劇評講座

2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

カテゴリー: 彼方へ 海の讃歌

■準入選■

孤独な“観客”  ――「彼方へ 海の讃歌」を観劇して

渡辺美帆子

あんな拍手の音を聞いたのははじめてだった。たった一人の俳優、ジャン=カンタン・シャトランは観客の鳴り止まぬ拍手に応え、何度も舞台上に呼び戻され、まっすぐ正面を見つめた。

演劇を観ているとき、人は孤独だ。劇場が笑いに満ちても、涙に満ちても、一体になることはない。客席に座る一人一人は別々のことを感じ、別々の人生を参照している。しかし、今までに「彼方へ 海の讃歌」を観たときほど、その孤独さを強く感じたことはなかった。それは舞台に立つたった一人の男、その男自身もまた、孤独な“観客”だからであろう。

舞台はうす暗く、俳優の姿は闇の中で浮かび上がるようだ。俳優はただ正面を見つめている。そこから一歩も動かずに正面を見つめている。

俳優が見ているのは海だ。詩人が見つめている海だ。詩人は海の感覚に飲み込まれ、そこを行きかう船や船乗り、船乗りに略奪され凌辱された女に思いを馳せる。詩人はその全てになりたいと願う。しかし、詩人はただ波止場に立つことしかできない。海やそこにいる人々の血になりたいと願う。しかし、詩人はそうなることはできない。「ああどうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!」。そこにあるものがたとえ残忍さであったとしても、それを感じたい。いやむしろ「血なまぐさく、凶暴で、嫌悪され、恐れられ、崇められる」ものがいい。「海の生活の陰鬱でサディスティックな情欲が俺からほとばしる」。詩人はサディステッィクに、マゾヒスティックに叫ぶ。ときに言葉になる前の摩擦音で、ときに大声で、ときに絞り出すような声で、震える唇で、それを叫ぶ。俳優は動かない。しかし、その息遣いや表情で痛いほどの感情が伝わってくる。私は仏語がわからないが、だからこそむしろその音やリズムが彼の切望を伝えてくる。

「切望でいっぱいのおれの人生の窮屈さ」と詩人は自らの状態を語る。彼の目線の先には世界がある。しかし、彼はそれを見つめることしかできない。海に、船に、人々に、同化することはできない。ただ正面を見つめ、そこに入っていかれない自分の体を思うことしかできない。俳優は一歩も動かないことで、どんどん存在感を増していく。時間が経過することがとても効果的に使われている。俳優のゆっくりした喋り方も、観客の時間感覚を日常から引き離す。俳優が舞台上で一人きり、届かない世界を思うにつれ、観客も自分が一人きりであることに自覚的になっていく。

観るということは窮屈なことだ。どんなに感情が動かされても、そこに参加することはできないし、影響を与えることはできない。客席の最前列に座ると、芝居の途中に舞台上に侵入したいという気持ちになることがある。小劇場の客席最前列と、舞台の上に物理的な距離はほとんどない。しかし、観客は舞台上に入ってはいけない。まれにそれが許されるのは、演出が観客を舞台の上に連れてこいと命じたときのみである。観客が無断で舞台に上がってしまうと、芝居は止まってしまう。観客は舞台上で起こる様々なドラマを見つめる。しかし、観客は客席という狭い場所から動くことは許されていない。観客は舞台から隔てられているのだ。どんなに感動したところで、観客が見ているものは、観客の頭の中の妄想にすぎない。一人一人の頭の中の世界は決して誰とも共有されることはない。詩人が自らの体の窮屈さを嘆くのと同様、観客も自らが一人きりで、誰とも同化され得ない存在であることを理解している。

「彼方 海の讃歌」は鏡のような作品だ。そこには他者がいない。対話も事件もない。詩人が語る他者、対話、事件は、詩人の言葉の中にしかいない。それらは詩人の頭の中で激しく描写されるが、現実にはどこにも存在しない。そしてそれを詩人自身が深く自覚している。それはこの作品が一人芝居であることや、モノローグであることにも由来するが、それだけではなく、詩人の世界観にも由来する。レジは詩人について、パンフレットに「フェルナンド・ペソアの人生には、旅も性生活も、実際には起こらなかった。だが精神のなかで彼は大波に乗り、性の境界を自由に行き来しながら、サド・マゾヒズムの限界を超越した」と書いている。実際の現実にくらべ、精神はなんと自由なことだろう。観客の精神もまた自由だ。

本作品は観客の想像力を広げさす。俳優の動きはなく、照明は薄暗く、音響も最小限しか用いられていない。観客の集中力を保とうとする為の仕掛けは全く行われていない。しかし、観客の集中力を保とうとする為の演出は、観客をアジテートし、観客の想像力を奪うことにも繋がる。本作品で、観客の想像力は自由に広がっていく。しかし、観客は自分の集中力が切れることと戦わなくてはいけない。例えばお腹が鳴ったり、隣の人がもぞもぞ動いたり、色々な現実が集中力を途切れさそうとする。その葛藤は、詩人の葛藤と同じ葛藤である。想像力は自由だが、現実はそれを妨げようとする。観客の中で起こった想像力の自由さと、現実がそれを妨げようとする葛藤は、詩人の言葉の葛藤そのものだ。

カーテンコールで他の観客の拍手を聞いて、私はとても安心したような気持ちになった。2時間の孤独な観劇を終え、現実の他者である他の観客の存在が、やっと傍に帰ってきてくれたように思えた。そして、他の観客も私同様に本作品を称えていることが奇妙に素晴らしいことに思えたのだった。

『4.48』(スン・シャンチー振付)

