2013年7月2日

■準入選■【『ロビンソンとクルーソー』(イ・ユンテク演出)】渡邊敏さん

■準入選■

渡邊 敏
 
 第二次大戦の終戦時に、無人島に漂着した日本兵と朝鮮人の物語。演出は韓国のイ・ユンテク氏。閉ざされた空間で、必ずや二人の間に恨みや憎しみの感情が交わされるものと予想して、少し緊張しながら見た。

 ところが、帝国軍人と称するわりには日本兵は簡単に弱音を吐くし、かたや農民風の朝鮮人は日本に深い恨みはない様子だ。二人は日本兵が持っていたスルメを巡って争うけれど、それはコミカルでまるで「トムとジェリー」の争いか、昔の喜劇映画のようだ。やがて言葉は通じないながらも友情が芽生え、良き友となる。ロビンソンとクルーソーは孤島に生きる二人の新しい名前だ。結局、一度も戦争や贖罪が語られることなく、それぞれの懐かしい故郷に向かって出発していく。
 個人的に、韓国・中国の人たちに接する時、必ず心の片隅に戦争がある。ない、ということはあり得ない。そういう点で、あまりにも明るく、澄んだこの作品には肩すかしをくらわされた。「え、これでいいの?」と戸惑う。 
 いつのまにか軍服を脱いで褌(ふんどし)姿になった日本人と、上半身裸の朝鮮人。素(す)の人間になった二人は、魚が獲れて大漁祭り、家を作って棟上げ祭り。韓国と日本それぞれの音楽と踊りがお互いを祝福し、人間の善なるものを祝福してくれているようだ。
 二人の姿はあくまでも可愛い。人間の可愛さを見せつけてくれる。旅立ちの時の「チング(友よ)!」という呼び声は、至純な心そのものだ。
 ラスト・シーンは明るい希望の光で輝き、心の通い合いの温かさが満ちていた。人間の善性に期待し希望を抱こうとするこの作品は、韓国ではどのように受けとめられるのだろうか。 

 さて、この作品は中高生の鑑賞事業に指定されている。観劇した日は中学生がいっぱいだった。客席の中学生たちは、時に海のカモメや魚に見立てられ、役者二人は客席に呼びかけ、通路を走り、座席まで入り込んで中学生たちと身体的な接触やエネルギーの交感をする。
 今どきは女子も男子も、汗や体臭といったものを嫌悪して消臭スプレーや香りつきのローションを使うと聞く。子どもながらどんどん神経が細かくなってきて、大らかさが失われていくようだ。二人の役者が放つエネルギーや、目の前で躍動する、彼らから見たら「おじさん」に位置づけられそうな男性の肉体はどんな風に映っただろうか。
 子どもたちより舞台で跳ねている大人の方がはるかに自由で楽しげだった。本当は彼らの方が溢れんばかりのエネルギーを持っているのだろうけれど、それらが蓋をされているような、自由にエネルギーを巡らせる術がなくて、固まっているような。「子どもはのびのびと」なんて嘘だよね、と感じる。
 二人のエネルギーをもらって、元気になったり、発散できた子は沢山いただろうか。演劇の場に共にいることは、そんな効能もあるはずだ。


「SPAC秋のシーズン2012」&『ロビンソンとクルーソー』劇評塾 入選・準入選作 一覧

「SPAC秋のシーズン2012」&『ロビンソンとクルーソー』の劇評塾に投稿いただいた作品のうち
入選作1作、準入選作9作を公開します。

『夜叉ケ池』(演出:宮城聰)

 ■準入選■ 福井保久さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 松竹由紀さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 平井清隆さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 鈴木麻里さん 中学生と観た『夜叉ヶ池』

『病は気から』(潤色・演出:ノゾエ征爾)

 ■準入選■ 福井保久さん 『病は気から』

 ■準入選■ 鈴木麻里さん 悲劇の英雄

 ■準入選■ 吉田汲未さん 『病は気から』

『ロミオとジュリエット』(演出:オマール・ポラス)

 ■準入選■ 前田勝浩さん 『ロミオとジュリエット』
 
 ■入選■ 平井清隆さん 『ロミオとジュリエット』

『ロビンソンとクルーソー』(演出:イ・ユンテク)

