よろ星—―弱く激しい光りに灼かれて
観劇の直前、「よろ星」と題された演出・石神夏希のノートを読み、まるで雷に打たれたような心地がした。瞬く間に私の中に現れた「俊徳」という「星」。彼という「アイドル」。それを証明するための四人の父母というコロス。救われない魂とそれを救おうとする級子の存在。この上演は「星ですとも、お前は。」に行き着くための道筋である。俊徳が星であることを証明するための時間である。そして上演中、現実にそれらが目の前に立ち現れると一種の気恥ずかしさのようなものすら
覚えるほど、私は石神氏の感覚に共鳴した。
まるでプロレスリングのような四角形の白い舞台。四方から囲む形の観客席からは、対角に置かれた二組の椅子、スタンドマイク、扇風機、そして舞台の真ん中に梯子が見える。頭上には、小さな四角い穴がひとつだけあいた白い円環。そこへ、ペンキで塗ったような、真っ青と真っ赤、真緑と真っ黄の衣装に身を包む二組の父母たちが登場し、それぞれ椅子に座る。そしてクマのようなかぶりものと尻尾、毛むくじゃらの靴にアロハシャツ、半ズボン姿の八木光太郎が現れ、舞台隅の扇風機のスイッチを押す。が、扇風機は回らない。
「ひどく蒸しますのね。こんな風で、扇風機もございませんし……。」
八木は語り始める。『弱法師』は、戦災で盲目になった美貌の青年・俊徳をめぐり、二組の親子が争う家庭裁判所の一室で起きた出来事の物語だ。といっても、起きることといえば、俊徳と対峙する実父母と養父母の二組の両親になすすべはなく、家庭裁判所の調停員・桜間級子のみが彼を救おうとする、それだけである。冒頭のセリフから、八木が演じているのが級子であると観客に示されるが、原作のト書きには「四十歳をこえた美貌の和服の女」とあり、彼はその全てからかけ離れた存在だ。八木は先述のような格好で、言い争いになりヒートアップする二組の親子に対し、レフェリーのようにマイクを使い、煽るようにパフォーマンスをする。ひとりだけ舞台から切り離された、いわゆる狂言回しとしての役割をも持つ存在なのだと思われた。
上演の前半部では、男性である八木光太郎が桜間級子を、女性である山本実幸が俊徳を演じる。男女逆転の上演だが、後半部ではそれがさらに逆転し、八木が俊徳、山本が級子となって物語が繰り返される。山本が演じる俊徳はクマのようなぬいぐるみを片時も離さず、繊細かつ激情うずまく青年だが、八木が演じる俊徳は白杖をもち、終始大げさでコミカル、非常にデフォルメのきいた振る舞いをする。しかし、二人が「居る」場所は変わらない。八木は自らが運んできた椅子に、山本は舞台中央に置かれた梯子の上に、ずっと「居る」のである。八木はマイクというアイテムによってレフェリーという役割が与えられ、対して山本は梯子を審判台とするという演出なのだろうが、これは社会において「男」と「女」がどのように扱われてきたかということの暗示であるのかもしれない。つまり、「男」は自ら座る椅子やマイクを好きに運び、好きに置き、パフォーマンスをすることができるが、「女」はそうではない。置かれた梯子に登るしかなく、またそこで晒されていながら、ふだんは目の高さからは見えない、マイクもないところにいるしかないのだ。
また、二人の俊徳が起こす「繰り返し」が、俊徳が訴え続けた「言葉の無意味さ」を自ら証明するものとして強く作用していくことになる。つまり、先に道化の恰好で級子を演じた八木が「ほんとうの」道化である俊徳となり、審判台に乗せられたままの山本が俊徳から級子になることで、男女逆転というねじれが元に戻るのではなく、言葉と振る舞いにおける「ねじれ」が、さらにねじれてしまうのだ。そうして俊徳の存在はより空虚で、しかしながら爆発的なエネルギー体として輝きを増していく。物語が進むにつれ俊徳は激高し、まぶたの裏側に見え続ける絶望について捲くし立てる。その様は、真っ裸でこの世を彷徨い歩き、自分自身の心をも灼き尽くすその光りこそが彼の魂である、と観客が納得してしまうほどの熱量である。この、いまわれわれの目の前にある熱量こそが、「よろ星」と題された演出の通り、俊徳が「星」そのものである証明なのだ。そして二組の父母は、俊徳が支配権をもつ世界の住人となる。虫けらにまで自らをなげうち地面を這いつくばる様子は悲惨そのもので、彼らを演じる俳優たちの立ち振る舞いは見事である。しかし、そんな彼らの「星ですとも、お前は。」に、俊徳は共鳴も共振も示さない。彼の魂はひたすらに孤独で、ひたすらに痛み続ける自身の光りで全てを灼きつくすことしかできない。つまり、彼は共鳴できないから孤独なのではなく、孤独であるから共鳴できないのだ。
このような美しい青年の絶望という甘美な時間は、それでも、絶望の果てにわずかな希望を残していく。級子の存在である。彼女だけが、俊徳の言葉に共鳴も共振もせず、ただひたすらに俊徳を現実の世界に救い(掬い)あげようとしている。手を握り、俊徳を諫め、俊徳のために使い走りをしようと部屋を出ていくと、回らなかった扇風機が回り始めた。最後に、山本版の俊徳が肌身離さず、八木版では高安の母が持っていた、あのクマのようなぬいぐるみが椅子に置かれ、それがライトアップされて、幕は下りる。ちっぽけな慰めの存在がゆっくりと照らし出され、全ては夕暮れあるいは劫火のなかにぽつねんと座り込む俊徳が願う、自身の行く末についての夢だったのかもしれないと思う。けれど、もうこの悲劇の上演が繰り返されることはなく、静寂の中、鎮魂の風鈴の音だけが響くのだった。