SPAC版 『ペール・ギュント』は形にすることや、形にしたそのものに囚われてしまった罪悪感や後悔の澱を流してくれた。
ペール・ギュントは叫ぶ。特に欲望を、ドラマチックに放つ。それが続く。なぜこんなに叫ぶのか。強調表現を濫用すれば、観客には、どのフレーズどの場面が重要なのかがわからなくなる。しかし、ギュントには叫ばざるを得ない理由がある。叫ばれないものを否定し、自分を叫ぶこと(体現)によって自分をアピールしている。
ギュントはなぜ、自分が体現してきたものに、ここまでしがみついたのか。それは、「自分はペール・ギュント自身でなければならない」という強迫観念にも近い思考を抱いていたからである。共同体を追い出され、さらに母親まで失ったギュントは、自分の自己同一性を確認するための基盤を失った。残るものはバラバラの自己の断片らしきものだけである。人との関係の中で自分が連続して自分であることを確認できなくなったギュントには、神の意図を問い続け、神との関係性の中で自己を確認して生きるという選択もあったかもしれない。しかし、そうしなかった。彼が選んだのは、「ギュント」は別の存在とは明確に区別できるかけがえのない存在だということを、形あるもの(言葉、行動、成果など)によって証明することだった。自分というものは本来定まった形のないもの(くねくね)だが、彼はそれに抗い、確固たる自己像を作り上げようとした。
ギュントは「紛れもないこの自分」というものを構築することに注力し、それ以外から目を逸らした。「王になる」と宣言し続け、そのための行動を選択し続けたのは、彼が自分の欲求の実現こそが自分として生きたことの証になると考えたからだろう。
王にこそならなかったものの、彼は十分に欲望を実現した。けれども飽くことなく、求める人生を送り続けた。ペール・ギュントの乾きは、自分の口にした欲望を実現しても癒されない。「生きていれば希望はある」と繰り返していたのは、満たされない心を押し隠す虚勢のようにも聞こえた。
彼はどんなに所有していても、内心のところで不安定であった。彼は貧しい船員たちに、気前よく金を分け与えようとしたが、彼らに家族がいることを知って腹を立てる。彼も本当のところでは、富や名声ではなく、自分の存在を丸ごと迎え入れてくれる人間関係の中にあることに憧れていた。
そんな孤独感に薄々気づいているものの、形になるものにすがってしまうのがやはりギュントだ。船が難破して海上を漂流するギュントの前に「表出されなかったもの」たちが現れる。言葉にされなかったもの、歌われなかったもの、行われなかったもの…が次々に出てきて瀕死のギュントに怨嗟を向ける。ギュントは、そういった自分の別の可能性だったかもしれないものたちにとりあわず、ただそれまで自分が言葉にしてきたもの、行ってきたことだけにすがっていた。その様子は、海上で彼が小さな丸太だけに必死にかじりついて離すまいとしていた様子とおなじであった。
荒れ果てた場所で、ペール・ギュントは、ボタンづくりに出会う。彼は、他の者と一緒に溶かされることを拒絶し、自分がほかの誰にも代えがたい自分であることを証明するために奔走した。自分は何者でもなかったという現実は、強い苦痛と恐怖を彼に与える。何者かになろうとして足掻く様は、なんだか「寂しい近代人」のさもしい醜態を見ている気分だった。
このペール・ギュントの末期は、近代の個人を連想させるだけでなく、国家が欲望の実現によって国力を示そうとし、そうして滅んでいく様と重なった。特に、太平洋戦争末期の日本の姿に。「強い国」になることを目指し、それ以外の可能性を否定して、日本は戦争へと突っ走った。孤立を深め、敗走を重ね、弱っていく一方だったが降伏は選択出来ず、ついには一億玉砕が叫ばれた。何者でもないものであるよりは、地獄に落ちる方がよっぽどましだと考えたギュントと同じである。ギュントも日本も自分は結局何者でもなかったのだという深い絶望と孤独のうちに命を終えると思われた。ギュントとともに倒れたすごろく遊びをしていた瀕死の軍国少年は、大日本帝国の終焉を象徴していた。