 ■準入選■ 渡邊敏さん 『ロビンソンとクルーソー』
 


2013年4月16日

■入選■【『ロミオとジュリエット』オマール・ポラス演出】平井清隆さん

■入選■

平井清隆

 『ロミオとジュリエット』は、喜劇だ。
 常々そのように思っていたのだが、今回のSPAC×オマール・ポラス版は、その意を強くしてくれた。
 通常、この戯曲は、悲劇とされる。演劇を始め、バレエや映画などでも繰返し上演・上映され、また、本作を本歌とする作品も多数ある。バルコニーの場面など、一部が取り上げられる事も多い。それら全てが、『ロミオとジュリエット』は悲劇だと捉えている。
 しかし————-。
 喜劇ものの定石の一つに、一般的な常識と登場人物の常識や行動との乖離を笑いの元とする手法がある。過去や未来、異文化の国から来た人物、場合によっては、ロボットだったり、宇宙人であったりもする。いずれにしても彼ら異邦人との常識のギャップで笑いをとる、というものだ。
 また、破天荒で気まぐれな人物に周囲が振り回されると言う話も、よくあるパターンだ。「熱血」の度が過ぎている者だったり、気分屋で突拍子もない行動をとる者だったりする。
 そんな視点から見るとどうであろうか。
 キャピュレットとモンタギューという二つの名家の争いは、大公すら憂慮する程に深刻さを増していた。そんな緊迫した「社会情勢」の中、モンタギュー家の跡取りにも関わらず、関心事は女性の事ばかりのロミオ。しかも、ジュリエットを一目見るや、それまで夜も眠れぬほど恋い焦がれた女性から、あっさりと心変わりする始末。そして、まんまと「箱入り娘」をたらし込み、翌日には結婚をも誓う事になる。電光石火の早業だ。ところが、その帰途、お子ちゃま同士のいざこざを、人死が出るほどの事態に発展させてしまう。親友を殺され逆上したロミオは、その敵を討ち、追放処分になってしまうと言う体たらくだ。立場や情勢にあまりに無頓着で、耐えることを知らない軽さを持つロミオの言動には、あきれて笑うしかないではないか。極めつけは、ジュリエットが死んだと早合点し、「後追い」自殺するくだりだ。こいつアホや~と、関西弁で突っ込みのひとつも入れたくなる。
 ロミオ役の新人女優山本実幸のひたむきな演技が、大真面目なスーダラ男ロミオによく合う。彼女の演技が真摯であるほど、舞台としては可笑しみが増す。
 他のキャラクターも効いている。とりわけ絶品なのは、キャピュレット家の当主夫妻だ。この二人、特に「お父ちゃん」は、出てくるだけで笑える。「寺内貫太郎」を彷彿させると言ったら失礼だろうか。また、ジュリエットの乳母もいい。この役は、キャピュレット夫人とともに、男優が演じており、それだけで十分可笑しみがあるのだが、別の効果も見逃せない。乳母の台詞には、エロティクなものも多いが、男優・武石守正が演じる乳母の口から発せられると、エロより笑いが先に立ち、品位が下がらない。子供と見ていても安心だ。キャピュレット家の召使いにも男優が多数配置されている。彼女(彼)らのダンスも、とても楽しい。
 他にも様々な「仕掛け」がある。舞台設定は「日本」となっているが、純和風ではなく、外国人であるオマール・ポラスのイメージするジャポニズム的な雰囲気で、我々日本人から見てもエキゾチックだ。外国人俳優も多く、独特な雰囲気づくりに大いに役立っている。配置も、「日本人チーム」「外国人チーム」の様にパート分けされているのではなく、絶妙にブレンドされている。配役だけではない。音楽や舞台装置なども、随所にひとひねりを加えた工夫があり、飽きがこない。
 個人的には、大いに笑えた2時間であった。
 しかし、キャピュレット家から見た時、様相は変わる。とりわけ、ロミオのような軽佻浮薄なピーマン男に引っかかってしまったジュリエットには憐憫の涙を誘われる。
 純粋培養の箱入り娘にとっての初恋は、本来、恋に恋する“はしか”のようなものだった筈だ。ところが、熱に浮かされている内に、婚姻の契りを結ぶはめになり、さらには、早とちりのおっちょこちょい男の後を追って自刃することになってしまう。14歳の身空である。不運な事故か流行病で命を落としたと納得するしかないような年齢だ。時代背景を鑑みれば、現代の日本での高校生か短大生ぐらいに相当するだろうが、それでも若い。わずか5日、正味3日の間の「悪夢」だ。
 そして、手塩に育てた娘が、不慮の死を遂げてしまった「お父ちゃん」の気持ちは、同じ年頃の娘を持つ身としては、察するに余りある。美加理演じるジュリエットが、本当にピュアで少女らしく、可愛らしいだけに余計に身につまされる。
 『ロミオとジュリエット』は喜劇だ、ロミオを主人公として見れば。だが、ジュリエットに視線を移すと、一変して悲劇となる。シェイクスピアは、争う両家の和解を最後に持ってくることで、救いとした。しかし、このSPAC×オマール・ポラス版は、ジュリエットの自刃で幕となる。救いすらない悲劇である。


■準入選■【『ロミオとジュリエット』オマール・ポラス演出】前田勝浩さん

■準入選■

前田勝浩

 シェイクスピア原作の『ロミオとジュリエット』は、普段演劇を観ない人であっても題名を知らない人はいないだろう、という有名な作品である。意外だが、SPACによる他のシェイクスピアの作品は公演してきたが、本作は初の公演となる。構成・演出のオマール・ポラス氏は、コロンビア出身で現在はスイスを中心に活動している。そのオマール氏が西洋社会ではない東洋の日本で、一体どのような演出をするのかに興味があった。

 イタリアは花の都ヴェローナでの話だが、舞台美術は西欧の邸宅風ではない。丸柱と梁だけの一見とてもシンプルで仮設的な様相だ。しかも重要なシーンに必要なバルコニーがない事に驚く。おそらく神社の鳥居のようなイメージではないかと思ったが、実は舞台芸術公園内にある「楕円堂」ホール内観を模しているとの事だ。ただし全く同じではなく、中央だけは高い二本の柱で門柱のようになっており、その他が左右対称の列柱配置となっている。これは両家、モンタギュー家とキャピュレット家の対立を表していると感じた。舞台美術を「日本的なもの」としたのは、西欧文化圏ではない場所で公演する意味として、その国や地域への敬意ではないかと思える。日本で公演するからそうしたのであって、他の場所、例えばインドや中東、アフリカであれば、その地域の建築文化に見合ったものとしたであろう。SPAC共同制作なので出演者は日本人が多いが、西欧人との混合であり、セリフも日本語・フランス語が混在しているという、全体的に多国籍な構成も大きな演出内容だ。その演出意図が最もわかりやすい表現が「衣装」である。全体的に「和洋混合」もしくは、昔の日本を現代化したような出立ちとなっている。中でも乳母やメイドは上半身を東洋的、下半身は西欧的となっていて滑稽でもある。舞台全体をひとつのスタイルに纏めきっているというより、あえて異なるものを混在させている演出なのだ。

