劇評講座

2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校】小田透さん

カテゴリー: 未分類,2022

チープでポップなシリアス、あるいは全員の温度差

チープ・ポップ。
中央こそオープンスペースになっているけれど、上手も下手も、手前も奥も、ごちゃごちゃといろいろなものが置かれている。トイレ、キッチン、クローゼット、ガレージ、オフィスを模したかのようなオープンな空間が広がり、斜めに張り渡されたロープにはTシャツが旗のようにひらめき、縁日のような雰囲気を醸し出している。そのような装置のほとんどが、ガラクタで出来ている。いや、ゴミといったほうがふさわしいかもしれない。発色の良い、プラスチックのような柔らかい素材のカラフルさのおかげで、どこかポップで、どこかコンテンポラリーアートのようでもある。しかし、よく見れば、やはりゴミである。「守銭奴」を主人公とするドラマが、汚部屋、汚屋敷めいた空間のなかで始まる。痛烈な皮肉でなくて何であろう。
ジャン・ランベール=ヴィルドの演出するモリエールの『守銭奴、あるいは嘘の学校』は、17世紀フランスの古典作品としての歴史性を忠実に再現するのではなく、現代にも通底するアクチュアルさを前面に押し出していた。喜劇というジャンルを、軽やかに、お笑いに変換してみせていた。ミュージカル的なテイストもあった。すべてはコミカルであった。
かのように見えた。
ここではすべてがチャラさに移し替えられていた。アルパゴンの息子クレオン(永井健二)は盛った長髪のギャル男となり、その娘エリーズ(宮城嶋遥加)はゴテゴテとした装いの傲岸不遜なギャルとなる。どちらも街で見かけたら、思わず振り返り、二度見三度見するだろう。クレオンの思い人であるマリアンヌ(ながいさやこ)は落ち着いた感じの服装だが、マリアンヌでないときの彼女は、ラッパーのようなオーバーサイズのジャージをまとい、不審人物よろしくステージにたむろする。エリーズの恋人のヴァレール(大高浩一)は上下ツナギ姿だが、労働着というよりも、ファッションで着ている感がある。トリックスター的な存在である仲介役のフロズィーヌ(木内琴子)は女中的な普段着、ラ・フレッシュ(本多麻紀)は気取ったドレス。けれども、ふたりとも、そこはかとなくコスプレ的。誰もが唯一無二の演技だが、同時に、きわめてコントロールされた「タイプ」的な演技でもある。それぞれの装いにピタリと整合した、「いかにもそれらしい」演技。
けれども、それが演出家の求めたものだったのだろうか。
力演ではあった。好演ではあった。体当たり的な宮城嶋の演技はポップにはじけてはいたし、木内や本多の性格俳優的演技は巧みではあった。愚直な召使であるジャックを演じる吉植荘一郎、アルパゴンの下男のブランダヴォワーヌを演じる山崎皓司は、きっちりと脇を固め、猜疑心をめぐるこの劇に奥行きを与えてはいた。けれども、俳優のあいだに温度差はあったように思う。大高は自分の演じる役柄にたいしてクールな距離を保っていたし、永井はその距離を誠実に埋めようとするあまり、決して重なり合わない自分の資質と役柄の要求を逆説的に際立たせてしまっていた。そのようなズレがないわけではなかった。
そこかしこに微妙な上滑りがあった。
「翻訳・通訳・ドラマトルギー」の平野暁人が用いたのは、大岡淳がブレヒトの『三文オペラ』で創作したような、意図的に野卑な日本語だが、それをあえてここで使用する必然性があったのかどうか。2020年代的というよりも、1990年代的と言いたくなるようなヤンキー的な読み替えが、現代の日本の観客にどのように感じられるのかを、演出家がどこまで理解できていたのだろうか。そもそも、本当にラディカルに現代日本の文脈に移植しようというのなら、明治期の翻訳がそうしたように、キャラクターの名前を日本語化すべきであったし、「エキュ」のようなフランスの古い貨幣単位も円に置き換えるべきではなかったか。ノリのよい舞台ではあったものの、制作側や出演者たちの悪ノリという感想を抱いてしまう瞬間がないわけではなかった。しかも、どこか不徹底な、真面目さゆえの悪ノリ。 日本のお笑い的なテイストに流れすぎてしまったきらいがもある。面白く見られるものではあったけれども。
けれども、ジャンル的な代物と言っていい予定調和的ハッピーエンドの拒否こそが、演出家のねらいではなかったか。
演出家は原作に2つの大きな変更を加えていた。幕開けと幕切れ。舞台は、戯曲にはないシーンから始まる。アルパゴンがびくびく歩きながら登場する。彼は何度も何度も後ろを振り返る。そして、彼と向かい合って、まるで彼の鏡像であるかのように、何枚も何枚も紙幣を渡す謎めいた「?」とのパントマイムが続く。人の所作の猿真似というコメディの王道の手法。しかし、そこに鳴り響くのは、不吉なカラスの鳴き声。それと同じ不吉なカラスの鳴き声が、パイプオルガン的な荘厳な音楽と合唱によって増幅されて、原作にはない最後のシーンでも響きわたる。やっとのことで取り戻したアタッシェケースを開き、青白い光を発する札束の詰まった鞄を見つめるアルパゴンは、もはやホラーの主人公にほかならない。他者を餌食にして来た彼が、ここに至って、ハゲタカに襲われるかのようにみんなの餌食となる。文字通り身ぐるみを剥がされて、パンツ一丁で舞台に転がされることになる。
舞台は、暗闇のなかで妖しく照らし出される神秘的な存在として再登場した「?」(三島景太)によってミステリアスに終わる。わたしたちはどこか煙に巻かれたような気持ちになる。どこか落ち着かない。それはおそらく、「?」が最後に語りかけるアルパゴン(貴島豪)が、子どもたちからも、召使たちからも見放された存在だからだろう。物語的にという以上に、実存的な意味で、アルパゴンは剥き出しになっている。突如として出現した悲劇性、悲観的なパトスに、わたしたちは戦慄させられる。
喜劇が一瞬で悲劇に転化する。
古典戯曲が描きはしなかった近代的心理=真理を、現代的な演出において抉り出し、そこに、わたしたちの存在のままならない哀しみをただよわせること。貴島と三島の言葉と身体は、古典的な格調の高さと、現代的演出のポップさを、ギリギリのところで両立させつつ、喜劇と悲劇の本源的な通底性をも表出させていた。彼ら二人は、表面的なコミカルさの裏に、それと同じぐらいのシリアスさを注入し、『守銭奴』を特異でありながら普遍的である心理劇に変容させることに成功していたのだった。
それこそが、ランベール=ウィルドのチープでポップな演出のシリアスな核心ではなかっただろうかとわたしには思われるのである。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【人形の家】丞卿司郎さん