ギュントはソールヴェイのもとで臨終の時を迎えた。それが彼の救いとなる。ソールヴェイは、「それはあなたの罪ではない」という言葉をギュントに送った。彼女は何者だったのだろう。有の根源にある無、無限定である。ソールヴェイは、「あなたは私の夢の中にずっといた」「あなたは私から生まれた」と言った。ソールヴェイのモデルは、例えば、国家以前にある故郷、自我以前のさまざまなものが混ざっている状態、ことば・行動になる前の状態など、万物の始原である。
彼女から生まれたものはあまねく、どこから生まれどこにいるかも忘れ、自立自存していると錯覚しながら、彼女を顧みずに生きていく。彼女はずっとあり続け、生まれたものが育って生きているのを眺める。そしてそれがまた自分に溶けていくときが来たのなら、それを迎え入れる。
ギュントは全てを悟った。何者でもなかったことは彼の恥でも、彼の存在の卑小であることを意味するものでもなかった。彼は孤独でもなかった。彼は全てを包括する彼女の一部だったのだから。
彼女を忘れ、形になるものにすがった罪は赦され、孤独も癒やされた。これで穏やかに「振り出し」に戻れる。
SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【弱法師】美音子さん
よろ星—―弱く激しい光りに灼かれて
観劇の直前、「よろ星」と題された演出・石神夏希のノートを読み、まるで雷に打たれたような心地がした。瞬く間に私の中に現れた「俊徳」という「星」。彼という「アイドル」。それを証明するための四人の父母というコロス。救われない魂とそれを救おうとする級子の存在。この上演は「星ですとも、お前は。」に行き着くための道筋である。俊徳が星であることを証明するための時間である。そして上演中、現実にそれらが目の前に立ち現れると一種の気恥ずかしさのようなものすら
覚えるほど、私は石神氏の感覚に共鳴した。
まるでプロレスリングのような四角形の白い舞台。四方から囲む形の観客席からは、対角に置かれた二組の椅子、スタンドマイク、扇風機、そして舞台の真ん中に梯子が見える。頭上には、小さな四角い穴がひとつだけあいた白い円環。そこへ、ペンキで塗ったような、真っ青と真っ赤、真緑と真っ黄の衣装に身を包む二組の父母たちが登場し、それぞれ椅子に座る。そしてクマのようなかぶりものと尻尾、毛むくじゃらの靴にアロハシャツ、半ズボン姿の八木光太郎が現れ、舞台隅の扇風機のスイッチを押す。が、扇風機は回らない。
「ひどく蒸しますのね。こんな風で、扇風機もございませんし……。」
八木は語り始める。『弱法師』は、戦災で盲目になった美貌の青年・俊徳をめぐり、二組の親子が争う家庭裁判所の一室で起きた出来事の物語だ。といっても、起きることといえば、俊徳と対峙する実父母と養父母の二組の両親になすすべはなく、家庭裁判所の調停員・桜間級子のみが彼を救おうとする、それだけである。冒頭のセリフから、八木が演じているのが級子であると観客に示されるが、原作のト書きには「四十歳をこえた美貌の和服の女」とあり、彼はその全てからかけ離れた存在だ。八木は先述のような格好で、言い争いになりヒートアップする二組の親子に対し、レフェリーのようにマイクを使い、煽るようにパフォーマンスをする。ひとりだけ舞台から切り離された、いわゆる狂言回しとしての役割をも持つ存在なのだと思われた。