 もうひとつの大きな特徴は、冒頭で話の結末を述べてしまっている事だ。もちろん、あらすじを知っている観劇者も多いかもしれないが、構成としては「事の顛末を語る」というものだ。「悲劇の死」を頭に浮かべながら舞台を観るので、感情移入するというより冷静に観察する視点ができる。原作では、前半では猥褻なくらい喜劇性が強く、恋愛で幸福の絶頂の後、ある事件によって急転直下、悲劇性が増していく構成であったはずだ。だが、そのような対比構成というよりは、「対立構造や争いの虚しさ」という大きなテーマを感じるのだ。ここで、二つの名家の争いというより、多国籍で混合させた舞台の世界観から「世界中で今も続く国や地域の争いと数多くの悲劇」という事を連想させる。そもそも両家が対立し合う理由そのものが既に風化していて分からなくなっているのに、「争いと憎しみの感情」だけが親から子へと連鎖的に伝わっているのだ。仇相手の何が悪かった等も分からず、ただ互いが存在しているだけで争う事になっている。長い争いに疲れたキャピュレットは、どこかで何とか終わらせたい素振りもみせる。だが、血気盛んな若い世代は諍いばかりではなく、お互いを殺し合うまでしてしまう。そのような事が次々と起きてしまう為、争いを終結できないでいるのだ。そして、それは世界の戦争や紛争が続く理由と同じであるとオマールは言っているのではないか。生きている時は威勢のいいマキューシオも、死の直前には本音を吐かずにはいられない。「両家ともくたばってしまえ!」私にはこの恨みの言葉が、争いの犠牲者からの真実の叫びとも思えるのだ。これは両家の人間が全員死んでしまう事を望むというより、「どちらかが勝利する」という対立構造を否定し、お互いが統合する事でどちらでもない全く別の存在へ生まれ変わって欲しい思いを感じざるを得ない。モンタギュー家とキャピュレット家の場合、後継者のロミオとジュリエットが結婚して全く新しい家を創設すれば、それは可能であったはずだ。そう考えると、日本そのものでもなく西欧でもない両者が混在している世界観の演出に納得できるのだった。お互いに忍耐と尊重しあえば、文化や言葉が違っても共存できると。

 だが現実社会と同じように、事はうまくはいかない。若さゆえの過ち、もしくは情熱が破滅を導く。運命に翻弄された二人は結果的には「悲劇的な死」を迎える事となる。この家(社会)の義理と愛情との間で、勘違いとはいえ同じ場所で同じ日にお互い「死を選ぶ」のだ。これは日本的な「義理と人情」の板挟みによる「心中」を思い浮かべざるを得ない。クライマックスのシーンは言葉もなく、身振りでお互いの気持ちを表しながら死を迎え、花弁が舞い降りる中での最後の抱擁する場面は、日本的な演出で儚くも大変美しい。

 叙情的な最後が美しくて感動してしまうのだが、演出テーマである「争いの虚しさ」を表現する結末としては美しすぎると思える。「両家の和解」が描かれていない以上、二人の死の意味が伝わりにくいと感じるのだ。だが、この作品が多くの国で公演される時、より多文化社会の中でこそ、この多国籍な演出の意図は更に直接的に伝わる。この作品には、多くの国や文化の中で生きてきたオマール自身の祈りが込められているかもしれない。


