劇評講座

2009年8月10日

『ブラスティッド』(ダニエル・ジャンヌトー演出、サラ・ケイン作)

カテゴリー: ブラスティッド

肉食に満ちた寓話・現実・悪夢
―ダニエル・ジャンヌトー演出 サラ・ケイン『ブラスティッド』劇評

森川泰彦

一見無秩序かつ自己破壊的に展開するかに思われるこの戯曲は、多方向に開かれてはいるが強靭な構造を持つ。この劇を兵士登場の前後で分け、その骨格を取り出してみれば、前半においてイアンはケイトを強姦し、後半においてイアンは兵士に強姦され両目をつぶされるが、ケイトに救われる。つまりこれは、加害とそれに対する「処罰」と「赦し」の物語なのである。被害者ケイトのためにイアンを害したのではないから変形されてはいるが、物語論的に言えば、兵士は、加害者イアンに復讐する「主人公」の位置にある。

そしてかかる二重の加害は、副筋として埋め込まれた兵士の語る物語における暴力の連鎖と重なり合う。彼は殺人と強姦の限りを尽くしてきたが、その妻もまた惨殺されたというトラウマと絶望を抱えている。またイアンの振るう暴力の根底にも、生への絶望と共に他者への怒りが存在する。そして、こうしたトラウマと絶望が生む暴力の連鎖が物語全体を覆う一方、それと対比される博愛と救済がケイトの行為によって示される。彼女は自らに関わりのない幼い命を救おうとし、また被害者でありながら、自らを犠牲にしてまで加害者イアンを救うべく帰還するのである。復讐と博愛の二項対立が、この物語を深層で規定しているのだ。そしてこの人物配置に重ねられた二項対立は、男と女や「健常」者と障碍者といった強者と弱者の社会的二項対立、さらには排外主義と寛容主義、差別主義と平等主義の思想的二項対立にも繋がっている。従ってこの劇に、後者の立場からの前者の本質的暴力性の告発といった政治的メッセージを読み取ることも十分可能である。しかし、そのような観念的対応への還元にとどまるのなら、この劇の持つ豊かさを十分に享受しているとは言えない。

というのもまず、この劇の持つこうした抽象的骨格は、「肉・食」をめぐって喚起される鮮烈なイメージ群によって、豊かに肉付けされているからである。イアンはハムやソーセージを頬張り、暴力を拒否し肉を食べないケイトを自分の肉欲の犠牲にする。またケイトは、イアンに対する拒否を食事の拒否で示そうとする。兵士は、登場直後からイアンの肉を奪って貪り食らい、彼を肉欲の対象としたばかりかその両目まで食らう。さらにイアンは、ケイトが葬った赤ん坊の肉を食物とする。この劇では、「人を食い物にする」という比喩が、そのまま現実化していくのである。食欲と性欲は肉のイメージを介して繋がり合い、自己の欲望の赴くままに他者を犠牲にするという主題が、多様で強烈な印象を伴って観る者に植え付けられるのだ。生理的肉体的飢えの現前は、こうした錯綜したイメージの結びつきによって精神的根源的な飢えを実感させる。無意識的であれ、このような緻密に構築された細部を味わうことで初めて、虚構の中にしかない感動に身を浸すことができるのである。

そして、後半に展開する異世界についての理解もまた重要である。イギリスの地方都市が突然、どこかの武装勢力に占領されるという物語は、演出家がノートで語るように「おとぎ話」となりうるし、客観的現実として捉えることもぎりぎり可能だろう。しかし、より自然にかつより豊かに、この劇の持つ諸要素を構造化し意味の連関を広げてくれるのは、絶望と自責の中で酔いつぶれたイアンが実際に見ている悪夢だという解釈である。