カテゴリー: 未分類,2022

『ドールハウス崩壊の奇蹟』

『人形の家』は女性の独立をテーマにした作品とよく云われる。
しかし著者のイプセンは女性を特化して描いたものではなく、普遍の人間の本質をテーマに描いたと語ったそうだ。

しかしSPAC版『ペールギュント』が男性原理の世界観で描かれた作品であるとすれば、SPAC版『人形の家』には男性と女性の価値観の違いからの衝突が見え隠れする。

『ペールギュント』が世界と精霊の住む冥界までを股にかけ飛び回る壮大な物語であるのに対し、『人形の家』は家庭の中の一室を主に展開する。
狭い家庭で三日間の間に、順風満帆だったはずの家庭像が崩れていく過程で、平凡な主婦であったはずのノーラの内面に変化が起きていく。

モボ、モガが闊歩する華やかな大正モダニズムの香りがまだ残る1935年の日本おそらく東京が物語の舞台。
『ペールギュント』が双六盤を模した舞台設定だったのに対し、ドールハウスを思わせる家具が描かれた床板の舞台設定を家庭の一室として、物語は展開する。
物語の進行に従い、部屋に敷き詰められた床板が、1枚ずつはがされていく。
そして最終的には家庭の土台自体が揺らいでいく様が描かれていく。

