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2016年4月15日

『イナバとナバホの白兎』~新作誕生までの道のり~vol.6

本日『イナバとナバホの白兎』は5月3日(火・祝)が一般販売は完売となりました。
他の日程では5月2日(月)、4日(水・祝)、5日(木・祝)はまだまだ好評発売中です。
ぜひお早めにご予約ください。
同日は無料で大道芸やダンス、演劇が楽しめる「ストレンジシード」も開催中。無料とはおもえないほど、豪華な顔ぶれが静岡に集まります!合わせてお楽しみください!

さてご紹介が遅くなってしまいましたが、
『イナバとナバホの白兎』を支えてくださっているシアタークルーの西川さんから、稽古の感想をいただきました!

ブログ用041401 「写真は4月9日の稽古の様子(撮影:シアタークルー平尾正志)」

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こんにちは 最近はすっかり暖かくなってきましたね、
シアタークルーの西川直宏と言います。SPACが好きな親父です
初めてブログを書かせていただきます。
3月21日午後3時00分、「シアタークルー向け勉強会」が開催されました。
5月2日に公演初日を迎える
SPACの新作『 イナバとナバホの白兎 』 ということで
まずは簡単に自己紹介から~♪
→『 イナバとナバホの白兎 』の(未完の)台本、を頂きました!
→SPACの仲村さんから、因幡の白兎についての説明☆
  →人類学者のクロード・レヴィ=ストロースについて
  →稽古見学
  →関連書籍の紹介
といった流れでした。
本作に関連するテーマで勉強して、作品への理解を深めていきました。

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人によっては何となーく絵本や昔話で読み聞きした事のある『いなばの白兎』。
その『いなばの白兎』によーく似たお話しが、アメリカ先住民ナバホ族に語り継がれていた。
遠い遠いナバホの地、どちらも神話として語り継がれている。代々語り継がれてきた天地創造の物語は、なによりも美しく、なによりも素朴に、人間も天体も動植物も、この世のありとあらゆるものが同じ生命でつながれている世界を語る。
アメリカ先住民の神話研究を中心に行った、フランスのクロード・レヴィ=ストロース。
自然に存在する事象を分類して体系化、構造化することによって見いだした世界観を神話的思考と名付けたレヴィ=ストロース。
生前、日本文化の諸要素である音楽と絵画、神話と儀礼を軸として闊達で大胆な試論も展開している。
神話という形で紡がれた、”いなば”・”ナバホ”・”レヴィ=ストロース”という一本の糸を、宮城聰率いるTEAM・SPACはどのような演技的想像力(演技力)で我々に観せて(魅せて)くれるのだろうか?
果たして、SPACが創造する『イナバとナバホの白兎』にレヴィ=ストロースが日本に見いだした良きもののエッセンスは語られているのであろうか?

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「撮影:シアタークルー平尾正志」

追記:今回の『イナバとナバホの白兎』は、俳優が台本を考えながら創作していく、答えのない作業。
円になり俳優たちが意見を出し合い、汗をかきかき一つ一つを確かめながら振り・セリフを造り上げていくそのさまは、観ている自分が今何処に居るのかさえ見失うほど、稽古場の風景は圧倒されるものでした(産みの苦しみー鼻からスイカ!?でも、やってる時の俳優のみなさん楽しそう)。
ということで今回は演劇祭も迫った 駿府城公園 で、野外劇場{としてお目見え( 本当に野外です!! 客席にも舞台にも屋根がありません。)。}で行われる今作品、演者が放つエネルギーを観客とどのように共有できるか、今から公演が愉しみです♪

このゴールデンウイークはアジア北米先住民神話にハマってみませんか?
西川直宏

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年4月11日

おはなし劇場@静岡まつり ~まつりとさくらの白兎~

みなさま初めまして。制作部新人の佐藤です。
本日のブログは、この4月よりSPACの一員になりました私と計見の2人がお届けします。
内容は初の現場仕事、先日開催された第60回静岡まつりに参加したSPAC「おはなし劇場」についてです。

「おはなし劇場」は子どもと大人が一緒に楽しめる演劇として、楽器や手遊び歌とともに間近で俳優の声と身体をみることができるSPACの継続的な活動の1つであり、今回は「ふじのくに野外芸術フェスタ2016」でゴールデンウィークに上演される『イナバとナバホの白兎』に関連した『いなばのしろうさぎ』を上演しました。
『イナバとナバホの白兎』は静岡芸術劇場で連日稽古を行っていて、本番に向けて変わっていく毎日を眺めております。多くの俳優が出演する作品のパワーがこの駿府城公園でどのように見えるのか、それも楽しみになった1日でした。

静岡まつりでは、駿府城公園内の2つの会場で上演しましたので、1回目の様子を佐藤が、2回目の様子を計見がレポートします。

まずは1回目の大演舞場です。
朝は雨模様で心配でしたが、お昼には太陽の姿も見え、ほころんだ桜のもとSPACシアタークルーのみなさんと上演に備えました。

こちらがまだ慣れない中で、テキパキとやるべきことをこなしていくクルーのみなさんはとても頼もしい先輩です。
本番も引き続きの好天のおかげで、静岡まつりのメインステージである大演舞場の客席にはいっぱいのお客様がいらっしゃいました。そこでSPACの活動を十分にアピールした後、いよいよ開演です。

出演は片岡佐知子さん(写真左)と鈴木麻里さん(写真右)です。おまつりの雰囲気の中でも、子どもから中高年の方までしっかりとこころをキャッチしていたのではないかと思います。
上演は無事に終わりましたが、もっとお客様に楽しんでいただくために改善策を話し合い、次の会場へ向かいました。

皆さま、はじめまして!制作部新人の計見です。
さて、15:30~の回は坤櫓演舞場という先ほどより小規模なステージでの開催でした。準備前、客席が「少し淋しいなぁ。。。」という感じだったので通称サンドイッチマンへと変身し、クルーさん達といっしょにお声掛けやチラシ配りをしたことが実を結び、客席から溢れるほどにたくさんの方が足を止めてご覧くださいました。

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今回は時間が十分にあったので「はじまるよの歌」で少しウォームアップ。「何がはじまるのかな?どんなことがはじまるのかな?」といった様子で子どもたちは興味津津。大人の方々の注目も一気にステージ上へと注がれていきました。1回目の大演舞場より小さなお客様の姿が多く、なかでも不思議そうな表情でなぜかニコリともせずに私たちを見つめながらも一緒になって最後まで手遊び歌をしてくれた女の子がとても印象的でした。

普段の駿府城公園では様々な方がそれぞれの時間を思い思いに過ごすための憩いの場となっていますが、ゴールデンウィークにはSPAC新作『イナバとナバホの白兎』<稽古の様子はこちら>や、地ビールや美味しい珈琲などを楽しめたり、演劇祭の思い出を彩るコミュニティースペース「フェスティバルgarden」、また「まちは劇場プロジェクト」のストレンジシードの会場にもなり、さらに様々な方が出会い交流する場となりますので、是非お楽しみに!