恋人を愛しながらも、結局自らの欲望を抑えることができず、傷つけてしまう男。酒やタバコで健康を害し、死を強く恐れながら、なおもこれらに逃避する男。彼は、欲望を果たした後は自責に駆られ、内心では自らの処罰を望んでいる。銃で武装し殺人者だと称してはいるが、「敵」の襲来を恐れてルームサービスのノックにも怯える彼は、元々傍観者たるジャーナリストである。行動する英雄に対し憧れを持ちつつも決してそうはなれないのだ。こうした日中残余は、夢の中に進入してきた現実のノックと結びついて、他者たる兵士(や軍隊)として姿を現し「目には目を」式の処罰を己に与える。従って、敵を容赦なく辱めて殺戮しても恥じず、同様の精神的闇を抱えながら死を恐れず自害する兵士は、イアンの歪んだ自我理想の投影だといえる。兵士に犯されることには、意識上の異性愛規範が抑圧した同性愛願望を読み取ることもできよう。かくして、彼に両目を奪われるイアンは、英雄たる国王から最下等の人間に転落するオイディプスのイメージをも召還することになる。オイディプスと同様、自ら(=超自我)えぐったことになるからだ。ここで強調されるのは、これ以上、自らを恥辱の内に存在させる希望なき世界を目の当たりにしたくないという、自閉≒退行の欲望である。そこへ無条件に己を守ってくれる母≒ケイトが帰って来る。イアンは、死への恐怖を乗り越えた証に自らへ向けてピストルの引き金を引いて見せもしたが、予め弾を抜いてくれたのも彼女なのだ。

ジャンヌトー氏はきちんとテクストに向かい合い、凡庸な演出家がやるように、貧弱な理解に押し込めることで作品の豊穣さを殺してしまうようなことはしない。その可能性を十全に引き出そうとするのであり、前述したような重要な細部を形作る主題系への配慮も怠らない。食物もその生々しさにこだわって本物を使い、さらにはボロボロとこぼしながら貪らせることで、日常においては文化的仮象が隠してしまう「食べる」という行為が持つ本能性を露呈させる。しばしば出てくる性的場面も、猥褻さというよりはその動物的おぞましさをまざまざと見せつけるのだ(猥褻は文化の産物である)。そしておとぎ話だとは言うものの、抽象的象徴的に処理しようとはせず、寓意表現だともリアリズムだとも、そして悪夢の表象だとも見做し得るという世界を構築してみせた。寓話との理解は、前述したような社会的思想的二項対立を前景化するだろう。悪夢との理解は深層的な意味連関を、現実だとの理解は残虐さが本物だと感じられることによる迫真性を生む。夢か現かという適度に限定された曖昧さが、両立しえないはずの劇的効果を共存せしめるのである。こうした本来相容れぬ三つの世界の共存を可能にしたのは、現実とも幻想とも捉えうる具体的だが抽象的な空間であり、それは、ぎりぎりまで明度を落とした照明やスモーク、ばら撒かれる「土砂」、象徴的質感に富むベッドといった要素で構成されていた。

役者の演技についても触れておこう。阿部氏は、ことさらに大仰な演技をすることによってではなくその圧倒的な存在感によって、おとぎ話の異者、強烈なトラウマを凄まじい暴力に転化する兵士、イアンの歪んだ理想像を併せ持つ人物を現前せしめた。大高氏は、冒頭は押さえ気味だったのか生彩を欠いていたものの、次第に調子を上げ、自らの欲望と良心に振り回され、暴力を振るい振るわれる、尊大だが卑小な人間を見事に演じ切った。布施氏は、例えば吃るところはあまりうまくないし、けたたましく病的に笑うところなどもっと凄みが欲しいが、総じて無難にこなしていたと言えよう。

(2009年6月20日観劇)

『ふたりの女』(宮城聰演出、唐十郎作)

カテゴリー: ふたりの女

ふたりの女~葵上、または羽衣としての

柳生正名

七月四日、野外劇場「有度」で行われた宮城聰演出・SPAC「ふたりの女」楽日は、この時期としては望外の星空に恵まれた。梅雨の中休みが翌日も続いたおかげで、一歩足を伸ばし、三保松原を訪れる機会さえ得た。

羽衣伝説で知られる、この浜に足が向いた理由―思うに、それは能「葵上」を下敷きに唐十郎が書き上げたこの芝居の幕開きが、伊豆の砂浜の場だったせいだ。現代の光源氏たる精神科医、光一はパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」を口ずさみつつ、舞台の床にアオイあての恋文を書く。やがて波に舐め取られるだろう砂上の文字は、この物語を突き動かす根底的な動因としての光一の愛―ふたりの女(アオイと六条)に向けられた、その情動の空虚な本質を暗示する。

