劇評講座

2012年11月9日

■依頼劇評■『ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1 評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話』井出聖喜さん(構成・演出:パヴォル・リシュカ、ケリー・コッパー)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1
評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話


井出聖喜

私: ああ、H? その後、身体の方はいいの? ……それはよかった。ところで、ちょっといいかな。この間SPACでおもしろい芝居を見てね。
彼: SPACか……。また、難しい芝居じゃないのか。
私: いや、それがミュージカルなんだ。オフ・ブロードウェイ。
彼: ふうん。日本で言ったら宮本亜門の『アイ・ガット・マーマン』みたいなものか。
私: 単純な思いつきにしては、いい所を突いているかもしれない。『アイ・ガット・マーマン』は二台のピアノと三人の女優が共に「ブロードウェイの女王」エセル・マーマンの生涯を演じていくというものだが、この作品も小編成のバンドと三人の女優が一人の女性の半生をたどっていくというものだ。ただし、途中から男優三人が加わり、更に後半ではバンドのメンバーも舞台上でのパフォーマンスに加わることになるのだが、決定的に違うのは、こちらの作品はエセル・マーマンのような有名人の物語じゃないという点だなあ。無名の人物の幼児期の、だれかがちょっと好きだったとか、教室でもらしちゃったとかいう、まあ取るに足りないエピソードを脈絡無く連ねたもの。タイトルは『ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1』というんだ。
彼: エピソード1? まるで『スターウォーズ』じゃないか。 『ファントム・メナス』ってね。……しかし、そっちの方は全く壮大じゃなさそうだなあ。日常を拡大鏡で覗いてみたといった感じなんだろ。
私: 『スターウォーズ』は宇宙的に壮大で、これは日常茶飯事的トリヴィアリズムに縮こまっているか……。いや、それがそうとも言えないんだなあ。これもある種、壮大な物語と言えなくもないんだ。
彼: へえー、どういうことだ。
私: この作品の演出家でもあり戯曲作家でもあるパヴォル・リシュカとケリー・コッパーが、今回の上演で鉄琴とフルートを担当しているクリスティン・ウォラルに電話インタビューをし、彼女の半生を語ってもらった。その時は2時間で終わったが、この電話インタビューはその後も続き、全部で10回、16時間に及んだらしい。今回の作品はその最初の部分の話を元にしていて、現在エピソード4まで上演されているようなんだ。すべてのエピソードが完結すると24時間に及ぶということだ。
彼: 24時間! よくやるよっていう感じだなあ。ワーグナーの『ニーベルングの指環』よりも長くなるなあ。しかし、延々とやるから壮大だ、ということではないだろう。
私: 確かにそうだ。僕がこの作品を壮大だというのは、必ずしもそういう意味ではないんだ。しかし、そのことについて言う前に、少し説明しておかなくてはならないことがある。この作品、休憩10分を挟んで、3時間半に及ぶんだが、驚いたことにその間すべての言葉に音楽が付けられているんだ。
彼: すべてに? ロイド・ウェッバーのミュージカルみたいにか。──ということは、まあ、電話の話を元に作詞をした、つまり韻文に仕立ててあるんだな。
私: あ、さっきの僕の言い方がまちがっていたな。「話を元にして」ではなく、「話をそのまま」なんだ。つまり、日本語で言ったら「そんでね、なんつったっけ、……ああ、そう、」式のダレた言葉までそっくりそのままメロディーに乗って歌われるんだ。
彼: 会話体がそのままか。ということは、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の「You’re Herod’s race! You’re Herod’s case!」のように韻を踏んではいないんだな。『サウンド・オブ・ミュージック』の中の美しいナンバー『エーデルワイス』の「Small and white clean and bright」のように、言葉のリズムが自然に音楽を呼び起こすようにはなっていないんだな。そんなものがメロディーに乗るのか?
私: それが見事に乗っかってるんだ。驚いたよ。コミカルな曲調、叙情的な旋律、ドラマチックな盛り上がり、メニューは実に豊富なんだ。実は、メロディーに乗って切れ目無く次々に言葉が飛び出してくるものだから、最初はちょっとメリハリがないというか、焦点が絞れないというか、そんな感じを持った点もあったんだけど、10分の休憩を挟んだ後半、主人公が親戚の面々について語るところに付けられた音楽は、ちょっと郷愁を誘うような、哀調を帯びた悠然たるメロディーで、本当に聞き惚れてしまったよ。その辺りから音楽全体に変化が出てきて、作品世界が芳醇な香りを放つようになるんだな。