弁護士の妻、ノーラは一見、絵に描いたような幸せな生活を送っていた。
大病を克服した夫ヘルメルは、勤め先の証券銀行で栄転し、年明けから取締役へと昇進予定。
クリスマスパーティーの準備の最中、夫の昇進を目前に思わぬ来客が訪れる。
夫の元で再就職を旧友の未亡人リンデ夫人、不治の病を患う夫の友人ドクトル・ランクとのやり取りの中で、忘れかけていた過去の闇がよみがえる。
病に倒れた夫の療養費捻出のため、悪気なく行った借金の借用書の偽造が新たな火種になろうとしていたのだ。
借金している相手は夫の仇敵クログスタ、夫の昇進を妬みつつ、執拗にノーラにゆすりをかける。
思いもしなかった過去の詐欺行為の告発は、盤石だったはずの夫の地位をも揺るがしかねない事態へ。
そして三日の間、事態は大きく進展する。
ほんの短い間に理想の空間であったはずの家庭がもろくも崩れ去ろうとする瞬間、ノーラの求めた『奇蹟』とは…

終盤で浮き彫りにされるのは、夫ヘルメルの動揺と変貌だ。
華やかな装いと知性漂う絵に描いたような理想の夫像から一転し、妻よりも己の地位と名誉に固執し、世間体と体裁を気にする姿が描かれる。
この後、ノーラを失っただけでなく、敵だったクログスタと新たな家庭を持ったリンデ夫人をビジネスパートナーに仕事をする。
以前から憎み続け、妻を失う原因となった仇敵を養うこ破目になるのだ。
まして旧来からの友人であるドクトル・ランクもいない。
守ったはずの地位の中で、ノーラを失うだけでなく、かつてない孤独と屈辱、そして絶望を味わうことになる。
傍から、愚かな男と映るかもしれない。

しかし自分がヘルメルの立場であったら? という問いには誰もが困惑するだろう。
体裁を守るため、同じような行動をとるのではないだろうか。
地位や名誉にこだわるのは、愚かで悪と言い切れるだろうか?

子どものおもちゃと遊びはいわば価値観や興味の顕れだ。
男の子は武器、乗り物に興味を持ち、または大人の仕事を真似て遊ぶ。
刀や拳銃といった武器のおもちゃは古来に狩猟をしていた時代の感覚を呼び起こす。
古来から現代の仕事に至るまで、男性は家の外での活動が中心だったからだ。
それは劇中で登場するクリスマスプレゼントのサーベルにも表れている。
男性には家庭を守るため、常に外を意識することが求められてきたからだ。
自分が築いてきた名誉や地位は、同時に家族を守るための武器でもある。
ノーラの行為は法的に許しがたいとしても、感謝の心は間違いなくある。
しかし、それを認めることができないのは、今まで守ってきたノーラを始め家族の生活自体が揺らぎかねないからだ。

対して女の子はままごとなど家庭に特化した遊びをする。
タイトルとなっているドールハウスはいわば家庭の縮図であり、女の子の理想の未来の姿または憧れでもある。
男性の価値観が幼少期から外へ向いているのに対し、女性は内側へ向けられてきた。

終盤で描かれるのは、今まで聖域だったの家庭というドールハウスの崩壊だ。
舞台が進行し、ノーラの苦悩がひとつずつ重なる過程で、暗転の際、家具を描いた床板が一枚ずつはがされていく。
いつの間にかはがされた床板で足場が危うくなり、終盤では演者は自由に動くことすらおぼつかなくなっていく。

しかし、動きの中で姿勢を崩すのは、意外にも夫のヘルメルの方だ。
女性原理の価値観の象徴だったはずのドールハウスの崩壊は、むしろヘルメルの動揺と受けたダメージを表現している。
家庭という狭い世界のドールハウスの住人は、夫の方だったことを暗に示している。
むしろ、ノーラは、しっかりとした足取りで、崩壊したドールハウスの外へと歩んでいく。
重ねた苦悩の過程で、今まで過ごしていた家庭は夫が求めた幻想であることに気づいたかのようだ。
ノーラが求めていた奇蹟とは、ドールハウスの家庭が続くことではなく、変化であったことが終盤に分かる。

ヘルメルやクログスタの言動には『家族を養う』という意識が見え隠れする。
ヘルメルが終始一貫してこだわったのは、世間体であり、体裁だ。
また、リンデ夫人との再スタートで改心したクログスタが最初に気遣うのは、ノーラの家庭を破壊しかけたことへの罪悪感だ。
どちらにも家庭を守ることが第一であるという価値観が根底にある。