舞台一面に砂を敷き詰めたという初演(一九七九年・劇団第七病棟)に対し、宮城聰は今回、梁や桁が交差する屋根裏さながらの床面を舞台に設けた。それを取り囲む形で、周囲にうず高く積み上げられた角材の山。かつて全共闘が築いたバリケードの内の解放区を思わせる、その板の上で、演者たちは能役者と同様、足袋を履き、格子状に組まれた角材の上を、蜘蛛のごとく伝い歩いた。

物語の場面は、砂浜から精神病棟、自動車レース場、卓袱台の据えられたアパートの一室、と目まぐるしく転換する。これに伴い、矩形の格子上では、時に六条ら病棟の患者が絡み合い、時には車がクラッシュするものの、そこが圧倒的に「狂気」によって支配される場であることは演出上、一貫している。従って、光一の子を宿し、彼の愛を疑わぬまま、「正気」を保つ間のアオイの居場所は、常にバリケードの上である。決して屋根裏のような格子上に降り立ちはしない。

興味深いことに、今回の舞台で、彼女が当初立つ「正気」側の世界の様相は、砂浜に打ち上げられた難破船か、大震災の廃墟のごとき殺伐さを示す。対照的に、同じ角材で組み上げられながら、「狂気」側は、デジタル的で整然とした格子の上に成り立っているのだ。

見方によっては、狂気というものは、独自の論理的秩序に貫かれている。例えば、特定の精神病に特徴的な「聖母マリアは処女である。私も処女である。よって私は聖母マリアである」という論法は、「ひとたび光一の妻と呼ばれた自分は生涯、その妻たらざるをえない」という思いに従い、愛を捧げる六条の揺るぎない姿に、どこかつながる。

加えて、デジタル的な整然さを示す格子上で、アナログの肉体を持つ役者が演じるとき―充分な訓練を積んだ演者であっても―偶然に支配された揺らぎが、いやおうなく生じる。それを免れようとする役者たちの集中力が、今回の上演に魔術的な緊迫感も与えただろう。

このユニークな舞台構造は、ドラマが終局に近づくにつれ、さらに豊かな多義性を発揮する。例えば、入院患者の一人(全共闘の敗北への肉体的オトシマエを自らつけることに固執する男)を訪ねた弟が「鉄格子の向こう側」と叫ぶ、その瞬間。役者たちが立つ格子状の床は、正常と狂気を隔てる境界としての鉄格子そのものであることが突如顕わになる。

六条の生霊に取り付かれ、と言うよりは、光一の愛が砂上の文字に過ぎないことを悟り、自らの内に潜む六条を徐々に呼び起こしていくアオイ。その立ち位置も、正常界たるバリケード上から、狂気と正気が交錯する格子の上に、次第に引き寄せられていく。クライマックスとなる死の場面、白いドレスを流産の血に染め、バリケードの頂、舞台後景の樹々の緑が照明に映える中から、アオイは日傘を手に下界へと、はかなくも美しく落下する。

それは、今思い返せば、浜にひときわ秀でた松の古木めがけ、天女が降臨する姿そのものだった。ならば、終幕、光一の手に縊られる六条が見せた身悶えも、羽衣を取り戻し、天上に戻らんとする天女の羽ばたきに重なる所作、だったかも知れない。

こうした幻視を、筆者の内に引き起こしたもの。それは、能役者を思わせる演者たちの「特権的肉体」(わけても、片や六条/アオイの二役を高い集中力で演じきり、片や光一の虚ろな中にも清々しい存在感を造型した、主役二人の熱演)、彼らに格子上での歩みを強いることで、幽玄なエアー空 気を舞台に招来した「演出」、現代の謡曲とも言うべき詩的陰影をたたえる脚本の「アングラ的文体」―この三者が共鳴し合った結果であったろう。加えて、この三保に程近い山麓の野外劇場に立ち上る霊性めいた何ものかも、「葵上」「羽衣」の二曲が筆者の内でひとつに結び付く依り代となった気がしてならない。

蛇足ではあるが、翌日訪れた三保の浜には波による砂の侵食を防ぐためだろう、所々テトラポットが、あたかもバリケードのように積み上げられていた。その表には、誰の手になるものか、落書きが様々刻まれている。そのひとつはこうであった。―葵参上

これがフィクションであれば、自らの詩的想像力を誇りもしようが、実のところ、何の虚飾もないリアル現 実の話である。(了)

2009年6月17日

「Shizuoka 春の芸術祭2009」SPAC劇評講座!