カテゴリー: 4.48

■準入選■

あの時何を思って生きていただろう・・・・

杉山早也佳

彼らの演技・演出の合間、合間そんなことを思った。
(6/6)4・48という作品に私は出会った。作品内容も、タイトルも知ることなく・・・
彼ら(カンパニー・シャンチー・ムーブ)のオープニング(プロローグ?)を観て、ああ、そこは私の居た場所だ、もう帰りたくない場所だ。それと同時に綺麗だと思った。
“美しい”とは違う、漢字のままの“綺麗”という表現が適切に感じた。
そして私の今までの人生、いや正確には人生の半分は綺麗だったのではないか?と自分に問う事ができた。
(今私、だったと過去形を使った??)そう4・48は私の人生の半分だった。

作品中の描写(絵画・音・起こり来る衝動)は精神を侵すそのものであり連想する空想・妄想・ビジョンは、まさしく頭の中の映像そのものである。サラ・ケインの残したものからも得たのだろうが、そう感じられたのはスン・シャンチー氏の表現力の素晴らしさ、そしてカンパニーの表現力の凄さと感じた。

そんな事がどうして言えるのか、わたしはこの歳までの半分、人生の半分をサラと同じような感覚・感情で生きていたから。生きていたなどおこがましく流れていたに近い。
精神科医はまとめて私たちのことを鬱と呼んでいる。しかしその中身は幅広い。
しかし、この作品を観て感じ、過去形を使ったことによって今私の人生は大きく動いた。
・・・ 私は、汚く・暗く・いやらしい世界に身を投じている・・・であったのが、その先を、観て見たいと思えた。その先を彼らに演じて見せて欲しいと・・・。
私はこの作品に出会い、私の観念であった汚く・暗く・いやらしい世界を綺麗だと思えたのである。
感謝の気持ちでいっぱいになった。心からありがとうと申し上げたい。
サラ・ケインは28歳でこの世を去ったと資料でわかる。この歳で亡くなり、作品を表現される事があるからこそ、彼女の死の意味や、あり方を考えなくてはと思った。
私が偶然にも彼女と同じ28歳であること、同じ感情を抱いていたこと、今日この作品を感じられたこと。・・・きっと人生に偶然など無い。だからこれからの人生をどう生きることで、カンパニー・シャンチー・ムーブに感謝の意を伝えられるのか?
それは、わたしたち観る側・感じ、受け取る側としての傲慢な感情かもしれない。
人の心は絶対に理解できることなんてない。しかし知りたいし知ってもらいたい!
人間は、そんなわがままな感情を持つ生き物である。100%作品を理解するなんてありえないが今日、私が作品を感じ心からカンパニーに“ありがとう”と思ったのは事実である。
そして、サラ・ケインにもスン・シャンチー氏の心をかきたててくれてありがとうと・・・

サラが今何を感じているのか?空の彼方から彼女も綺麗と思ったのならば、わたしたちは救われる。

『王女メデイア』(宮城聰台本・演出、エウリピデス原作)

カテゴリー: 王女メデイア

■入選■

丹治佳代

暗くなりゆく有度の森を背景にし、細かい雨と異界から漂ってくるような霧に包まれ、6月26日上演の『王女メデイア』は野外公演ならではの非常に美しい舞台となった。宮城聰演出の『王女メデイア』は、明治時代の日本において、法律家の男たちによって催された宴席での余興として、つまり劇中劇として演じられる。男たちは登場人物の台詞を語り、朝鮮から連れてこられたと思われる女たちが、生きた人形として舞台上で無言のまま動き回る。

この『王女メデイア』は、ク・ナウカ活動時から宮城聰の代表作と言われ、インターネット上でも過去の上演について多くの劇評を読むことができる。そこで、本劇評においては、ロゴスと非ロゴス的なものとの対立、そして後者による前者への復讐…といった点は他の劇評に任せることにして、(他の劇評ではあまり論じられていないと思われる)本作品における「破滅と再生」という点に論を絞り、評を進めていきたい。

破滅と再生というのは、ギリシア悲劇を考える上で外すことのできないキーワードである。主人公オイディプスが、人間としての視力(=ものごとの仮象の姿しか見ることができない)を捨てることで神的な視力(=真理を見る力)を得ようとする姿を描いた『オイディプス王』など、ギリシア悲劇作品は、「現在のあり方としての破滅と、さらに高い次元の存在への再生」というテーマを含んだものが多い。エウリピデスの『王女メデイア』も例外でなく、子殺しを終えたメデイアが竜車に乗って上空へと去っていくというラストシーンにおいて、彼女が人間を超える存在となっていくことが示されている。

では、メデイアの再生を端的にあらわすこのシーンを完全にカットした宮城版『王女メデイア』において、「再生」は、そして再生の前提となる「破滅」は、一体どのように表されているだろうか?

まず、「再生」の前段階となる「破滅」について。私は、宮城版『メデイア』を観るまで、メデイアの破滅というのは子殺しを行なってしまうことだと思っていた。が、宮城演出により次のことに気づかされる。メデイアの破滅というのは劇が始まる前に生起しており、メデイアはすでに破滅を引き受けながら生きているのだ、と。つまり、メデイアにとっての破滅とは、劇の前から前提としてあること―「女であること」そして「(ギリシアにおいて)異国人であること」だ。このことを気づかせるのは、上演前の光景―観客が客席に案内される間ずっと、舞台上では女たちが頭に紙袋を被せられ、手には自分の写真を持ち、微動だにせず静止している―だ。この一見異様な光景は、主体性を奪われた女たちが、自らの遺影を手にし、静かに自らの弔いを行なっている様子を物語っているのではないか。つまり女たちは、上演が始まる前にすでに、自分自身を弔ってしまっているのだ。ここで弔われているのは、強固な男性原理・家父長制度のもとで女として生きる存在、また帝国主義のもと異国人として生きる存在だ。舞台上にあらわれる男たちの騒々しさに比べ、彼女たちの静かさは、その内に強靭な力を秘めているように思われる。