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年4月8日

『イナバとナバホの白兎』~新作誕生までの道のり~vol.5

SPAC活動をいつも支えてくださるSPACシアタークルーのみなさん。
『イナバとナバホの白兎』の作品も演目担当クルーとして支えてくださるシアタークルーメンバーがいます。
そのひとり松本孝則さんが『イナバとナバホの白兎』観劇前のヒントになればと書いてくださったブログをご紹介いたします!

松本さん

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 『イナバとナバホの白兎』という演目名を初めて目にしたとき、これはイナバとナバホの語呂合わせか?と思いました。ナバホ族というアメリカインディアンのことは、以前テレビのドキュメンタリーで見た覚えがあったものの、「イナバの白兎」とはつながりようもありませんでした。

 イナバの白兎伝説が北米の先住民に伝わっていた、という壮大な神話伝承の仮説を読み解こうとする、今回の宮城SPACの挑戦。ちょっとその前に、北米の先住民族、ナバホ族のことについてまとめてみました。

 ナバホ《涸れ谷の耕作地》

 「コロンブスがアメリカを発見したのではない。俺たちがコロンブスを見つけたのだ。」 1492年、西回り航路でのインド到達をめざしたコロンブスが、バハマ諸島の小島(サン・サルバドル島)にたどり着き、ヨーロッパ人にこの新大陸の存在が知られるようになるはるか昔より、100万人ともいわれる先住民がこの大陸で独自の文化を築いてきた。ネイティブアメリカン、いわゆるアメリカインディアンと呼ばれた人たちのことだが、北米だけでも、言語や文化の違う500以上の部族があったといわれる。

 アメリカの開拓時代の西部劇によく出てくるアパッチ族やコマンチ族は、“ホースインディアン ”つまり、スペイン人が持ち込んだ馬をいち早く取り入れて、バッファローを狩る狩猟民族、好戦的な戦士としてえがかれることが多い。それに対して、ナバホ族のような農耕民族もたくさんいた。ナバホ族がアメリカ南西部に住み着いたのは、14~15世紀といわれているが、もともとはトウモロコシなどを育てる農耕民族だったが、アステカ帝国を滅ぼして北上してきたスペイン人から馬と羊を手に入れ、以後羊はナバホの大切な食糧になると共に、その毛糸を使った“ナバホラグ”とよばれる精巧な絵柄の敷布は、貴重な交易品となった。

 ナバホ族は母系社会で、放牧も織物も女性の仕事とされ、男性の仕事は、トウモロコシの粉ひきと他の農耕部族からの略奪であったといわれる。定住に必要な独特の 伝統住居は“ホーガン”とよばれ、木組みと土で作られる。イヌイットの伝統住居である「イグルー」やモンゴルの遊牧民族の「パオ」にもよく似ている。

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 第二次世界大戦では、米国籍を与えられた4万人以上のインディアン男性が、米軍兵として従軍した。この中で、ナバホ族の言語は、対日本戦において暗号として用いられたことがよく知られている。ナバホ語の複雑に変化する語尾や発音は、ナバホ族以外には理解不可能なもので、この特性に目をつけたアメリカ軍は、彼らを暗号専門の部隊として徴用し、太平洋戦争において大きな成果を上げた。

 かつて、古代人の多くは、自然の中で偉大なる創造主のもとで生きるというライフスタイルをもっていた。とりわけ農 耕民族にとっては、その創造物である人々、動物、鉱物、水、火、風、空、大地など、私たちとともに存在するすべてとつながりをもつことが、人としての「道」とされた。また彼らは「すべてのものに精神が宿っており、相互依存し、一つの大きな輪の中で生かされている。」と考えた。

 この世界観を象徴するものとして、“メディスンホイール”「聖なる輪」「生命の輪」というような内容を意味し、仏教の曼荼羅、神道の鏡、イングランドのストーンヘンジ、そしてナバホには祈祷の時にメディスンマン(祈祷師)によってえがかれる“砂絵”がある。

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 今年のせかい演劇祭で宮城さんの演出する『イナバとナバホの白兎』には、いわゆる台本というものがない。2時間の大作にもかかわらず、俳優が手にしているのはA4で9枚の一見台本のようなもの。その台本のようなものを手掛かりに、俳優たちがああだこうだと言い合ったり、動いたりしているのを、先日の稽古で見せてもらった。

 宮城さんがブログのインタビューの中で、「果物が熟れるように、ある集団の歴史の中で、集団創造にふさわしい時期というものがおそらくある」と述べている。2007年に宮城さんがSPAC芸術総監督に就任して9年、この宮城さんの言葉を『イナバとナバホの白兎』に出演する俳優たちはどのような思いで受け止めたのだろうか。

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 集団創造にはチームワークは必要だろうが、それ以上に一人一人の思いや葛藤、そしてそれらのせめぎあいが求められる。そんな場面では、チームワークはかえって邪魔なものになってしまうのかもしれない。文字をもたないナバホの祈祷師(メディスンマン)が、口述伝承していった神話を一つのテーマにした今回の芝居を、俳優たちはきっと悪戦苦闘しながら読み解いているに違いない。宮城さんがSPACのメディスンマンのようにも見えてくる。

 『イナバとナバホの白兎』が駿府城公園の特設舞台で上演されると聞くと、どうしても昨年同じ場所で演じられた『マハーバーラタ』のことが頭をよぎる。遠くの市街地のビル群をシルエットにして、あ の円形の舞台で繰り広げられた祝祭音楽劇は、阿部一徳さんの圧倒的な語りに誘導されながら、時空を飛び越えて自由自在に私たちを遊ばせてくれた。『マハーバーラタ』ではダマヤンティ姫の冒険の旅だったが、今回の『イナバとナバホの白兎』でも、うさぎ、神々、双子の兄弟たちがそれぞれの思いをもって旅に出る。旅の途中に出会う動物やさまざまなものとの駆け引きや共感が、観客をどのように遊ばせてくれるのか、とても楽しみである。

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年4月7日

ケ・ブランリー美術館と『イナバとナバホの白兎』という試み (横山義志)

ケ・ブランリー美術館と『イナバとナバホの白兎』という試み

SPAC文芸部 横山義志

2013年2月、『マハーバーラタ』をパリのケ・ブランリー美術館クロード・レヴィ=ストロース劇場で公演したとき、館長室にご挨拶にうかがった。するとステファヌ・マルタン館長から、こんなお申し出があった。「2006年に美術館とレヴィ=ストロース劇場のこけら落とし公演でも『マハーバーラタ』をやっていただいたが、これまで当館で上演した作品のなかでも、この作品は「文化間の対話」をモットーとする当美術館の精神を体現するような作品だと思っています。当館は2016年に開館10周年を迎えるので、その際にはぜひ当美術館のために作品を作っていただきたいと思うのですが、可能でしょうか。宮城さん演出によるSPACの新作公演を、10周年記念事業のメインイベントにしたいのです。」通訳しながらも、さすがにちょっと驚いた。これはアヴィニョン公演の前年で、それ以前にも宮城さんの作品はフランスで何度か上演されていたが、まだフランス演劇界で広く知られていたというわけではなかった。ケ・ブランリー美術館では開館以来、世界中から名だたるアーティストを招聘している。そのなかで宮城さんとSPACを選んでくださったのは光栄というほかない。