■準入選■【『病は気から』ノゾエ征爾潤色・演出】吉田汲未さん

■準入選■

吉田汲未

 客席を観ている自分は客席にいる。やがて、この劇場を訪れた観客という登場人物によって、観ていた無人の客席に息が吹きかけられ物語が始まった。すると、どう見ても、病人の劇場見学者が一人。しかし、本人は病人では無いと言い張る。あれ?「病は気から」の諺とは反対??と思っている間に、現代、日本、現実から、17世紀、フランス、物語へ。その間の“今”らしき物語に導かれて、今回の喜劇の世界に入っていくこととなった。
 外国の物語であるが、日本人が演じる無理矢理の外国人への役作りがなく、むしろ、日本の風俗を積極的に取り入れており、視覚的にも、物語へ入り易かった。更には、日本人に聴こえるフランス語の特徴を利用し、フランス人の物語であることをも、喜劇の要素として取り入れている喜劇への貪欲さを感じた。
 喜劇への貪欲さは、他にも、男女の配役の一部入れ替えによっての効果、意表を突く音楽、歌、衣装、俳優の動きにもそのねらいが見受けられた。これが、物語を舞台で表現することの意義なのであろうと改めて思われた。
 喜劇のテーマは、物語において十分に表現されてはいるが、それを更に、演劇的手法を使って追及したり、膨らませたり、読み変えたりすることを試みた醍醐味を、この舞台では存分に魅せてもらった。物語のテーマは、舞台化することで、より深めることが出来るということを観せてもらった舞台であった。
 作者モリエールは、この作品を4回公演したところで亡くなっているという。つまり、「病は気から」という諺とは逆の出来事が身に起こっていた。「病気である人」であるにもかかわらず、「病気であると思い込んでいる人」を演じたのであった。今回の舞台で、モリエールのやった役の俳優さんが吐血するたび、モリエールの最期について思いをめぐらされた。これは、悲劇であり、そして、こんなブラックなユーモアはないというような喜劇である。そして皮肉なことに、悲しければ悲しいほど喜劇になっていくのである。
 半分死にかけているアルガンを、周囲の者が担ぎあげておかしなポーズをさせていた最後のシーンでは、死に直面していたモリエールが喜劇を演じていたことと重なった。当時フランスのモリエールの舞台での観客は、おそらく病身のモリエールの事情を知らずに、モリエール演じるアルガンに大笑いしていたのであろうと想像した。一方、今回の日本の舞台では、最後のシーンに笑い声一つ聞こえてはこなかった。この時、まさに、このシーンは皮肉な喜劇という物語のための表現の集大成であるということを示していると思われた。こんなに悲しい喜劇の舞台表現に私は出会った事がない。
 病気というテーマの物語の入口から、医者への痛烈な皮肉もこの作品の特徴である。お金や権力によって名医との人脈をつくることが出来、自分が興味あることへの演説が上手ければ、称号と白衣を与えられる。白衣さえ手に入れられたら医者になれる。これは、他の「先生」と呼ばれる職業に就く人々にも当てはめられるであろう。政治家、大学教授などに読み変えて想像してみると、おかしいくらいぴったり当てはまり、見事に言い当てているモリエールの鋭さに感心し、ひどく笑っている自分がいた。これはとても皮肉な笑いではあったが、代弁してもらったようにすっきりとした気持ちになった。
 それらの様々な皮肉な出来事が、今回の舞台ではすべて、自分たちの座っているシートと同じシートが並ぶ、舞台上の観客席で起こっている。それを見せられているのは、観客である自分たちである。舞台はまるで鏡であり、「あなたたちもこんなことをしていますよ」と言われているようである。そう考えると、初めからあらゆる“鏡現象”を見せられ続けてきたことに気付かせられる。
 病気でないと主張する病人から、病気でない病人に始まり「思いこみ」の強い人間の数々・・・恋愛、愛情、学識、学歴、職業について、表と裏、嘘と本当、理想と現実、というような人間にまつわる出来事の外側と中身を次から次へと披露してもらった。見かけや肩書に惑わされるのが、人間ですよと改めて言われているかのようであった。そして、いつの時代も、どんな国でも同じような事で人間は喜んだり悲しんだりしている、滑稽ですねと言われている事がわかる。
 そして、最後に舞台という鏡から「あなたはどうですか?」と声をかけられて帰ってきた。


■準入選■【『病は気から』(ノゾエ征爾潤色・演出)】『喜劇の英雄』鈴木麻里さん

■準入選■

悲劇の英雄

鈴木麻里

 客席に掛けて舞台を眺めると、100席に満たないほどのもう一つの客席が設えられている。制作者からの挨拶が終わると、その隣に現れた舞台監督が、観客の後方からやってくる俳優らしき人々を迎え入れた。制作者からの挨拶が終わると、観客の後方から舞台監督が俳優らしき人々を引き連れ降りてきた。劇場の機構をひとつひとつ解説しながら舞台へ上がり、奥まで一周する。一同黒ずくめである。

 咳き込んで病身に見える一人の男が『病は気から』を上演しようと、自分を病気だと思い込んでいるアルガンなる男について穏やかに決然と語りはじめる。男の体を気遣って周囲が止めるなか、口元から赤い布を垂らして吐血の様を見せながらもやめようとはしない。
 吉本新喜劇を思い起こさせる「Somebody Stole My Gal」が鮮烈に流れる中、一同ぽんぽん黒衣を脱ぎ捨ててカラフルな衣装に早変わり、黒一色だった舞台上の客席も真ん中の12席だけ純白に変った。「BED」と札がついている。

 治療と薬に夢中なアルガン、「病気」に親身とは言いがたい態度で接する女中トットとの軽妙なやり取り、長女アンジが吐露するケロッグへの恋心、医者との結婚を突然強いた長女や反対に加勢する女中との悶着、後妻ベリーヌの媚態、彼女への遺産相続を相談するため弁護士ポンヌフを招く場面など、大筋をモリエールの戯曲に拠りながら役名はじめ語られる言葉はシンプルに書き換えられており、小気味良い速度で舞台が展開していく。
 登場人物たちを軽やかに演じる手つきが、劇中劇としてふと幕を開けた構図に強い説得力を与えている。客席型の舞台装置を縦横に駆け回る俳優陣の身体的な力量と遊び心が、観る者に足場の不都合を感じさせない。

 場面の変わり目などの要所で、アルガン役の俳優は苦しそうに咳をする。
 初演当時、この役は実際に胸を患うモリエール自身によって演じられていた。公演の四回目には激しい咳の発作に襲われながら舞台を務めていたと言う。当人の肉体的苦痛や周囲の心痛に寄り添うことも出来ようが、状況を俯瞰すればこれは劇の外側に設えられたもう一つの喜劇と読み取れる。瀕死の病を患いながらよりによってアルガンを演じる、モリエールの不条理である。

 三幕冒頭、医者との縁談が破れてなお娘の結婚を認めず、頑なに後妻ベリーの肩を持ち続けるアルガンを見かねて、弟ヘラルドと女中トットが一計を案ずる。病の果て遂に亡くなった振りをしてみせて、ベリーの反応を窺おうというのである。悲しむどころか清々してとっとと遺産を手に入れようとする彼女にさすがの彼も追放を選び、今度は娘アンジの反応を待つ。嘆くアンジにアルガンは喜んで生き返ってみせるが、ケロッグが医者になってくれるならば結婚を認めるとなおも無茶な仰せである。