上演の前半部では、男性である八木光太郎が桜間級子を、女性である山本実幸が俊徳を演じる。男女逆転の上演だが、後半部ではそれがさらに逆転し、八木が俊徳、山本が級子となって物語が繰り返される。山本が演じる俊徳はクマのようなぬいぐるみを片時も離さず、繊細かつ激情うずまく青年だが、八木が演じる俊徳は白杖をもち、終始大げさでコミカル、非常にデフォルメのきいた振る舞いをする。しかし、二人が「居る」場所は変わらない。八木は自らが運んできた椅子に、山本は舞台中央に置かれた梯子の上に、ずっと「居る」のである。八木はマイクというアイテムによってレフェリーという役割が与えられ、対して山本は梯子を審判台とするという演出なのだろうが、これは社会において「男」と「女」がどのように扱われてきたかということの暗示であるのかもしれない。つまり、「男」は自ら座る椅子やマイクを好きに運び、好きに置き、パフォーマンスをすることができるが、「女」はそうではない。置かれた梯子に登るしかなく、またそこで晒されていながら、ふだんは目の高さからは見えない、マイクもないところにいるしかないのだ。
また、二人の俊徳が起こす「繰り返し」が、俊徳が訴え続けた「言葉の無意味さ」を自ら証明するものとして強く作用していくことになる。つまり、先に道化の恰好で級子を演じた八木が「ほんとうの」道化である俊徳となり、審判台に乗せられたままの山本が俊徳から級子になることで、男女逆転というねじれが元に戻るのではなく、言葉と振る舞いにおける「ねじれ」が、さらにねじれてしまうのだ。そうして俊徳の存在はより空虚で、しかしながら爆発的なエネルギー体として輝きを増していく。物語が進むにつれ俊徳は激高し、まぶたの裏側に見え続ける絶望について捲くし立てる。その様は、真っ裸でこの世を彷徨い歩き、自分自身の心をも灼き尽くすその光りこそが彼の魂である、と観客が納得してしまうほどの熱量である。この、いまわれわれの目の前にある熱量こそが、「よろ星」と題された演出の通り、俊徳が「星」そのものである証明なのだ。そして二組の父母は、俊徳が支配権をもつ世界の住人となる。虫けらにまで自らをなげうち地面を這いつくばる様子は悲惨そのもので、彼らを演じる俳優たちの立ち振る舞いは見事である。しかし、そんな彼らの「星ですとも、お前は。」に、俊徳は共鳴も共振も示さない。彼の魂はひたすらに孤独で、ひたすらに痛み続ける自身の光りで全てを灼きつくすことしかできない。つまり、彼は共鳴できないから孤独なのではなく、孤独であるから共鳴できないのだ。
このような美しい青年の絶望という甘美な時間は、それでも、絶望の果てにわずかな希望を残していく。級子の存在である。彼女だけが、俊徳の言葉に共鳴も共振もせず、ただひたすらに俊徳を現実の世界に救い(掬い)あげようとしている。手を握り、俊徳を諫め、俊徳のために使い走りをしようと部屋を出ていくと、回らなかった扇風機が回り始めた。最後に、山本版の俊徳が肌身離さず、八木版では高安の母が持っていた、あのクマのようなぬいぐるみが椅子に置かれ、それがライトアップされて、幕は下りる。ちっぽけな慰めの存在がゆっくりと照らし出され、全ては夕暮れあるいは劫火のなかにぽつねんと座り込む俊徳が願う、自身の行く末についての夢だったのかもしれないと思う。けれど、もうこの悲劇の上演が繰り返されることはなく、静寂の中、鎮魂の風鈴の音だけが響くのだった。
2023年6月29日
秋→春のシーズン2022-2023■選評■SPAC文芸部 大岡淳
今回は、『弱法師』4篇、『みつばち共和国』1篇、『ペール・ギュント』6篇、『守銭奴』6篇、『リチャード二世』5篇、『人形の家』13篇、計35篇と、大変な「豊作」となりました。