劇中劇としての『王女メデイア』はほぼ原作どおりに進められてゆくが、上演前に早々と自らの弔いを決行してしまった女たちにより、男たち―支配の側にある存在―の世界が徐々に侵食されてゆき、ついにラストシーンで、今までの力関係が一転する。語り手の支配下におかれた人形であった女たちが男たちに次々と襲いかかり、躊躇うことなく彼らを殺していくのだ。鈴を持ち、赤いスリップドレス姿になった美加理のたっぷりとした豊かな肉体が圧倒的に美しく、原始的で力強い母性を感じさせる。この「女たちによる男たちの殺害」というラストシーンこそ、竜車に乗って去っていくメデイア像の代わりに、宮城聰が本作品に与えた「再生」のシーンである。女たちに殺された男たちは床の上で丸くなるが、その姿は母親の胎内で誕生の日を待つ胎児のようだ。女たちは、男たちに復讐を行なったのではなく、再生させるため、新しく生きさせるために、彼らを殺したのだ。つまり本作品においては、すでに破滅を引き受けた存在がその手で、これから滅びることになる者たちに、再生の契機を与えている、と言えよう(男たちの行く末は、床に敷かれた日の丸―書物の差し込まれたオブジェが突き刺さり、血を流しているかのようだ―によって暗示されている)。こうして宮城版『王女メデイア』は私たちに、「今あるあり方から脱し、新しく生きるためには、まず一度滅びねばならない」というメッセージを投げかけ、幕を閉じる。

また、本作品における「破滅と再生」を語る上で欠かすことができないのは、襤褸をまとい最初から最後まで舞台脇に座り込む乳母の存在である。彼女は、二千年以上『王女メデイア』を観続けてきた観客であり、現在本作品を観ている私たちであり、これからも『王女メデイア』を観続けていく存在だ。終幕時、イアソン役の男性にそっと上着をかける乳母の姿は、「私たち人間は、時代を問わず洋の東西を問わず、エウリピデスの生きた時代のずっと前から今に至るまで、常に再生を求め続けているのだ」ということを強烈に語っていた。
宮城版『王女メデイア』については、その演出において「男性と女性」「ロゴスとパトス」などといったわかりやすい説明図式を用いたことで、劇として幾分単純なものとなった、と論じられることもあるようだ。しかし本作品は、女たちによる男たちの殺害という強い劇的カタルシスの後に、人類が絶え間なく抱き続けてきた再生への切実な希求―それは絶望でも希望でもあるのだろう―を感じさせるという、非常に複雑で深い余韻を残すものであり、単純などといった言葉からは遠くかけ離れた作品であると言えるだろう。
(6月26日観劇)

『セキュリティー・オブ・ロンドン〜監視カメラの王国〜』(アントニー・シュラブサル演出、ゼナ・エドワーズ作・出演)

■入選■

「セキュリティー・オブ・ロンドン」~安全神話の崩壊の後で

柴田隆子

ロンドンの監視カメラの多さは有名である。監視カメラはプライバシーの観点から問題視されてきたが、昨今の犯罪増加と凶悪化を受けて、必要悪としての存在から安心のツールへと変化しつつある。しかしロンドンの犯罪認知件数はいまだ日本の倍以上あり、監視カメラに代表されるセキュリティー・システムでは全てを網羅することは不可能であり、高いコストに見合う安全性を保証しえないことは明らかだ。この作品はその現実を踏まえて、本当の「セキュリティ」とは何かを考えようというものだったといえる。

物語は短いショットでつながっているものの、監視カメラの映像を見たことのない筆者には、その「目線」なるものは意識できなかった。その代わりに見えてきたのは、「どこにでもいる」異なった価値観をもつ人たちのユートピア的つながりである。ゼナ・エドワーズが一人で老若男女4役を演じ分ける登場人物は、47歳パレスチナ出身の男性、16歳アフリカ系カリブ人の双子、82歳の戦争帰還兵の男性の4人である。世代の違いだけでも大きく感じられる日本にいると、人種や民族の違いからくる文化の違いは途方もなく大きなものに思われるが、登場人物たちはその隔たりを軽々と乗り越え、目の前にいるはずの人間とつながっていくように見える。むしろ物語で双子の兄の命を奪うのは、視覚情報のみで彼をその父親と間違えることができた見知らぬ者たちという設定になっている。ここで提示されているのは絶対的な他者と、知合うことのできる他者という二つの「他者」である。凡庸な見方ではあるが、絶対的な他者への防御の身振りとして、理解可能な他者とのつながりが示されているといえよう。

「他者」と「セキュリティ」の問題の一方で、この上演で目をひいたのは俳優の身体である。彼女はまるで透明な衣服を着るかのように、瞬時にペルソナを身に纏う。素顔のまま、だぼだぼしたスウェットスーツを着替えることなく、性別や年齢の異なる人物に変身する。それを可能にしているのはもちろん彼女がもつ表現能力の高さであるが、そもそも人種や民族、年齢やジェンダーといった階級秩序は、表現されたものの差異に依拠した存在なのである。腰のまがった歩き方や爪のおしゃれに気をつかう身振り、写真を見てナルシスティックに喜ぶ表情など、細かな身体所作に示された登場人物の個体性は、ロンドンとは異なる文化的背景をもつ日本の観客にとっても識別可能である。ロンドンに住んでいる住民など想像しがたいにもかかわらず、目の前で演じられている人物たちがあたかもそう振舞うだろうことを知っているかのように見えてしまうのは、我々の意識にある種の刷り込みがなされており、それがコードとなって一人の俳優の身体を、複数の登場人物にしているのである。これは衣装やメイク、あるいは仮面をつけて他の人物になりきる演技表現とは異なるものである。