カテゴリー: 告知

6月6日の社会講座を皮切りに、「Shizuoka 春の芸術祭2009」が開幕しました!「転校生」に引き続き、「春の芸術祭」のすべての演目を対象に、劇評を募集します。

演劇批評家としても活躍するSPAC文芸部の面々(菅孝行、大岡淳、横山義志)がすべての投稿劇評を講評し、返信します。優れた劇評はSPACのホームページに掲載します。入選された筆者には原稿料をお支払いするほか、SPACの公演に1回分ご招待します。

演劇に触れて、受け取った感情を、あるいは疑問を、言葉にしよう!、と思い立った方々、ぜひ、ふるってご応募ください!

■資格/「Shizuoka 春の芸術祭2009」の舞台をご覧になった全ての方
■批評対象/「Shizuoka春の芸術祭 2009」の全ての舞台
■字数/2000字程度
■締め切り/批評対象の舞台が上演された5日後必着
■投稿はメールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。
Eメールの場合:mail@spac.or.jp(必ず件名欄に「投稿劇評」とかいてください。)
FAXの場合  :054-203-5732(必ず1頁目の冒頭に「投稿劇評」と書いてください。)
封書の場合  :〒422-8005静岡市駿河区池田79-4
(財)静岡県舞台芸術センター宛(必ず封筒の表書きに「投稿劇評」と書いてください。)
■原稿には、住所、氏名(ペンネーム可、ただしペンネームの方は本名・ペンネーム両方)を明記してください。
■観劇日を明記してください。
■連絡方法/連絡がとれやすいよう、自宅の電話番号、FAX番号、携帯電話番号、メールアドレスなど複数の連絡方法を書いてください。

2009年5月5日

『転校生』(飴屋法水演出、平田オリザ原作)

カテゴリー: 転校生

いま生きているということ
井出聖喜

舞台上の階段状に組まれた床面に椅子が縦四列、横五列に並べられている。それが教室であり、彼女ら(たぶんこの平成の世の日本の、どこでもいいどこかにいる女子高生)の「世界」だ。ところが、その床を作るのに「平台」や「箱馬」等の舞台道具が剥きだしで使用されており、また、舞台両袖には照明器具が(実際に舞台で使用されるとは言え)「無造作に」置かれ、客席から丸見えになっている。更に舞台奥の壁には脚立が片づけ忘れたかのように立てかけられている。これは要するに、舞台上に装置を建て込んで、擬似的な現実世界を作り上げるという演劇の一種基本的な約束事が排除されているということだ。

一方出演者達は本名のまま舞台に登場する。また、彼女らの着る服は同じクラス仲間という設定であるのにバラバラで、彼女らがふだん学校で着ている制服をそのまま使用しているようなのだ。

これらはいずれも、「演劇」ということの虚構性をかなう限り排除し、観客の前に剥き出しの「現実」を提示しようという演出意図の表れと見ることができよう。言を換えれば、この舞台におけるこうした手続きは、女子高生の「いま」を限りなく生々しく写し取ろうという演出のたくらみを保障するのにどうしても必要なものだったのだろう。

客席に入ると、117の時報が間断なく聞こえている。「16時23分40秒をお知らせします。……」これは開幕まで続き、終幕にも聞こえる。それは「時」が(変な言い方だが)瞬時も止まることなく消費され、潰えていくことを我々観客に明確に感じ取らせる。そして、何よりもあの、ただひたすら浪費される言葉とめまぐるしく動く表情としなやかな肉体を持つ少女たちの「いま」が刻々移ろい、消え去っていくことを痛切に感じ取らせる。

開幕前、客電が落ちると、舞台奥のスクリーンに「転校生」というタイトルが大きく映し出される。しばらくすると「校」の文字が消え、「転生」という語がスクリーンに残る。次に「転」の文字が消え、「生」だけが残る。作品の主題を暗示する秀逸な幕開きだ。