 ここでヘラルドから、アルガン自身が医者になれば良いと提案がある。すぐにでも医者連中を呼んで式を挙げてもらおうと言う。
 モリエールは初期の『飛び医者』以来、『恋は医者』『ドン・ジュアン』『いやいやながら医者にされ』などで、医学と医者を繰り返し槍玉に挙げた。この遺作に於いても、医学への痛烈な風刺を交えながらそれに振り回される男の滑稽を描いてきた。
 実際に病気になったらどうするかについては、「なんにもしません」と劇中でヘラルドに語らせている。自然のままに任せておけば自ずから徐々に回復していく。兄さんには気晴らしにモリエールの芝居でも見せたいとまで言わせている。終には当人に医者を演じさせてしまおうという次第である。
 この場に至って男は激しく咳き込み台詞を中断することもしばしば、アルガンを演じるモリエールの地が見え隠れする状態である。周囲の俳優も役を放棄しかけ芝居を止めようとするが、男は続ける。笑いの絶えない『病は気から』の世界から、ドラマの焦点は刻一刻と死期が迫るなか芝居をやめないモリエールの姿へと移っている。

 劇の外側に設えられたもう一つの喜劇が、悲劇としての正体を現そうとしている。
 モリエールは、死ぬのである。病へは無為にして自ずから治癒する、薬に杞憂が人を弱らせるのだと豪語しながらこの世を去る。自らを無力な医者の一人として数えながら我が身に芝居を処方して身を滅ぼす。
 悲劇の主人公は始終完き聡明であるわけではない。あやまち故に不幸になる様は喜劇的とも言えるが、あやまちが明るみに出た暁にあえて自らの錯誤を引き受ける高潔さが、彼らの物語を尊厳ある悲劇たらしめている。

 医者連中に囲まれて、モリエールは絶え絶えに台詞を吐き続ける。医師になるための試験が数問繰り返されたのち、彼は白衣を与えられた。咳き込んで振り返れば、血糊をべったりまとった姿である。倒れて事切れた彼を、俳優たちは抱え上げ、手取り足取り踊らせながら大笑いした。自らの最期をも喜劇の内に描き切った彼に、最上の敬意を表しているかの様だった。

 彼の行為と作品とを構造化する劇作の力と人物の意志を体現する俳優の力との出会いが、神でも王でもない一人の喜劇作家の武勇から笑いに満ちた高潔な悲劇を産んだ。

参考文献
モリエール(鈴木力衛訳)『病は気から』(1970年4月、岩波書店)
アリストテレース、ホラーティウス(松本仁助、岡道男訳)『詩学・詩論』(1997年1月、岩波書店)
磯田光一「『悲劇』の条件」、『文芸読本 シェイクスピア』(1977年5月、河出書房新社)


■準入選■【『病は気から』ノゾエ征爾潤色・演出】福井保久さん

■準入選■

福井保久

 『病は気から』は、人間不信になってしまいそうで、社会の構造の負を見せつけられてしまいます。
 全編が喜劇で、それが際立っているから、どうにもこうにも最後の審判で人の性とその普遍を鑑賞後にも感じ続けます。

 ありきたりな言葉ですが、人というものは350年前とこうも同じものか、そして、可愛く優しく憎たらしく、愚かであることがわかります。

 演劇は、SPACの宮城総監督が舞台に出て、演者を導くという、演者としての宮城さんが出演するというサプライズで始まります。

 8人劇で、8人の中で一番元気で健康な、でも病人かぶれの主人公アルガンが主導します。アルガンは、浣腸と薬で生きながらえていると信じています。ここからして喜劇そのものですし、ここからしてその真意はシリアスで深く、病気と健康がテーマですから、広義に誰もが関わりあっていることを、冒頭で意識します。
 アルガンは自分を病人と信じていますから、それを打開することに躍起です。有能な召使に自分のその病状を叫ぶことで病人に成りきろうとします。後妻はそんなアルガンの亡くなる姿を期待していて遺産が目当てです。
 アルガンには娘が二人います。二人とも可愛く、終盤のアルガンを本当に愛しているかの踏み絵に関しない純粋な二人です。ちなみに後妻は踏み絵を踏みました。
 その長女アンジの婿を、自分の病気を診る医者を選び望み、アンジに強要します。けれど、アンジには恋人がいます。それを無視されて医者との強制的な結婚を迫られます。アンジは恋人と結婚することが適わないこととの引き換えに、結婚したくない結婚を拒否する権利を欲します。ここは人の崇高さを表現しています。

 アルガンを中心に、召使を媒体そして、アンジの結婚相手の医者親子、アンジと相思相愛の恋人、末娘のルイジ達で、風刺の効いた喜劇が場内に蔓延します。
 その喜劇は確かに洒落ていたり、野暮ったかったりですが、粋な演出の中に行き過ぎをはさみます。行き過ぎとは、あまりにも予想の範囲をなぞったり、時にベタだったりで、そこには喜劇なのだけれども、笑えられないのです。それは愚かな人の性をみせたり、喜劇を超える誇張を感じるからです。それらが、それらとは無縁の笑いの中に散りばめられているから確信犯でこちらを刺すものをしたためています。これらは全て、最後の審判につなげる伏線です。
 痛烈な喜劇を貫くことの中に、病気でいることを言い聞かせるアルガンのあの姿を、観客一人ひとりに置き換えるという仮定をすれば、最後の審判の意味は一目瞭然です。
 観客それぞれが、病気のように気にすること、とらわれることをイメージし、病気に置き換えれば、アルガンが望んだ儀式は私達の姿そのものです。