ケ・ブランリー美術館は、パリで最も新しい国立美術館で、「アジア・アフリカ・オセアニア・南北アメリカの芸術と文明」を紹介することを使命としている。近年の年間入館者数は約150万人。エッフェル塔の向かいに大きな建物ができたので、ここ10年ほどのあいだにパリにいらした方であれば気になっていた方も少なくないだろう。この美術館は当時の大統領ジャック・シラクが文化政策の目玉として構想したものだった。美術館のコンセプト自体、極めて挑戦的なものだった。アジア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカで名もない民衆や職人が作ってきたいわゆる「伝統的」なオブジェを「原初美術(アール・プルミエ)」と呼び、西洋近代美術と同じだけの価値をもつ美術作品として捉えようというものだ。これは日本を含むアジア・アフリカ諸国の文化に造詣が深く、「原初美術」の愛好家としても知られていたシラクが念願としていたプロジェクトだった。フランスが植民地政策の負の歴史を清算するための試みの一環をなしているともいえるだろう(それに成功しているかどうかは別として)。この背景にはもちろん、19世紀後半から20世紀前半にかけてマネらが日本美術を、ピカソらがアフリカ美術を「発見」したことがある。だが、この視点の転換に思想的な裏付けを与えたのは、20世紀フランスを代表する思想家の一人で人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)だった。レヴィ=ストロースは世界各地の先住民社会の構造分析にもとづき、西洋近代の科学的思考よりも、それが排除しようとしてきた「野生の思考」こそがより普遍性をもった思考なのだと主張したのである。

フランス語では「博物館」と「美術館」は同じmusée(英語のmuseum)だが、日本語にするとだいぶニュアンスが違ってくる。「博物館」においては、時代や地域が異なるために、今の「私たち」とは異なる価値観をもつ共同体で作られたからこそ貴重であり、意味がある、というものが収蔵品の多くを占めている。ケ・ブランリー美術館が開館する際、「人類博物館(Musée de l’Homme)」の収蔵品の多くをこの新設の国立美術館に移管することになった(これについては多くの論争が繰り広げられたが、話が逸れそうなので、ここでは触れない)。文化人類学の対象だったものを美術作品として新たに見つめなおすということが可能になったのは、ヨーロッパの美術と文化人類学がそれぞれ二〇世紀を通じて大きく変貌したからでもある。美術においては非西洋世界という他者の「美」を取り込んで自らの「美」を相対化し、そして「美」そのものの根拠を問い直すことまでも「美術」に含まれるようになっていった。一方文化人類学においては、植民地経営の道具として発達した研究が、逆に西洋諸国による植民地支配の根拠を問い直し、脱植民地化を支える思想としても発展していった。この二つの分野の発展が交叉したことの帰結がケ・ブランリー美術館の開館だったといってもいいだろう。

では、この美術館で演劇作品を上演するとすれば、何をやるべきなのか。マルタン館長があれほど『マハーバーラタ』を気に入ってくれたのは、この作品が提示しているヴィジョンに、ケ・ブランリー美術館のコンセプトと共鳴するところがあったからだろう。宮城聰演出『マハーバーラタ』は、「平安朝の日本にマハーバーラタの物語が入ってきていたら」という想定で作られている。実際、平安時代の末に編まれた『今昔物語』にもインド由来の説話が多数入っている。我々が今「日本的」とみなしている文化にも、中国やインドなど、様々な「外来」文化の影響がある。そもそも文化というものは、様々な他者との出会いを通じてしか発展しえないものなのではないか。宮城さんはそんな話をしていた。

マルタン館長が宮城さんの作品に興味を持ってくれたのは、アジア・アフリカのいわゆる「伝統芸能」の技術を取り入れた現代演劇の作品を作っているからだろう。アジアやアフリカにおいて「近代化」とは、多くの場合強いられた「西洋化」であった。アジア・アフリカにおいて近代劇とは、伝統芸能とは異なる「西洋的」な演劇のことだった。「近代的=西洋的」なものと「伝統的=在来的」なものとは対立項となった。この「近代化」によって、「伝統的=在来的」なものは社会とともに歩むことを止め、「博物館」的な興味の対象となったかのようだった。

だが一方で、ヨーロッパにおいてはこれに並行して、とりわけアジアの演劇を参照することで、いわゆる「近代劇」の限界を乗り越えようという動きもあった。20世紀前半にはブレヒトやメイエルホリドが歌舞伎、能、京劇などからインスピレーションを得た。20世紀後半においては、アジアの伝統芸能の技術を実地に学びつづけているアリアーヌ・ムヌーシュキン(1939~)率いる太陽劇団がその代表格だろう。太陽劇団はさらに作品制作の方法自体を問い直し、劇作家や演出家が提出したヴィジョンを俳優に演じさせるのではなく、全てのメンバーがアイディアを出し合いながら作品を作っていく集団創作を試みていた。宮城さんは大学時代に太陽劇団の作品をビデオで見て、感銘を受けたという。

今回の『イナバとナバホの白兎』では、宮城さんとしてもSPACとしてもはじめて、テクストも含めた集団創作を試みている。宮城さんは『マハーバーラタ』を上演したことで、個人としての作者が書いたのではない神話的物語の可能性に興味をもつようになったようだ。伝統芸能においても、往々にして作品は個人としての「作者」ではなく、一定の集団に帰せられる。つまり、これもまた伝統芸能に学ぶことの延長線上にあるともいえる。これによって、西洋近代において発展した「天才的な作者の個人的ヴィジョンを表現する」というモデルでは捉えきれない世界の複雑さ、多面性、大きさをより体感していただくことができるようになるかも知れない。

より暮らしやすい土地を求めて人類は移動を繰り返し、大地を埋めていった。ここ数世紀のあいだ、人類は未曾有の人口増加の時代を経験している。同時に移動と通信の技術も目覚ましい発展を遂げたが、「共に生きる」技術は、なぜか同じだけ発達したわけではないらしい。この種族の寿命があとどれだけつづくかは、この技術をどれだけ磨いていけるかにかかっている。レヴィ=ストロースによれば、「イナバの白兎」の話の原型は、結婚相手を求めて海や大河を越えていった物語らしい。だが、そこには当然、様々なリスクが伴っている。日本列島にたどりついた人々も、北アメリカにたどりついたナバホ族の祖先たちも、そんな様々な危険を冒しながら、なんとか「共に生きる」相手を見つけ、そのための技術を磨いて、生き延びてきた。移動と通信の技術をあえて脇に追いやって、その時・その場を分かち合うことに特化した演劇という方法で、もう一度この古い技術を見つめなおしてみれば、私たちが直面している危機を乗り越える知恵の一端を見つけることができないだろうか。

青葉の茂る駿府城公園で、一緒に食べたり飲んだりしながら、ときに人類の過去と未来にも思いを馳せつつ、春のひとときを分かち合っていただければと思う。

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年4月3日

<萌目線。vol.130>『イナバとナバホ』の速報!

