2012年11月6日

■準入選■【まいりました、赤い封筒】小長谷建夫さん『THE BEE』(野田秀樹演出)

■準入選■

まいりました、赤い封筒

小長谷建夫

 筒井康隆のファンである小生にとって、なかなか興味深くかつ刺激的な舞台であった。
 尤もそれ以上に静岡の野田秀樹ファンにとっては長く渇望していた来訪だったのかも知れない。なにしろ機関銃のような台詞のやりとり、怒涛の如く転換する舞台や配役、これらに加え野田秀樹の驚くべき身体の柔らかさも、中年らしからぬリズム感溢れるダンスまでをも眼前にすることができ、まさに野田ワールドにどっぷり浸かった70分だったからね。
 それを言ったら宮沢りえちゃんファンには、これはもう興奮の極み、ほとんど絶頂感を味わった舞台であったことだろう。かく言う小生も、ポカリスエットのCMでの鮮烈なデビュー以来のりえちゃんファンでもあるから間違いない。あの妖艶さ、あの庶民性、あの啖呵。そういえば前半に足の長い警官が出て来るが、あれもりえちゃんだったのかな?印刷物の配役には載っていないから最後まで気付かず残念な限りだ。
 ともかくも離婚騒動で落ち込んでいるのではないかと危惧していたが、全く心配無用のようで、りえちゃんのことを心配するよりも自分の前立腺のことでも心配しようと思った観劇の夜であった。
 さてこのまま俳優論をやっていたら、確実に劇評失格だ。話を筒井康隆論から始めよう。
 筒井の毒気に満ちた作品が演劇人の嗜好に合い創作欲を刺激する理由はよくわかる。なにしろ筒井が各作品で取り上げるのは人間の隠し持つ狂気だ。どの作品も狂気が狂気を呼び、それはスパイラル状に高まり深まる。これが演出家の関心を引かないはずはない。
 毒気に満ちた作品と言ったが、その毒は決して筒井の毒ではない。読者の心に潜む毒であり、観劇者の毒なのである。筒井はそれを覆っていた常識や世間体や倫理道徳を取っ払い、白日の下に晒したにすぎない。
 筒井の悪い所は、いやいい所なのかも知れないが、狂気がとどまることなく収拾がつかなくなるまで放置してしまうことだ。
 常識や世間体にがんじがらめの我らは、物語が破局にいたる過程を寛容の精神で耐えるのだが、最後にはなんとか収拾してくれるだろうとの淡い期待を持ち続けるのである。全く我らは懲りない予定調和信奉者なのだ。
 一方筒井に収拾しようなどという気はないから、読者あるいは観劇者は狂気の高みに登りつめ、突然梯子を外されてしまうのである。いやもともとそこに梯子などもなく、スパイラル状に高まる興奮、男女がよく経験するあれだな、その上昇気流に乗って行っただけだから、クライマックス即転落死となるわけだ。
 筒井ファンを長く続けているとこの転落感がたまらなくなる傾向がある。
 野田秀樹はこの狂気を忠実に、いや更に増幅して表現した。小生が野田作品を観たのは、はるか昔、シアターコクーンでの「贋作 罪と罰」一回こっきりだから、あまり評論もできないのだが・・・その時も激しく転換する舞台で大竹しのぶが走り回っていたのを思い出す。
 大竹しのぶは不思議な女優だ。小柄なくせに、あの存在感。可愛いくせに、あのふてぶてしさ。そういえば宮沢りえちゃんだって負けてはいない。こんなタイプが野田秀樹の演出家としての五感、六感を刺激するんだろうな。
 いけない、いけないこのままだとまた女優論になってしまう。元へ戻ろう。
 文学作品や演劇の中では子供の指を折ったりしてはいけない、子供を殺してなどいけないという規制があるわけではないが、読者、観劇者には絶対にタブーとしてある。そんなタブーを次々と破る筒井作品。このタブー破りをさらに残酷に再現した野田。
 ポキリ!ポキリ!と。
 そこまでやっちゃいけない!と叫びたくなるな。
 そういえばBEEは被害者が加害者へ転ずる境目に登場するのかな。もう一度よく見ないとわからないね。タイトルになっているくらいだから極めて重要な役割をしていることは間違いない。このサラリーマンは虫嫌い、とりわけ蜂の類が嫌いなのはわかった。いや嫌いなだけでなく、あの羽音が生理的不快感とともに彼の狂気を増幅することもわかった。
 BEEが原作に登場してきた記憶はないから、きっと野田秀樹のメッセージがこめられたアイテムなんだろう。蜂の拡大映像が出てきたのは、主人公が血肉にまみれ始めた頃だったろうか。
 この芝居が、日常と非日常、正気と狂気、被害者と加害者などの境目あたりをテーマにしていることは間違いない。とするとBEEの出現と登場人物達の意識転換との相関関係を見落としている小生に劇を語る資格はないね。まあそれを言っちゃお終いだから、ここは演出家も井戸も蜂が大嫌いで、プッツンするきっかけになっていることがわかったというだけでいいとしよう。
 狂気の身体切り刻み惨劇の中、登場人物たちは一生懸命日常の行為を繰り返し、精神の均衡を保とうとする。まな板を叩く包丁の音が今も残るね。男女の性行為だって、最初はレイプまがい、いやしっかりしたレイプだったが、そのうち和姦だか習慣だかわからなくなっていく。放出を表すピストルの音も、徐々に湿り勝ちになるのも演出者の実感なんだろうな。
 高みに上り詰めたと思う狂気がまだまだ途上に過ぎないと思い知らされるのが、ドアの隙間からポトリ、ポトリと届け続けられる封筒だ。鉛筆の指折り音もそうだが、封筒の邪悪の赤さにも本当にまいったね。演出家の鋭敏な感性に脱帽である。
 さて原作者も演出家も、我ら小市民が自らの狂気を剥き出しにされて戸惑っているのを見て、にやにやと笑っているに違いないが、小市民だってそう初心ではない。
 井戸が加害者となってその悦楽に耽る時だって、それでいいのだと心の中で歓声を上げている者、指切りの場面で、次ぎは鼻を削げ、目玉をくり抜けと煽り立てている者といろいろなのに違いない。いや小生がそうだと言うのでは断じてないが。
 ともかくも終演後、覆いを無理やり剥がされた心や感性に冷たい外気が当たりヒリヒリ痛むのを感じながら、劇場を出て誰もが日常に帰っていくのだ。そこは昨日までの日常とは何かが確実に違っているのだがね。


