2015年3月26日

■準入選■【『サーカス物語』演出:ユディ・タジュディン、作:ミヒャエル・エンデ】鈴木麻里さん


明日国はべつのところにある

 サーカス団は決断を迫られていた。今いる土地で翌朝から新しい化学工場の建設が始まる通達とともに、企業から化学製品の宣伝役のオファーがある。条件は、三年前に命を助けて以来彼らと一緒にいる知恵おくれのエリを施設に預けること。工場の毒ガスが元で病気の子を連れていては宣伝に支障がある。契約すれば貧困から解放されるが、悪を自らの手で宣伝することになる。
 戯曲『サーカス物語』は、彼らがこの問題に直面する現実の世界を提示するプロローグ、舞台がおとぎ話の内部に置かれる第一景から第七景、翌朝サーカス団員たちが下した決断を見せるエピローグで構成されている。 続きを読む »


■入選■【『サーカス物語』演出:ユディ・タジュディン、作:ミヒャエル・エンデ】樫田那美紀さん

 決して自分を見てはいけない。無邪気さをなくしてはいけない。それが掟の鏡の城に純白のドレスで佇むエリ王女、すなわち現実世界での少女エリは、狂気的なまでに統一されたダンスと歌でエリを囲む無数の影たちに訴える。――「ねえ!頼むから話してよ!」
 10月中旬、インドネシアの演出家ユディ・ダジュディンを演出家に迎え封切りされた「サーカス物語」。この序盤、ジョジョが紡ぐ物語の中でエリによって歌われたこのフレーズは、鏡に囲まれ不自由ない生活をしながらも、世間から遮断されて暮らす王女エリの孤独を色濃く映す象徴的なフレーズである。決して飾らない伸びやかな澄んだ歌声で歌い上げられるからこそ、私たちは全身で受け止めることを余儀なくされ、エリの心の叫びがまるで自分の叫びのように心に痛烈に染み込んでくる一シーンだ。 続きを読む »


■準入選■【『愛のおわり』作・演出:パスカル・ランベール】福井保久さん

心が通じていない者同士の間では、言葉なんて無意味で通じないもの。
心が通じている者同士では、言葉なんていらないもの。
だとしたら、言葉は単なる伝達の機能しか持たないものなのか、でも人は時に言葉を尽くして相手に自分の想いを伝えようとします。
この演劇でも、多くの言葉が飛び交いました。無意味なものから、自己を代弁するような体中から絞り出すような言葉まで。
でも心が離れている間の仲では心には響かない。でも言わずには要られない。言葉を手に入れた人の性なのかもしれません。 続きを読む »


■入選■【『愛のおわり』作・演出:パスカル・ランベール】渡邊 敏さん

 「愛のおわり」、という心ひかれるタイトル。フランスの新作劇だという。ポスターを見ると、極限状態、の感じの男女がいる。パスカル・ランベール作・演出、平田オリザ日本語監修。
 フランス人というと、いくつになっても「アムール」の為に生きている、愛の達人、というイメージなので、国全体がいつもすごく忙しそうで、でもそれは愛以外の何かの為である国に住んでいる人間としては、絶対見なくちゃ、と思った。この国では、愛を育むのに必要な心のエネルギーが、圧倒的に、何か別のものに奪われている。
偉大な先達の話を聞くつもりで、それに怖いもの見たさもあって、足を運んだ。(なぜなら、男や女というものを知り尽くしている彼らなので、別れるときはまた、とんでもなく深い洞察力で、えぐるように残酷なことを言うのだろうな、と思ったのだ。) 続きを読む »


2014年12月26日

■依頼劇評■『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」』&『Jerk』(ジゼル・ヴィエンヌ演出) 「距離感」めぐる奇跡的体験 柳生正名さん

■依頼劇評■

「距離感」めぐる奇跡的体験

柳生正名

ジゼル・ヴィエンヌ「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」「Jerk」評
フランスで演劇やダンス、人形制作など多彩な分野で異彩を放つジゼル・ヴィエンヌ。彼女が振付、演出、美術を担当し、ロレーヌ国立バレエ団によって日本初演されたダンス作品「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」に静岡で直面した。文字通り、それは〝直面〟という語でしか表現できない事件だった。少なくとも、その直後に同じジゼルによる演劇作品「Jerk」の直撃を受けるに至るまでは。
オーストリアの作家マゾッホの小説「毛皮を着たビーナス」に基づく「マネキン」の主人公は一人の男である。もっとも、針のように攻撃的な踵を持ったピンヒールが真の主役という捉え方も可能だ。と言うのも、幕開きから終幕まで、ピンヒールは密かに、だが確固として舞台上に存在し続ける。原案となったマゾッホの作はマゾヒズムの語源となったことでつとに知られるが、本作の場合はフェティッシュな嗜好、さらに言えば、「くり返し、女性性たちを演出しないではいられない」(ジゼル)という男の本源的な欲望にスポットライトが当てられる。 続きを読む »