その中でも、『弱法師』からは最優秀賞1篇と入選2篇が選出されています。これは、『弱法師』という舞台作品が、解読するのに骨が折れるだけに、クオリティの高い劇評が集まった結果だろうと推察しております。『弱法師』は、東京大空襲に「この世の終わり」を見、その空襲時に失明して、肉体的にも精神的にも、戦後日本の虚飾に満ちた「復興」に対して積極的に目を閉ざして生きる青年が、周囲の無理解に苛立って「この世の終わり」の記憶を一瞬だけ蘇らせる――という物語であり、三島由紀夫はこれを、滑稽さと重厚さをないまぜにしたタッチで描いています。この古典的な短編戯曲に対して、石神夏希氏は、あえてカラフルでポップでライトな意匠による演出を施しました。この、戯曲の印象と上演の印象のズレは、もちろん意識的に企まれたものであり、そこをどう読み解くかが、劇評者にとっての難所だったかと思います。その中で、上演に散りばめられた様々な記号の意味を果敢に解読した、柚木康裕さんの「□△○の界(さかい)に。」を最優秀といたしました。
『ペール・ギュント』は、ノルウェーを舞台に、没落した地主の子ペール・ギュントが繰り広げる波乱万丈の一代記であり、『人形の家』のような自然主義的作風に進む以前に、イプセンが手がけた詩劇です。SPAC芸術総監督・宮城聰はこの戯曲を、開国以来ひたすら近代化に突き進んだあげく敗戦を迎えるに至る、近代日本の道行に重ねる演出を提示しました。これもまた、原作と上演の異同の意味するところを解読するのが、劇評者の課題でした。その中でも、双六を模したステージの外で、サイコロを振ってペール・ギュントを操るかのような少年(メタ・レベル)と、帰郷した恋人ペールを最後に受け入れる女性ソールヴェイ(オブジェクト・レベル)を、同一の俳優(池田真紀子)が演じるという、謎めいたしかけを解読した、鈴木麻里さんの「ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって」を優秀賞に選出しました。
『リチャード二世』は、従兄弟ボリングブルック(後のヘンリー四世)によって権力の座から追い落とされる、イングランド王リチャード二世を描いた、シェイクスピアの歴史劇です。寺内亜矢子氏の演出によって、この古典戯曲に施された様々な「異化効果」を読み解いた、小田透さんの「心ならずも目撃者となった戸惑い」を優秀賞に選出しました。
『人形の家』は、現代(19世紀後半のノルウェー)を舞台に、自分に対して理解も愛情もある存在と見えていた夫の本質を知ってしまい、夫と子どもを捨てて家を出ることになる女性の物語を、宮城聰が昭和10年(1935年)の日本社会に置きかえて演出したもの。観客にとってリアリティのあるテーマを扱っているためか、共感した方々が劇評をお寄せ下さり、これが今回、最も多くの劇評を集めた公演となりました。ただ、リアリティを感じシンパシーを感じておられるだけあって、かえって皆さん、「感想」から「批評」の域にジャンプするのが難しかったという印象を受けました。そこで鍵となるのはやはり原作と上演の異同であり、三間四方の能舞台を模した空間の中で演じられ、またその空間の外側で夫婦の子どもが遊び続けるという、演出/美術の意味を鮮やかに分析した、山上隼人さんの「仮面を付けていない仮面劇」を優秀賞に選出しました。
みつばちの生態を描いた、セリーヌ・シェフェール氏の作・演出による『みつばち共和国』、ケチな父親と周囲の人々との対立を愉快に描いたモリエールの喜劇に、ジャン・ランベール=ヴィルド氏が現代日本を思わせる意匠を散りばめて演出した『守銭奴 あるいは嘘の学校』については、最優秀賞・優秀賞は選出できませんでしたが、単なるあらすじの紹介や感想にとどまらず、上演の中身にまで言及できている劇評が多くあり、いずれも読み応えがありました。
原作を踏まえた上で、上演との異同を確認し、その意味を解読・解釈する。そこまではできている劇評が多かったのですが、あと一歩、その解読・解釈を踏まえ、自分が下す(=他の観客の反応に惑わされない)作品への評価を明確に述べることができれば、劇評としては不足のない形が整うかと思います。ぜひまた挑戦して下さい。