■準入選■【『THE BEE』(野田秀樹演出)】佐倉みなみさん

■準入選■

佐倉みなみ

 「THE BEE」、この物語にまず浮かぶ言葉は「不条理」である。そして自分の中で既に確立し当たり前となっている善悪、正義、悪、倫理、道徳、それら全ての概念に疑問を抱かせる。

 物語は平凡で善良な市民である井戸が、ある日突然妻子を脱獄犯である小古呂に人質にとられるところから始まる。彼は何も悪いことはしていない。その日は息子の誕生日で井戸は仕事終わりに誕生日プレゼントを買い、家路へ急ぐ家族思いの温厚な人物である。平凡だが慎ましく幸せな生活を送っていた彼は、ある日いきなりその日常をぶち壊される。
 
 井戸も観客もどうして彼がこんな不幸に遇うのかわからず、わからないまま物語は進んでいく。家族を救いたい一心で、警察に、小古呂の妻に、家族を解放してもらえるように小古呂への説得を頼む。しかし警察は井戸の懇願を端から聞く耳を持たない「警察が解決する」という固定概念で固められたマニュアル男。小古呂の妻は自分も井戸と同じ歳の子供を持つ親でありながら、自分のこと以外知ったこっちゃないという自己中心的な女。

 井戸は自分の目を疑う経験をする。誰しもが当たり前だと思う勧善懲悪は、現実では起こらない。ただ無慈悲に事件は起こり巻き込まれていく。頼れる正義など絵に描いた餅、責任や罪悪感など皆無の無関心な当事者。それらは次第に井戸を別人へと変貌させる。そして井戸は自らも犯人の妻と子を人質にとり加害者へと変わる。そしてマスコミや警察を利用しながら、小古呂の妻を強姦しその息子の指を切り、小古呂への復讐と家から去ることを求める。
 被害者でも加害者になったら、加害者と同じ悪である、と思うであろう。しかし、この舞台で一体誰が悪なのであろうか。警察が井戸の懇願に耳を傾けていれば良かったのか?小古呂の妻が当事者としての意識を持ち小古呂の説得に初めから応じていれば良かったのだろうか?しかし、井戸自身加害者になるにつれて実感していく、「俺は初めから被害者を演じることができなかった。だから加害者になるに徹した。そして本当はこれが本来の自分の姿ではないのだろうか」と。ならば初めから加害者の芽を持った井戸が悪かったのだろうか。しかしそもそもこんな事件が起こらなければ井戸は善良で温厚な市民でいられた。ならばこの事件が起こったという事自体が悪であり、井戸を加害者へ導いた運命こそが批難されるべきことなのだろうか。しかし運命など批難できない。ならば一体何が、誰が悪いのであろうか。しかし井戸の人生には何の落ち度もなかった。因果応報とは到底いえない。理不尽である。
 しかし現実とはそもそも理不尽なものではなかったか。観客である私たちはそこでふと気付かされる。井戸という人物は決して舞台上の人物ではないと。現実は正義、悪、善、それらの概念はわかりやすく線引きされてはいない。いつもそれらは表裏一体であり、明暗混沌とした社会で私たちは生きている。そして一歩、何かをちょっと踏み外せば、それらは逆転し、時には被害者が加害者へと変わってしまうのだ。だがしかしその一歩すら明確ではない。朝が昼になり夜になるように、徐々に、ゆるやかに、踏み外してしまうのだ。自分の意思ではなく、見えない周りの、何かの、もしかしたら自分の潜在意識などの力によって。
 この舞台もそうなのだ。井戸も、小古呂も、警察も、小古呂の妻も、そして井戸の運命さえも、そのどれもが加害者であり被害者なのだ。悪も正義も善も全てが混沌と入り混じるこの世界に、果たして正解などあるのだろうか。
 序盤で感じた井戸への憐れみの気持ちは、いつしか井戸への恐怖と嫌悪感に変わっていく。小古呂の妻への嫌悪感や怒りは井戸が変貌するにつれ憐れみと同情に変わっていく。そして次第にわからなくなる。何が正しいのか。
 小古呂の子供も妻も殺してしまい、もう小古呂に送る指がなくなった時、井戸は叫ぶ「次は俺の小指を送ってやる。」もう井戸自身、答えなどない。ただ繰り返される指を送る毎日をまた送り続けようとする。目的は一体なんだったのか?不条理からスタートするこの物語に、正解など用意されず、つきはなされるように演目は終わる。
 被害者が加害者になり、手段がいつしか目的となり、強姦が日常に、切断が当たり前になる。そして段々井戸の人物像が輪郭を失っていく。何もわからなくなる。 
 
 「THE BEE」は恐ろしいほどの湿度と熱く冷めた狂気を身にまとった作品である。しかしその狂気と湿度こそ、私たちが日々現実で対面しているものであり、井戸は私たち自身の投影であると気づく。
 問題提起をされているようで、逆にこの作品自体がもう答えを私たち観客に投げかけているのだ。その答えを私たちはもっと掘り下げ、自分自身の答えを見つけなければいけない。その答えはゆっくりと、朝が昼に昼が夜になるように、形を変え生きる意義へと変わっていく。


■入選■【「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て 】渡邊敏さん

■入選■

「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て

 渡邊 敏

 工場の制服みたいなグレーのワンピースに、赤いスカ-フを身につけた女の人が3人、音楽に合わせて膝屈伸でリズムをとりながら語り、歌う。内容は、一人の女性の子どもの頃の思い出だ。延々三時間、ずーっと子どもの頃のささいなエピソードが語られていく。
 ニューヨークの劇団だそうなのに「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ」という田舎な感じのする名前に魅かれて、ミュージカル「ライフ・アンド・タイムズ」を見た。

 背景に白い垂れ幕があるだけの舞台に、赤いスカーフと、時々赤いボール、黄色の投げ輪といった明るい色が持ち込まれる。軽やかで、ユーモラスな色彩感覚。彼女たちのズック靴も、さりげなくグレーと赤のコンビだ。色づかいだけでなく、この控えめなユーモア感覚は至るところに感じられた。
 たとえば、「ミュージカル」と聞いて、超絶技巧のダンス、驚異的な歌唱力、主役は美男美女・・・と連想していたけれど、この劇団はちがっている。私でもやれそうな、ラジオ体操みたいなダンス。そのダンスも、あまりキマッていない。タイミングが何となくずれていて、それもおかしい。
 主役の女性3人と男性3人は、太っていたり、小柄でやせっぽちだったり、中年でお腹が出ていたり、髪が薄かったりする。「ごく普通」の感じの人たちが舞台にいる。そして、観客を感動させようとか、何かを訴えようというより、自然体な様子で、でも楽しそうに演じている。
 音楽も、感動を呼ぶような類いのものではなくて、親しみやすいメロディーを劇団の人たちがキーボードやフルート、ウクレレ(?)で弾いていた。(それもやっぱり、真剣に、というより手作り感が感じられる、楽しそうな弾き方で。)
 見始めてすぐ、この人たちと友だちになりたいと思った。終わった時には、「ありがとう」と言いたかった。こんな気持ちになったのは、去年静岡の町で見た大道芸以来だ。その、日本語が上手な外人の芸人さんからは、人を喜ばせたい、楽しませたい、愛みたいな気持ちが伝わってきた。「オクラホマ」の人たちからも、そういうあたたかさとユーモアを感じた。