一方、ノーラやリンデ夫人、女性側の求めるのは夫婦間の『対話』であり、本当にお互いが理解し合うことのようだ。
世間体は関係なく、たとえどんな結果になろうと、話し合うことで理解したい。
一方は仮面の夫婦であっても見た目は完全な『家庭という場』、他方は夫婦間の『理解』、
お互いが求めていたもののズレが、すれ違いを生じていたことが終盤に分かる。
ノーラが切望した『奇蹟』とは、ドールハウスが本物の夫婦の住む家庭へと変貌することだったのかもしれない。

男性が家庭の外側へ女性が家庭の中へ価値観を持つようになったのは、それぞれの役割が由来していると云われる。
古来から夫は家庭を離れ、狩猟や漁で孤独な闘いを終えて家庭に帰還し、妻はその間、留守を預かる。
夫にとって家庭は闘いから解放された束の間の休息の場であり、焚火を見ながらぼんやり過ごす癒しを求める。
外へ出たら敵だらけの夫にとって、家庭は最後の砦であり、気の置けない癒しの空間である。無駄に気を使いたくない。
一方、留守宅を守り続けた妻は、不在の間に夫に相談できなかったことが山ほどあるし、その間に家庭起こったことも報告したい。
妻にとって家庭は自分が戦う戦場でもあり、夫には戦う自分を理解してほしい。
夫婦間のズレは、古来から家庭に求めるものの価値観の違いから起こり、続いているようだ。

『奇蹟』は今まで当たり前だと思っていた生活を崩壊させる。
どちらかがそれを受け入れることが必要になる。

2021年10月11日

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■入選■【アンティゴネ】山上隼人さん

カテゴリー: 未分類,2021

『アンティゴネ』における「四次元的演劇空間」の創造

 演劇とは「空間的」芸術作品である--。そう信じていた私にとって、2021年5月3日、駿府城公園・紅葉山庭園前広場で催されたSPAC公演『アンティゴネ』は衝撃的だった。「舞台上で役者が横一列に並ぶ」「舞台後方の壁面に役者の影を映す」など、極めて「絵画的」だったからだ。しかし、それによって演出が失敗しているかというと、そんなことはない。むしろ、美しいことこの上なく、「四次元的な演劇空間の創造」により、舞台作品として成功しているのだ。
 舞台は床一面が水で覆われ、そこに浮かぶ上手、中央、下手の3カ所の岩場によって装置が構成されている。「ムーバー」と呼ばれる「動きをみせる役者」たちは岩場に立ち、それぞれの役を演じる。一方、「スピーカー」という「声で演技する役者」たちは、水の中で腰掛けたり、立ったりしたままセリフを言う。つまり「二人一役」であるわけだが、特筆すべきはムーバーの演技だ。彼らは3カ所の岩場に分かれて演技しているため、一向に交わらない。ほとんどが、客席に向かって演技している。顔を突き合わせて「対話」することなど無いのだ。 続きを読む »

2015年4月28日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2015より劇評コンクールに

カテゴリー: 未分類

SPAC劇評塾は昨年度にて終了し、
「ふじのくに⇔せかい演劇祭2015」からは、

劇評コンクールを開催することとなりました。

批評することも「演劇活動」のひとつです。
あなたの演劇批評をお寄せください!
皆様のご応募をお待ちしています!

対象作品は、「ふじのくに⇆せかい演劇祭2015」の全ての作品です。
ご投稿いただいた劇評を、SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)が審査し、選評を公開いたします。

■最優秀賞 賞金3万円 SPACの公演に1回2名様ご招待
■優秀賞   賞金1万円 SPACの公演に1回1名様ご招待
■入選             SPACの公演に1回1名様ご招待
最優秀賞、優秀賞、入選作品はSPAC公式サイトに掲載します。

 

募集要項
◎ 字数:2,000字程度 ◎締切:批評対象の舞台を観劇後10日以内
◎投稿方法:E-mail、またはFAX、郵送(封書)でお送りください。
E-mailの場合は件名欄に、FAXの場合は1ページ目の冒頭に、郵送の場合は封筒の表書きに、「劇評コンクール」と必ずお書きください。

