うーむ。私たちSPACのスタッフにとって演劇はすでに身近な、なくてはならないものになっていますが、そうでない方、「演劇なんてみたことないよ」という方にも演劇に接していただくためには、これはじっくりと考えなくてはいけないテーマなのです…。
授業を受けている学生の方々も、SPACに何度も足を運んでくださっている演劇ファン。周囲の友達や家族に演劇の魅力を伝えようとするとき、きっと頭に浮かぶテーマなのではないでしょうか。

演出家として、まさに演劇に「人生を賭けている」フィスバックさんなら、きっとひとつの答えを与えてくれるにちがいない。ワクワクした雰囲気の中、授業が始まりました。

まずは講師であるSPAC文芸部の横山からフィスバックさんの紹介。

普段は温和でとても話しやすいフィスバックさんですが、演出家としての経歴は超ド級。フランスで行われている世界最大の演劇祭、アヴィニョン演劇祭では何度も公式プログラムとして作品を発表し、時に俳優としても出演。2007年には演劇祭のメインアーティスト(提携アーティスト)として二つの大作を発表し、他の招聘作品の選択にも関わっています。

ちなみに今回SPACで上演する『舞台は夢』​。
​フィスバックさんは2004年にも上演しているのですが、その時は​​140公演を越える記録的なロングラン・ヒット​​だったそうです。映画ならともかく、俳優さんたちが毎回生で演技をすることを考えると、なんともびっくりです…。

そしてフィスバックさんから『舞台は夢』の紹介。

作者・コルネイユが『舞台は夢』(原題は“L’illusion Comique”​/「演劇の幻想」の意味)を書いた17世紀は、フランスの古典劇と言われる作品群が書かれはじめた頃だそうです。

古典劇というと、難しそうで、学問的、というイメージがありますが、フィスバックさんによれば、『舞台は夢』はむしろ古典劇の前、バロック時代の作品に近いそうです。

​​バロック演劇の特徴とはなにか?それは「祝祭的、民衆的」ということだそうです。平たく言えば、「お祭りみたいで、誰がみても楽しい!」ということですね。

そして『舞台は夢』のもう一つの特徴、それは、「演劇を見ている観客」について書いた作品である、ということ。

改めてあらすじを簡単に紹介すると、「行方不明の息子を案じた父親が魔術師に頼んで、現在の息子の姿を幻影として見せてもらう」というお話です。すると息子の人生はやたらに波乱万丈である、なんだか変な人物がたくさん出てくる、これはどういうわけだ、となるわけですが、実は息子は俳優になっていたのです。つまり、父親は息子の出演している演劇を見せられていたわけで、それを私たちは劇中劇としてみることになります。

フィスバックさんによれば、『舞台は夢』の父親は、「息子の演劇の中に自分と息子の関係性を見い出して、それを観客として客観的にみることで救われる」のだそうです。

…なんだかややこしくなってきました。

でもつまり、私たちが『舞台は夢』を観るということは、息子の芝居を見る父親の姿を通して、私たち自身の姿を観る、ということなんですね。それでは、このお芝居を観ることで私たちはどんな風に救われるのでしょうか…それは劇場でのお楽しみです。

さて、まだまだある『舞台は夢』の魅力、いくつか紹介していきます。

​​●​若者が自分を解放する物語!

主人公のクランドールは家出をして父親から逃れ、そして俳優になっていたわけですが、いつの時代も若者が「自己実現」するためには一度、居心地のよい環境から脱出する必要があるんですね。

​​●キャラクターが面白い!

コルネイユは若い人物、特に若い女性を描くのがうまかったそうです。まだまだ男性優位の意識が強かったこの時代に、コルネイユは登場人物のリーズというキャラクターを通じて、自分を主張していく芯のある女性を描きました。

それから私個人も大好きなマタモールというキャラクター。いくつもの国を制覇したとか、女性にモテすぎて大変だとか、いつも大ホラばかり吹いているのですが、決して悪い人物ではなく、どこか憎めないお笑い担当です。でも実は「嘘を通じてしか生きられない」というちょっと哀しい側面も見え隠れしたり…

ここには紹介しきれないほど、『舞台は夢』にはさまざまな要素がてんこもり。フィスバックさんは「劇場でお客が体験しうる、あらゆる感情を体験できる作品だ」と言っていました。うーん、公開が待ちきれないですね。皆さんもぜひ、劇場で自分だけの『舞台は夢』の魅力を見つけてくださいね!

<フィスバックさん静岡大学に登場!>後編ではフランスのアヴィニョン演劇祭を例に、いよいよ「演劇祭はなんの役に立つのか」というテーマに迫ります!

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​9~10月 SPAC新作
『舞台は夢』
演出: フレデリック・フィスバック
出演: SPAC
静岡芸術劇場
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◆『夜叉ヶ池』ブログ2◆ 新人、妖怪に出会う

制作部新人の林です。
『夜叉ヶ池』静岡芸術劇場公演は無事に終了いたしました!
お越しくださいました皆様どうもありがとうございます!

そして、このまま掛川市文化会館シオーネでの公演に突入します。
6/10(水)、12(金)の公演は一般の方もご覧頂ける回がございます。
お待ちしております!
 
 
『夜叉ヶ池』の原作者、「泉鏡花」さんが紡ぎだす言葉ですが、
演出の宮城聰さんが、言葉の一行一行が試験管のように見えるとおっしゃっていました。
一本は微生物がいてふわふわ浮いている姿が見えるようだったり、一本は化学反応をおこして美しい色であったり、すべてをないがしろにすることができないほどにすべての行が美しいので、なかなかスピード感を出すのがむつかしいと言われていたのが印象的です。

言葉ひとつひとつが、現代に生きる私には、最初はちょっとむずむずするような言葉たちだなと思いました。
しかし、回を重ねてみるうちに引き込まれ、泉鏡花の紡ぐ言葉は、「言葉」であり空気であり、地でもあり、なんだかすべてのものとつながっているようで美しいのだと思うようになりました。

真っ直ぐで美しい生き方をしている人たちと、自分の欲望を善良な他人に押し付ける人の醜さも同時にみられ心がとげとげしてしまう場面もあります。
妖怪の抱くなかなかむくわれない恋心、からっとあかるいシーンや切なくなるラストまで俳優、舞台、演出が絡みあい見ごたえある舞台が続きます。

現代と同じだな、と思う部分と、ちょっと現代では感じられないような思いが心をくすぐります。泉鏡花が生きていた現代と、私たちが今生きているこの現代を比べながら、楽しんでいただければと思います。
 
 
★「夜叉ヶ池」はこちらの会場で見れます↓↓★

【中高生観賞事業公演げきとも!掛川シオーネ公演】好評発売中です!