 ふつう、お芝居も映画も、語られるストーリーに意味があって、私たちはその中に入り込むことで何かを得るが、この作品は題材の選択やその見せ方に意味があったように思う。
 観客は、一介の女性の子どものころの思い出を、延々と聞き続ける。語られるエピソードは、両親や、仲良しの友だち、人の家に遊びに行くのが好きだったこと、兄弟で変な名前のバンドを結成したこと、教室でおもらししたこと・・・などなど。電話で語った話を録音して、そのまま台本に使ったそうで、「Um(えーと)」とか「like(~みたいな)」といった口癖が頻出する。台所でコーヒーとドーナツでも食べながら、女ともだちの話を聞いているような気がしてくる。
 ごく普通の人の話を、普通の感じの人たちが、あまりカッコよくなく、でも心がある感じで演じているのが、このお芝居のテーマかと思う。
 「幸せになるには、人よりもきれいでカッコよくて、才能がなくちゃ」という現代の信仰に近い思い込みに、NO!。別にフツーでいいじゃない、と言うより、フツーの人の中にあるすばらしいものに目を向ければ、幸せに生きられる。心のあたたかさとか、大らかさ、ユーモア。一言でいうとヒューマニティー。誰もがもっているものをお互いに贈りあえば、こんなにも楽しい。
 そして、人と接するときは、鎧をまとわずオープンな心になること。女性たちは胸もブンブン揺れちゃっているし、フトモモや、時にはパンツも見えちゃうのは、そういうことだと思う。空気を読んだり警戒したりせず、心を開いて素直に語り合うことができれば、幸福を感じられる。
 それから、人に敬意をもつこと。思い出を語った女性の口癖をそのまま生かしたり、話をはしょったりしないで延々三時間を費やすことの意味は、敬意だと思う。それで、お芝居のラストで、男性が舞台に直立して、訴えるように語っていたあの真剣さも、同じことだと思う。「フツーの女性のフツーの話」は、実はすごいことなんだ、本当にすごいことなんだ、というメッセージ。ヒューマニティーの全面肯定。ヒューマニティーに対して大きなYES!。
 疎外や孤独。この作品は、日本を含め、いわゆる「先進国」で不幸のもとになっているものへのクスリだと思う。でもそのメッセージがあたたかくつつましやかに語られているところに作者の知性が感じられる。それゆえに信じる気になれる。

 終演後、演出家とのQ&Aがあった。バヴォル・リシュカ氏とケリー・コッパー嬢。聞きたい気もしたけれど、この幸福感に純粋にひたりたくて、出てしまった。ちらっと見たケリー嬢はTシャツに短いデニムのスカート、髪にスカーフを巻いたきれいな人だった。パンフレットを見たら、頭に青い鳥や花を飾った彼女の写真があった。すてきだ。また幸せな気持ちになった。


■準入選■【ジュリエットよ、なぜあなたは…?― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―】番場寛さん

■準入選■

ジュリエットよ、なぜあなたは・・・?
 ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―

番場 寛

 今回のオリヴィエ・ピィの演出には冒頭から驚かされた。ジュリエットはそれを演じる女優があまりに成熟しているばかりか、忠実にフランス語に翻訳されている筈の彼女の台詞を聴いていても、彼女がどうしても14歳の乙女には見えない。両手を大きく広げ、ヒステリックに感情をむき出しに激しく叫んだり、恋心を告白したりする姿は、『ハムレット』のオフィーリアが死なずに年を取った姿を想像させる。
 ハムレットは、自分の母親が夫の死後、すぐその夫の弟と再婚したせいだろうか、純粋可憐なオフィーリアに対し、彼女もやがて性を露わにする「女」になるのだと嫌悪感をむき出しにする。
 しかしこのピィ演出の『ロミオとジュリエット』を最後まで観ていると、ハムレットだったら抱いたかもしれない、その「女」に対する嫌悪感は克服されなければならないものなのだと説得されるほど「女」の成熟さの魅力が表れていた。
 また、畳みかけるかのように強くて、速い発声法は、シェークスピアの台詞の見事さを際立たせていた。「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?・・・」という有名な台詞は、今までの他の舞台や映画で何度も聞いていた筈なのに、今回の女優の口からそれが発せられるとき、それは恋の自己陶酔を超えて、彼女とロミオの置かれている状況、つまり彼が自分の家が対立しているモンタギュー家の息子であるという状況への攻撃的な問いであると聞こえる。 

「移動式バルコニー」という舞台装置と一人二役
 舞台装置は驚くほど簡素であった。演奏は舞台上に置かれた一台のピアノのみで行われているだけなのだが、それも移動させられバルコニーに上がるときの踏み台とされ、そこを登場人物が上がる仕草がそのまま鍵盤を鳴らすという工夫もされていた。ロミオが人目を忍んでジュリエットに会いに行く場面で使われるバルコニーは横の階段で上がっていくようになっており、それは極めて効果的に機能していた。つまり、舞台装置は観客の想像力により様々な場を表すよう移動し、据えられる。
 互いに愛を誓って「婚姻」を交わしたその場は、そのまま最後に毒を仰ぎ、命を終える場ともなり、赤みがかった透明なスクリーンが降りることで、他の人物が死者を見つめる「墓場」ともなる。それどころか黒いそのバルコニーの壁はチョークで登場人物が言葉を記す「黒板」の機能をも果たしていた。発語されたとたんに消え去るフランス語の台詞やそれを簡略化して映し出される字幕も数秒か数分後には消え去るのに対し、書かれた文字として舞台に存在し続ける言葉は観客にその意味を考えさせるに十分な時間を与えた。
 そのうちの一つはLa nuit est blanche et noire(夜は白くかつ黒い)であった。これは「夜は遅すぎる。いや、むしろ早すぎる」という台詞に対応するのだろう。「夜」と「朝」は連続しており、いつから「朝」なのかは曖昧であるのに言葉になったとたんに明確に分節されてしまう。この演劇全体が「夜と朝」と同様に「愛と憎しみ」、「生と死」等の対立によって成り立っていることが分かる。
 そのシェークスピアの戯曲そのものが持っている、対立するものの転換という技法は、二人の登場人物を一人の俳優が演じるという演出にも見られる。モンタギューと息子のロミオを同じ俳優が演じるのは、家系を際立たせるためだと理解できても、ティボルトが死んだとき、喪服に身を包みその死について語る伯母であるキュピュレット夫人を同じ男の俳優が演じたときには驚かされた。つまり自分の死を嘆く役を自分で演じていることを観客に見せているのだから。ここで顕著なように、ピィは人物のリアルさではなく、あくまでシェークスピアの台詞を最大限に生かすことに演劇のリアリティを求めているのだと分かる。