さて、開幕。舞台は一人の中年女性の転校生を迎えることになる18人の女子高生の、機関銃の乱射のような「同時多発的」会話によって進む。その様は本当にどこかの女子高校のある日のある時間を、その生々しい生の一瞬一瞬を切り取ってきたかのような臨場感を与える。そうして、その会話の幾分かはとるに足らない、あえて言えば記憶に止める価値すらないようなものだ。

しかし、だまされてはいけない。作家のたくらみは、ただ単にとりとめのない女子高生の会話を「テープ起こし」するように記録するなどというところにあるのではない。その会話のそちこちに忍び込ませた幾つかの言葉や話題は、たとえば平成日本の女子高生の日常と世界の深刻な危機的現実とが共時的につながっていることを炙り出しのように浮かび上がらせる。また、一知半解的に語られる「カフカ」、「変身」、「不条理」といった命題からは、彼女らの屈託ない日々の在りようの底にも「存在の不条理」という深淵がパックリ口を開けているのだという暗示もある。(舞台の終盤、一人の女子高生が飛び降り自殺をする。屈託なく振る舞っていた彼女の心の荒廃が垣間見える瞬間だが、その彼女の死後も何事もなかったように振る舞っている女子高生達の姿は、虫になったグレゴールが死んだ後、晴れ晴れとした表情でピクニックに出掛ける家族の姿と重なり合い、個の存在などものともしない「日常世界」の復元力のしたたかさを改めて私達に感じ取らせる。)

ところで、そうした女子高生の日常は、突然理由もなく現れた中年女性の転校生によってほんの少しざわめき立つことになる。彼女は自分がどこの高校から転校してきたのかわからない、「今日、目が覚めたらこの学校の生徒になっていた」と言う。こんなシュールな設定はとてもリアリズムとは言えないが、作家が欲していたのは、十代後半の女子高生の集団の中に、彼女らの日常を相対化し、彼女ら自身に自分たちの日常を意識化させ、客観視させる「視点」だったのだろう。そう考えれば、確かにこの女性はあらゆる点で女子高生と対照的に、対極的に存在する。たとえばそのゆっくりとした、抑揚のないしゃべりにおいて。その殆ど無表情とも言える態度において。

ただ、「相対化」だとか「客観視」といった言葉だけではこの中年転校生の役割を捕捉しきることはできない。それを読み解く鍵は、女子高生達の会話に出てくる「風の又三郎」にあるだろう。山あいの分教場に高田三郎と名乗る一人の少年が転校してくる。彼の侵入は、あたかも野面をなでる一陣の風のように土地の子供たちの変哲のない日常に小さなざわめきを、何かしらきらきら光るものをもたらす……。

この又三郎に相当するのが中年女性の転校生だ。彼女は、女子高生達との出会いの当初は当然の如くいぶかしげに、敬して遠ざけるといった風に遇される。しかし、いつの間にか自然に少女達は、その輪の中に彼女を招じ入れる。この劇の終幕近く、一人の女子生徒と中年女性との間に交わされる静かな会話は、一種透明な叙情を湛えている。

さて、終幕。舞台の最上段に18人の女子高生が並んで、「せーのっ」と元気いっぱいの声を上げつつジャンプする。117の時報に合わせて、何回も、何回も。彼女らは永遠にジャンプしているようでもある。その一方、その活力漲る声の響きもしなやかな肢体も、時の浸食によって少しずつ毀れていくようでもある。どちらだろうか? ──どちらでもいい。ただ我々が感じるのは、彼女らが「いま」生きているということ、その「生」に対する「痛切な」と言うしかないようないとおしさなのである。

(観劇日 3月20日)

2009年3月27日

『転校生』劇評も募集中!

カテゴリー: 告知

『転校生』の劇評に関してもお問い合わせがありましたが、『転校生』静岡公演・東京公演も含め、引き続き募集しております。

「SPAC演劇講座」は、劇評の優れた書き手を育成するための場です。劇評家としても活躍するSPAC文芸部のメンバーにより、全ての応募作品に対して講評が送付されます。論点をより明確にするために書き直しが求められることもあります。こうして、作品を深く理解した上で、独自の視点を鋭く提示した劇評のみが掲載されることになります。この方々には、「演劇批評家」への道を目指していただくために、原稿料をお支払いし、さらにSPAC公演一回分にご招待いたします。

ふるってご応募ください!

 

SPAC演劇講座

SPAC劇評募集! 求む!舞台を視るつわもの達


優れた劇評はSPACのサイトで発表、もちろん原稿料あり!