さらにそれを特徴付けたのは、彼女の使い分ける声音と音楽、特に音楽がもつリズムである。残念ながら筆者が見た回はゼナの声は枯れていて絶好調とはいえなかったが、彼女の身体から発せられる音声、リズムにこの上演の成否がかかっていたといっていい。出身や所属する文化圏を示すのに彼女の歌う音楽が用いられる、それはブルースであったりラップであったり、詳しい出自はわからなくてもある文化領域を想起させる。ひょっとしたらこの想起されたイメージは、作者であり演者でもあるゼナの意図するところと違っていたのかもしれない。だが、話す声音の高低の差を感じ取るように、それほどよく耳にするわけではない音楽に対して、そのリズムや雰囲気の差を感じ取り、意味づけがなされたのである。

この公演に、「世代や出自の異なる見知らぬ他人同士だって、つながれることはあるよね」といったユートピア的な信頼の提言だけをみるわけにはいかない。そうした考え方は個人的には決して嫌いではないが、むしろここで示されているのは、世界大戦やパレスチナで多くの人が殺された後でも、あいかわらず人が人を殺すという事態が続いていて、監視カメラ王国と呼ばれるロンドンであっても、システムではそうした「犯罪」は抑止しきれないという前提である。その上で、人と人がつながることがどういう意味かを観客自身が考えなくてはいけないのだろう。殺された少年は父親と間違えられたわけだが、ゼナの早変わりを楽しむ我々の目はそうした誤解と無縁だろうか。舞台芸術を楽しむためにも、混沌とした現実を生き抜くためにも、ある種のカテゴリー化とそれを見分けるスキルが必要ではあるが、そのコードに無自覚になっていないだろうか。あまりにも見事に4人の登場人物を瞬時に演じ分ける俳優の姿に、物語が提示する内容よりもイメージの作り出す力の大きさと怖さを感じた。そう考えると、「セキュリティ」とはそうしたイメージの力を意識しつつ、「他者」とつながる可能性を求めることなのかもしれない。

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)、『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

■入選■
「孤独な」言葉と観客
ー「彼方へ 海の讃歌」(クロード・レジ演出)、「若き俳優への手紙」(宮城聰演出)
(2010年6月12日静岡芸術劇場と舞台芸術公園楕円堂にて観劇)

坂原眞里

クロード・レジの舞台は暗い、とどこかで読んだことがあった。初めて観るその舞台は、暗い、確かに暗い。闇の中に、楕円堂の円蓋と梁が、そして舞台中央の演台の四隅に立つポールが暗灰紫色に浮かび上がる。どこか崇高な空間に身を置いているようでもあり、あるいは濃く滞る靄の中、埠頭とその後方のドームから成る夜明け前の光景を眺めているようでもある。

やがて、ただ一人の出演者ジャン=カンタン・シャトランが「埠頭に」立つ。そして、2時間余、両腕を大きく頭上に上げ脇に降ろす動き(その動線に電光が走り、劇場の闇を神話的次元へと引き上げる)と、頭をそらせるなどのわずかな動作を除いて、その場に同じ姿勢で立ち尽くす。大半は闇の中である。大柄とはわかるが、重く厚みのある体躯も穏やかな顔立ちも、上演が終わるまでその全容が観客の目に入ることはない。彼の背後上方に日本語字幕が出るが、それも私にはかすんで読めない。配られていた原詩の日本語訳を開演前に斜め読みしておいたので、その記憶に助けられつつ、幸い難解ではなかったフランス語を時に目を閉じて聞き入った。

一人の男が埠頭に立って港を眺める。船の出入りが、旅への渇望を激しく掻き立てる。かつて船乗りたちが放恣の眼差しを注いだ場所を経巡りたい、海賊の蛮行をも味わってみたい…リスボンの孤独な勤め人だったらしい作者のペソアにも、フランスのロートレアモン伯爵やアルチュール・ランボーのような文学上の心の兄たちがいたのではなかったか。しかし、やがて直截な暴虐性を増すペソアの言葉は、「年古りたる大わだつみ」の威容それ自体に向けられるマルドロールの敬礼とも、読者を「非情の大河」くだりに連れ出すスウィングとも大きく異なっている。クロード・レジによる声の演出に関して言うなら、それは明らかに、フランスの演劇人アントナン・アルトー後の、声もまた舞台芸術表現における物理的要素ととらえ、その身体性を重視する流れに属しているが、ここでもまた、「海の讃歌」の声の演技は、アルトーが晩年に行った録音の声とは大きく異なる。聴く者に空間の変容さえ感じさせるアルトーの変幻する声(「神の裁きにけりをつけるため」)は、猥雑なイメージを含む悪夢をたわませ、反転させ、人間の解放を希求する。これに対して、レジが行ったのは、リバイアサンが呻き、嘆き、のたうち回るかのようなペソアの言葉を、つまり、近代文明も穏やかな幼年時代も馴致しえない人間性の闇のマグマを、ファドに憑依させたフランス語で擬態することであった。

「埠頭」の男は、歯間から絞り出すように息を吐く。身体の内奥の闇、肉の壁をこすり上げて噴出する声、叫びとなって突き出す顎。体液のように温かく、泥のように重い、荒れ狂う声。男の影は時に巨大な岩塊、時に後足で立ち上がり咆哮する獣にも見える。また時に、多数の身体が多数の声に乗ってうなるようにも思える。神話的位相が縮んで、生身の男の影が現れ、聴く者を怯えさせる鬱屈とした呻きを漏らすことがある。そんなとき、私は、頭の片隅に昔LPレコードで聴いた清明なフランス語の「酔いどれ船」を甦らせ、笑いの炸裂をも生むアルトーの異言に逃げ込もうとした。

つまり、レジの企てが人間性の負のマグマを現出させ、観客をしてそのおぞましさ、哀しさに立ち会わせることであったとしたら、それは完璧な成功だったのだ。そして、「海の讃歌」が、周到な演出と信じがたい強度を保つ声のパフォーマンスによって、驚嘆すべき希有な作品となっていたことは確かである。