「死は存在しないLa mort n’existe pas」
 舞台装置の壁にこの「死は存在しない」という言葉が書かれるのは二人の主人公が死を迎える最後の場面である。これは普通だったら二人は死んでも、愛は生き続けているという意味に取るべきなのかもしれないが、なぜかこの言葉を見たとき、J.ラカンの「性関係はない」という言表を思い出した。
 ラカンの「性別化の式」と呼ばれる図式では、男は「欲望の原因対象」と呼ばれる「対象a」を求め、女は「ファルス(記号となった男性性器)」と「<他者>に欠如しているシニフィアン」を求めているという点で、男女では欲望の向かう対象が異なり、その欲望は互いに交差することはない。ではこの劇のロミオとジュリエットの間には、「性関係」はあるのだろうか?
 婚姻はしても二人にもやはり「性関係」はないと思う。最初バルコニーで逢って二人が接吻をするとき、それを「罪」と名づけ、口で相手の「罪」を自分に戻すと言い、接吻を繰り返す。その口を通じての「愛」の交換は、敵を欺くために毒を仰いだロミオを見たジュリエットが、そのロミオが飲んだ毒を自らに移そうとする仕草となって反復される。
 「~はない」という言表は「~はある」を前提としておりそれに抗い、その不可能性の追求という人間の夢を表すものであり、演劇の本質そのものを表している。


■準入選■【「人形」から「人間」へ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(宮城聰演出)を観て― 】番場寛さん

■準入選■

「人形」から「人間」へ
 ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―


 番場 寛

 もうかなり昔にパリでその頃評判だったピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』を観たときとは違い、今回の公演では最初から最後まで退屈する瞬間はなかった。SPACの劇では、その前身である「ク・ナウカ」のときから、演ずる人が語らず演技だけを行い、後方に座った人が台詞だけを言う演出は文楽を思わせる。演劇は普通どれだけ演技であることを忘れさせ、リアルな言動であるかのような錯覚を観客に与えることができるかを目指しているのに、この劇団での、俳優が生命を帯びた人形のように動くさまは、演劇の歴史を遡り、演劇の原型そのものに迫ろうとしているかのようで新鮮であった。登場人物が、いかにも作り事であり、絵空事であることがこれ見よがしに演じられている様は、そこで日本の神楽や祭りの儀式を観ているかのような臨場感を与える。 
 今回の『マハーバーラタ』では、昨年鳥の劇場にて上演された『王女メデイア』よりも更に複雑な構造をとっていた。神々なのだろうか、面を被った人物たちと、動物の面を被った人物、張り子の動物たちなど、まるで人形が人形を使っているかのような重層構造をとっていた。
 なぜ演出の宮城聰はこうした「作り物」的な演出を意識的に推し進めているのだろうか?その演劇的効果とはいったいどういったものなのだろうか? それはこう思う。いわゆる「劇を演じる」という意志と行為を可視化することで、「演ずる」という行為を隠すのではなく、逆にそれを露わにすることによって生まれる感動を狙っているのではないか? ちょうどそれは作物の豊穣や民衆の健康と安全を神に願って行われる宗教的儀式に似ている。実際、能も大木の前で演じられ神に捧げられたことがあると能楽師から伺ったことがある。古代ギリシアで、劇が演じられたときもこんなだったのだろうか?

物語の形態学
 さて、劇の内容についてはどうだろう。美しい妻と二人の子を授かり、国を支配していたこれ幸せの絶頂の王がふとした気の迷いから賭博に浸り、自分の持っていたすべてを失う。自分のふがいなさに嫌気がさし、自分と一緒にいては不幸になるばかりと考え、眠っている妻の服の片袖をこっそり切り取り、それを持ったまま流浪の旅に出る。様々な変遷の末、賭に勝つ魔力を授かり、最後はまた全てを取り戻すという波瀾万丈ともいえるし、失ったものを再び取り戻し、離別した主人公たちが再会するという点だけみれば、ごく単純な話にも思える。ロシアの昔話を分析し、すべての話を登場人物の機能に分解し、その構造が全て人物の31の機能の組み合わせによって成り立っていることを証明したウラジーミル・プロップの公式はおそらくこの『マハーバーラタ』にも当てはまるであろう。ナラ王が最後に妻と再会し、賭け事に勝ち国を取り戻すことは、「発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される(定義は、「不幸・欠如の解消」。記号は、K)」(『昔話の形態学』)という機能に分類できるだろう。
 ではこの宮城聰の演出の素晴らしさはどこにあるのであろう。一つは打楽器の演奏者の音だけでなくその身体性までもを観客に披露したことであり、台詞を語る人と演じる人を分けるだけでなく、時には演じる人までもが自分自身の台詞を発するという普通の劇で行われている当たり前のことが、今回の劇では驚きとなって感じられる。

野外劇場という「場」の特異性
 演劇では、いったいどこまでが劇場なのだろう? 舞台は勿論だが、劇場の建物、それを取り巻く環境全てであろう。野外ステージの場合は空の色、暗くなってからは月の光やライトを当てられた木々、冷たい夜風、虫や鳥の鳴き声、客席の赤ん坊の泣き声さえも、まるで京都の庭が採用している「借景」のように、観客の反応までも含めたその場で起きていること全てが装置として機能していた。この劇の本質は、張り子の動物や仮面など、これみよがしの「作り物」と、人形のようにうごく俳優と、それらを説明する「語り」を通して、「ナラ王」の物語を観客自身が完成させようとする想像力そのもののうちにあるのだと思う。
 美加理の演ずる美しい王女は眼が大きく表情を変えないか、変えていても見えないように演出されており、見えない人形遣いによって操られているかのような動きに見える。そうした語りの中で動く人形が突如として生々しい肉体を露わにしたのが、没落したナラ王が彼女のもとを去るとき、名残として眠っている彼女から切り取り持ち去る服の片袖を切り取ったときである。白く肉感的な彼女の腕がさらされたとき、人形としての可愛らしさ、動きは変わらないまま突如として彼女は人形から人間の女へと変身した。それは今回の作品で、「語り手」とは別に王女を演じる美加理自身の口から自らの台詞が発せられた演出とも重なる。「形態学の公式」に当てはまる機能を果たす人形の物語が、一挙に人間の物語へと変貌する瞬間をも見せてくれた。