 

投稿すると

●原稿は選考委員が必ず講評をつけて返信します。


 

入選すると

●入選原稿はSPACのサイトに掲載します。

●入選された場合、原稿料をお支払いするほか、SPACの公演に1回ご招待いたします。

 

選考・講評

●選考と講評はSPAC文芸部(菅孝行、大岡淳、横山義志)が行います。

 

■ 字数 2,000字程度

■ 締め切り 批評対象の舞台が上演された5日後必着

(『転校生』に関しましては、最終公演5日後の4月3日締切といたします。)

■ 投稿はメールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。

 


◎ Eメールの場合の宛先 mail@spac.or.jp (必ず件名欄に投稿劇評と書いてください)


◎ FAXの場合の宛先 FAX054‐203‐5732(必ず1頁目の冒頭に投稿劇評と書いてください)


◎ 封書の宛先 〒422-8005静岡市駿河区池田79-4 静岡県舞台芸術センター(必ず封筒の表書きに投稿劇評と書いてください)

 

■ 原稿には、住所、氏名(ペンネーム可、ただしペンネームの方は本名・ペンネーム両方)を明記してください。

■ 観劇日を明記してください。

■ 連絡方法/連絡が取れやすいよう、自宅の電話番号、FAX番号、携帯電話番号、メールアドレスなど複数の連絡方法を書いてください。

2009年2月20日

『別冊谷崎潤一郎』(鈴木忠志演出、谷崎潤一郎作)

カテゴリー: 別冊谷崎潤一郎

大根、または絶対と相対の(はざま)

  =鈴木忠志演出「別冊谷崎潤一郎」論

               柳生 正名

 文豪谷崎が大正期に書き上げた戯曲「お國と五平」と小説「或る調書の一節」を二部構成で演出した本作。前段は武家の後家、お國が夫の仇を求めての旅の道中、という原作の設定だ。鈴木演出は、このテキスト自体を執筆中の作家役(蔦森皓祐)を舞台に配す。幕開け、今書き上げたト書きを自ら読み上げ、物語が秋の那須野原に始まることが示される。

 もっとも観客の眼前に広がるのは、お國がその供の若党、五平と「痴人の愛」さながら暮らす密室の光景。このような視覚と聴覚情報の「ずれ」によって観客の内に生じるダブルイメージこそ、この演出の眼目となる。

 そこに、追っ手を恐れ逃げ回っているはずの仇、友之丞が現れる。お國を慕う余り、彼はその夫を闇討ちにしたばかりか、出奔後のお國の後をずっとつけて来た、というのだ。そして、自分ごとき意気地なしには闇討ちやストーカー行為でしか思いを遂げる途はなく、忠義の衣の裏で不倫を働く五平らに自分を裁く権利はない、と被虐(マゾヒスティック)な詭弁を展開する。その出で立ちは本来、世を忍ぶ虚無僧姿であるはずが、ダボシャツにアタッシュケースの押売り風。他人の家庭に上がり込み、次第に要求を増長させる不条理な闖入者さながらだ。

 このシチュエーションは一九六六年、鈴木が初演の演出を手掛けた別役実作「マッチ売りの少女」とどこか重なる。戦後の混乱を脱し、高度成長期を迎えた当時、善良な市民が抱く本源的な恐怖の様相を不条理劇のスタイルで描いたこの作品。それと相通じる世界像を谷崎のテキストに感じ取ったことが、鈴木をして本作の演出に向かわせたのではないか。

 他方、「(ビンラディン、米大統領ブッシュの)二人の立っている基盤は…殺人者友之丞と同伴者五平をまきこんだ報復者お國の論理的立場に似ていなくもない」と初演時に記した鈴木の意図は明白である。五平に弱者の論理をぶつける友之丞の姿が、ここでは超大国へのゲリラ攻撃を扇動するテロリストのアジ演説に重なる。

 そもそも谷崎自身に、この戯曲で儒教的徳目と大正期の個人主義的価値観との相克を時代劇の姿を借りて描く、という意図があったろう。テキストが内包するこのダブルイメージ構造を拡張し、さらに戦後から現代に至る重層的な世界像まで重ねる作業を鈴木は行う。