オリヴィエ・ピィの「若き俳優への手紙」もまた、孤独な言葉の舞台であった。しかも、おそらく、人間性の負のマグマ以上に客席に届かせることの困難な、正しさを主張する言葉である。そのような言葉は、演じれば演じるほど胡散臭くなりかねない。それに、そもそも表題からして、一般観客は「手紙」の対象ではない。加えて、その主張は、「初めに、ことばがあった」キリスト教の、その「ことば」に奉仕すべき演劇の言葉の擁護である。それをいかにして日本の観客に届けるか、演出の宮城はこの困難を充分意識していたようだ。そして、能の形式を援用することで、ほぼ見事に難題をクリアした。公募による美術も演出の意図によく適っている。

橋がかりを思わせる朽ちかけた木橋のベンチに、長い白髪に異形の女が座っている。となると、たいていの日本人観客の場合、女の語るであろう言葉を聴く体勢にスイッチが入ってしまう。ここで、私たち観客はさながら諸国遍歴の僧となって、孤独な言葉に耳を傾けるのだ。

女が批判する演劇界の現状は戯画化されていて、彼女の訴えが粗雑に思えたり、「御ことば」の訳語で「手紙」の世界が一転狭くなるかの印象を受けたりするが、それはピィの原作の問題である。

ピィの企てと演出力は、静岡デビューの二作よりも、その翌年の三作の方によりよく現れていた。その内の一作「少女と悪魔と風車小屋」が、2011年春に宮城の演出で上演されるという。どうなるのか、今から楽しみだ。

2010年6月2日

「Shizuoka春の芸術祭2010」劇評講座!

カテゴリー: 告知

「劇評ワークショップ」と「深蒸し茶流 劇評塾」の2本柱で本年度の劇評講座はさらに充実!観劇だけじゃ物足らない…と思っているそこのアナタ!「感動を言葉にする技術」を磨いて、観劇体験を深めてみませんか?

☆☆劇評ワークショップ☆☆

課題演目をご観劇いただき、事前に劇評を提出していただきます。これをワークショップ参加者全員がお互いに読み、意見交換を行います。SPAC文芸部が講師として劇評の書き方/読み方を指導します。
●課題演目:宮城聰演出『若き俳優への手紙』
●開催日時:7月9日(金)19時
●会場:静岡芸術劇場ホワイエ
●参加料金:無料
●お申込み:6月29日(火)までにメールで劇評をお送りください。その際、お名前、電話番号、住所、をお知らせください。劇評は事前に参加者全員に配布します。
■メールアドレス:mail★spac.or.jp  ※★を@に変えてご使用ください。

☆☆深蒸し茶流 劇評塾☆☆

従来の「SPAC劇評講座」を一新し、「SPAC深蒸し茶流 劇評塾」を開設します。従来どおり劇評を募集し、すべての劇評をSPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)が講評し返信します。それに加え、新たに、入選者だけでなく準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ここで3回入選した投稿者は卒業!プロの書き手としての活動をSPACが応援します。
●字数:2000字程度
●締切:批評対象の舞台を観劇した5日後必着
●投稿方法:メールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。メールの場合件名欄に、FAXの場合1ページ目の冒頭に、郵送の場合封筒の表書きに、「投稿劇評」と必ず書いてください。
■メールアドレス:mail★spac.or.jp  ※★を@に変えてご使用ください。
■FAX番号:054-203-5732
■住所:〒422-8005 静岡市駿河区池田79-4「(財)静岡県舞台芸術センター投稿劇評係」宛
※原稿には、住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号等複数の連絡先、観劇日を明記してください。
※入選者には原稿料10,000円をお支払いし、SPACホームページに劇評を掲載します。SPACの公演に1回分御招待します。
※準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ただし原稿料はありません。

2010年5月21日

『ペール・ギュント』(宮城聰演出、ヘンリック・イプセン作)

カテゴリー: ペール・ギュント

坂の上の雲、または私が私である呪い
~宮城聰版ペール・ギュント

柳生正名

ペールの波乱万丈の一代記を舞台上に観て、思い巡らせたのは「私が私であるという病」についてだ。いやむしろ「呪い」というべきか。「自分が 自分であること(アイデンティティ)」自体は、自らに選択の余地のない、唐突で、意味不明な事柄でしかないのだから。それゆえ、人は「自分探し」に心を奪われてやまないのだ。

今回、宮城聰は舞台上に、客席にむけ傾斜したお立ち台風の第二の舞台を設け、その上での演技を役者に求めた。お立ち台の床には「振リ出シ(スタート)」「上ガリ(ゴール)」の場所と、それぞれ賽の壱から六までの目を刻んだ双六の升目が描かれる。背景も同様の意匠で、お立ち台と背景はいわば鏡像関係にある。前半は、背景に戦前の少年雑誌の付録「日本人海外発展双六」が重ねて映写された。「私が私である」ことの呪いに取り付かれ、「自分探し」の旅を繰り広げる主人公ペールの生き様に、帝国主義列強の角逐する世界に突如投げ出され、国家としての「自分探し」に奔走する戦前の日本の姿が、重ね合わされるわけだ。

役者たちは京劇並みの身体性を駆使し、舞台の賽の壱の目に穿たれた穴を抜けて登場・退場する。これが舞台に、アニメやTVゲーム風のスピード感と仮想現実(バーチャル)で重層的な世界観をもたらす。演技の質も心理主義にかぶれた新劇調でなく、今風に言えばキャラ立ち志向。それが、テーマの重さから来る圧迫感を和らげ、観客が終幕、そのテーマに直面させられる際の衝撃を逆に増幅するだろう。

お立ち台から退場した役者は、主役(タイトルロール)を除く全員が、白装束に早替わりするやいなや舞台脇に回り、様々な楽器で複拍子的リズムパターンを入れ替わり奏していく。文字通り、脇を固めるわけだが、その中の一人に、宮城は主役に匹敵する劇的重心を担わせた。開幕前から舞台上に座り込み、賽を振って戦争双六に没入する少年めいた人物がそれだ。