カテゴリー: 萌目線。

今年のふじのくにせかい演劇祭の開幕まで1ヶ月を切り…

SPAC新作『イナバとナバホの白うさぎ』のプレビューお披露目に向けて、リハーサル室では神話の欠片たちが飛びかう毎日です!

そんな稽古場に、ブラジル出身のアマンダと、インド出身のジックサンが遊びに来てくれましたよ!!

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ご存知、第一テレビの『ラ・ぶらり Shizuoka』のお二人です!!

私たちといっしょに俳優のトレーニングを体験していただき…
『イナバとナバホの白うさぎ』の稽古を見てもらいました。

なので…まだまだ謎の多いこの作品の中身が、テレビで少ーし見られるかも?!

番組は第一テレビで4月24日(日)21:54放送予定です!!
みなさまお見逃し無きようにお願いします!!

そして4月5日には…
三島景太姐さんといっしょに、私石井萠水がK-mixラジオにおじゃまさせていただきます!
「K-mix おひるま協同組合」という番組で、12:25頃に出演予定です。

毎日どんどん変わっていく作品の様子の最新情報をお伝えしたいと思っております!

K-mixさんといえば、私の地元浜松のラジオ局です。
生まれ故郷でのびのびと、三島姐さんといっしょに全力で!トークしてこようと思っておりますので、
みなさまぜひ聴いてくださいませ!!

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<萌目線。>とは・・・ SPAC俳優石井萠水の目線で稽古場や舞台裏の様子をお届けしています。
GREEでもブログ更新中。

2016年4月1日

『イナバとナバホの白兎』~新作誕生までの道のり~vol.4

「作品との出会い&制作過程」

皆様こんにちは。
SPAC俳優の横山央です。“央”で“ひさし”って読みます。
掛川出身の地元人、演劇がもっと気軽に触れられるものになればいいなと思い日々活動しております。

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さてさて、『イナバとナバホの白兎』、只今絶賛稽古中でございます。
気が付けば、公演まで1ヶ月となりました。(えぇ!?)

「イナバの白兎」といえば、古事記に登場するお話の1つとして皆様ご存知かと思いますが、「ナバホ」ってなんじゃろな?という方も多いはず。
「ナバホ」はアメリカ先住民の1つで、現在も南西部に住んでいる民族になります。
そのナバホ族に代々伝わっている神話があるのですが、不思議な程に古事記と似た話が存在しており、この共通点については人類学者 故クロード・レヴィ=ストロース氏が指摘しており、しかし未だにその謎は解明されておりません。
レヴィ氏の残した人類に対しての宿題、「何故、古事記(日本)・ナバホ(アメリカ)の神話と似た話が、離れた大陸で存在するのか、それはどの様に伝わったのか。またその基になったストーリーは何なのか?」ということを、今回演劇的想像力を駆使して考えてみようという試みの作品となっております。

余談ですが、レヴィ=ストロース氏は、画家だった父親にこどもの頃に浮世絵をもらったところから日本にはずっと興味があり身近に感じていたと語っています。
また、レヴィ=ストロース氏が生前に日本に関して出版した本『月の裏側』には「イナバの白兎」について書かれたりもしてます。
6月に上演します、フランスのケ・ブランリー美術館内の劇場の名前も「クロード・レヴィ=ストロース劇場」でして、様々なところで不思議なご縁を感じます。

ということで、難しい宿題に挑戦しているわけでありまして、まずは古事記やナバホ族について調べるところから始まりました。
今回作品を作る上で大きな特徴の一つとして、俳優がセリフを考え、それを具体的に身体に起こしているというのがあります。
台本もない状態なので、各々に様々な資料を調べ活かせる要素を抽出・提示し、それを俳優で集まって議論し台本を作り、身体に起こしたところに演出が入り、それを踏まえてまた作り直すという作業をひたすら繰り返します。
ある程度形になったら、今度は無駄を省き精彩にしていく作業に移り、加えてそこに楽器も入り・・・と、とにかくやる事が多い!毎日頭も身体もフル回転です。

台本を作るにあたり同じく共に作成してくれている久保田さんは、実際アメリカに赴きナバホ族と接触、その地を取材して得た情報を持ち帰り俳優に届けてくれました。
作品を作る上で大切なこととして、“共有”があり、俳優は実際にその地に足を運ぶ事ができなくても現地の情報や雰囲気を皆で共有し、それを作品に取り入れます。
答えはないわけですから、とにかく重要なのは想像力。
そしてその想像力は、後に公演に足を運んでくださる皆様との“共有”に繋がるわけです。

「ふじのくに野外芸術フェスタ」での『イナバとナバホの白兎』は、パリでの世界初演に先駆けてのプレ上演となります。
舞台はお客様がいて初めて成立するものです。
僕はたちは手探りで作品を作りやがて公演を迎えるわけですが、特に今回駿府城公園での公演で、お客様と作品を共有した時にどんなものが生まれるかを大切にしたいと思っております。
多くの方にご覧頂けたら嬉しいです、心よりお待ちしております。

今回はこの辺で。
次回はもう少し稽古の中身に踏み込んで書きたいと思います。

横山央

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年3月31日

『ANGELS』再び始動!

桜が咲き始めている舞台芸術公園。
BOXシアターでは、スパカンファン『ANGELS』の稽古が行われていました。
ニヤカムさんと久しぶりの再会を果たしたメンバーは、元気いっぱい!!

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野外芸術フェスタ、ワーク・イン・プログレス公演、大道芸ワールドカップin静岡、コミュニティダンス・フェスティバル2016と経験を積み、進化し続ける『ANGELS』。
本公演は、映像とのコラボレーションも見どころのひとつです。
真っ白な「バオバブの樹」に、色鮮やかな「ニヤカムワールド」が映し出されます。

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撮影も行いました。
ニヤカムさんのあふれるアイディアに、スタッフもメンバーも応えていきます。
チームワークは抜群!