彼: ふうん。それは、聞いていないこちらの身には何とも言えないなあ。……で、ダンスはどうなんだ。あるんだろ、ミュージカルなんだから。それともスティーブン・ソンドハイムの作品のように、ダンスはなし?
私: ダンスねえ。少なくともボブ・フォッシーの作品のような、あるいはディズニー・ミュージカルのようなダンス・シーンはない。つまり、クラッシック・バレエもモダン・ダンスも、ブレイク・ダンスも、ここにはないんだ。強いて言えば、ラジオ体操とピンポンパン体操の中間程度におもしろくて地味な身体パフォーマンスがあるといったところかな。これは、主人公の幼児期から小学校低学年の時期を描いていることから来ているのかもしれない。また、この身体の動きのフォームは固定されたものではなく、舞台下のバンドのそばにいるプロンプターによって即興的に提出されるカードの指示に基づいており、毎回異なっているんだ。これは、固定された言葉や旋律に即興的な身体の動きをぶつけることで俳優を絶えざる緊張感の中に置く、そしてそのことによって演技の鮮度を高めさせようとしていると思うんだ。
彼: はっきり言えよ。お前は最初におもしろいと言ったが、「興味深い」といった外交辞令的な意味であってだなあ、心底楽しんだわけじゃないんだろ。
私: いや、楽しかったよ。それも滅法。
彼: ということは、その電話で自分の半生を語ったという女性の話というか、人生が波瀾万丈のドラマを持っていたということか。
私: それについては全くなし。さっきも言ったけど、だれの話にも出てきそうな、ごく普通のエピソードばかりなんだ。
彼: そんなもの、どこがおもしろいんだ?
私: 確かにな。……Hさあ、僕の子供の頃の話、例えばササキトモコちゃんの話、聞きたいか?
彼: 何だよ、それ。知らねえし、聞きたくもないよ。
私: そうだよな。僕も話すつもりはない。いや、君に限らず、ほかの誰にもね。それは、自分の個人的な体験や思い出など人様に聞かせる価値などないと思っているし、君が言うように、誰も僕の話になど興味を持ってくれないと思っているからだ。個人のありふれた体験を、「神話的時間」に掬い取ってみせたり瑞々しく表現してみせたりするのには、特権的才能を持った作家による高度な文学的、映像的洗練を必要とするわけだ。──で、君や僕のような平凡な人間の体験は、僕らの内部に封印され、行き場を失ったまま、その人の死と共に雲散霧消してしまうことになる。今、地球上に70億の人間がいるとすると、その70億の固有のエピソードやドラマが、誰にも知られることなく、次々に消えていくんだ。
彼: だからどうだって言うんだ。それでいいじゃないか。俺たち日本人には少年期を生き生きと描いた井上靖のいくつかの小説があるし、『となりのトトロ』だってある。お前の小さかった頃の話などだれにも知られることなく消えたってだれも惜しまない。
私: 僕が言うのはね、個人のありふれた体験を普遍的な世界に高め、仕立て上げるんじゃなくて、ありふれた体験そのものが光り輝き出すことがあるってことを、この作品で知ったということなんだ。日常の些事それ自体がドラマであるってね。もちろん豊かな音楽や俳優の見事な歌唱力という要素はあるが、それも含めて、実はこの作品そのものが一種の触媒なんじゃないかって思ったんだな。どういうことかって言うとね、この作品に身を浸しながら、ある瞬間、僕は自分の中に長いこと埋もれていて埃をかぶっていたずっと以前の記憶が、ほんとうにあふれんばかりに豊かに蘇ってくるのを感じることがあったんだ。そうして、平凡な人間の平凡な体験の数々が、実はそのまま瑞々しくも豊かなドラマであって、そうした豊かなドラマがこの世界には殆ど無数に存在するってことに思い至ったんだ。僕が言う「壮大」ってのは、そういう意味なんだ。
彼: 体験そのものを輝かせるというのはいいとしても、だからといって「ええっと、それで」といった意味のない、はっきり言えば無駄な言葉をそのまま残しておくことにどんな意味があるんだ?
私: この作品を作り上げた二人のうちの一人パヴォル・リシュカは、電話でのインタビューそれ自体は単なる素材であって作品にはなっていないと言っている。その素材を作品化するのに一年半近くかかっているようだ。しかし、それはさっきも言ったように、素材を芸術家の審美眼で取捨選択して、だめな部分を切り捨てていくというのではなく、素材のすべてに光を与えようという、これまでだれも試みたことのない実験を成功させるために必要とされた長い時間だったんだな。そして、行きつ戻りつする語り口、記憶を修正したり言い間違ったり言い直したりするしどろもどろのおしゃべり、それらをすべてそのまま作品化するというのは、そのリアルな語りの中にこそ、その人物のリアルな体験が息づいている、言い換えれば「語り口」と「語られた内容」とは不可分のものである、とこの作品のクリエイターたちは考えたということなんだと思う。
彼: そういうものかねえ。……ところで、今回上演されたのはエピソード1なんだよな。次のエピソード2が静岡で上演される予定はあるのか。
私: さあね。そうなることを希望するとしか言えないね。
彼: 1でも2でも、もう一度上演される機会があったら、仕事の都合を付けて、実家のお袋に会いがてら見に行ってみようかな。何しろお前の話は信用できないから、自分で確認するのが一番、というわけだ。