2022年9月9日
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022 劇評コンクール 審査結果
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭の劇評コンクールの結果を発表いたします。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。
(応募数28作品、最優秀賞 1作品、優秀賞 2作品、入選 4作品)
(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
泊昌史さん(『ギルガメシュ叙事詩』)
■優秀賞■
前田哲さん【ことだまがひらかれるとき】(『ギルガメシュ叙事詩』)
安間真理子さん(『星座へ』)
■入選■
佐藤博之さん(『カリギュラ』)
菅谷仁志さん【溶けだした『ふたりの女』の奥に】(『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』)
冨田民人さん【オマール・ポラスへの手紙「私のコロンビーヌ」、平和の鳩】(『私のコロンビーヌ』)
上鹿渡大希さん【『ギルガメシュ叙事詩』における語りと崇高さ】(『ギルガメシュ叙事詩』)
■SPAC文芸部・大澤真幸の選評■
選評
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022 作品一覧
『カリギュラ』(作:アルベール・カミュ 演出:ディアナ・ドブレヴァ ブルガリア語翻訳・翻案:ディアナ・ドブレヴァ、アレクサンドル・セクロフ)
ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』(演出:宮城聰 作:唐十郎)
『私のコロンビーヌ』(作:ファブリス・メルキオ 演出・舞台美術・衣裳・出演:オマール・ポラス)
『ギルガメシュ叙事詩』(台本・演出:宮城聰 翻訳:月本昭男(ぷねうま舎刊『ラピス・ラズリ版 ギルガメシュ王の物語』) 音楽:棚川寛子 人形デザイン:沢則行)
『星座へ』(コンセプト:ブレット・ベイリー 日本版キュレーション:大岡淳)
2022年9月8日
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■最優秀賞■【ギルガメシュ叙事詩 】泊昌史さん
SPACの『ギルガメシュ叙事詩』は原テキスト群やそれを再編した『ラピス・ラズリ版』(以下和訳)とは異なる内容を上演することで、創造的な口承文芸のネットワークに参入した。その結果、千載不伝だった文明の起源譚に新たな相貌が浮かんだ。
5名の懇ろな前説がシームレスに語り始めたときから、この上演全体を通してこだまする独自の「多音性」が顕れた。それぞれの語りは単語から音素へと分解され、つぎつぎと別々のリズムで輻輳し、セリフと音は自律的に混淆した。わたしたちの鼓動が先か、複数の打楽器の乱打が先か、多様な音は寛闊に一体となって城郭中に放散する。立て板が外されると、語りは男性を加えた別の5名に委嘱された。一同は画一的で身体の力を弱める「文字禍」に対して、身体性を喚起させる多音性で対抗した。それは神話を語り継ぐ、可塑的なプロセスに身を投じた態度を鮮明にする。ここで、原テキスト群や和訳の内容と比べて、上演の創造性が際立つポイントが少なくとも3つあったことを思い出そう。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■優秀賞■【ギルガメシュ叙事詩 】前田哲さん
ことだまがひらかれるとき ―ギルガメシュ叙事詩―
ことばとは私たちにとって何であったのか?