本公演は8月下旬を予定しています。どうぞご期待ください。
公演の詳細は決定次第、SPAC公式サイトで発表いたします。

☆スパカンファン・プロジェクトの詳細はこちら
http://spac.or.jp/spac-enfants
☆『ANGELS』ワーク・イン・プログレスの舞台写真はこちら
http://spac.or.jp/blog/?p=20272

2016年3月21日

『イナバとナバホの白兎』~新作誕生までの道のり~vol.3

★SPACの活動を支えてくださるボランティアメンバー「SPACシアタークルー」のみなさんの視点による稽古場レポートをご紹介します!
(写真:SPACシアタークルー平尾正志)

<SPACシアタークルー稽古場潜入レポート>

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台本片手に俳優が演技の練習をしているのだろうと思いきや、何と台詞を一から俳優達が創る……?思いがけない創作活動に出くわした。その様子はまるでジャズセッションを見るような、4ビートのリズムを共有しそこへ台詞を重ねて行く。声もある意味1つの楽器と捉えれば納得。
今回は男声パート見たが、女声パートそして混声へリズムもワルツ?いや8ビートのロック?へ変わって行くのだろうか……分かりにくさが妙に魅力的だ。

(文:SPACシアタークルー平塚敬子)

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3月16日午後6時30分、『ロミオとジュリエット』の最終公演を終え、ばらしの始まった舞台を横目に、エレベーターで芸術劇場の6階にある『イナバとナバホの白兎』の稽古場に入りました。リハーサル室では、ロミジュリに出演していた俳優を除く20人以上が、男組と女組に分かれ、円陣を組みワイワイガヤガヤ…

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三島景太さんはなぜか、カタツムリの目ん玉のような棒を振り回しながらの振り付け中。今回の芝居は、俳優が台本を考えていると聞いていたので、どうやらそのためのお話し合いのようでした。制作の仲村さんから舞台美術の説明を聞いていると、演出の宮城さん入室。若干ピリピリ! 演出席に座ると、それぞれのグループに進捗状況を確認し、男組の稽古発表が始まりました。

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ひとつの台詞をたくさんの俳優が折り重ねるように語り、まるで言葉たちが踊っているような不思議な一場でした。まだ舞台装置や小道具などもない素の状態での稽古でしたが、それだけにあと1ヶ月でこの芝居がどのような舞台になっていくのか、とても楽しみです。お疲れさまでした。

(文:SPACシアタークルー松本孝則)

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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2016年3月20日

<『ロミオとジュリエット』>大学生ジュリエット、公演を終えて

『ロミオとジュリエット』全21ステージ、無事に終了しました。
ご来場いただきました皆さま、ありがとうございました!

現役大学生ながらも、ジュリエット役を務めた宮城嶋遥加より
皆さまへの感謝の気持ちを込めたメッセージです。
小学生の頃からSPACの人材育成事業に参加してきて
ついにプロの舞台に立ったこの1ヵ月半を振り返りました。

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SPAC秋→春のシーズン『ロミオとジュリエット』で
ジュリエット役を演じました、宮城嶋遥加です。

公演を観に来ていただいたお客さま、遠くから応援してくださっていた皆さま、
また、テレビや新聞などのメディアを通してこの公演に興味をもっていただいた皆さま、
関わってくださったすべての皆さまに感謝申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。

終演後に、お客さまが「初めて劇場に来たけどまた来たい」「とっても楽しかった」
などと声をかけてくださったり、平日の中高生鑑賞事業公演で来てくれた中高生の皆さんが
興奮した面持ちで劇場を後にしてくれたり、握手してくれたり、
一つ一つの言葉やお客さんの様子が本当に勇気を与えてくれるものでした。
毎日、たくさんのお客さんにお会いし、客席から力をもらえたことが本当に幸せでした。

私は静岡出身で、「こども大会」、「SPACシアタースクール」、
「スパカンファン[SPAC-ENFANTS]・プロジェクト」などSPACの人材育成事業に参加してきました。
中高生のときから、SPACで働くスタッフさんや俳優さんは憧れの存在であり、
「私もいつかはSPACの公演に出演することができたらどんなに素敵だろう」と
心の底でずっと思っていました。
『ロミオとジュリエット』に出演されていた俳優さんの中にも中高生の頃から知っていて
お世話になってきた方も多くいらっしゃいます。
この公演で、子どものときからずっと憧れていた方たちと一緒に仕事ができる、
SPACの舞台に立てるということが本当に嬉しかったです。
改めて、SPACがある静岡に生まれてよかったと思いました。

2月に稽古が始まり、初日を迎えて千龝楽を迎えるまで、
時の流れがとても早かったです。
毎日たくさんの方に支えていただき、助けてもらっていました。公演が終わって、
改めて公演の舞台写真や映像を見たり、自分が使っていなかった
小道具や舞台装置などを間近に見たりしました。
稽古・公演期間中は自分のことで精一杯で気がつけなかったことが分かり、
この作品の魅力を今、改めて感じています。
一つ一つのシーンや小道具、衣裳が本当に繊細にできていて、
命が吹き込まれていて初演からこの作品を創ってきた方々への尊敬の思い、
そして、今回この作品に関わらせていただいたことへの感謝の気持ちが湧き上がり、
胸がいっぱいになりました。

2015年度のSPACの公演は『ロミオとジュリエット』で終わりですが、
来月の終わりからは「ふじのくに⇄せかい演劇祭2016」が始まります。
どんな作品に出会えるのか今からとても楽しみです。

また皆さまと劇場でお会いできることを楽しみにしております。

宮城嶋遥加
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ご来場いただきました皆さま、本当にありがとうございました!

2016年3月16日

宮城聰インタビュー 新作『イナバとナバホの白兎』は初の試みが満載

台詞は俳優が考える!?
新作『イナバとナバホの白兎』は初の試みが満載

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―今年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で上演される新作『イナバとナバホの白兎』はどんな作品ですか?
フランス国立ケ・ブランリー美術館から「開館10周年を記念する新作をつくってほしい」との依頼を受けて制作する委嘱作品です。それを、世界に先駆けて「ふじのくに⇄せかい演劇祭」でプレ上演します。

―作品のテーマに、日本神話「因幡の白兎」とアメリカの先住民・ナバホ族の神話を選んだ理由を教えてください。
フランスの国立美術館から記念作品を委嘱されるのは非常に名誉なことです。そのうえ、ぼくたちのリハーサルのために劇場を2週間も空けてくれるという。先方もかなり力が入っているようです。それだけにプレッシャーも感じていました。注目度が高いぶん、ダメだったときのダメージが大きいじゃないですか(笑)。
ケ・ブランリー美術館にはどんな作品がふさわしいか。その点もずいぶん悩みました。パリにある国立美術館は、ルーブル美術館も、オルセー美術館も、ポンピドゥー・センターも、基本的にはヨーロッパ、あるいはアメリカの芸術の歴史が前提になっています。一方で、ケ・ブランリー美術館は非ヨーロッパ圈芸術の殿堂として建てられている。そのケ・ブランリー美術館から委嘱されたわけですから、その文脈にふさわしい作品にしたい。そうやっていろいろと考えていてまず思ったのは、「作家個人が世界をどう見たか」ということを表明しているような作品ではないほうがいいだろう、ということでした。