◆掛川市文化会館シオーネ(大ホール)
6月10日(水)14:30開演
6月12日(金)10:30開演/14:30開演

チケット料金
一般大人:4100円
ペア割引:1名様につき3600円
グループ割引:3名様以上で1名様につき3200円
ゆうゆう割引:1名様3400円
学割:大学生・専門学校生 2000円、高校生以下1000円
障がい者割引:障害者手帳をお持ちの方2800円 ※付き添いの方(1名)は無料となります。
※各種割引を組み合わせてのご利用はできません。
※割引をご利用の際は、必ず予約時にお知らせください。
※中高生観賞事業になりますので、学生さんの後ろからのご観劇になります。

 
 
【韮山反射炉世界遺産に!応援企画】
◆伊豆の国市韮山文化センター 韮山時代劇場大ホール
7月12日(日)13:30開演(13:00開場)
6月13日(土)10:00より予約受付開始!!
※韮山公演についての詳細はこちら
 
すべてのお問い合わせは
SPACチケットセンター054-202-3399まで
 
 
★関連企画★ リーディングカフェツアーを静岡東部で開催します。
『夜叉ヶ池』を見る前に台本を出演俳優と一緒に読んでみませんか?
いちど、台本を読んでみるとさらに演劇が楽しめます!
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宮城聰演出オペラ≪ポポイ≫みんなが舞さん家にやってきた!

Filed under: 『ポポイ』2015

ブログをご覧のみなさま、こんにちは。SPAC制作部の熊倉です。

宮城聰演出オペラ≪ポポイ≫の立ち稽古、日々順調に進んでおります。
前回のブログから約1週間、6月6日、ふたたびSPACでの稽古がおこなわれました。

この日は、寺嶋陸也さん(指揮)はじめ
元首相の孫娘で”首”を育てる「舞」役の吉川真澄さん(ソプラノ)、舞の父「剛」と「記者」を演じる河野克典さん(バリトン)、
舞の従姉妹のおねえさん「聡子」役の波多野睦美さん(メゾソプラノ)、脳科学者で舞の婚約者「佐伯」役の大槻孝志さん(テノール)
戸川夏子さん(コレペティトゥール)、小長谷勝彦、鈴木陽代、武石守正が参加しました。


※あらすじは、こちらでご覧ください。

まずは、≪ポポイ≫ブログに初めて登場する歌手のみなさんをご紹介しましょう。

波多野睦美さん

今年2月、SPAC作品『ハムレット』(宮城演出・武石出演)のアーティストトークでもお世話になりました。

河野克典さん

大槻孝志さん

戸川夏子さん(写真奥:ピアノの前にいらっしゃる方)

鈴木陽代

参加者が多かったので、舞の家に親戚一同が集合する場面の稽古をしました!
それで、このブログタイトルなのです。

登場人物やその関係性に対する出演者みなさんのお考えが活発にやりとりされることが多く、
演出家やスタッフとの間でどんどんイメージが共有されていきます。

「舞さんは従姉妹の聡子さんをどう思っている?」
「この父親は親族の中でどのくらい尊敬されているのだろう」
「この人は親族をどう見ているのかな」
「お互いに信頼しているでしょうか?あまり関心がないのでは?!」
「結婚については賛成か?反対か?」
「妻は夫のことをどう思っているのだろうか…あきれている?支えねばと思っている?」
「じゃあ、この人の”首”への考えは?」

それぞれに、う~んと考えるみなさん。

「この人物の歌詞(台詞)が唐突なんですよね。なんででしょうね?」
「ただの口グゼかもしれませんよ(笑)」
そんな笑いが起きるひとときもありました。

6月28日の公演まであと約3週間。
明日は、これからは、どんなやりとりがかわされるでしょうか。


シンポジウム:目に見えぬ美をめぐって ―反自然主義の系譜―

4/28に行われましたシンポジウムの要約版です。
ぜひご一読ください!
☆連続シンポジウム、詳細はこちら

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オルタナティブ演劇大学
目に見えぬ美をめぐって―反自然主義の系譜―

◎登壇者
ダニエル・ジャンヌトー(演出家) 通訳:平野暁人
今野喜和人(静岡大学人文社会科学部教授[比較文学文化])
布施安寿香(SPAC俳優)
◎司会
横山義志(西洋演技理論史研究者/SPAC文芸部)

 2015年4月28日、静岡市葵区のスノドカフェ七間町で演劇祭関連シンポジウムが開催された。オルタナティブ演劇大学と題されたシリーズの3回目である。演劇祭で上演されるダニエル・ジャンヌトー演出『盲点たち』を題材に、時代の趨勢とは別の道を見ようとした作者モーリス・メーテルリンクの可能性に迫った。以下、抜粋である。

■メーテルリンクと反自然主義
横山 『盲点たち』の作者メーテルリンクって読んだことありますか? 『青い鳥』の作者です。SPACでは2年前に『室内』(クロード・レジ演出)という作品を上演しました。こんなに頻繁にメーテルリンクを上演する劇場は世界中でも滅多にないと思います。日本でも大正時代までは読まれたり上演されたりしていたのですが、今はあまり読まれていない。その理由は、いわゆる芝居っぽくはないからです。不思議な芝居をたくさん書いている。「反自然主義の系譜」が今日の副題ですが、自然主義が盛り上がっている時代に、メーテルリンクは違うことをやろうとしました。19世紀から20世紀にかけてリアリズムが隆盛し、現在、テレビで見るような演技が出てくるわけです。メーテルリンクはそれとは反対の流れをつくろうとした。「人間的な俳優はいらない」「人間より人形のほうがいい」と言った人です。人間的な俳優を、言ってみれば排除しようとして、人形的な俳優を求めたのが「反自然主義の系譜」と考えてみてください。演劇はリアルなほうがいいと思われているかもしれませんが、そうじゃないことをやろうとした人もいたわけです。今日は、それがオルタナティブな道かもしれない、という話をできればと思います。
布施 『盲点たち』は、ダニエル・ジャンヌトーさんとSPACの3回目のクリエイションです。1回目は2009年の『ブラスティッド』(サラ・ケイン作)、2回目は2011年の『ガラスの動物園』(テネシー・ウィリアムズ作)でした。私にとってダニエルさんとの出会いは衝撃的でした。ダニエルさんは、フランス人で、飛行機で12時間かけて行かなければいけないくらい遠い国の人なのに、自分がやりたいことと、ダニエルさんが求めることが、こんなにも一致するのかと不思議なくらいだったんです。ダニエルさんの演出で何が凄いって、もともと舞台美術家ですので、空間の作り方がとてもよくて、『ブラスティッド』では、舞台芸術公園のBOXシアターをホテルの一室に変えました。残酷な話で、私も決して幸福な役ではありません。全裸になったり強姦される場面があったりします。けれど、空間が用意されているので、その中で演じることに抵抗がなかった。空間に助けられました。俳優は人前に出るのが嫌いではないとは言え、何でもかんでも見せたいわけでもない。やっぱり恥ずかしいという気持ちはあるんですね。そういう俳優の繊細な気持ちを空間がそっと守ってくれるんです。『ガラスの動物園』ではローラという引っ込み思案な役でした。ローラが何かを主張するのではなく、その場にただいられるように柔らかい空間をつくってくださいました。ダニエルさんとの出会いが劇的で、自由に楽に呼吸をしながら演劇ができると思うようになったのですが、人間は欲張りなので、その後、でもそれは本当に自由なのかな、あまりに合いすぎているから可能性を自分で消しているんじゃないかという疑問も出てきました。ダニエルさんと3回目の制作になる今回、これが私たちのいいところだよね、というものではなく、もっと遠回りをして、違う出会い方をしたいと思い、参加したんです。それは、自分が思っていた以上に、大変だったなと感じるくらい、叶っています。
横山 『盲点たち』がどう上演されているか、少しお話いただけますか?
布施 登場人物は全員、目が見えないという設定で、教会の施設で暮らしています。あるお祭りの日に、神父さんに連れられて外に出ていくのですが、神父さんがいなくなってしまうんですね。目が見えないので帰り方もわからず、その場で、神父さんが来るのをずっと待っているという話です。今回は、日本平の森の中で上演されます。ダニエルさんは日本人より日本人っぽいと思っていましたが、野外では虫や蛙の声がすることをすごく気にしておられました。日本人が虫の音を聴く感覚と、ヨーロッパ人の感覚では違うのかもしれません。本当かどうかわからないけれど、ヨーロッパの人には虫の音がノイズに聞こえているのかもしれない。そういう違いを発見できています。『ブラスティッド』の最初の場面で、ダニエルさんは「何も演技せずにただ歩いてきてくれ」と言いました。演じずにパッシブ(受動的)な体でいること。『盲点たち』は屋外です。パッシブでいるのは自然の中で気持ちいいのですが、声はある程度出さないと聞こえないので、今までと同じやり方ではやれないということに気づき、新しい挑戦になっています。