 (参考 ウラジーミル・プロップ 北岡誠司他訳『昔話の形態学』 水声社)


2012年6月25日

■入選■『少女の十字架』鈴木麻里さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■入選■

少女の十字架

鈴木麻里

 継母はなぜ自死したのだろうか。
 こぶ付きで転がり込んできて無理難題を言いつけた挙句に少女を家から追い出してしまったのは、連れ子をこの家の唯一の娘として幸せに育てるためである。少女のフィアンセである王様に薬を飲ませて彼女を忘れさせたのも、愛娘と結婚させるためだった。馬丁がこの娘の正体を亡き子の似姿の蝋人形だと知っても母は動揺を見せず口止めし、王様と人形との婚姻成就に努めることをやめなかった。少女が劇の演し物になぞらえて王様の記憶を取り戻すのを阻もうとしていた。
 それが何故か、王様自身が舞台上に立っておりもはや上演を止めることは叶わないと知るや、喚きながら去ってしまう。王様が本物のフィアンセは少女であると思い出した頃、馬丁の台詞で最期が告げられる。継母は身を投げ、蝋人形は落下して砕けたと言う。

 母親の発心は、限りなく不可解に映る。この王様を奪えないならば、今度は隣国の王様でも何でもそそのかすべく、直ちに人形を抱えて出立すればよい。他でもないこの王様と娘を結婚させることがかねてから人生の最終目標だったのならばもう少し王様と縁故のある家へ潜り込んでいれば良さそうなものの、市井の肉屋とわざわざ冒頭で結婚しているあたり、どうもそうは考えにくい。
 この役は男性によってパワフルに演じられており、『伽羅先代萩』の八汐等、歌舞伎の上演で女の敵役を立役が務める慣例を連想させる。そうすることによって線の細い女形が演ずるより凄みが出るとの言にも頷けるが、男の敵役に比べて女の敵役は例が極端に少ないことからも、悪い女を描くことへの忌避が念頭に上る。立役が演ずることにより、「これは女であって女でない」というエクスキューズが付与される。

 少女に残忍な仕打ちをする継母であると同時に、彼女は献身的な実母である。蝋人形に優しく語りかけ、幸せにするべく尽力する。この義理の妹は背格好が不思議に少女とそっくりであり、劇中、多くは舞台奥の白い幕に映る影で表された。少女の姿と義妹の影がぴったり同じ形状で重なり合う場面や、お人形そのものを少女役の俳優が演じる場面があった。虐げられる継子と溺愛される実子の奇妙にも寸分違わぬ姿は、あの蝋人形が実は少女を象ったものであることをほのめかしている。
 母性の持つ包含性は、子どもを丸ごと抱きかかえ慈しむこと無限である様な肯定的な面を持つとともに、子どもの自我の芽を呑み込んで混沌へ退行せしめ終には死へ至らしめる恐ろしい顔も持っている。初版グリム童話で白雪姫をお城から追い出したのは実の母親であった。継子譚に現われる継母とは「母であって母でない」というエクスキューズを付与して語られる、母なるものが元来持つ姿なのである。

 実母の死によって示唆されているのは、思春期を迎えた少女の中で母親の絶対性への信頼が揺らいだことであると考えられる。継母が彼女に無理難題を言いつけたのは、それを察知した焦燥に発するものではないだろうか。懸命な躾が高じたものとも取れる。少女にそっくりな人形をかわいがるのは「昔はよかった。小さい頃はあんなにかわいかったのにね」と言う、しばしば人の親が漏らすあの恨み節であると同時に、子を慈しむ今も変わらぬ情の表出である。
 家からの追放は、「そんな子はうちの子じゃありません。出て行きなさい」と言う、あの常套句を想起させる。本当に子どもを追い出すわけではない。この少女も、家を出た後、フィアンセに忘れ薬を飲ませると言う手段で義母に干渉されている。未だその段階では、物心双方に於いて親の手の届く範囲で彷徨っているに過ぎない。

 継母からの理不尽な仕打につけ、家を出てからの身寄りのない境遇につけ、少女は概して運命を受容することによって乗り越えていった。片付けられそうにない言いつけに「絶対に無理……」と一人で呟いたり、森の小屋でひっそり泣いたりはするものの、声を上げて親に刃向かったり家に戻ろうと画策したりすることはなく、出来事に対して淡々と心を動かしていた。
 自発的な行動をし始めるのは、冠を探しに行って帰らぬ王様を探し、ついに宮殿まで尋ねて行く場面である。別れ際に受け取った彼のシャツの切れ端を見せるも、王様は少女を思い出さない。義母の命で放り込まれた牢屋には、旅の役者たちがいた。少女は彼らとともに王様の御前で芝居を上演することになる。

 彼が本物のフィアンセを思い出す様に、彼女は役者たちのレパートリー台本を書き直しはじめる。ペンはみるみるそのスピードを速め、震える様に動いた。「出来た……」と口にする少女は、両の腕を掲げて空を仰いでいた。運命をその本分とする親子結合に直交する、意志より成る男女結合の小さな枝をすっくと差し伸べた瞬間に思われた。
 王様が記憶を見事取り戻すに至って、継母の死と義妹の粉砕と相成る。少女を呑み込もうとする強烈な鬼の影は去り、お母さんの手から離れたことがなかったかつての少女は喪われた。

 父との邂逅を経て物語は終幕へと向かう。もうお話することが無くなったからである。
 少女は次なる母へと変身を遂げた。いずれ、身中から分離していった我が子を大きく見開かれた眼で見つめる時が来る。物語ははじまりから、子々孫々繰り返されて行く。

参考文献
河合隼雄『家族関係を考える』(1980年9月、講談社)
同『昔話と日本人の心』(2002年1月、岩波書店)
金田鬼一訳『完訳 グリム童話集5』(1979年11月、岩波書店)
G.K.チェスタトン(福田恒存・安西徹雄訳)『正統とは何か』(1973年5月、春秋社)