2014年6月27日

■依頼劇評■『ファウスト 第一部』(ニコラス・シュテーマン演出、ハンブルク・タリア劇場)『ファウスト』のポストドラマ的展開について 奥原佳津夫さん

■依頼劇評■

『ファウスト』のポストドラマ的展開について

奥原佳津夫

 ニコラス・シュテーマン演出『ファウスト 第一部』は、劇文学としての文豪ゲーテの詩劇とポストドラマ的演劇形式の拮抗を枠組として、テクストの作品世界を拡げてみせた刺激的な上演だった。歌手、ダンサーと楽師、数人の日本人エキストラが加わるとはいえ、専ら男優A、B(フィリップ・ホーホマイアー、セバスティアン・ルドルフ)と女優C(マヤ・シェーネ)の三人で、この長大な戯曲を三時間の舞台に上げること自体驚くべきことだが、ミニマルな演劇手法で古典戯曲のストーリー展開をなぞることにこの上演の眼目はなく、一人芝居の応酬とでも云うべき特異な手法が、テクストの生成する意味をめまぐるしくゆさぶり、時に裏返し、拡張させてゆく。主要登場人物三人にしぼって名場面集式に物語を構成するのでもなく、ポストドラマ的上演の材料としてテクストを解体するのでもなく、巨大な文学作品を舞台上のパフォーマンスと敢えて対峙させて緊張を持続しつづけた絶妙のバランスが鍵である。 続きを読む »


2014年6月24日

■依頼劇評■極北の劇場はクラインの壺となって テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する――阿部未知世さん

■卒業生 依頼劇評■

極北の劇場はクラインの壺となって

テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による
<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する

阿部 未知世

0. クラインの壺をご存じだろうか
 クラインの壺というものがある。
 この壺をガラスで作る時。まずあるのが、片方がぷくりと膨れた、もう片方が鶴の首のように細く長く伸びた、一本のガラスの筒。その首の部分が、ますます細く長く伸びて弧を描き、あろうことかその先端が、ぷくりと膨れた胴体に突入する。首は突入してもまだ伸びながら先端部が広がって、あげくの果てに、開口したままのもう一方の端へと、内側からつながる。これで奇妙にねじれた、不思議な形のガラスの容器が出来た。内側を辿るといつの間にか外側に出てしまい、外側を辿るといつの間にか内側に…。これがクラインの壺なのだ。
 これは一体、何ものなのか。純粋に数学的な、非ユークリッド空間で生起する事象で、境界も表裏の区別も持たない曲面の一種なのだそうな。クラインの壺とは、その曲面をユークリッド空間の3次元に、無理やり埋め込んだ形なのだ(Wikipedia)というが… 続きを読む »


2014年6月23日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】あの上杉君――南伸坊さん

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2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第3回は、イラストレーター、エッセイストとしておなじみの、南伸坊さんです。上杉清文さんとの交流を中心に、語っていただきました。愉快なエピソードが満載です。

■依頼劇評■

あの上杉君

南伸坊

 『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、伝説の舞台だった。私はその伝説を、若い頃、あの石子順造さんからお聞きしたのだ。
 上杉さんとは、私の高校時代の同級生、秋山道男が引き合わせてくれた。澁澤龍彦とバルテュスの話が出て、趣味が似ていると気が合ってしまった。
 そんなことで知り合ったばかりの上杉さんのことをある時私が話しているのを横から聞きつけて、
 「その上杉って、あの上杉君のこと?」
と石子さんに訊かれたことで、その上杉がタイヘンな人だったというのが分ったのだった。それから、私は上杉さんとつきあい方を変えなきゃいけないかなと思ったのだが、すでに会うといきなり下らない冗談を言い合う関係になってしまっていて、結局今にいたるまで、つきあい方は変わっていない。 続きを読む »


2014年6月17日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】赤飯を炊きたいくらいの精神の運動――― 上杉清文Works連続上演へ急げッ! ――秋山道男さん

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2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第2回は、『此処か彼方処か、はたまた何処か?』の作者・上杉清文さんと共に、劇団「天象儀館」のメンバーとして活動されていた、クリエイティブディレクターの秋山道男さんです。上杉戯曲への熱い思いを中心に、語っていただきました。

■依頼劇評■

赤飯を炊きたいくらいの精神の運動
――― 上杉清文Works連続上演へ急げッ!

 秋山道男

 僕も『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、観たことなかったんですよ。噂だけは聞いていて。それでまず嬉しかったのは、上杉清文という人にお声掛けがあったってことなんですね。というのも、僕たちは天才・上杉の作品が、なぜ評論家とかメディアとかの俎上に乗らないんだろうっていう疑問をずっと持っていたんですね。だから、大岡さんたちが『此処か~』に眼差しを送って、瑞々しい役者の連中がああいうふうに充実した時間を作ってくれたことが嬉しくて。そして『此処か~』という処女作の後には、上杉Worksと僕が勝手に呼ばせてもらっている作品群が、ずっずっと続いていく。時期的にも意味的にも、導火線に火がついたという感じがするんですね、いよいよ。導火線の先には爆弾があるわけですが、その爆弾がまるで団子屋の店先のようにゴロゴロ並んでるんです。そのお団子にもし大岡さんたちが興味があるなら、まずその上杉作品を年代順でも何順でもいいから、読んでほしいんですよ。 続きを読む »


2014年6月13日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】茶番が繰り返されるとき――佐々木治己さん

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2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第1回は、この公演にドラマトゥルグとして関わって下さった、劇作家の佐々木治己さんです。

■依頼劇評■

茶番が繰り返されるとき

佐々木治己

「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、持越されてきた環境の元でつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメール十八日』伊藤新一、北条元一訳、岩波文庫、1954年) 続きを読む »