■観客それぞれのビジョンへ
ジャンヌトー 『盲点たち(群盲)』に出会ったのは10代の頃だったと思います。その時期はまだ舞台美術家ではなかったのですが、もの凄い衝撃を受けました。これといった事件が起こるわけでもない作品なのに虜になりました。フランス演劇史の中でも特別な激しさを持った作品だと思います。この作品のメーテルリンクの意図はどこにあるか。それは不動性です。フィジカルな、物理的な意味での動きはほとんどない。どこに動きがあるかと言えば、内省的な部分です。内なる経験。ラディカルな内的経験がテーマになっています。これがどこに帰着するかと言うと、死の自覚です。死に思いを至らせること。死は全く目に見えません。机に座ってじっと死について考えていても、その人の内面はわかりませんよね。見えないこととして起こっています。ヨーロッパの演劇の世界において、嫉妬や闘いといった対立が主流であった時代に、メーテルリンクはべつのアクションの形、全く違う形なのですが、同じくらい激しい形を提示しました。内的な動き、内省的なアクションというものを舞台で表現するとはどういうことなのか。一見すると何でもない事柄、フレーズに、内的経験のアクションを感じさせる手掛かりが詰まっています。それを演技によって表現し、そういう手掛かりの集積として作品をつくっていきます。
横山 ジャンヌトーさんはフランスを代表する舞台美術家ですが、ジャンヌトーさんの舞台美術は、見てもほとんどよく分からないんです。茫漠とした空間みたいなものがあり、そこに照明が当たり、俳優さんが入り、ああ、こういうことだったのかと初めてわかる、そういう不思議な舞台美術を手掛けてこられました。目に見える人間の姿とは違うものを見たい、日々見ているものとは違うものを見たい、そのための場所をつくるというようなことを、ジャンヌトーさんはやろうとしているのではないかと思っています。『盲点たち』もよく見えない作品です。舞台美術家なのに、なぜ見えない作品をつくろうと思ったのか、聞いてみたいと思います。
ジャンヌトー 私は舞台美術家としてキャリアを出発させましたが、問題意識はこうでした。舞台美術は、絵、図像、目に見えるものにとどまるものではない。舞台美術ではまず空間がありますが、空間にとどまりません。その先にあるのは関係性です。これが核心部分。空間を介して、お客さんと俳優の関係性を理解する、掴むということ。真の舞台美術は、公演の行われている瞬間だけに成立するものであって、その前にも後にも存在しません。時間の経験そのものが舞台美術です。私の舞台美術は核心部分を表現するためのものです。俳優の、作品の、お客さんの、存在というものの核心を関係づけるためのものです。目に見えるリアリティ、表面的な層を表現するためにあるわけではないんですね。デザインされた目に見えるイメージと、観客が受け取るビジョンは同じものではないと思います。『盲点たち』では、舞台美術は必ずしも目に見えるリアルなものを表現するのではないということを体感してもらえると思います。この作品のビジョンはお客さんの数だけあると考えてもらっていいです。気に入ってくれるかはわかりませんが、どんなお客さんも特別なビジョンと対話してくれるのではないかと思います。そのビジョンがどこから来るのかと言えば、それぞれの人の精神性、魂、想像する力、関係性、作品のテキスト、俳優の存在、ほかのお客さんの存在、そういうもの全てから成り立っているでしょう。私にとっては、いわば他者のビジョンを演出するという挑戦です。この探求は、長い時間をかけてやってきたことです。この試みはまた、抵抗でもあります。画一的なビジョン、商業的なビジョン、普遍的だと思い込んでいるビジョン、安っぽいビジョン、そういうものに抗うための試みです。

■『盲点たち』と神秘思想
今野 メーテルリンクがまだ生きている頃、明治末期、大正、昭和初期くらいまでの日本での名声は無茶苦茶凄かったんです。なぜ日本で有名だったのか。一つの理由に、神秘思想への傾きがあったのかもしれません。当時の日本は、例の千里眼事件(明治末に起こった学者による超能力者の公開実験や論争)を契機にオカルティズムが流行していました。それは白樺派(雑誌『白樺』に集まった文学者や美術家。自然主義に対抗し人道主義や理想主義を掲げた)にも関係していました。今、白樺派と聞いて、オカルティズムと結びつける人はいないかもしれませんが、『白樺』に思想家・柳宗悦が書いています。柳宗悦と言うと「民芸運動」で知られますが、実は当時オカルティズムを礼賛していました。彼が言うのは、「新しき科学」。西洋近代科学を全面否定するのではなく、まさしくオルタナティブ。魂の問題、目に見えないこと、死後の世界、これらを扱う科学が生まれるんだという期待を持っていました。白樺派から影響を受けた評論家・平塚らいてうも、『青鞜』という雑誌のマニフェスト(「元始女性は太陽であった」)でオカルティズム礼賛の文章を書いています。催眠術がいかに人間の魂を明らかにしていくか…と熱に浮かされて、自動筆記と言うんでしょうか、霊感を受けて手が勝手に動く、そんな感じで書かれた文章です。そういう時代背景があって、メーテルリンクが受け入れられたのだと思います。
横山 メーテルリンク自身はどういう思想に影響を受けていたのですか?
今野 なぜメーテルリンクは神秘主義に惹かれたか。彼はベルギーの人で、ヘントという町で育ちました。当時、イエズス会(キリスト教カトリックの修道会。日本にキリスト教を伝えたことでも知られる)が教育を担っていたわけですが、メーテルリンクはイエズス会系の中学校が嫌でしょうがなかった。青春の喜びを圧迫するような、がちがちの宗教的な教育が嫌だったんですね。それでも宗教的なものへのあこがれはあり、作家活動を始めてから、ロイスブルークという14世紀の神秘主義者の本を読むようになります。自分で発見したわけではありません。フランスの作家ユイスマンスの『さかしま』という一風変わった小説がありまして、ディレッタントな主人公が誰も読んだことのない本や芸術に埋もれて生きている話です。その中にロイスブルークが出てくるんです。たぶんそれがきっかけだったと思います。読んでみると、びっくりしてしまった。わけがわからないけど、もの凄い力がある、と考えたらしい。そこからロイスブルークを研究して翻訳を出します。ロイスブルークは、今回の『盲点たち』とも関係があるのかもしれないと思います。
横山 どういうところに関係があるのでしょうか?
今野 神秘主義や神秘思想って何でもかんでも詰め込める言葉なので、学術用語としてはほとんど意味がないのですが、しいて言えば、自分と神、超越的なもの、霊的なものとの間に、よけいなものを入れない、直接対話をするという考え方だと思います。間に教会や司祭はいらないわけです。むろん既成教会の枠内で霊的な体験を語る人もいますが、一方で制約がないために、自分の解釈で宗教的なことを語りますから、オカルト的なものに結びつく可能性もあります。ロイスブルークはカトリック教会の枠内の人で、オカルト的なことはないですけど、「神と直接交流するには、世俗的なものはいっさい必要ない。むしろ目をつぶって神を直接知ることが必要だ」と考えていました。目をつぶる、よけいなおしゃべりをしない、沈黙…瞑想にふけるわけですが、どこでするかと言えば、森の中です。世間的なものからいっさい離れて、静かな環境の中で、神と対話する。いかにも『盲点たち』と関係がありそうですよね。そうした観点の解釈が色々とあって、正統的なキリスト教への批判を読み込む人は多いです。今回の上演では、平野暁人さんの翻訳も、ジャンヌトーさんの演出も、宗教的な部分に注目して見られるといいかなと思います。現代の我々日本人の多くにとって、キリスト教の教義はあまりピンと来ないわけですけれども、そういうものを外しても考えさせられるところがあると思うんです。絶対的なものと接触するには、やはり目をつぶること、情報を遮断することが大事ですよね。現代的な受け止め方ができるようにつくられていると思いました。宗教のことを全く知らなくてもおもしろく見られるようになっていると思います。