■準入選■ 永田なづなさん  『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

永田なづな

 物語の中盤まで圧倒的な魅力で観客を惹きつけるのは主人公の継母である。彼女は強烈な意思をもち、白く平面的な舞台を極彩色に染め上げる。自ら物語をパワフルに造り出し観客の心を掴む。継母の所業が残虐であることは否定しようがない、しかし彼女は登場人物の誰より世界と真剣に関わっているようにみえる。
 それに比してヒロインや王は紙人形のごとくどこか頼りなく魅力を欠いている。感情はあるが意思が感じられない。白い衣装にも白い舞台にもそして彼等の白い貌にも色彩は乏しく茫漠としている。恋をしてもどこかおままごとのよう。しかし彼等は生まれながらのヒロイン、ヒーローであり、少女は美しく素直、王は高貴で勇敢だ。舞台上でもみな彼等をヒロインとヒーローとして遇する。彼等は大して望まずとも脇役が先回りして助けてくれる上げ膳据え膳といったような人生を歩む。彼等は決して怠けているわけではない。少女はけなげに生きている。王は気高く生きている。
 何か、おかしい。私はこの美しい作り物の舞台を期待して劇場に足を運んだのではなかったか。折り紙のような美しい非現実の舞台。人形のように美しい貌と肢体を人形のようにぎこちなく動かす女優。身体に遅れをとって紡がれるたどたどしい言葉。暗転などの演出によって絵画のように切りとられる光景。2011年宮城氏演出の『少女と悪魔と風車小屋』を観て満足し今回も期待していることが目の前で起こっているのではないのか。私は何を求めているのか。
 ヒロインとヒーローへの物足りなさは継母が力強く彩ることによって補われる。そうか、これはおとぎ話なのだ、主人公が浮世離れしていても人間としての存在感に欠けていてもしょうがないのだ、と思いかけたとき、物語は大きく動き出す。
 少女は王宮の牢獄に囚われそこで旅の一座(いくらも団員はいない)と再会する。ヒロインはまたも都合よく旅一座に助けられる訳だが、この先がこれまでとは大きく違ってくる。ここへきてヒロインは自ら考え、行動し始める。少女は旅一座が王族の前で披露する劇中劇に出演することになる。少女は旅一座の脚本に手を加え、王と少女のいきさつを再現する。ハムレットの『鼠捕り』のように……。
 そして劇中劇に取り組むシーンで少女は呆気なく主役の座をあけ渡す。劇中劇のではない、この劇自体の主人公の座をあけ渡すのである。ただその座は誰に譲られたというでもなく、いきいきとした群像劇が繰り広げられる。意思薄弱でつまらないヒロインは意思をもち行動し始めた途端に魅力的な群衆のうちの一人となる。
 少女は全く新しい物語をつくったのではない。ただ王に真実の物語を追体験させただけである。けれど紛れもなく自らの物語を創り始めたのだ。自分の人生を歩み始めたといえばよいだろうか。これまで与えられた、ヒロインとしての人生、身も心も美しく生まれ、白馬の王子様に出会う。おとぎ話の必然にただ流されるように、そして持ち前の気質にもれなくついてくる特典を享受するだけで生きてきた少女が初めて王の愛を取り戻そうと、泥臭い真似をする(演劇が泥臭いというのではありません、念のため。)。すましてなんかいられないとばかりに。おとぎ話の主人公がこれまでの役回りを手放して、スポットライトの外へ出てまでして、ただ一つのものを得ようと動き出すのだ。それはまるで、地位も名誉も失って国を追われた勇者の冒険譚の始まりのようで、いきいきと動く少女の姿に心動かされ、物語は大団円に向かいつつあると理解しながらもワクワクしてしまう。
 少女と対照的に力と色を失った継母の最期は舞台では演じられず、観客はただ演者による報告をきくのみだ。あのように強烈なパワーを持った継母が呆気なく身を投げることに俄には納得がいきかねた。しかし思えば彼女の娘がコッペリア紛いの人形だったことが暴かれたときから、彼女の拠り所はずっと以前に喪われており(本当の娘はずっと以前に亡くなっていた)彼女の強烈な力がひどく危ういものの上に成り立っていたことは判っていたのだ。虚勢さえはることができなくなったとき、彼女は儚い露と散るしかなかったのかもしれない。
 最初頼りなく退屈にみえた少女は欲するものを見つけてそれを得るべくはばたいた。かたや力強く魅力的にみえた継母は、実は一番大切なものを喪いながらそうと認めることさえできず亡霊とダンスを踊っていたのだと判る。
 人は優しい。悲しんでいる者がいれば同情するし、余裕があれば助けもする。けれど、それは無限の優しさではない。また余裕というのは不思議なもので、ありそうなところになかったり、なさそうなところにあったりする。週末に劇場に来ているからといって余裕の欠片ももちあわせていない者がここに居るのに、舞台に目を向ければ、庭師を始めとする脇役達はさして恵まれた境遇でもないのに主人公たちの世話をやき、天使に至っては忙しいことこの上ないはずなのに、度々登場しては一晩主人公の仕事を肩代わりするのだ。また人は嫉妬もする。多くを持つ者がいれば、羨み、苦労もなく多くを得る者があれば嫉妬する。自分の中の醜い感情と向き合いたくなければその感情を封印することもできる。そして共感することも封印してしまう。主人公が欲するものを自分の手で掴みとろうと動き出すまで、私が主人公に共感できなかったのはそういうことだろうか。
 他の人の感想が気になりだして会場で配られた解説を手に取る。少女の英明さをコルベイ氏が指摘している。ああ!もしや私がうとうとしている間に少女は静かに闘っていたのだろうか!そう、私は舞台前半、まどろむ度、演者の歌に起こしてもらっていたのである。
 前半、重い瞼と格闘していた私が何故無責任にも劇評を書こうと思ったのか。後半すっかり目を覚まし、ちゃっかり感激したためと、そして昔デッサンの教師が言ったことばを都合よく覚えているからである。「半眼で観たほうが、はっきりすることがある。」