 病気でいることを信じていたアルガンが健康そのものであったのに、医者としての権威を得た瞬間に真の病気を得たことは痛烈そのものです。
 そしてあの場面は、既得権益バンザイという医者達(どの業界でも同じです)と世の中(教育されたわれわれ)の望みのどちらをも適えたウィンウィンの実体を、嫌らしく誇張します。私達が持つ価値観を嘲笑するように。

 この演劇は喜劇ですが、すごく醒めています。世の中の価値観を鵜呑みにする個人に警鐘を響かせています。それほどに、最後の審判は恐ろしいほどに、偏った価値観を肯定確認し、納得したいということをどこまでも求める人々の姿に見えます。都合が良いことを私利にする個人の小さい出来事を、世間の同意にする怖いシーンです。
 そしてその後もアルガンの亡骸はもてあそび続けられます。それはみんなを結束させて、安心を得るための手段であり、儀式の一旦ですから。

 繰り返しますが、この演劇は喜劇です。だからそれを続けた最後に、真意を伝えることで、その真意は深く心を刺します。

 この演劇の舞台セットは観客席です。演じるあっちも鑑賞するこっちも同じ舞台だということを示唆します。たぶんこの演劇はどんなセットでも演じられます、でも敢えて観客席のセットとしています。それは、舞台の中で演じられていることは、舞台から観ている者の日常と同じだからです。
 そしてもうひとつの演出は、最初と最後に、SPAC総監督の宮城さんが演者全体を舞台見学者・観客として扱うことです。これも演者と観客が一体をしていることを、印象付けています。それを前提として演劇全体は笑わせるという手法です。
 私にはこの演劇はどこまで笑えないかを試されているように思えてなりませんでした。


■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】中学生と観た『夜叉ヶ池』鈴木麻里さん

■準入選■


中学生と観た『夜叉ヶ池』

鈴木麻里

 制作担当者からの挨拶と諸注意を経て溶暗すると、ホール内にどよめきが広がり拍手が起こった。文化祭の日の体育館を思い起こさせる様な熱気である。


晃    水は、美しい。何時見ても……美しいな。
百合  えゝ。
晃    綺麗な水だよ。

 今しも入水するところのうら若き男女が走馬灯の様に見た夢として『夜叉ヶ池』のドラマを捉え、現実の二人が没する様を戯曲冒頭の台詞に重ねた場面で幕が開く。
 女に男が重なって倒れ込む。中学生たちは瞬間息を呑み、「ヒュー!」と意気がる様に冷やかした。
 紗幕に「夜叉ヶ池」と投影されると「おおっ」とどよめき、映画のエンドロールよろしくキャストやスタッフの名前が流れる間、期待高まる様子でさざめきが止まらない。晃と百合が戯れることひとしきりあって学円が客席から登場すれば、出オチのごとく皆が笑う。

 晃と学円が百合を残して家を立つ場面までは好き勝手に声を出していた生徒たちが変化を見せる。
 威勢良く飛び出してきた村の百姓与十が横抱きにするのは、巨大な緋鯉である。捕獲にはしゃぐのを襲い退散させたのは、大蟹であった。
 ふくふくと綿入れしてけばけばしい重量感をまとった鯉七、硬質でがりがり細長い脚と鋏を持つ大蟹五郎、かたや消化管の底からこすり上げる様な重たい声で力強く、かたや関節をコキコキ鳴らす様な弾んだ声で軽やかにと風変わりな台詞回し、各々どしどし暴れたりちょこまか駆け回ったり人間離れした様に、客席は押し黙っている。
 そこへふらふらと鯰和尚、剣ヶ峰の公達が夜叉ヶ池の姫君に宛てた恋文を持参するも子細あって文箱の封を切るに、何とそこから当の白雪姫と万年姥が現われる。ト書きにてセリで登場するところ会館の機構で叶わぬのを惜しんで待ったが、薄煙を分けてゆっくりと二人歩み出る様に、会場は一層深く静まり返った。


白雪  ふみを読むのに、月の明は、もどかしいな。
姥   御前様、お身体の光りで御覧ずるが可うござります。
    (……)
白雪  可懐しい、優しい、嬉しい、お床しい音信を聞いた。……姥、私は参るよ。

 姫の台詞回しは、たおやかと言うよりずっとお転婆である。
 異様な存在の相次ぐ登場に、観客は非日常的な雰囲気を味わうことに目を奪われて、物語から置いてけぼりを食う事態になり兼ねない。緩急の効いた所作で池の主としての際立った存在感を保ちながらも人間らしくやや身近に感じられる白雪姫の役作りは、そこで語られる言葉の内実、女の想いに観る者が心を留めて耳を傾ける助けになる様に思われた。


白雪  人の生命の何うならうと、其を私が知る事か! ……恋には我身の生命も知らぬ。……姥、堪忍して行かしておくれ。

 姫が剣ヶ峰行きを思い留まるのは、百合の子守唄に聞惚れ、いなされてのことである。


白雪  思ひせまって、つい忘れた。……私が此の村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい(……)此家の二人は、嫉ましいが、羨ましい。姥、おとなしうして、あやからうな。

 百合は序幕より非常に抑制の効いた細い声でせりふを語り、吹いたら消えてしまいそうな儚く美しい生命を燃やし続ける女といった風情が人間離れして感じられるほどであった。互いの住む世界が交じり合う厳かで幻想的な場面であり、役作りの対比も印象的である。