2015年4月28日 静岡市葵区のスノドカフェ七間町にて
構成:西川泰功


2015年6月3日

【『舞台は夢』新人日記】vol.1:稽古スタート!

こんにちは、演出部班の守山です。
5月20日から、今年のSPAC秋のシーズンで上演される『舞台は夢』(作:コルネイユ)の稽古が始まりました!
開幕までの数ヶ月、この「不思議な怪物」(コルネイユはこの作品をそう呼んでいたそうです)がどうやってその姿を現すのか、稽古場よりレポートいたします!

演出には2010年のSPAC秋のシーズンで『令嬢ジュリー』を手がけたフレデリック・フィスバックさんを再びフランスよりお迎えしました。

実はフィスバックさん、この作品を演出するのはこれが2回目。
2004年にアヴィニョン演劇祭などで上演しているのですが、もちろん今回は国も、役者も、言語も、何もかもが違う環境でまっさらな状態からの創作です。
「一番大好きな作品を、こんなにユニークな俳優達と再び創ることが出来るなんてとっても幸せだ!」とニコニコしていらっしゃいました。

9月に開幕なのにもう稽古? と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうなんです、実はもう始動しています。
とはいえ、まだまだ全員でじっくり台本を読み込む時間。
連日みんなでひとつひとつの言葉の意味や、会話の目的を確認しながら丁寧に作品を読み解いていきます。

この作品は、アレクサンドランという詩の形式で書かれています。
一文の中で使う音節の数が決められているのですが、その制約の中で物語を書くなんてまさに神業。さすがフランス古典の三大作家の一人です。

(ちなみにフランスについて何も知らない私は、「俳句や短歌のルールで物語を一つ書く感じ」と言われてその凄さを初めて理解しました…)

フランス語で聞くととっても優美で、まるで音楽!
この美しいフランス語を、さてどうやって日本語に移すか… ということで日々試行錯誤中です。

今回の作品では俳優の内側から湧いてくるものを、素材そのものを是非みてほしい! というフレデリックさん。
それぞれの俳優の身体に似合ったボキャブラリを地道に探していきます。


↑今日の稽古では2004年に演出された『舞台は夢』の写真を見せていただきました

読めば読むほど夢の世界に落ちていくような不思議な作品。
どんな怪物になるのか楽しみです!


2015年5月31日

中学生による『夜叉ヶ池』稽古レポート

5月27日、28日と静岡市立安東中学校、竜爪中学校、
そして清水第七中学校の生徒さん5名が職場体験にいらしてくださいました。

SPACの作品を観たことがあり、
劇場ではどんな人が働いているのか、どういった仕事をしているのか、などもっと知りたいと、
数ある職場体験の受入先からSPACを選んでくれたそうです。
本当にありがとうございます!!

SPACの最も中心にある理念は、
「クオリティの高い作品を創作し、その作品の魅力を伝え、多くの人に劇場に足を運んでもらうこと」。
生徒の皆さんに、ぜひそれを実感として知ってもらいたくて、今回『夜叉ヶ池』の稽古見学レポートを書いてもらいました。

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細かい動作は、本と違って観客に言葉としては伝わらないけれど、演じている人の本当に小さな手の動きからそれが伝わってくるくらい、全ての動きが物語を表していて、聞きなれない言葉を役者さんが発しているのに、どんな話かが想像できて、観やすかったです。
一つの何てことのない動作なのに、指の先まで登場人物の気持ちが出ていて、その一つ一つの動きから目が離せませんでした。そんな演技を、音と服と小物がさらに盛り上げていて(盛り上げるというか…)、当たり前の動きもいつもと違っているように見えました。
衣裳を着せてもらった時、すごく重かったのに、役者さんはそんなことを何も感じさせないくらいに、本当にその服が体の一部のように迫力ある動きをしたり、軽々と動いていた。それがすごくびっくりしました。
姫様(※白雪姫)の表情がコロコロ変わるのがすごくて、次はどうなるのかとワクワクしました!
また、声が高くなったり、低く響いたり、目を閉じて声を聴くだけでも、白雪の気持ちがわかって、役者さんが本当に白雪になったみたいでした。
私は、登場する人が多い場面で、その中の誰か一人をじっと観るのが面白いなと思いました。他の人が台詞を言ったり、動いている時、それによって表情が変わるのが、それを観るのが面白かったです。それは多分台本には書いていないと思うから(書いてあるのかも…)、役者さんがその人物だったらこんな表情をするのかな、と思って観られたので楽しかったです。出てくる人はたくさんいるけれど、一人一人に、小さなことでもずっと動きがあって、今度劇を観る時は「一人」に注目して観てみたい!と思いました。
劇ではなくて普通の生活でも、たくさんいる人々のそれぞれ一人一人に物語があるのですが、劇でもそうなんだなぁと思いました。

静岡市立安東中学校2年 瀧浪りの

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夜叉ヶ池の稽古を見学して、俳優一人一人の動き全てに特徴があってすごいと思いました。例えば、大蟹五郎と鯉七と鯰入が妖怪を呼ぶシーンは、俳優が観客の方を向いていて、それぞれの特徴的な動きが目立っていて良いと思いました。
また、俳優が舞台で演技をしている時でも、他の俳優が楽器の演奏をしていて、演技をしている側の俳優ももちろん大変だと思うけれど、俳優が演技をする場面に合わせて曲を演奏するのもとても大変だと思いました。
それから、演技を指導する人が、自分が普通に観ていて何も違和感がないところでも、適切な指導をしていてすごいと思いました。