■準入選■ 深澤優子さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

深澤優子

 1月28日の「少女と悪魔と風車小屋」を観劇した。
 劇場入口で演出家の宮城さんが出迎えてくれる。きらきらした目の、きどりのない小柄な人だ。「この人はかわいいものが好きそうだなー」と思いながら入口をくぐる。
 柔らかな光に照らされた舞台は隅から隅までが白い。舞台上左側に打楽器を中心に、楽器が並べられている。舞台装置は折り紙の手法で構成されているので直線的な印象であり、巨大な白い壁が正面にある。グリム童話を下敷きにしたこの劇が記号と隠喩に満ちたものであることを予感させる。だが、それよりも、私の注意を引いたのは、舞台上、右手におかれた、白い折り紙で作られた木きな角のある鹿のオブジェである。これは、ただの「童話に登場する森の鹿ではなかった。この鹿は役割を三転し、後に天使の起こす奇跡を舞台に現出する仕掛けとなった。
 舞台袖の白い衣装の役者たちによる生演奏は祝祭的で賑々しい。音楽に応じて現れた一人目の登場人物、風車小屋の娘の父親は、やはり白い衣装である。そしてロボットのように、平板に不自然にしゃべる。動きもロポットのようである。男の妻も(これは男性が演じていて迫力があった。古典的でもある。)他の登場人物もみな、衣装は白で、平板にしゃべり動く。後に出てくる少女も庭師も王子も、出演者の衣装はみな白だ。動きも発声も意図的に統制され制限されている。不自然な姿勢でのストップモーションでせりふをしゃべる場面の連続を可能にするのは演技者の鍛錬であろう。
 舞台では余分な動きも、色彩も排除されている。その分、デザインも素材もより注意探く作られていて、観客は舞台上の仕掛けや演出家の意図にきちんと気づくことができ、何度も謎解きの楽しさを味わうことになる。
 巨大な白い壁はいつしか大きなスクリーンになり、そこに写った父親の薄い影は、いつのまにやら、黒く顔を塗った悪魔にすり替わっている。不古な悪魔の出現は実に巧妙に演出されており、観客は思わずしらずぞっとする。この瞬間、黒は白に対するもう一つの色彩となり、存在となる。口数少ない父親に対し、悪魔は饒舌だ。父親はいつの間にか風車小屋にいる自分の娘を悪魔に与える契約をさせられてしまう。だが、少女は悪魔にたった一人で抵抗する。少女が描く水の結界の輪は光の円で表現される。悪魔に命じられて抵抗する娘の手を切る父親が現実に手に持っているのは鈴である。だが、スクリーンに映しだされた父親の影が手に持つのは斧である。斧の記号としての鈴が鳴るとき、少女は両手を切られてしまう。もちろん、白い舞台に赤い血が流れるわけはなく、少女は無感情に「いたいわ、おとうさん」と叫ぶ。それでも観客はこの場面の残虐性に打たれる。舞台では、実在と影、善と悪、天使と悪魔、虚と実、が対立したり、交わったり、次々に柔軟に入れ替わっていく。
 手を切り落とされた少女が家を出ることで物語は俄然動き出す。
 折り紙の鹿の位置を出演者がずらして光線の角度を調整すると、白いスクリーンに映る鹿の角の影は梨の木である。その木には光でできた梨の実が実り、少女はその梨で空腹を満たす。そして、梨園の主であり運命の相手である王と出会う。二人の間には玉のような男の子が生まれる。やがて、悪魔の悪巧みで殺されそうになった子どもの身代わりとして「鹿」は殺され目玉をくりぬかれ舌を切られる。だが、鹿は退場せずそのまま舞台上にある。鹿の角の影はもう一度角度を変えて、子どもを連れて森に逃げ込んだ少女の隠れ家になるのである。
 少女は天使に困難の度に、食べ物を、家を与えてくれと無邪気に祈る。だが、それははじめから舞台の上に準備されていたのである。ただ、天使はそのありかを示すだけだ。奇跡はいつもすでにそこにあるのだ。
 少女は言う。王は王冠をかぶっているから王なのではないと。王は王であるから王なのである。とするならば、手を父親に切られ、勇敢にも一人荒野をさまよう少女はあらかじめ王の后になるべくしてなったのかもしれない。風車小屋の娘が王妃になるなど、まさに奇跡の範疇である。
 世界は奇跡に満ちている。奇跡は世界のあちこちに、当たり前のように私たちのために準備されている。
 私がこの舞台から、受け取ったメッセージだ。見終わった後、おいしい西洋菓子を食べたような幸せな気分になる。自分がいつかみたいと思っていたのは、こんな舞台だったような気がふとする。
 その気分を乱されたのは、7歳の王子の声が成人男性の声であったときと、風車小屋の父親(この人は声優のような特徴のある声の人だ)の役の人が別の配役で出ていたときの2回だけだった。


■準入選■蓑島洋子さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

蓑島洋子

 演劇って何なのか。
 感動的な物語を伝えるもの。登場人物になりきって演じるもの。誰かの人生を疑似体験するもの。強い思想を訴えて納得させたり説得したりするもの。テーマを提示して考えさせるもの。身体の表現、舞台や衣装や光の美しさ。難しい概念をわかりにくく練りこんで惑わせるもの。
 演劇とは何なのか。目的は、役割は何なのか。誰のためのものなのか。

 私は何かを求めて劇場に向かう。少しだけ心を揺さぶられること。自分の奥で眠っていた気持ちが目を覚ますこと。感動すること。新しい発見をすること。不快になること。反発すること。だいたいの場合は、期待していたことと実際に感じることとは違っている。それでも、創り手は何かの意図を投入しているものだと思って作品を観る。そして何らかの手ごたえを感じることができれば、観劇したという実感と満足感が持てる。

 この作品から感じたものは何だろうか。

 「グリム童話~本物のフィアンセ」のストーリーは、少女が度重なる苦難を乗り越えて、王様と結婚するというハッピーエンドのお話だ。
 母を亡くした少女は、父が再婚して新しい母親と妹と暮らすことになる。継母は少女を追い出すために無理な仕事を与えるが、「働く子供のための天使」が現れて少女を助けてくれる。継母は少女のせいで父親が死んだと嘘を言い、とうとう少女を追い出すことに成功する。少女は庭師とともに森へ逃れ、やっと泣くための夜を見つけたと言う。
 そこへ王様が現れ、少女と恋に落ちる。少女と結婚する約束をして森を離れたが、継母に「忘却の水」を飲まされ、少女のことを忘れてしまう。王様は実は人形である少女の妹に恋をして、継母の言いなりに戦争を始める。
 森で待っていた少女は、戻ってこない王様を追って自ら探しに行く。少女は継母に投獄されるが、役者たちの助けを得て、王様の記憶を取り戻し、二人は結ばれる。