物語は、彼がペールをお立ち台の振リ出シに据え、魂を吹き込むことで始まる。各場面の伴奏音楽も彼が指揮をとることで、二時間四十分にわたる壮大で数奇な男の遍歴物語は、軍国少年の妄想とも、世界の命運を賽の偶然の出目に託す神の遊びとも、解釈可能となる。

この双六の上ガリ(ゴール)は、ペールの自分探しの旅が破綻していくのに並行して、訪れる。五幕半ば、乗り込んだ船が難破すると、自らの内なる声が防空頭巾を被った姿で現われ、己の日和見的エゴイズムを糾弾する事態に直面する彼。舞台に東京大空襲さながらの破局(カタストロフ)が現前するこの場面、背景の双六盤の上ガリにライトが当たった瞬間、爆音とともに舞台装置は倒壊する。皮肉にも、明治以降の日本が血眼で追い求めてきた「坂の上の雲」(舞台には井上馨の名を持つ王さえ登場する)が指先に触れた瞬間、その国土も、ペールが皇帝の座を願う野望も、無に帰する。

ペールの「自分探し=生」が終焉に至る大団円、決定的な役割を担うのがソールヴェイだ。原作では、物語の冒頭から一途に彼を愛し、待ち続ける彼女こそ、ゲーテの言う「永遠に女性的なるもの」の具現した姿として描かれる。常にその場限りの欲望に身を任せ、結果からは素早く身をかわしてこそ、自分は自分、と信じてきたペール。彼女は、そんな彼の男根(ファルス)的エゴを突き崩した上で、残った釦(ボタン)ひとつ分にも値しない人格を受け入れ、自分こそ彼の帰る場所、母たる存在と宣言する。

しかし、宮城の演出はイプセンの描いた、このようなソールヴェイ像を見事に裏切る。ペールの今際(いまわ)の際(きわ)に、彼女があの双六に興じていた少年と一人二役であることを暴いて見せるのだ。これが意味するのは、彼女が、実は永遠なる女性ではなく、しかし、世界のすべてを企図し、偶然の介入を許さぬ父なる神とも違う、単に遊び好きで気まぐれな存在にすぎない、ということだ。事実、彼女は人生の幕を迎えたペールに着せ替え人形のドレスを着せ、再び彼を双六の振リ出シに立たせる。

この幕切れは、イプセンがこの詩劇の後、十二年を経て「人形の家」を書き上げた事実を連想させる。観客は、振リ出シに戻ったペールが今度はノラとして、夫の着せ替え人形でしかない己を拒否し、「真の自己」を求めて踏み出していく姿を、そこに重ねないだろうか。かくして、イプセンの紡ぐ自分探しの物語は「ペール・ギュント」という作品の枠をも超え、宮城の掌上で輪廻めいた円環を形づくる。あたかも自分が自分たることが、生き替わり、死に替わり、性差も越えて引き継がれる「呪い」であることを裏付けるように。

一方、司馬遼太郎の小説に描かれるように、有史以来、国家は常に男たる自己を追求してきた。この幕切れを目の当たりにして、そうした営みが、わが国では終戦とともに振リ出シに戻り、戦争放棄という女性的原理の下で新たな双六を始めたのではないか、と気付かされた。その後、六十年を経て、なお自分探しの病に全身を侵され続けている現状にも。ならば、イプセンを「優れた詩人は共同体の予言者でもある」と評する宮城自身が今、日本の予言者たり得るか―ふと、そんなことを問うてみたくなる今回の舞台だった。(了)

『ペール・ギュント』(宮城聰演出、ヘンリック・イプセン作)

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「スタトゥスを待つキウィタス」を!
―宮城聰演出 イプセン『ペール・ギュント』劇評

森川泰彦

この上演の空間を形作るのは、背景面には垂直に、床面には傾斜をつけて置かれた巨大な二つの双六盤である。そして物語の始まる前から、背景盤には「国民五年生新年号附録」の「日本人海外発展双六」が映写され、舞台前面では、新聞折の兜を被った腕白坊主がボード上で戦車や戦闘機のおもちゃを動かし遊んでいる。これは劇世界全体がこの子供の双六遊びであることを暗示し、また彼は、幼少のペールであると同時に黎明期の帝国主義日本の寓意でもある。軍国主義国家の成長ゲームたるこの双六は、各場面の終わりに枡目を照らして浮いたかと思えば沈むペールの人生を辿りながら、轟音と煙を伴い半壊することで敗戦を表し、彼の最期において「上がり」ならぬ「振り出し」にスポットを当ててその再生を示す。今回の演出の大きな特徴は、主人公の人生を終戦までの近代日本国家の歴史に重ねたところにあるわけだが、こうした美術(と衣装や旗)によって、それが(後述の例外を除き)元の物語を大きく損なうことなく、簡潔明瞭に舞台化されているのである。

こうした個人と国家の重ね合わせゲームは、一方が北欧の民話由来の人物、他方が極東の現実の国家という外観の大きな相違にもかかわらず、両者の本質に強い平行性が見られるが故に高い説得力を持つ。ペールは、欲望し自己実現する主体として個人的な自己同一性を形成し、かつ他害原理(ミル)を内面化せず世界規模で他者を踏みにじる(奴隷売買等)が、他方、帝国主義時代に開国した日本もまた、当時の欧米に同一化して列強として国家的な自己同一性を確立し、国際規範を弱肉強食と解して、植民地の獲得・支配に乗り出していったからである。