静岡市立竜爪中学校2年 古屋航

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『夜叉ヶ池』のリハーサルを観て、生演奏の音楽と、俳優さんの演技が一体化していることに、新鮮で迫力があると感じました。リズムが複雑で、俳優さんの細かい仕草がそれに合わさってきて、細部までこだわった繊細な舞台だと思いました。初めはしっとりとした静かなシーンから、奇抜な姿をした妖怪たちが出て来る愉快なシーンへのギャップも面白いと思います。
特に興味が湧いたのは、各キャラクターの衣裳です。近くで見ると、複雑だけどとても美しいデザインで、すごく感心します。
生演奏では、一つ一つの楽器が細かいリズムを取っていて、音の大きさも微調整されているので、迫力がありつつもシーンに合わせた雰囲気が出るようになっています。
俳優たちの生演奏、生き生きとした演技、派手で美しい衣裳などがこの舞台の大きな魅力になっていると思います。
様々な工夫がいたるところに凝らしてあるので、どの人が観ても面白いし、絶対厭きないし、とても人間的で不思議な世界観があるので、多くの人が観て欲しい舞台だと思いました。

静岡市立竜爪中学校2年 竹内祐奈

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今まで観たことがない演技を観ることができました。それは昔の言葉を使ったり、衣裳も着物を着たり、カツラを被ったり、「すごいな」と思いました。感情が出ているところ、逆に少し弱気な感じになったり…と、とても迫力があると思いました。
楽器の演奏もすごく、圧倒されるような演奏でびっくりしました。演技もやって、楽器も演奏して、何でもできる役者さんたちはすごいと思いました。私は演技をやっている時に演奏するという舞台は今まであまり観たことがなかったから、感動しました。
私は表情が一番印象に残っています。悲しい時は悲しい顔、キツク言っている時は目力を強くしていて、「顔の表情だけでもこんなに気持ちが伝わるものなんだ」と改めて思いました。
演奏と演技している方のリズムと音楽がちょうどピッタリで、とてもワクワクしました。
他のミュージカルとはまた違った迫力と表情、言葉など、とても楽しかったです。
演技には色々な種類があるとわかる舞台だし、演奏も綺麗なので、観に来たらすごく感動する舞台だと思います。

静岡市立清水第七中学校2年 岡村美和

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お芝居を観ていて、まず俳優さんたちの顔がとても真剣で、演技をしている時も、楽器を演奏している時も、話し合っている時も、真剣に、でも楽しそうにやっているなと思いました。
演奏は各場面にちゃんと合っていて、演奏する人たちも息が合っていて、演技はちゃんと演技だとわかっているのに、本物を観ているようで、全てに圧倒されました。
演技と演奏の両方をやっていて、とても大変そうなのに、それができる俳優の皆さんが本当にすごいと思いました。
私は演技に興味があり、今回の職場体験にこちらを選ばせていただきました。ですので、このような体験ができて本当に嬉しかったです。またいつか機会があったら、SPACの劇が観たいです。

静岡市立清水第七中学校2年 松野春香

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生徒の皆さんが注目してくれた、「美しい衣裳」や「個性的な妖怪たちが織りなすユーモラスなシーン」、そして「俳優たちの息の合った楽器の生演奏」は、まさに『夜叉ヶ池』の見どころ、聴きどころ!

『夜叉ヶ池』は、6月2日(火)より静岡芸術劇場で上演し、その後掛川市文化会館シオーネ、伊豆の国市韮山文化センター「韮山時代劇場大ホール」でも上演します!
しかも、伊豆の国市での公演は、韮山反射炉世界遺産応援企画につき、何と無料でお楽しみいただけます!ぜひ反射炉の観光や、温泉とセットで『夜叉ヶ池』を楽しんでください!

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【中高生観賞事業公演げきとも!静岡芸術劇場公演】
SPACチケットセンターにて受付中!!※一般の方もご覧いただけます。(有料)
◆静岡芸術劇場(東静岡南口グランシップ内)
6月2日(火)13:30開演
6月3日(水)10:30開演/14:30開演
*詳細はこちら

【韮山反射炉世界遺産登録応援企画】
◆伊豆の国市韮山文化センター 韮山時代劇場大ホール
7月12日(日)13:30開演(13:00開場)
無料公演!
*詳細はこちら

関連企画「リーディングカフェツアー」も静岡東部で開催します。
『夜叉ヶ池』を見る前に台本を出演俳優と一緒に読んでみませんか!
*詳細はこちら


宮城聰演出オペラ≪ポポイ≫立ち稽古の様子を初公開!

Filed under: 『ポポイ』2015

ブログをご覧のみなさま、こんにちは。SPAC制作部の熊倉です。

おかげさまで、「ふじのくに⇄せかい演劇祭2015」が盛況のうちに幕を閉じ、
続いて「ふじのくに野外芸術フェスタ2015」静岡会場・清水会場での公演まで終了しました。
今は、6月2日に中高生鑑賞事業公演で始まる『夜叉ヶ池』(演出:宮城聰)と、
6月28日に公演するオペラ≪ポポイ≫(主催:静岡音楽館、演出:宮城聰)の稽古が進んでいます。

本番の公演会場である静岡音楽館AOIホールで行われてきた立ち稽古が、
5月30日、SPACのリハーサル室で、初めて仮の装置を組んで行われました!
そこで、本作の稽古の様子をブログ内で初公開します。

この日は、静岡大学の学生さんによる稽古見学がありました。
宮城さんによる『ポポイ』の話、そして日本語の音(の高低)の話などに、みなさんが真剣に耳を傾けていました。

そして、いよいよ仮装置を用いての立ち稽古が開始。
じゃじゃーん!そうです、このイントレが今回の舞台装置として使われるのです!

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この日稽古に参加していた吉川真澄さん(ソプラノ)と清水寛二さん(能楽師)が、装置に上がります。
その高さに、思わず辺りを見渡すポーズをなさる清水さん。

初演にも出演・参加されていたみなさん、配置について、どんどん稽古が進みます。

高い所も平気な吉川さんは、生命維持装置で生き長らえる美少年テロリストの生首を面倒みる「舞」役。
ほんの少しの休憩をはさみながらも、ほぼノンストップで歌い続ける様は圧巻です。
※あらすじは、こちらでご覧ください。

舞の祖父で元首相「入江晃」を演じる清水さん、病床の設定のため、なんとこんな体勢で謡をされます!

