「カタリーナ」とは誰か
柴田隆子
美術のインスタレーションを思わせる、美しい舞台装置である。白い柱が立ち並び、右奥のガラス張りの部屋にはグランドピアノ、左奥にはソファーがみえる。天井は高く、空間にゆとりのあるスタイリッシュな邸宅のイメージがそこにある。いきなりハイネケンのビールケースが何箱も持ち込まれ、栓を抜いて上演が始まる。物語はシェイクスピアのテクストに沿って、妹ビアンカとその求婚者たちの関係、「じゃじゃ馬」カタリーナの結婚と夫ペトルーキオによる調教、夫たちによる妻の従順さを競う賭けで、生まれ変わったカタリーナが妻の貞淑を説くようになるまでを描く。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの舞台は「喜劇」らしく、明るくテンポよく進む。そして物語が進むにつれ、美しかった舞台は汚れ、物が散乱し、ビールの臭いが客席まで漂ってくるようになる。
パドヴァの町は暴力にあふれている。冒頭ビアンカに一目ぼれしたルーセンシオと入れ替わった従者は、恋敵たちからリンチにあう。ビールをがぶ飲みし、卑猥な歌をわめき歌い、乱暴にふるまう男たち。奥の部屋では、ビアンカが男たちを挑発し、カタリーナはかんしゃくを起こしたように暴れまわる。この町では男も女も皆等しく暴力的だ。しかしシェイクスピアのセリフは、カタリーナひとりに「じゃじゃ馬」のスティグマを科す。彼女の「じゃじゃ馬」ぶりは、愛情への渇望、スティグマを再現することで人の関心をひこうとする虐待児童のそれのようにもみえる。妹ビアンカの美徳とは、単なるセックスアピール、あるいは男たちの目から見た「都合のいい女」である。男たちの口にするビアンカの貞淑さを称えるセリフは、コケティッシュなアイロニーをおびる。町の外から来たペトルーキオはこの町の放縦さには染まっていないが、グローバル経済の法則はきちんと身につけている。要は「金」だ。そのためならどんな女でもいい。どんな女でも調教してしまえばいい。人間は役割であり、役割をこなさせるのだ。
ホーヴェは、人間の関係には暴力とセックスと金しか介在しないことを、シェイクスピアのテクストをつかって浮彫りにする。舞台が単なる女性蔑視の物語と受け取られることを回避するために、パブティスタ家の家長は母親に置き換えられ、男たちと対等にふるまう「女」として登場する。金をもつ母親は権力の側にいる。女性ならば必ず被抑圧者の側に留まるとは限らない。「金」さえあれば性差のヒエラルキーも乗り越えられる。娘たちはこの母を見習うべきなのだろうか。
ペトルーキオとカタリーナの関係には「いじめっ子といじめられっ子のあいだの愛」、「主人と奴隷のあいだの愛」があるとホーヴェはいう。それは倒錯した「所有の愛」、人文主義的な対等の関係を是としない世界での「愛」の形態である。普通、人はそれをSMと呼ぶ。食事を与えず、眠らせずに身体的に弱らせ、親しいものたちから離して自尊心を奪い精神的に支配していくのは、DVに留まらずナチやシュタージあるいはカルト集団などでもお馴染みの手口で、社会的にはどんな「愛」や「正義」の元にも正当化できないことを我々は知っている。しかしこうした「調教」が日常的にあることもまた知っている。これは男女に限った話ではない。派遣労働者、外国人研修生の問題等、そこここにある。
カタリーナを国に例えてもいいかもしれない。周りの兄弟と小競り合いをしていた国が経済力を持つ先進国に組み伏せられ、テロリストの国と名づけられ、爆撃の音で眠れず、餓えさせられる。自国で食料を生産していたのに、もはや先進国に「お願い」しなければ食べていくことすらできず、その上、お礼の言い方が悪いとそのわずかな食料さえ取り上げられる。生存のためには、自我はたいしたことではない、相手にうまく合わせて生き延びられればいい。確かにこれは奴隷の喜びかもしれない。今日も生きていられてよかった、と。
トネールフループ・アムステルダムは『じゃじゃ馬ならし』で、こうした非情なグローバル社会の姿を見せつけたかったのだろうか。どうもそれだけとは思えない。それは、カタリーナを演じるハリナ・レインの身振りにある。ペトルーキオの命令で夫への服従の勧めを、ひとり客席に向かって語りかける時、レインは決してその口からでる言葉と同化していない。彼女は登場人物の感情を再現することなく身振りとしてこれを演じており、ここで語られていることを信じるかどうか、そしてそれをどう考えるかは、我々観客に委ねられているのである。舞台は答えを出さない。たとえ個人の自由を尊重する社会が舞台の最後のようにごみためのようなものであっても、その寛容さをよしとするのか、それともペトルーキオのような「強者」に弱いものや社会からはみ出すものの抑圧を許し、個人を鋳型にはめこみながら「調和」のとれた社会をめざすのがよいのかは観客が考えるべきことなのである。
(6月27日観劇)