 お百合が村人たちに追われ家に駆け戻る。雨乞に生贄を捧げんと彼女を捕えに掛かる村人は団扇太鼓を打ち鳴らして男ばかり一致団結、全て女優によって演じられていた妖怪たちの場面とは趣の異なる迫力と緊張感を湛えている。
 客席はこの場に変わると少しざわつき、大きな声で「暑い」と私語する生徒まで出てきた。
 虚構の登場人物には違いないが、村人たちは私たちと近い感覚を持った等身大の存在である。中学生たちは、無意識にほっとしたのではないだろうか。妖怪たちは人智を超えた「日常生活で決して出会うことのない者たち」である。自分たちの「理解」が及ぶ等身大の世界へ場が戻り、お互いの消息を確かめ合う隙を手にした。

 お百合危うしの処で晃と学円が帰る。晃には出て行け生贄は置いて行けと主張する村人に立ち向かうも一同追いつめられたところで、女は愛する者の命を危ぶみ鎌で自刃した。衣の白地を赤く染める血糊に、一気に客席が凍った。

 私たちには百合の行動をあたたかく受け止めることが出来なかった。理解できない現象に遭遇して畏れたという方が正確である。等身大だった存在が、非等身大の世界へと踏み出した。
 晃も自ら命を絶つ。彼方上方に白雪姫一行が現れて、晴れやかに賑々しくパーカッションでリズムを奏でている。村人たちは固まって絵になった。ここで観客に届けられているのは、意味ではない。体に響くビートが心臓マッサージの様にして、分からないことを分からないまま受け止めるこの時間の中に私たちを生かしてくれている。

 静岡県芸術劇場での鑑賞事業は充実した設備や環境のもとでの上演が可能であり、中高生にとっても普段出掛けることの少ない専門的な劇場に詣でる機会となる。出張公演には上演側の苦心がある一方で、中学生自身が実際に生活する地域のホールが異空間と化す様を目の当たりにした、得難い経験になったのではないだろうか。それは幕開きからヒトとして時を共にしてきた百合がにわかに「わからない」世界へ足を踏み出す瞬間に立ち会ったことと似ている。


参考文献
泉鏡花『夜叉ヶ池』(1979年8月、講談社)
宮城聰「二十代の俳優へ」(『季刊演劇人 5号』所収、2000年7月、舞台芸術財団演劇人会議)


■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】平井清隆さん

■準入選■

平井清隆

 『夜叉ヶ池』は、泉鏡花が大正2(1913)年に発表した戯曲である。今公演に当たり、オープニングクレジットで、あえて時代は「現代」と記されていた。およそ100年も昔に書かれた作品がなぜ「現代」なのか?
 ひとつには、幽玄ともファンタジックとも評される鏡花の作風によるところも大きい。この世とあの世を結ぶ黄昏時のごとき色彩を帯びた独特の世界観は、時間や空間と言う軛から解き放たれている様に思える。また、「紡ぐ」という表現に相応しい鏡花の日本語の美しさも要因であろう。鏡花の織成す言葉は、聞く者、読む者を作品世界へと誘う妖しくも抗う事の出来ない魔力を持っている。だが、無論、それだけではない。
 物語は、ほぼ、晃と百合の住む山里の小さな小屋で進む。晃は、鐘楼守の弥太兵衛の死に目に会った事と、なにより百合の美しさに魅かれ、自らが鐘楼守となった。百合の美しさは、見目だけではない。琴弾谷に流れる清流を思わせる清らかな心根の美しさが、晃をこの地に留め、「物語の人」ならしめたと言える。百合の心は、人が本来備えている、或は、求めている心の美しさなのかもしれない。
 しかし、百合は、必ずしも「人」とは言えない。人と、人ならざる者の間に属する、それこそ黄昏時のような存在である。また、百合の心根を清流にたとえたが、百合の存在そのものが清流であり、自然の代名詞であるとも考えられる。晃と百合の、凛とした透明感のある演技が、それを一層際立たせている。
 人が、人ならざる者の声を聞く術を失って久しい。鐘楼守の後を引き受けることを一笑に付した鹿見村の村人を我々は笑えない。鹿見村の村人は、まだしも、暗闇に怯えることもあったろう。しかし、私たちは、自然に対する「畏れ」すらなくしてしまっている。自然を思うがままに作り替え、天災も人智で防げると思い込んでいる。百合という「いけにえ」で旱魃を逃れようとした村人と、科学・技術という蟷螂の斧を振りかざす私たちとの間に違いはない。村人の姿は、自然を破壊し、自然からしっぺ返しを受ける私たち現代に生きる者の姿そのものではないだろうか。
 だが、村人も真剣ではある。いけにえの儀式に託け、百合を裸に剝こうとする辺りは、下卑た笑い声とともに、人の愚かさ醜くさを端的に表している。しかし、旱魃から逃れ、生き抜こうとする点においては、真剣そのものである。それがたとえ、百合に命の犠牲を強いる身勝手なものであったとしても、破滅に導く引金を自らの手で引く事であったとしても、である。集団心理やエゴによって、いとも容易く狂気に走る様は、効果的に使われた手太鼓の音が鳴るたびに、観る者に恐怖を与える。その恐怖は、私たちの内に潜む醜い面が太鼓の音に共鳴しているのかもしれない。そう思うと、一層、背筋の凍る思いがする。
 一方で、白雪姫とその一党たち、すなわち人ならざる者は、徹頭徹尾、滑稽と言える程ユーモラスに描かれている。晃の百合への想いの真摯さや、村人の狂気とあまりに対照的である。
 白雪姫が鐘の約束を恨めしく思うのも、格別に森羅万象の理に関わるような大仰なものではない。愛しい剣ヶ峰千蛇ヶ池の君の元に行きたいというだけである。その恋とて、ユーモラスな演技と相まって、一世一代の身を焦がす様なものであるとか、魂の片割れを求めるなどと言う様な重厚さは欠片もない。イケメンタレントの「おっかけ」という風情すら漂う。晃と百合の愛の持つ緊張感とは対極にあるように描かれている。白雪姫の出立によって村里が水に飲み込まれる恐ろしい筈のラストシーンですら、コメディでしかない。
 人ならざる者から見れば、人の営み、生死すらも、ちっぽけで、滑稽で、児戯のようなものであるのかもしれない。それは、東日本大震災や九州の長雨などの自然の猛威を目の当たりにした私たちに逆説的に訴えかけてくるように思える。
 舞台の場面ひとつひとつが、現代を生きる私たちに、根源的な課題を問いかけてくる。なるほど、100年も昔のことではなく、現代と言って何の差支えもない。
 全体が、山沢学円という記録者の目を通すことで、客観性・普遍性を持たされていることも見逃せない。唯一、客席から登場し(この登場も秀逸である)、客席へと退場するのも、「物語の人」ではない事を示すものであろう。
 しかし、なにより感じたのは、理屈や解釈ではない。自刃した百合を追い、自ら首元を掻き切り百合と共にある事を選んだ晃。二人の、琴弾谷の清らかな水のごとき愛に殉じた姿を見た者は、その心を動かさずにはいられない。その心の動きこそが、古今を超え、東西を問わず、人が人である証であると言えよう。それこそが、「現代」でも色褪せる事のない、人としての心情なのだと思う。
 晃は言う、「水は美しい」と。至言である。