こちらは、本作の音楽全体を司る指揮者、寺嶋陸也さん(指揮)。

そして、本番でもピアノを弾かれる長尾洋史さん(コレペティトゥール)。

稽古の合間には、演出の宮城さん自ら装置に上がって、スタッフたちと様々なやりとりをしています。
まだまだ試行がある段階、日々こうして少しずつ変化がありますので、本番がどんな風になるのか楽しみですね。

ソリストは他にも、タイトルロール「ポポイ」を演じる上杉清仁さん、「聡子」役の波多野睦美さん(メゾソプラノ)、
「佐伯」役の大槻孝志さん(テノール)、「記者」を演じる河野克典さん(バリトン)がいらっしゃり、
さらに、SPAC俳優の小長谷勝彦、鈴木陽代、武石守正の3名が出演いたします。

2009年6月28日の初演から6年、初演と同じ日に、満を持して新演出で上演されるオペラ≪ポポイ≫。
みなさま、どうぞご期待ください。


2015年5月30日

シンポジウム:革新としての伝統 ―フォークロアとコンテンポラリーダンス―

5/1に行われましたシンポジウムの要約版です。
ぜひご一読ください!
☆連続シンポジウム、詳細はこちら

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オルタナティブ演劇大学
革新としての伝統 ―フォークロアとコンテンポラリーダンス―

◎登壇者
石井達朗(舞踊評論・研究)
矢内原美邦(振付家・ニブロール主宰)
◎司会
横山義志(西洋演技理論史/SPAC文芸部)

 2015年5月1日、オルタナティブ演劇大学の5回目が開催された。日本初演された無垢舞蹈劇場『觀~すべてのものに捧げるおどり~』を中心に、アジアの演劇伝統とコンテンポラリーダンスの関係について議論された。以下、抜粋である。

■暗黒舞踏の現在
横山 台湾の無垢舞蹈劇場は、アジアのコンテンポラリーダンスを代表するカンパニーの一つだと思います。日本でコンポラリーダンスと言うと、欧米のバレエやモダンダンスを学んだ人がやるイメージが一般的ですが、そもそもコンテンポラリーダンスは今のダンスという意味ですから、アジア的な身体をベースにしたコンテンポラリーダンスも可能だと思います。無垢舞蹈劇場は、まさにアジア的身体によるコンテンポラリーダンスの代表例です。日本で言うと、50年前のアングラ演劇と同じくらいの時期に出てきた、いわゆる暗黒舞踏も、コンテンポラリーダンスの一形態かもしれません。
石井 土方巽を始祖とする暗黒舞踏は、名前を聞いていても舞台を見たことない方が多いかもしれません。一般的に、舞踏は、コンテンポラリーダンスと区別して考えられます。コンテンポラリーダンスの世界で舞踏出身の方が多く活躍しているというのが今の状況です。日本では舞踏家が非常に少なくなっています。皮肉なことに、海外では、日本のコンテンポラリーダンスより舞踏に関心が集まります。アメリカや西ヨーロッパはもとより、北欧のノルウェー、デンマーク、フィンランド、東ヨーロッパのスロバキア、ポーランド、南アメリカのブラジル、セントラルアメリカのメキシコ、そういう地域で舞踏に対する関心は絶大です。「ダンスの未来は舞踏にある」と言われるくらいです。海外の舞踏への関心興味と、日本の中の火がくすぶっているような状況、もの凄くギャップが大きい。20代、30代、40代の舞踏家の人たち、もっと自信を持って頑張ってほしいという感じがします。日本で舞踏家として大活躍しているのは、第一世代、第二世代です。麿赤兒、笠井叡、天児牛大、室伏鴻などといった人たちです。中堅や若手の世代からなかなか出てこないですね。
矢内原 それはどうしてだと思います?
石井 舞踏よりコンテンポラリーダンスのほうが入りやすいと感じられているのではないでしょうか。舞踏と言うと、これは土方巽以来の伝統かもしれませんが、なかには秘密結社的なところがあったり、よくも悪くも、閉ざされていて暗く、とっつきにくい、おまけに自己否定的なまでの心身への集中力を要求される、というイメージがある。もっと明るく師弟関係が希薄なところで、ばんばん自分の好きなように体を使ってみたい、今で言えば、ヒップホップに代表されるような、そういう感覚の人たちが多いのではないでしょうか。美邦さんのところに来るダンサーはどうですか?
矢内原 舞踏出身の人もいますね。日本の舞踏カンパニーの山海塾や大駱駝艦を見ていると、集団的に空間をつくっていきますよね。
石井 絶対的にそうですね。
矢内原 一方で、日本の舞踏の場合、大野一雄さんのような一人で存在感を発揮するパフォーマーもいます。室伏鴻さん、笠井叡さんなどもそうですね。
石井 今、名前の上がった室伏鴻、大野一雄、笠井叡は、基本的にソロで活動する人たちです。室伏と笠井は群舞に振付ける作品でも、注目すべき舞台を内外でいろいろつくってますが・・・。世界中で舞踏をやる人がたくさん出てきているんだけれども、その多くは、ソロで踊る人たちです。ソロのほうが踊りやすい。自分のコンセプト、イメージを表現しやすい。他方、無垢舞蹈劇場は、個が全部削除されていて、完全な統率のもとに動いている。これも舞踏の伝統にあるんです。土方巽が、1972年に『四季のための二十七晩』という代表作をつくります。土方という帝王が全ダンサーを人形のように動かしてつくられた作品です。現在、舞踏家として活動している和栗由紀夫、小林嵯峨なども参加していましたが、当時は完全に統制された振付のもとに動いていた。1人の突出した振付家がいて、完全にコントロールされたグループワークをつくる系統には、土方巽、麿赤兒の大駱駝艦、天児牛大の山海塾などがあります。一方、個人で即興を大事にして踊る舞踏家がいる。代表的な人が大野一雄です。大野は、シュールな言葉を費やして作品のイメージをたくさん書き付けているけれど、最終的には形に囚われず、感興の赴くままに自由に踊りました。そのエッセンスを受け継いで自由に踊っている人が笠井叡。この2つ違った流れは、土方巽と大野一雄という2人のカリスマによって代表されると思います。

■アジアの足元を見直す
石井 無垢舞蹈劇場の『觀』は、ゲネプロ(リハーサル)の10分くらいを見た程度でも、何か絶対的な存在者がいて、全ての者たちがその時空のなかで動いているような印象を受けました。演劇やダンスの公演というより、ある種のリチュアル(儀式、祭儀)ですね。リチュアル的な世界では、季節や生命や暦のサイクルの中で、人々が様々な行為を祭祀や儀礼として行っていくわけです。そういう世界は、絶対的な存在者を想定していますから、アーティストがアーティスティックな意思をもってつくる世界とは違います。現代の演劇人や舞踊家が、今まで積み上げてきたものをどう扱うか。ダンスだったらモダンダンス、演劇ですと近代西洋演劇の心理主義的なウェルメイドの世界がある。そういうものが行き詰った時に、欧米の演劇人が求めたのは、リチュアルが持っている時空でした。ちょっと皮肉な感じもするんですけどね。アジアの我々が、欧米のアヴァンギャルドを見つめている時に、欧米の人たち、例えば、アントナン・アルトー(フランスの俳優、詩人)、イェジー・グロトフスキ(ポーランドの演出家)、ピーター・ブルック(イギリスの演出家)、そういう人たちは、アジアやアフリカのリチュアルな世界から豊かなものをくみ取っていた。アジアの我々は、鈴木忠志のような人を除くと自分の足元を見ていなかったということがありますよね。21世紀になって台湾から『觀』のようなコンテンポラリーダンスが来て、SPACの宮城さんはずっとそういう意識を持って仕事をしてきた方だと思いますが、例外的です。ようやく21世紀にアジアの足元をもっと見つめようという動きになるのかもしれない。
矢内原 思うのは、文化をくみ取っていくことと、今ある現在自体を表現することは、違うのかということです。コンテンポラリーダンスは、日常的な、今あるここの瞬間をどう切り取るかということをしますよね。初めてアヴィニョン演劇祭に行った時、「お前ら、着物は着ないのか?」とすごく言われたんです。ニブロールはスニーカーでばたばた走ったりこけたりしていたので、「リノリウム(床材)の上を靴で走るなんて…」と非難されました。安い靴だったので、靴の白い素材が床に着いて、一生懸命掃除した思い出があります。石井さんが言ったみたいに、フランスやアメリカの人たちの間で、舞踏の存在は絶対というのは、よくわかります。私たちのダンスカンパニー・ニブロールが最初に海外に呼ばれたのは、サンフランシスコ舞踏フェスティバルでした。なんで呼んだんだ? って聞いたら、「お前ら、舞踏だろ」って言われたんです。「ニブロールは新しい舞踏だろう」って。その時は、行きたいだけにYESって答えたんですが、上演の後になって、フェスティバルのキュレーターに、「お前らちょっと舞踏と違うな」と言われました。
石井 だいぶん違いますよね(笑)。
矢内原 でも、土方さん、笠井さん、田中さんとかカッコいいと思います。私、田中泯さんを高校の文化祭で初めて見たんです。今治南高校の文化祭に田中泯が来て、急に全裸になって踊ったんですね。たぶん水中眼鏡をかけていたと思います。衝撃が走りました。決して、舞踏というもの自体が、現代を切り取っていないとは言えないと思うんです。ただ年代によって表現が違ってくるんだと思います。
石井 コンテンポラリーダンスの場合は、今現在を見つめながら作品をつくらなければならないけど、舞踏はどうかと。そこは大きな問題です。舞踏、コンテンポラリーダンスに限らず、ダンスで作品をつくるという時、ダンスは言葉ではないので、「集団的自衛権反対」「沖縄の米軍基地辺野古移設反対」とか、演劇ならテーマになりますが、ダンスにはできない。一体、ダンサーは何に向き合って作品をつくるのか。本質的な問題になってくると思います。コンテンポラリーは同時代という意味ですから、同時代を肌で感じて、同時代の人たちに発信する。それに対して、舞踏は時代性よりも、もっと時代を超えて、我々が背負っている、生きているときに引き摺ってゆく言葉にならないような暗鬱なもの、一寸先は闇で一寸後も闇、この先どうなるかわからない漠然とした不安、そういうものがテーマになってくると思います。