E-mail:mail(at)spac.or.jp  FAX:054-203-5732
住所:〒422-8005静岡市駿河区池田79-4 SPAC劇評係
※原稿には住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号・E-mail等複数の連絡先、観劇日を明記してください。

SPAC文芸部
大澤真幸(おおさわ・まさち)……社会学者。著書に『不可能性の時代』(岩波新書)等多数。
大岡淳(おおおか・じゅん)……演出家、劇作家、批評家、パフォーマー。
横山義志(よこやま・よしじ)……西洋演劇研究。2008年パリ第10大学博士号取得。

2014年6月23日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】あの上杉君――南伸坊さん

カテゴリー: 未分類

2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第3回は、イラストレーター、エッセイストとしておなじみの、南伸坊さんです。上杉清文さんとの交流を中心に、語っていただきました。愉快なエピソードが満載です。

■依頼劇評■

あの上杉君

南伸坊

 『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、伝説の舞台だった。私はその伝説を、若い頃、あの石子順造さんからお聞きしたのだ。
 上杉さんとは、私の高校時代の同級生、秋山道男が引き合わせてくれた。澁澤龍彦とバルテュスの話が出て、趣味が似ていると気が合ってしまった。
 そんなことで知り合ったばかりの上杉さんのことをある時私が話しているのを横から聞きつけて、
 「その上杉って、あの上杉君のこと?」
と石子さんに訊かれたことで、その上杉がタイヘンな人だったというのが分ったのだった。それから、私は上杉さんとつきあい方を変えなきゃいけないかなと思ったのだが、すでに会うといきなり下らない冗談を言い合う関係になってしまっていて、結局今にいたるまで、つきあい方は変わっていない。 続きを読む »

2014年6月17日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】赤飯を炊きたいくらいの精神の運動――― 上杉清文Works連続上演へ急げッ! ――秋山道男さん

カテゴリー: 未分類

2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第2回は、『此処か彼方処か、はたまた何処か?』の作者・上杉清文さんと共に、劇団「天象儀館」のメンバーとして活動されていた、クリエイティブディレクターの秋山道男さんです。上杉戯曲への熱い思いを中心に、語っていただきました。

■依頼劇評■

赤飯を炊きたいくらいの精神の運動
――― 上杉清文Works連続上演へ急げッ!

 秋山道男

 僕も『此処か彼方処か、はたまた何処か?』は、観たことなかったんですよ。噂だけは聞いていて。それでまず嬉しかったのは、上杉清文という人にお声掛けがあったってことなんですね。というのも、僕たちは天才・上杉の作品が、なぜ評論家とかメディアとかの俎上に乗らないんだろうっていう疑問をずっと持っていたんですね。だから、大岡さんたちが『此処か~』に眼差しを送って、瑞々しい役者の連中がああいうふうに充実した時間を作ってくれたことが嬉しくて。そして『此処か~』という処女作の後には、上杉Worksと僕が勝手に呼ばせてもらっている作品群が、ずっずっと続いていく。時期的にも意味的にも、導火線に火がついたという感じがするんですね、いよいよ。導火線の先には爆弾があるわけですが、その爆弾がまるで団子屋の店先のようにゴロゴロ並んでるんです。そのお団子にもし大岡さんたちが興味があるなら、まずその上杉作品を年代順でも何順でもいいから、読んでほしいんですよ。 続きを読む »

2014年6月13日

■依頼劇評■【『此処か彼方処か、はたまた何処か?』作:上杉清文、内山豊三郎 演出:大岡淳】茶番が繰り返されるとき――佐々木治己さん

カテゴリー: 未分類

2014年2月14~16日に、アトリエみるめで上演された、大岡淳演出によるSPAC公演、ハプニング劇『此処か彼方処か、はたまた何処か?』への劇評を、実際に観劇された方々から寄せてもらいました。第1回は、この公演にドラマトゥルグとして関わって下さった、劇作家の佐々木治己さんです。

■依頼劇評■

茶番が繰り返されるとき

佐々木治己

「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、持越されてきた環境の元でつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメール十八日』伊藤新一、北条元一訳、岩波文庫、1954年) 続きを読む »