私たちはそれを回想的に思い出すことはできません。ことばを聞こうとする私たちは普段、ことばの配列そのままにその意味を取り込んでいきます。意味を帯びた言語によって物語として世界を分節し、そしてそれぞれの共同体において主観的に世界を構造化していきます。ことばは誰にでも、いつも平等に、フラットに共有され、コミュニケーションや伝達の道具として使用されているものではありません。ことばによって私たち自身が生成され、構築されて、そして変容されていく、その言語観の固有性によって住んでいる世界はひとりひとり異なるとさえいえます。
どっちつかずで、曖昧で、とらえどころがなく、ことばにできない感情や不安、沈黙、逡巡、どうどうめぐり・・・意味を付されたことばで言うことができなかった、あるいは書くことができなかったために、不在とされてしまった何らかの思いや感情は見えなくされてしまいます。しかし、限られた意味世界の周りにはきっといつも無数に、深く、澱のように、消えることなく沈んでいるのでしょう。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■優秀賞■【星座へ 】安間真理子さん
芝居やパフォーマンスを観るのが好きだ。しばしば生じる「脳のいつも使わない引き出しがコトリと開く」感覚がたまらなく気持ちが良い。
『星座へ』公演初日は、星の見えない曇天であった。
2022年5月夕方の静岡市。観客はマイクロバスで郊外の山中へ向かい、集合場所までしばし歩いた。道はコンクリートから徐々に土や小石、湧き水が混じりぬかるみを増し、歩き進むだけでプロローグが始まっている感じがして高揚する。既に日は落ち、周囲は少しずつ暗くなっていく。
高木に囲まれた広場で一旦集まる。ウグイスが啼いている。木の上の方に大きな鳥の巣を見つけるが、突然の大人数に驚いたのか家主と思しき鳥の姿はない。コンセプト発案者ブレット・ベイリー氏の話が始まる。これから山中に入り、ガーディアン(パフォーマー)と遭うこと、9名いる彼らの誰と会うかは事前には知らされないことが説明された。最後に「journey to inside. Bon voyage!」……なるほど。ベイリー氏は演出ノートの中で「自然というのは私にとって寺院のような場所です(中略)普段よりも自身のより深いところにつながることができる場所なのです」と述べている。ガーディアンを介して私は自身の内部と対峙するのだろう。後で私は、真っ暗闇の森がそれを最大に助ける舞台装置であることを、自分の身をもって実感することになる。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■入選■【カリギュラ 】佐藤博之さん
舞台の神が顕現した。ここ何年もの間、ついぞ体験したことのない衝撃だった。観劇して丸4日以上も経つのに、あの両肩を掴まれ強く揺さぶられたしびれのような感覚がいまだに背骨にこびりついて離れてくれない。この種の革命的作品をまさか国内で愉しめようとは、思いも寄らない嬉しい誤算だった。
わざわざ静岡まで足を運んだきっかけは、『カリギュラ』観たさに他ならない。小栗旬のときも菅田将暉のときも観に行けなかった三度目のリベンジといった気持ちだった。今回もチケットの発売に気付いたときは既にキャンセル待ちになっていたが、毎日チェックしていたら幸運にも購入することができた。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■入選■【ふたりの女】菅谷仁志さん
溶け出した『ふたりの女』の奥に
「SPACとは、現代に生まれた地芝居である」。1時間に20ミリ前後の雨が降りしきる中、4月29日(金)に舞台芸術公園野外劇場「有度」で上演された『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』が想起させたのは、そんな感覚だった。普段なら舞台の上に格子状に整えられているはずの砂ですら、はじめからドロドロで形を保っていない。本来意図した演出や演技の緻密さには、届いていなかったかもしれない。観客側にしても、セリフはほとんど聞き取れず、舞台上で起きていることを正確にキャッチできていたかは怪しい。だが、大雨ゆえに「内容」という作品の輪郭がそぎ落とされ、この日の上演は芝居を観ることの本質を射貫く特別なものに昇華していた。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2022■入選■【私のコロンビーヌ】冨田民人さん
オマール・ポラスへの手紙~「私のコロンビーヌ」、平和の鳩
オマール・ポラス様
私は、神奈川県在住で、熱海で東海道線を乗り継いてやって来ました。2時間弱かけて。これは東京に行くのと余り変わりません。
長いトンネルをぬけ、富士の近くの工場地帯をぬけ、平家が戦わずして退散した富士川を渡り、清水を通過すると、前方に見たことのない、巨大な怪物が見えてきて、驚いたのでした。
東静岡の駅を下りて眺めると、それは磯崎新設計の静岡県コンベンションアーツセンター“グランシップ”なのでした。あなたの出演される静岡芸術劇場は、グランシップ内にある舞台芸術のための専門施設ですね。定員は400人、レンガの石壁が深紅の客席と闇深い舞台を囲み、馬蹄形の客席からなる劇場空間です。 続きを読む »