 物語の展開に楽しみを見出そうとするのならば、この作品のストーリーそのものはシンプルで退屈だ。かわいそうな少女に同情しようにも、少女が受ける苦悩は、周りの助けを借りたり自らの力を発揮したりして、次から次へとあまりにもあっさりと解決され、むしろ少女のしたたかさが目立つくらいである。
また、登場人物のキャラクターは魅力的で楽しく目を奪われるのだが、彼らのインパクトは強烈で、ストーリーが吹き飛ぶくらいの存在感である。セリフなのかアドリブなのか。演じているのか役者自身の顔なのか。敢えてカツラを取ったり、衣装の名札を見せたり、舞台スタッフ役が登場したりして、役者が演じていない姿を見せることで、ストーリーに没頭しそうになるのを押し戻される。
 他にも特徴的な表現のひとつとして、たびたび静止した場面が登場するが、これは絵本を一枚ずつめくるように情景が目に飛び込んできて、動く映像を見る以上に状況を想像できる。想像の中では絵と絵の間まで大げさにイメージができあがり、ますますのめり込まされる。それなのに、王様と馬丁の登場によってイメージが停止する。二人の場面は不自然な姿勢をキープしてセリフを言い、滑稽にも見える。ストーリーに引き付けられては、突き放されるのである。

 また、舞台での生演奏も印象的である。こちらがハラハラしたりドキドキしたりする感情を誘導するように鳴らされて、ストーリーの展開に引き込まれることをコントロールされているかのようだ。そうかと思うと、さっきまで舞台にいた役者が演奏に加わっている。彼らが役から解かれて演奏する姿は、舞台上で進められていることが演じられた世界、偽の世界であることを強く意識させられる。そしてたぶん、演奏者という役を演じているのである。
 同様に劇中で俳優たちが芝居をしてみせる場面があるが、これもまた演じることを演じるという2重、3重の行為によって、舞台上の演じられた世界について意識を向けさせられる。

 役者が演じないこと、静止画による進行、生演奏、演劇の中で行われる演劇、その他いくつかの手法が、一見演劇の可能性を模索するように登場するが、そのこと自体は目的ではないのかもしれない。それらは単なる羅列であり、この作品の本質的な狙いは別の何かなのだろうか。

 「このバラはなぜこんなにも美しいのか」
 劇の冒頭で少女は言う。その答えを切望している。それは美しい心の少女の目に美しく映ったからなのか。少女のために母が自分のお墓に美しいバラを咲かせたからなのか。バラが咲くことそのものが、美しいということだからなのか。
 でも、もしもそんな理由に意味などなくて、そのバラは「なぜ美しいのか」を考えさせるためにそこに存在しているのだとしたなら・・・。

 「演劇って何なのか」
 おそらく演劇を創ることに係わるすべての人たちが、そのことを問い、可能性を求めてさまざまな作品が出来上がっている。演劇を観る私は、作品にちりばめられた答えに触れようと目を凝らす。
 でも、この作品に答えはなくて、そのこと自体を問うために在る作品なのだとしたなら。


2012年6月19日

■準入選■ 渡邊敏さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

渡邊敏

 グリム童話やシャルル・ペローの童話には、こどもの頃の絵本に始まって、長い間親しんできた。お姫様に王子様、魔法使いに巨人、毒りんご、豆の木・・・などなど。何度読んでも楽しいのは、苦難の果てにはハッピー・エンドが待っていて幸福感が味わえることと、残酷なものや、わけのわからないもの、深遠なものが混じっているせいかも知れない。

 先週見てきたお芝居は、グリム童話の「手なし娘」をもとにしたもの。脚本はフランスのオリヴィエ・ピィ氏。SPACの舞台は折り紙づくりの純白の世界だった。折り紙の木々や動物には無邪気さや遊び心とともに、洗練された神経の細かさも感じられて、こちらの神経もぴりりとする。現代のグリム童話の舞台には、昔話の大らかさや土の匂いはなく、美しく静かで、ひんやりしている。
 舞台も衣装もすべて白の、白一色の世界に、様々なものが浮び上がる。白は乙女の純粋さや無垢のように輝き、また、毒気や悪意のようなものも、白をバックにじわじわとにじんで来る。登場人物は生身の人間というより象徴的な存在のようで、ときどき紙芝居の絵みたいに停止したり、操り人形みたいに動いたりする。
 英語版のせりふも片隅に表示されていて、見ていると英語の方が日本語より低温に感じられる。この真っ白な舞台に英語のせりふが響くのを聞いてみたいと思った。

 お芝居は、粉引きの男が悪魔と契約する場面から始まる。薄闇からそおっと立ち上がる悪魔。男は、悪魔のささやきに、小声で、モールス信号みたいに単調に答える。心が死にかけているみたいだ。
 悪魔に命じられると、男は、娘が描いた魔除けの円も消してしまうし、とうとう娘の両手も切り落としてしまう。こういうことって、もう、私たちの日常になってしまっている、と思った。わが子の将来のために(あるいは自分のために)親が子どもを作りかえる。または、自分で自分の一部を譲り渡す。金持ちになった粉引きは、手を失った娘に、このお金で一生面倒を見ると言う。でも、娘はひとり、放浪の旅に出る。本当の人生、本当に生きるということの象徴だと思う。

 グリム童話の書かれた時代には、この物語にはそのままの意味があったかもしれない。ヨーロッパには魔女狩りや魔女裁判があったから、「悪魔との契約」は現実で、最後には聖なる力が勝つというお話。
 現代では、この物語は、社会のシステムや、世界を覆う不安感、無力感に流されずに、「本当に生きる」ことをすすめているようだ。たった一人で森の中をさまよう時、頼りになるのはもともと体の中にそなわった知恵、直感、内なる声のようなもの。「私の足は私より賢い」、そう言って森に入っていく娘。

 そうは言っても、今は、悪魔の誘いにのる方が当たり前に見える。人生に妥協はつきもの。自分の心に問いかけ、心の声を聞くのはやめて、大きな力に従えばうまくいく、楽に生きられる。それは、賢い処世術かもしれない・・・でも、物語は注意する。両手を切られちゃうよ、と。
 ひとりでさまよい、自分の足で歩いたごほうびは、成長、知恵。物語の結末、娘には新しい両手が生えていて、彼女自身も、森の女王か、女神のように輝かしく、威厳と知恵に満ちている。

 森は、自分の心とか、魂の深さを表していると思う。私にとっては、森に入るのが一番難しそうだ。ずっと自分の外に気を配って生きてくると、内なる声を聞き、足にまかせて歩くなんて、よくわからない。たぶん足だって麻痺しているだろう。森へ入るには、まず、心の中の要らないものを捨てなくちゃ。