―どういうことでしょうか?
近代では、自分という人間は唯一の存在で、自分と同じ人間はほかにはいないんだ、という考え方が前提にありますよね。だから、作家が世界について書けば、それは「私は世界をこう見ている」という、ある人から見た世界の見え方を書いているわけです。これは映画も絵画も同じです。
でも実は、こうした考え方はヨーロッパの近代が生み出したもので、近代より前、たとえば日本では江戸時代あたりまではありませんでした。「自分と同じ人間は世界にいないんだ」「自分という存在は二人といないんだ」という考え方はなく、「自分が泣ける話はみんなも泣ける」「自分にとっておめでたいことは、みんなにとってもおめでたいことだ」という感覚だったわけです。当然、作家をはじめとする表現者も、唯一無二の存在としてではなく、「我々は世界をこう見ている」ということを形にする、一つの蛇口みたいなものとして存在していた。そしてある人は絵を描き、ある人は歌を詠んだりしていたのです。
ケ・ブランリー美術館の委嘱作品には、そういう近代以前の、誰が書いたのかわからないような感覚を持った作品がふさわしいだろう、と考えました。日本のものなら落語、『古事記』、『平家物語』なんかもそうですよね。あるいは、『旧約聖書』の「創世記」とか。そんな風にいろいろと題材を探しているうちに、いいなと思ったのがアメリカの先住民、ナバホ族の神話をまとめた本でした。

―日本でお馴染みのあの「因幡の白兎」のお話ではなく、まず先に、ナバホ族の神話を思いつかれたんですね。
そうなんです。あとは、新作を上演するのが、ケ・ブランリー美術館内にあるクロード・レヴィ=ストロース劇場であることも、ナバホ族の神話を題材に選んだ理由の一つです。クロード・レヴィ=ストロースはフランスを代表する人類学者で、神話の研究者でもあります。彼は神話研究を通じて、欧米側から未開だとか野蛮だとか思われているような文化が、実は、極めて高度な精密さを持っていたということを明らかにしました。
 レヴィ=ストロースは神話研究のフィールドに南北アメリカ大陸を選び、アメリカの先住民たちの神話について調べています。そんな彼の名を冠した劇場で、ナバホ族の神話をテーマにした作品を上演する。そこに何かしらの縁を感じて、題材に決めたのです。
 ただ、ナバホ族の神話について書かれた本をそのまま脚本にして上演することには違和感がありました。というのも、アメリカ先住民の神話をまとめた本というのは、たいていは、ヨーロッパからアメリカにやって来て、先住民の文化をもの珍しいと思った人たちが記録したものなんです。先住民自身が書いているわけではない。だから、外国人から見た日本趣味のような、誇張されている部分もかなりあると考えられます。それをそのまま使うのもどうだろう、と疑問に思ったわけです。
 そうやっていろいろと模索していたある日、レヴィ=ストロースの最晩年のエッセイが収録された『月の裏側』という翻訳本に出会います。そこに、アメリカ先住民の神話と「因幡の白兎」には何がしかの関係があるように思う、と書かれていたんです。「因幡の白兎」と同じような話が、インドから東南アジアにかけて広く分布しているということは民俗学の世界では非常に有名です。しかしレヴィ=ストロースはその「因幡の白兎」と北米のロッキー山脈の西あたりに住んでいる先住民の神話とに共通点があることを指摘したんですね。

―どのような点が共通しているのでしょうか。
『古事記』における「因幡の白兎」の話は、主人公の白兎がワニをだまして海を渡ろうとしたとき、だましていることをワニにばらしてしまい、毛をむしられてしまうというものですよね。その後、白兎は偶然通りかかった神様たちに、毛をむしられた痛みを軽減する方法を教えてもらいます。でも実はその方法はウソで、白兎の痛みは余計にひどくなってしまう。そこに今度は大国主という神様が通りかかります。白兎にウソをついたいじわるな神様たちはこの大国主の兄弟で、大国主は彼らからいじめられていた。このときも、妻をめとるために旅をする兄弟たちの荷物持ちとして同行させられていたんです。実は、『古事記』ではこの大国主が主要登場人物の一人で、白兎のエピソードはあくまでおまけ。大国主という神様に付随する物語の一つにすぎません。
対する北米先住民の神話の大筋は、まず、主人公が太陽神の娘をめとりにいこうとします。すると途中に湖があって、それを渡るためにはそこに棲息しているワニだったりフラミンゴだったりの助けを借りなければならない。主人公はワニあるいはフラミンゴに問いを出されて、その問いにうまく答えられなければ湖に放り出されたり、食べられたりしてしまう、というものです。細かい部分は部族によって違いますが、「因幡の白兎」も北米先住民の神話も、「気位の高い渡し手」「妻をめとりにいく」といういくつかの共通点がある。
こうした共通点が、『古事記』では大国主と因幡の白兎それぞれのエピソードとして書かれていて、北米先住民の神話では一人の主人公の話としてつながっている。ここからレヴィ=ストロースはある仮説を立てます。『古事記』の話も、北米先住民の神話も、アジアのどこかにある神話がもとになっていて、そのもととなる神話では、海(湖)を渡るために渡し手の助けを借りるエピソードも、妻をめとるために旅をするというエピソードも、北米先住民の神話のように一つのストーリーだったのではないか、という仮説です。
ではなぜ、もとは一つのストーリーだったものが、日本では二つのエピソードに分かれてしまったのか。この疑問に対して、レヴィ=ストロースはこう考察しています。アジアのもととなる神話が日本に伝わり、それが『古事記』にまとめられるまでに時間がかかりすぎてしまった。そのため、ネックレスのチェーンがちぎれてビーズの玉がばらばらになってしまうように、それぞれのエピソードは別のお話になってしまったのだろう、と。一方、アジアで語られていたもととなる神話が、北米にたどり着くのにはかなりの時間がかかる。だから、神話が伝わった時期と、神話として文献にまとめられた時期にそれほど開きがなく、そのおかげで、一つのストーリーとしてまとまったままの状態で記録されたのではないか。
レヴィ=ストロースはそんな仮説を提示しながら、「私のこの仮説を、私よりも優秀な日本の神話学者が解明してくれることを期待している」と書いているんですね。でも、日本の神話学者がレヴィ=ストロースの仮説を解明したという話は聞きません。だったら、レヴィ=ストロースが残したこの宿題にぼくたちが取り組んでみたら面白いのではと思い、作品のテーマに決めました。

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―どのような構成になりそうですか?
 まだ制作途中ですが、『古事記』に書かれている「因幡の白兎」を最初に上演し、次に、北米の先住民の神話を見ていただく予定です。まず、この二つを対比で見てもらって、最後に、そのおおもとになったかもしれない、アジアのどこかにあったかもしれない神話を、ぼくらなりに構想してお客さんに提案したいと考えています。

―実際にはどのように制作されているのでしょうか。
テキストがないので、まずはテキストをつくるところからやらなくてはいけないんですが、今回、台詞は役者に考えてもらうつもりです。こうした集団創作はSPACでは初めての試みとなります。構成だとか、こういう場面が必要だとか、そういうことはぼくが指示していくけれど、その場面で何をしゃべるのかは役者に任せる。
集団創作というのは、それをやるのに適した時期があると感じています。果物が熟れるように、ある集団の歴史のなかで、集団創作にふさわしい時期というものがおそらくある。これはぼくの勘なんですけど、今のSPACは、まさにその集団創作にふさわしい時期に入ったような気がするんです。まあ、そうだったらいいな、という期待でもありますが。