さらに今回の舞台では、そうした抽象的解釈表現のレヴェルで妥当だというに止まらず、具体的演技表現のレヴェルで豊かな肉付けがなされていた。双六盤には複数の枡目に穴が空けられ、役者を穴や舞台奥に一瞬で消し、出没させ、あるいは体を適宜埋めることで容易に人物間の高低差を作り出す。こうした特長が役者の高度な身体技術と共に活用され、豊かな運動感と多様な造形美を舞台にもたらしてゆくのだ。この簡素な空間は、森から妖怪の宮殿、砂漠、嵐の海といった状況に応じて千変万化し、舞台脇で行なわれた打楽器系の生演奏と相まって、3時間近い上演を飽きさせない。演奏をソールヴェイ役者が指揮するのも、鐘によってペールを救い見守る彼女の役割に符合するのであり、総じて、いわゆるブレヒト的(記号論的)演劇として優れた舞台だったと考える。

しかしながら疑問もあり、3点指摘しておく。第一は、トロルの面々に元勲らの名札を付けるなど、その宮廷を明治日本の政界に見立てた点である。これは、日本を表すペールがその退嬰性をトロルと共有することや、ドヴレ王国が、作者イプセンが故国の郷土意識を皮肉った戯画でもあることからくるのだろう(ⅰ)。しかし、共通点はあってもトロルはあくまでペールの他者というべきだし、この場には、異文化交流における理解と無理解、同化と抵抗、さらには植民地支配をめぐる諸言説が読み取れる。そして、トロル的生き方を否定したつもりが脱していなかったことを最後に悟るペールの人生は、近代化に遅れたアジアを蔑視しそこから離脱した(脱亜)つもりが、最も野蛮な国として破綻したことを自覚するに到る日本の道程と通じ合うのだ。とすれば王国は、封建的だった当時の朝鮮や清に当てはめるのが順当だろう。

第二は、ペールが猿に襲われる場面のカットだ。ここは、自己同一性をめぐる興味深い洞察が示されるのに加え、植民地人に対する宗主国の非人間視と彼(女)らの抵抗の寓話となりうる箇所であり、しかも短く活劇性に富む。付け加えるのに大した負担はなく、これを切るくらいなら盗人の場面を削るべきだろう(ⅱ)。

第三はソールヴェイの希薄化であり、彼女の重要性に鑑みればこれが最も重大である。彼女がペールを待つ場面も省かれ、見せ場のはずのラストのペールとの対話も刈り込まれている。そしてペールに嬰児服を着せるソールヴェイ役者は、腕白小僧の白い衣装で現れ(死装束?)、そこでのソールヴェイは子供のペールにすり替えられてしまう。老年期のペールは、幼少期の己の手で再生することになり(自己蘇生?)、これが日本の再生に重ねられるのである。演出家は、なぜ要となるこの場面にかかる改変を加えるのか。演出ノートには、「『国』を『人格』でイメージするとき、その人格はつねに『男性』」とあり、日本の国に重なるのは男性のペールでしかありえないということらしい。そう考えれば当然、女性のソールヴェイに対応物を見出せないことになるのである。

しかしかかる家父長主義的?国家把握は、この演出のための解釈には狭すぎる。国家をめぐっては伝統的に、統治機構としての国家(status)と、共同体としての国家(civitas)という大きく二つの概念の系譜があるが、国家が男性として表象されるというのは、前者の、軍隊や警察といった消極国家の機能を念頭に置くからだろう。しかし、後者の、下位社会を包摂した民族共同体の有するイメージは大家族であって、母をもその主要素としている(ⅲ)。帝国主義政策を支えたのは「銃後の守り」としての社会であり、ファシズムの基本思想はそうした「母なる大地」に根ざすことでもあるのだ。

だとすれば、国家を擬人化する場合、男性個人で表すのは暴力的国家機構に止め、国家共同体については女性を含む小家族に置き換えるのが妥当である。そしてかく捉えれば、軍国日本と同視すべきはオーセとペールの母子となり、その後の民主日本は新生ペールとソールヴェイの「夫妻」に対応させうる。貧窮の中、息子を溺愛し共に夢見る攻撃的なオーセは、彼の非行を怒りながらも庇ったが、天皇を崇拝し版図拡大を願うかつての貧しい日本社会=国民もまた、軍部の暴走を危惧しつつも支持し続けたのである。そしてソールヴェイとは、大正デモクラシー以降抑圧された社会の健全な契機の象徴であり、戦後アメリカ(=父なる神)の民主化政策が、それを育んだということになる(農地改革等)。彼女によるペールの救済を、戦後日本の平和主義や自由民主主義に基づく再出発とその後の経済発展に、その問題点も含めてそのまま重ねられるのだ。つまり、生涯ペールを待ち続けたソールヴェイは、望ましきスタトゥスを待ち続けた善きキウィタスと見做しうるのであり(高度成長期の衣服で示せよう)、個人としては非現実的なその行為も国家=社会としてはむしろ自然なこととなる。従ってこの舞台の演出方針からも、ソールヴェイについて原作を尊重することは可能でありかつ望ましい。冒頭の少年も、ペール役者が演じるのが順当だったと思われる。
(2010年3月14日観劇)

(ⅰ)毛利三彌『イプセンの劇的否定性』p471
(ⅱ)狂人の場面も惜しいがやや長いか。
(ⅲ)さらに前者も、社会保障のような積極国家の機能において母性的側面を有している。

2010年3月6日

SPAC劇評講座が新しくなります!

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新しい劇評講座は「劇評ワークショップ」と「劇評塾」の2本柱!