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■戦後とフォークロア
横山 アジアの我々自身は、日常というものをアジア的だと認識していない。アジアのコンテンポラリーダンスの難しさはそこにあると思います。我々アジア人は、アジア的でない日常を生きている。我々は欧米から近代を受容して近代化した。ワインを飲んだり靴を履いたりして、着物は着ない。それに対して、伝統的なものは、言ってみれば、欧米から輸入されたものではないものです。現代の日常とアジア的なものの間に、断絶がある気がする。そこにコンテンポラリーという概念が、アジア的なコンテンポラリーへ向かう時の、矛盾というか、錯綜した関係があるように思いますが、いかがでしょうか?
矢内原 コンテンポラリーと言っても、たぶん、つねに外に外に向かっているものではなくて、内側に入っていくものでもあります。凄い内側のことと、凄い外側のことは、いつかつながると思っています。私の振付で、速いスピードで何をやっているかわからないくらいに動くのは、自分が何をしているのかというコントロールを失っていくことなので、それ自体も、ゆっくり歩いているのと同じなんです。って言いきってますけど、私はそう思っています。でも、私たちは、靴を履いて着物は着ないわけですけど、確かに日本人であるという血は流れている。家に上がる時は靴を脱ぐ。靴を履いたまま一日生活することはできませんよね。西洋のものをひたすら追って外側のポイントができるということではない、何かのやり方を探そうと思うと、内側にどんどん行くという結果に、私の場合はなっています。
石井 『觀』は、まさにアジアでしか生まれないコンテンポラリーダンスであると言えると思いますが、だからと言って、私は、アジア的なコンテンポラリーダンスというくくりは使わないほうがいいと思います。コンテンポラリーダンスの最も特色となる部分は、個の領域だと思います。数百年、何千年の歴史で振り返った時に、日本の芸能者は様々な集団に縛られてきました。その集団は、階級であったりします。江戸時代であれば士農工商穢多非人。芸能者は、河原者や小屋者と呼ばれて、封建社会の中の最底辺で生きてました。歌舞伎の元祖の出雲阿国のように、街道を歩いて春をひさぎながら同時に芸を売る。社会の底辺で芸能者が芸を売って、日々の生活を活性化していたという面がある。芸能者は社会のヒエラルキーやジェンダーに縛られてきた。モダンダンスの時代になっても、強い師弟関係や昔ながらのジェンダー感が持続しています。コンテンポラリーダンスはそういう縛りを全て取っ払うわけです。ジェンダー、世代、誰々先生に学んだとか、どの大学に行ったとか、学校を出ているとか出ていないとか、そういうことに関係なく、個人が個人として表現する。そこがコンテンポラリーダンスのオリジナリティであってほしいと思っています。そう考えた時に、私は、アジア的な身体性やアジア的なコンテンポラリーダンスというくくりは、好きではないし、賛成しない。ヨーロッパ的な身体とかアメリカ的な身体を我々が考えないのと同じように、個人が今の時代に向けて何を表現するかが重要になってきます。
横山 なるほど。
石井 今日のテーマの「フォークロアとコンテンポラリーダンス」。私自身、これを聞いて、あれ? と思った。このくくりで考えたことは一度もなかったんです。日本のコンテンポラリーダンスではフォークロアということをほとんど聞かない。言われてみれば、舞踏では、フォークロアの領域を見ることで、新しい表現が見出されました。しかし、コンテンポラリーダンスでは聞かないですね。モダンダンスの歴史の中では少しありますけど。それはなぜか。単純な答えとして考えられるのは、日本は戦争に負けて、それ以前の価値観を否定しました。アーティストは新しいものを目指すので、伝統を否定しながら、アメリカの新しいもの、ヨーロッパの新しいものを積極的に受け入れてきました。土方巽もアルトーやジャン・ジュネやロートレアモン(ともにフランスの作家)など様々な前衛から影響を受けて、自分の世界をつくり上げました。日本では伝統芸能の世界はひたすら伝承されてきましたが、コンテンポラリーな舞台人たちは、いい悪い抜きに、概して伝統には関心をもたず、欧米で先端を行っている芸術の破壊的な運動、ダダイズム、シュルレアリスム、ドイツの表現舞踊、1960年代のハプニング、アメリカのポスト・モダンダンスなどに目を向けながら、新しいものをつくろうとしてきた面があるのではないかと、今、感じているところです。これに対して、アジアのほかの国々のコンテンポラリーダンスは、積極的に伝統的なものを取り入れています。30数年、日本に植民地支配された朝鮮半島の人たちが、戦争が終結したあと、自分たちのアイデンティティを取り戻すために、フォークロア的世界へ帰っていこうとするのは当然ですよね。