―集団創作だからこそのメリットのようなものがあれば教えてください。
たとえば三島由紀夫の作品を上演するときは、三島が何を考えたのかをまず考えます。「三島は○○○な人で、△△△なバックグラウンドがある。だから、この台詞は実はこういう感覚が前提になっているんだ」、ということを考えながら三島という人物に近づいていき、その過程で台詞の意味を理解していきます。
でも、集団創作には、そういう種類の地図がありません。羅針盤がない。だから、みんなでワイワイガヤガヤと意見を戦わせてつくっていくしかないんですね。俳優という仕事は、「自分が考えることが一番面白い」と思っている人たちが就く仕事ではありません。自分が考えるものが一番面白いと思っていれば、俳優以外の創作手段を選ぶでしょう。要するに俳優というのは、「人から刺激を受けることで自分から面白いものが出る」ということを知っている人たちなんです。自分が年上だから、自分のほうがキャリアがあるからと、年下や後輩たちに自分の考えを押しつけても、面白くはならないだろうということがわかっています。だから、集団創作によって相手から刺激を受けるうちに、自分から何か面白いものが出るんじゃないかという期待がある。これは集団創作ならではのメリットです。
また、集団創作に向いている題材と、そうでない題材とがありますが、今回の題材は集団創作に向いていると考えています。最初に、「誰か個人が考えたこと、個人の世界の見方ではない作品をやりたい」ということを申し上げましたけど、この集団創作のプロセスによって、そういうことを実現できるのではないかなと思っているんです。

―俳優ひとり一人が蛇口になって作品をつくっていくイメージですね。
その通りです。とはいえ、そうやってつくっていくのはかなり難しい。神話でも民俗芸能でも、それがつくられた時代は、村人たちはみんな同じ感覚だったり歴史観だったりを持っていたわけですよね。「こういう踊りにしよう」「こういう鳥が出てきたらいいだろう」というアイデアを誰かが思いついたら、まわりのみんなも「そうだそうだ」と思える。これは、同じ感覚や歴史観を共有しているからこそです。
でも、ぼくを含めた俳優たちはそうした感覚だったり歴史感だったりを持っていません。『古事記』なら『古事記』、あるいは、北米先住民なら北米先住民の、成立した時代に共有されていたものを想像するところから始めないといけない。だから、その点においては、今回の新作は、神話や民俗芸能が生まれた過程とは明らかに違うんです。
明らかに違うんだけれど、その客観性というのかな、「本当かどうかわかならい」という疑問符を常につきつけていくところ、それこそが、芸能と芸術の違いだと思っています。芸能というのは、いってみれば、自分たちがいつのまにか持っている価値観を再確認して安心するためのものです。このいつのまにか持っている、というのはつまり、刷り込まれた、といってもいいんだけれど、それをみんなが持っているということを、確認して、安心するのが芸能の機能なんです。みんなが同じところで笑って、同じところで泣いて、同じところで憤る。そうして、「みんな同じだ」と安心する。そうやって、一つの価値観を持っている共同体の結束をより強めるのが、芸能の役割なんです。
芸術というのはある意味、正反対。刷り込まれてしまった価値観を疑うことが芸術の機能です。「みんなはこれをキレイだといっているけど、本当にそうなのか?」「どこがキレイなの?」という疑問が生じるのが芸術の面白いところ。いってみれば、刷り込まれたものではない価値観を、自分自身で手に入れることを促すものなんです。そうやって、「人と自分が違っているんだ」と気づき、「自分にとって美しいものが隣の人にとっても美しいとは限らない」のだと理解する。芸術はそのためにあるのではないでしょうか。
であれば、ぼくらの作品は、古代の村人のように、いつのまにか刷り込まれている価値観を再確認して安心するものであってはいけないのではないか。「世の中ではこれはこういう風に受け止められている」という暗黙の了解のようなものに対して、あえて疑問符をつけるような提示の仕方にしなくてはいけないのではないか。そんな風に考えています。

―「因幡の白兎」のお話でたとえると、どういうことになるのでしょうか?
「因幡の白兎」と大国主の話を読んだとき、ぼくらはまず、「この話は何を伝えているのだろう」と考えますよね。そして、「弱い者いじめをしてはいけない」というような教訓を読み取ります。それが普通です。でも、レヴィ=ストロースは、神話から教訓を読み取るというスタンスをとらなかった。神話は道徳を教えたり、処世訓を教えたりするものではなく、ただ単に、世界を認識して分析する手段なのだとレヴィ=ストロースはいっています。
だからぼくらも、そういう教訓のようなものは切り離してしまって、「人間にはこういうところがある」「この世界にはこういうことも起こりうる」という、目の前に投げ出された残酷な世界の断面を提示したいと思っているんです。
こうした試みと、集団創作がうまくリンクすれば、とても面白い作品になるはずです。俳優は教訓を欲しがっているわけでもないし、周囲の人たちと価値観を共有できていることを知って安心したがっているわけでもない。俳優は「自分を知りたい」、そして「世界を知りたい」んです。そういう飢えのようなものを感じている人たちが、神話を手がかりにお互いを知ったり、世界を知ったりしていく。それがそのまま芝居になれば、集団創作の真髄のようなものが表れるのではないかと考えています。

―俳優がしゃべるたびに台詞が変わるとしたら、制作にはものすごい労力がかかりそうですが……。
そうですね。神話というのは、語り継がれていくうちに少しずつお話が変わっていったと思うんです。これはぼくの想像ですけど、民俗芸能も同じではないでしょうか。毎回ちょっとずつ違うけれども、いつのまにか形式が決まっていく。だから、それと似たようなことは起こるかもしれません。
ただ、表現の形式というか、ルールのようなものはいくつか決めています。現時点では、均質なコロス(群衆)の役と、異質な一人の役という対比で場面をつくっていくというルールを設けています。ワニと白兎であれば、ワニは均質なコロス、白兎は異質な一人の役。大国主とその兄弟なら、兄弟が均質なコロスで、大国主は異質な一人の役という具合です。
均質なコロスをやる俳優たちは自分の口で台詞をしゃべります。一方、異質な一人を演じる俳優は、自分では台詞を話しません。代わりに、能の地謡のような、別の俳優たちが台詞をしゃべります。仮面をかぶって自分では台詞を話さない俳優と、能の地謡のように台詞をしゃべる俳優との対比も、現時点で決まっているルールです。