■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】松竹由紀さん

■準入選■

松竹由紀

 百合は、何故カツラを取らなかったのだろう?

 山沢が登場し、萩原がカツラを取って懐かしく登場するシーンだ。
 この時、私は、当然、百合もカツラを取るだろうと思って見ていた。
 ところが、彼女はカツラを取らなかった。どうしてカツラを取らなかったのか、初っ端から感覚的な躓きを覚えたが、答えはそのうちに分かるだろう。と、思い、軽く流して最後まで見続けていた。
 話が進むにつれて、百合が、萩原を心から愛し、離れたくない気持ちでいたのは、よくわかった。日本人の奥ゆかしい、静かな愛を持つ女性なのだと私なりに理解した。しかし、どれも、その時カツラを取らなかった理由とは全く繋がらないまま、消化不良の状態で終演してしまったのだが、初っ端の感覚的な躓きは、その後の劇中でも続いていた。

 それは、生贄にする百合を捕える村人達が太鼓を叩くシーンだ。

 あれは、とてもとても長い時間だった。村人たちが叩くあの太鼓のリズム。はじめのうちは、特別なにも感じなかったが、徐々に耳が不快感を訴えてきた。あの響き、単調なリズムの繰り返しは、私の中の恐怖を呼び起こした。そのうちに見ていて気持ちが悪くなってきたのだが、この身体の反応も、演劇を見る醍醐味だと、たっぷり気持ち悪くなりながら見ていた。早く終わってくれないかな!と、思っていた。
 集団は怖い。太鼓の音、響き、単調なリズム、そして人々の思いは、恐怖を生み、さらなる恐怖を煽るのだということを初めて体験した。
 恐怖だけではない、生贄に関しては、怒りさえ感じて、体が熱くなった。
 終演後、席を立った後も、その感覚は残っていて、少し気持ちが悪かった。

 2階のカフェに移動し、出演の役者さん達が続々とご挨拶に回っているのを眺めていると、山沢役の奥野さんと話せる機会を得た。良い機会だったので、なぜ百合はカツラを取らなかったのか、聞いてみた。
 奥野さんは、まず、夜叉ヶ池の演目についての説明とともに、カツラを取らない女心などを熱く語ってくれた。たくさんのヒントがあった中で、私が印象的だったのは、
 「百合は、山沢が萩原を連れて行ってしまうのではないかという不安が大きかった。」
 と、いうことである。
 「不安」だったのか。
 雨乞いのための生贄、洪水を防ぐための鐘楼、すべては「不安」で繋がっている。私には、そんなふうに見えてきた。人間の不安。泉鏡花の表現の一部を得られた感じがして、やっとスッキリした。

 ただ単純に、愛する人と一緒に村を出てしまえば良いじゃないの。と、思う私だったが、「不安」を表したものだとしたら、やはりカツラは取らなくて良かったのかもしれない。
 現代を、軽い感覚で生きている私には、理解の及ばないところだった。
 
 
 百合が、カツラを取らなかった理由について、もうひとつ、ユニークな見解を聞いたので書いておきたい。この劇に誘ってくれた、新居町の寺田さんだ。NPO法人 新居まちネットでリーディングカフェを開催した面白いおじ様である。
 その寺田さんの見解はこうだ。
 「昔と今との時間の違いを表現したものだと解釈していた。」
 そういった感じのお話だったと思うが、とにかく「時間」を表現したということだ。
 私にはまったく思いつかなかった発想だ。言われてみると、昔と今の違いを白髪のカツラで表現しているのだと言われる方が、私の感覚の中でも、しっくりとくる。
 見方は1つじゃない。もっとたくさんの人からの意見も聞いてみたいと思った。

 今回は、1つのシーンから2つの解釈が得られた。
 初っ端から感覚的な躓きを抱えたままでいた私には、どちらの理由にせよ、カツラを取らなかったのには意味があると分かって、落ち着いた。あの不快だった太鼓の響きでさえ、 「人間の不安」に対する理解を半ば強引に広げ、深めてくれたのだ。

 決して、最後にスッキリ爽快!という展開ではないが、私の心には、人間の中の不安について目を向ける方法が分かった作品である。