■フォークロアの応用
横山 芸能者は社会的なヒエラルキーと結びついている部分があったと言われていましたが、そういった集団性をべつにして、伝統的なダンスのテクニックをコンテンポラリーダンスの要素として使うことは、十分可能なのではないかと思うんです。でも、日本には、たとえばいわゆる日本舞踊や歌舞伎舞踊をもとにしたコンテンポラリーダンスはないわけでしょう。それはなぜなのか、素朴な疑問でした。
石井 世襲や家元制をどう考えるかという大きなテーマにもなってくると思います。歌舞伎の場合、絶対的にいいとは思わないです。私は、歌舞伎にも女性が出るべきだと思っています。こう言うと歌舞伎ファンから袋叩きに合うかもしれないけれど、歌舞伎の女形が本当の女性より女を表現できるというのは単なる神話であって、女性が一番女を表現できると思います。女形の伝統は残しておいて、女性も舞台にのるべきだと思います。歌舞伎の世界に女性がいないのは、単に伝統だからという理由なんですね。歌舞伎が世襲によって成り立っていることをどう考えるかという問題になります。一長一短です。世襲であるからこそ才能あるなしに関係なく、幼少の頃から稽古して継承できる、無二の芸のクオリティがある。しかし、歌舞伎の役者の家に生まれなかったけれど、もしも小さい頃から稽古していたら、今の歌舞伎役者の数倍も能力がある人がいくらでもいるはずです。そういう時に、伝統をどう考えるのか。結論はなかなか出ないですが、先ほどの横山さんの質問で、日本の伝統的なものをコンテンポラリーダンスに活かせないのかと言われれば、完全にYESです。舞踏の世界では、60年代に、土方巽は、アヴァンギャルドとして、当時のハプニングなどの影響を受けながら伝統破壊的な作品を発表していましたが、70年代になって、舞踏を様式化する方向へ徐々に変容していきます。その時に、彼が生まれ育った東北の情景を見つめた『四季のための二十七晩』という作品で、瞽女(ごぜ)さんの音楽を使っています。瞽女さんは、日本に長らく存在していましたが、もうあまり知られていないかもしれません。主として女性の盲目の芸能者です。盲目で生まれたり、幼少のときに目が見えなくなったりすると、農作業もできず嫁にもやれないということで、瞽女宿に入れられて、芸能者として生きるしかないわけです。三味線を弾いて、瞽女歌を歌って、雪深い村々をまわり、米やお金をもらいます。70年代に、かろうじて何人かの瞽女さんが生きていて、土方はその音楽を作品の中で使っていて、それまでの日本のモダンダンスの歴史では考えられなかったような新鮮な効果を挙げています。神話、伝承、語り伝えられたものが、全てフォークロアですが、そればかりではなく、ビジュアルなイメージや音楽もフォークロアです。フォークロア的なものは物語でなくてもいい。そういう意味ではとても豊かです。コンテンポラリーダンスは非物語性を得意とします。英語ではノンナラティブ(non‐narrative)という言葉がありますが、非物語世界のイメージの強度はやはりダンスなんです。特にコンテンポラリーダンス。モダンダンスでは、物語的世界、あるいはマーサ・グラハムのように神話的世界も多いです。コンテンポラリーダンスは物語に寄りかからない。そういった時に、論理から逸脱するフォークロア的イメージはコンテンポラリーダンスと出会える可能性は多々あると思います。それらをどんな風に掘り起こしていけるのか、これも一つの課題ですね。
矢内原 民俗的なものは、コンテンポラリーダンスにもう入っていると、聞いていて思いました。ニブロールも、越後妻有トリエンナーレで公演した時、妻有の民話を語り継ぐ人のところに聴きに行って、それを動きに起こしました。民族的なものを取り入れて動きにしていくことは、多くのコンテンポラリーダンサーがやっているように思います。ただ、その表れ方は、ほかのアジアの国々とは違うのではないかと感じます。

2015年5月1日 静岡市葵区のスノドカフェ七間町にて
構成:西川泰功


2015年5月29日

シアタースクール経験者が職場体験に

5月25日、26日と静岡市立美和中学校の生徒さんが
職場体験にいらしてくださいました。

実は今回きてくれた長谷川さんと平田君は、
二人ともSPACシアタースクールに参加して、
今回もっと劇場での仕事を知りたいと、
職場体験先にSPACを選んでくださいました。

劇場ではどんな公演や企画が行われるのかを
多くの人に伝えるのも、劇場で働くスタッフの仕事のひとつです。

ということで、今回はお二人に、
現在参加者大募集中のシアタースクールがどんな企画なのか、
自らの体験をもとに紹介していただきます。


シアタースクールで演出を担当する俳優、
中野真希(なかのまさき)とも久々の再会!
俳優の仕事についても、いろいろインタビューしました。

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 僕は一昨年のシアタースクールに参加し『青い鳥』という作品を演じました。
 『青い鳥』とは、チルチルとミチルが青い鳥を探しに色々な世界を旅するお話です。僕は小さいときにこのお話を読んでいたのでぜひやってみたいと思い参加しました。
 僕は最初、今までに一回も演劇をやったことがなくて不安でした。しかし、次第に演劇の面白さや楽しさが分かりシアタースクールが楽しくなってきました。
僕が特に印象に残ったことは劇中のダンスです。僕は今までダンスには全く縁がなく、ダンスに触れる機会がありませんでした。しかし稽古をしていくうちにダンスがとっても楽しいものであることが分かりました。全員で音楽に合わせて踊ると一体感が生まれ全員が一つになっていくのがとても印象的だったからです。
 また、鈴木メソッドというトレーニング方法も印象に残りました。片足を挙げたまま声を出したり、スタチューといって像のように固まったりする独特のトレーニングをしました。俳優さんたちはこのようなトレーニングをしていると知って驚きました。
 また、僕は最初腹式呼吸が出来なかったので俳優さんたちのような大きな力強い声が出ませんでした。しかし、稽古を積み重ねていくうちに発声の仕方を教わり大きな声を少しずつ出せるようになってきました。
 本番では二回公演を行いました。一回目の公演はとても緊張しました。また、お客さんの数が多くて驚きました。僕は自分の台詞を言う前に大きく深呼吸をしました。緊張と焦りがあったけれど、練習通りに劇を演じることが出来ました。拍手を貰った時は大きな達成感がありました。二回目が終わった後はロビーに立ってお客さんを送り出しました。
 このシアタースクールでは俳優さんたちの大変さや、演劇の面白さ、楽しさ、達成感等を体感することが出来ました。このシアタースクールで付けた力はとても大きなものなのでぜひみなさんも参加して見て下さい。
 
静岡市立美和中学校二年 平田萌根  


リハーサル室での稽古の様子(2013年)

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私は去年シアタースクールに参加しました。
去年はミヒャエル・エンデの『モモ』というお話でした。
モモという女の子が、いろいろな人達(ベッポ、ジジ等)と接しいく中で
灰色の人達に立ち向かっていくお話です。
私は子供を演じました。セリフは少ないのですが楽しく演じることが出来ました。
最初はウォーミングアップから稽古が始まります。
『どんな子たちがいるんだろう?』と思っていました。
でも、やっていくうちに仲良くなって8月には1つの作品をつくることが出来て
『参加して良かった』と思うようになりました。
最初は不安が多いかもしれないけど稽古に来るうちに仲良くなれると思います。
(私は休憩のときお菓子交換をして仲良くなった人が多いです。)

静岡市立美和中学校二年 長谷川光


野外劇場で『モモ』の本番(2014年)

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「初めて参加するので不安…」という方の声にもこたえ、今年は説明会・体験教室を6月13日&14日に実施します!シアタースクールの参加応募締め切りは6月6日です。
是非多くの方からのご応募お待ちしています。
☆募集情報はこちらからご覧ください。
http://spac.or.jp/news/?p=11151

シアタースクールの詳細はこちらをご覧ください。
http://spac.or.jp/theatreschool