―異質な一人の役の台詞を別の俳優がしゃべるというルールにはどんな意味があるのでしょうか。
“異質な一人”というのが、単純にいうと、ぼくたちの祖先にあたる人なんですね。この世界がどうやってできてきたのかを考えるとき、均質なコロスがそのまま今日の世界になったという風には人は考えないんですよ。面白いもので。どうしてなんでしょうね?
たとえば古代ローマでは、ロムルスとレムスという狼に育てられた双子が祖先だということになっています。つまり、周囲とは何か違う刻印を持った者がいて、その者たちがやがて大集団を形成して今日の我々になっていると考えられているわけです。古代ローマに限らず、自分たちのルーツをたどっていくと、周囲とは違った一人とか二人とかに行き着くとする概念がたくさんあります。北米でも祖先はだいたい二人、それも兄弟です。そして、その異質な一人か二人が分身の術のように増えて、その結果として今の自分たちの村や国ができた、と考えられています。
こうした考えが世界で広く見られるのは、人間は誰しもが世界に対する違和感を持っているからかもしれません。「自分は一人ぼっちだ」「周囲とは違う異質な存在として生まれてきたんだ」という感覚を、近代になるもっと前から一人ひとりが抱えていて、だから異質の一人か二人を祖先と見なすのではないでしょうか。
だから、均質なコロスであるワニの群れが今日の自分たちの社会になっているとは誰も思いません。異質の一人である因幡の白兎がやがて増えていって我々の部族になったんだ、となるわけです。そうすると、因幡の白兎は異質な一人でありながら、今日の人間につながっているのだから、複数でもある。それなのに、白兎を演じる俳優が自分自身で台詞をしゃべってしまうと、「あいつだけが異質なんだ」と感じられてただの個になってしまいます。そうではなく、「白兎はまわりとは違うけど、本当は俺たち・私たちなんだ」と思ってもらわなくてはならないので、能の地謡のように別の俳優が台詞をしゃべるようにしたんです。

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―今回は神話という、誰が書いたのかわからない作品が題材になっていますが、誰が書いたのかわからない作品には以前から興味があったのでしょうか?
もともと興味はありました。2006年にケ・ブランリー美術館のクロード・レヴィ=ストロース劇場のこけら落としで上演した『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』はまさにそれに近いですね。『マハーバーラタ』は古代インドより伝わる国民的叙事詩で、誰が書いたかわかりませんから。
ぼくは落語が好きなんです。落語も誰が書いたかわからないものが多いんですよ。もちろん新作だとか、明治以降につくられたものに関しては誰が書いたのかはわかっています。しかし、それより前から存在していた落語というのは、原話は確かにあるけれども、それは小話のようなものにすぎず、それが語り継がれていくうちにちょっとずつストーリーが膨らんでいって、面白いくすぐりなんかも加えられていって、江戸末期ぐらいに今のような形になっている。『平家物語』なんかもそういうプロセスですね。
 そういうものは、一言でいうと、世界が大きいんです。それこそ富士山とか夕焼けのようなもので、「今日の富士山どう思う?」と聞いたら百人百様の答えが返ってくるように、厳然とそこにあるけれど受け取り方は人それぞれ違う。僕はそういうものがつくりたいんです。
同時代のアーティスト、三島由紀夫なら三島由紀夫という人の苦難の道を知ることが自分にとってものすごく励みになる、ということはもちろんあります。三島を知れば知るほど、自分の孤独が癒されるということはもちろんある。でもそれとは正反対の、それ自体は何ら見方を決めつけていない、限定していない、富士山とか夕焼けとか滝とか、そういうどでかいものをつくってみたい。そして、それができるとしたら、やはり、誰が書いたのかわからない作品だと思うんです。

―百人百様の見方があるということは、見る側の感性も試されますね。
そうですね。ただ、百人百様ということは、どんな楽しみ方もできるということですから。近代の芸術は、共感できないと十分に理解できないでしょう。そして、その共感というのは、何らかの共通点が見つかるということだから、万人に理解される作品というのはなかなかない。三島由紀夫の戯作であっても万人に開かれているわけではなくて、さっぱり接点がない人もいます。これは近代の芸術であれば当然のこと。むしろ近代現代で万人が面白がるようなものは、長い生命を持ち得ない。数年後にはみんな忘れちゃう。
ところが、『マハーバーラタ』や落語、『平家物語』のような誰がつくったわけでもないものは、万人に開かれていながら、長い生命を持っています。大人も子どもも、大人なりに、子どもなりに、楽しめる。今、幸せな人も、今、自分は不幸だと思っている人も、それぞれに楽しめる。そういう風にできていますよね。しかもそれは、数年経ったらみんな忘れちゃう類のものではなく、一人ひとりのなかに何か大きなものを残していく。そうやって何百年、何千年もの生命を持つことができる。これはものをつくる人間としては本当に理想で、そういう作品をつくれたら素晴らしいなと常々思っています。

―誰がつくったのかがわからない作品には、どんな見方もできる多様性があると。
そうです。さきほど、芸能の機能は価値観が一つだということを確認して安心することにあると申し上げたけれど、そういう機能が前面に出てくると不安も生じるんです。「あの場面でみんな笑っていたのにぼくは笑えなかった」「同じ場面で笑えないなんて、どうやら自分は人とはちょっと違っているみたいだ。みんなと合わせなきゃ」という具合にね。
これは、今日の芸術がやるべきことではないと思っています。そうではなく、「みんなが笑っているところでぼくはむしろ切なくなった。でもそれでいいんだ」と見る人に感じてもらうことが、今の芸術の機能だと思っているんです。いろいろな価値観があって、それが肯定される寛容さだったり、みんなが容認しあえるような空気だったりが、作品を見た後に生まれると一番いいなと思いますね。

―「ふじのくに⇄せかい演劇祭」は、前身にあたる「Shizuoka春の芸術祭」から数えて今年で16回目となります。観客の反応はいかがですか?
演劇というものに対して、「敷居が高い」と感じている方がまだまだたくさんいらっしゃいます。東京で活動していたときはそんな風に感じたことはありませんでしたが、今思うと、東京のほうが珍しいんです。ヨーロッパでも、演劇というのはある程度は敷居が高いと思われていますから。演劇は「余裕がある人が行くもの」と思われていて、そういう感覚のほうが世界的にはメジャーなんですね。そのことを、静岡に来てSPACに携わるようになってつくづくと感じています。
もちろん、演劇をやる側としては、「そんなことはないですよ」と言いたい。演劇は俳優が生のエネルギーをお客さんにぶつけるもの。基礎知識が必要だったり、子どもの頃から芸術に親しんでいたという素養が必要だったりとか、そういうことはまったくありません。でも、ぼくたちがいくらそう言ったところで、「演劇は敷居が高い」という先入観があるのは事実ですから、その先入観をどう払拭して、どう超えていくかがこれからの課題です。

―最後に、今年のせかい演劇祭の見どころを教えてください。
今年は「ふじのくに⇄せかい演劇祭」と「ふじのくに野外芸術フェスタ」を同時に開催します。「ふじのくに⇄せかい演劇祭」はいわばセレクトショップ。演劇界における世界最先端の作品をご覧いただけます。一方、野外で上演する作品では「演劇って敷居が高い」というイメージを払拭したい。『イナバとナバホの白兎』は駿府城公園で上演しますので、劇場へ自然に足を運ぶようになるための、いわば敷居をふわっとまたぐスロープのような舞台にできるといいな、と考えています。ぜひ観に来てください!

2016年2月3日 静岡芸術劇場にて

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ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
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