①劇評ワークショップ
1年間に4回、参加型のワークショップを開設します。課題演目をご観劇いただき、劇評を提出していただきます。これをワークショップ参加者全員が読み、意見交換を行います。SPAC文芸部が講師として劇評の書き方/読み方を指導します。
◇第1回目
課題演目:宮城聰演出『ペール・ギュント』
開催日時:4月7日(水)19時 会場:静岡芸術劇場ホワイエ
参加料金:無料

お申し込み・お問合せ:SPAC芸術局TEL.054-203-5730  mail@spac.or.jp

②劇評塾
従来の「SPAC劇評講座」は常連投稿者のレベルがあがり、優れた投稿者の方が繰り返し当選するようになりました。そこで一新し、劇評塾を開設します。「ペール・ギュント」でも劇評を募集します。ただし今回からは、入選者だけでなく準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ここで3回入選した投稿者は卒業!
プロの書き手としての活動をSPACが応援します。
※従来の「SPAC劇評講座」掲載者ですでに3回以上掲載されている方は来年度より投稿資格がなくなります。代わりに、SPACから劇評執筆を依頼します。

◇字数:2000字程度
◇締め切り:批評対象の舞台が上演された5日後必着
◇投稿方法:メールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。メールの場合件名欄に、FAXの場合1ページ目の冒頭に、郵送の場合封筒の表書きに、「投稿劇評」と必ず書いてください。
◇原稿には、住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号等複数の連絡先、観劇日を明記してください。
◇すべての投稿劇評にSPAC文芸部が講評し、返信します。
◇入選者には原稿料10,000円をお支払いし、SPACホームページに劇評を掲載します。SPACの公演に一回分ご招待します。
◇準入選者もSPACホームページに劇評が掲載されます。ただし原稿料はありません。

2010年1月16日

『オペラ 椿姫』(鈴木忠志演出、飯森範親指揮、ジョゼッペ・ヴェルディ作曲、フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ台本)

カテゴリー: オペラ 椿姫

椿姫の鏡像

奥原佳津夫

オペラの上演は専ら音楽面からの評価がなされ、舞台上演の演劇的な面については、二義的な扱いを受けるのが通例である。多くの場合演出もストーリーを語る上での意匠に留まるか、音楽とは乖離した舞台表象に終始してきたので、それも無理からぬところではある。鈴木忠志演出『椿姫』の特異な点は、その演劇的な表象と音楽との拮抗が、作品の構造にまで立ち入ってなされたことであり、まさに演劇面からの評価が必要な上演と思われる。

演出の要諦は、ヒロイン・ヴィオレッタを男性の側の理想、願望としてしか存在しえない幻、虚像として捉えたところにある。テノール歌手は作曲者ヴェルディとして常に舞台上に居続け、去来する幻想の中でアルフレードとなる趣向。序曲でヴェルディの父親役の俳優が登場し「まだ幻を見ているのか?」という台詞が交わされるのに意表をつかれるが、その設定故に場面転換や時間経過の幕間を要しないため、歯切れのよい演奏(飯森範親・指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)は間断なく、むしろ演奏の密度は高い。(第一幕から第二幕一場、第二幕二場から第三幕は続けて演奏される。)「乾杯の唄」では、水を持った看護婦が登場し、ヴェルディの幻視は精神を病んだ(と看做される)域であることが示される。恋の病ならぬ、病としての恋、その結晶たる幻が椿姫なのである。そもそもこのヒロインがいかなる虚像であるか、原作に遡って確認したい。デュマの原作小説『椿姫』で、作者の実体験から著しく美化された虚構のヒロインに与えられた名はマルグリットであり、物語は彼女の死から始まる。語り手は、改葬のために掘り起こされた骸に対面させられ、その後、恋人の回想する生前の椿姫の物語を小説化する、という再話の手法が採られており、マルグリットは二重のフィルターを通した虚像として、読者の前に立ち現われる。さらにこの『椿姫』が劇化上演されたのを観て創られたヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタは、さらなる鏡像と云えるかもしれず、そこには作曲者自身の経験も写しこまれているらしい。

この上演では、登場人物はそれぞれのエリアから大きく移動することはなく、ことにヴェルディとして作曲の机に向かいつつ唄うテノール歌手は、幻想世界に踏み込むことはない。その分、後半(第二幕二場)では幻想のアルフレードとして吹き替えの俳優が登場することになる。第三幕への転換での、この幻想のアルフレードがヴィオレッタを抱きしめるようにして彼女の外套を脱がせる演出は特筆に値する。物語の上では誤解を抱いたまま外国にいる筈の彼が、あえてこの場に登場するとなれば、それは作曲者ヴェルディの幻想であるアルフレードのさらにその願望が生んだ幻であり、めくるめくような虚像の乱反射が舞台上を闊歩していることになる、それは合わせ鏡の中で虚像が虚像を生みつづけるように。(思えば、この上演に登場するヴェルディはもちろん、作品から逆算された虚像としての作者であり、伝記に照らせば彼は宿屋の主人である父親の元を幼くして離れているので、「ヴェルディの父」という精神性を感じさせる登場人物もまた、得体の知れない幻である。)簡素な舞台美術は、大きな長方形の枠がいくつも重なりあって吊られているのが特徴的だが、ヴィオレッタの居室の場面で同じ枠の姿見が使われると、なるほどと納得がいく。このセノグラフィは、実体を持たぬ虚像の乱反射をのぞき見るための装置なのである。

この上演にはエピローグが付く。「過ぎ去りし日々よ」のフレーズが煽情的に奏でられる中、死んだヴィオレッタが起き上がり、背景のパネルが飛んで、はるか彼方まで延びた白い道を、降りしきる紙吹雪にかき消されながら歩み去ってゆくのである。一見サービス過剰で無くもがなの演出と思ったが、彼女の歩み去る先に、鏡合わせのようにこちらを向いた劇場の客席を認めた時、この幕切れこそ演出上の必然と得心した。彼方に並ぶ客席は、上演中のホールと背中合わせに位置する芸術劇場の客席―白い道は芸術劇場の舞台上に延びていたのである。彼女の死=退場は、すなわち鏡あわせになったもう一つの舞台への登場なのだ。かくして虚像は架空の世界の中に完結する。叶わぬ理想や願望を映しこんだ幻を音楽の内に留めようとしたのがヴェルディの楽曲だとするならば、今回の演出は、云わばその返歌としての「虚像」を演劇的表象の内に立ち上げて見せた巨匠の力技である。冒頭に、演劇的な表象と音楽との拮抗と書いたのは、このような意味による。
(於.グランシップ・中ホール大地 2009.12.11所見)