 かくして、時間、空間両面で複雑に積み上がった世界を舞台空間に破綻なく押し込むことは容易ではない。それを可能にしたのは、スズキ・メソッドで訓練された俳優陣の見せた、重層する時空を現在形で担いうる発声・身体性の確固さ、にほかならない。

 今回、冒頭に続き、テキストと演出内容のズレが極大化する場面―友之丞の強弁の前に、ついには自らを卑怯者と認めた末、この仇を背後から刺す五平。それを目の当たりにしたお國は、作家役が読み上げるト書き「泣き崩れる」の指示に反し、腹底から笑いを搾り出すシーンがそれだ。死の直前、友之丞は五平に、かつて自分とお國が関係を持った事実を告げる。ト書きは、仇討ちは果たしながらも、秘めた過去を愛人に知られたお國の困惑と絶望を示す。しかし、舞台の高野綾(お國役)はその絶望すら地の底から響くがごとく深き声で笑い飛ばす。それによって、二人の男が演じてきた善/悪の相対性、重層化した世界のズレも突き抜け、その存在は「絶対的悪」にまで上り詰める。今や、自らを卑怯者と認めた五平は絶対者の高みに立つお國に対し、友之丞と同様、被虐(マゾヒスティック)な愛を捧げるほかない。

 なぜなら、二人の男はお國を通じ絶対的なものを垣間見てしまったからだ。絶対的悪は相対的な善/悪の対立を超越する点で、神と異なるところがない。このような絶対を覗き見た者の内に生じるドラマが後段「或る調書の一節」である。女性二人を殺した、その主人公に罪への後悔はない。ただ、日ごろ虐待している妻には自らの罪を打ち明け、妻が涙ながらに真人間に戻るよう諭す様に、宗教的法悦に似た感情を抱く。泣き濡れた妻の目の中に何かしら絶対的な存在の影を見、自分さえも相対的悪にすぎないと知ることが、男に自らの救いの可能性を直感させる。

 加藤雅治は、持ち前の集中力で、この男が持つ、絶対的なるものへの思いの揺るぎなさを演じた。その確固たる身体が発する一気呵成の台詞は、悪人往生を説きつつ、自らの論に陶然とする宗教者の姿さえ彷彿とさせる。それに釣り込まれ、当初は尋問口調で検事の台詞を語っていた作家も次第に男の側に自らの心情を移す中、舞台は山場を迎える。

 男の告白が一段と熱を帯び、作家が絶対的なものの「大いさ」に取り込まれんとする瞬間。唐突に(原作にない)百姓役が登場、手に持った大根と白菜のいずれを選ぶか尋ねる。我に返った作家は相対世界に自らを引き戻す。

 考えるに、芸術家の在りようは絶対的なものと一体化することであってはならない。それは宗教家か思想家の役割だ。芸術家は友之丞や五平、殺人犯と同様、絶対的なものを垣間見つつ、あくまで相対世界―人間の実存の悲しさが悲しさとして留まり、また、重層的なズレを内包しつつ、解釈の多義性を免れない―この此岸に執すべき存在なのだろう。

 先に鈴木演出「サド公爵夫人」を論じた際、舞台上に配された野菜と、ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」で登場人物がかじる大根との通底性を考えた。この「別冊谷崎」でも、大根が芸術家を芸術家としてつなぎとめる(くびき)となる。そこに、自らの演劇体験の始原にまで遡り、相対の側にとどまろうとする、一芸術家の本願を見届けた―といっては、いささか牽強付会だろうか。(了)

=11月7日観劇

2009年2月18日

『大人と子供によるハムレットマシーン』(大岡淳演出、ハイナー・ミュラー原作)

座る椅子無きあとのオフィーリアとデモクラシーの行方

~『大人と子供によるハムレットマシーン』劇評


                              高原幸子

 

 「きのうわたしは自殺するのをやめました」。

悲劇の中断は歴史の中断に重なり、オフィーリアの心臓であった胸の時計は埋葬される。自己のほとんどを形成しているが自己を囚人にするマイホームを破壊し、自己自身も破壊する行為は、肉体の時を刻むことも止め、歴史から脱却する。

第二場「女のヨーロッパ」は、パイプ椅子と女たちそれぞれが格闘し、一人乱舞し、通過するハムレットと接することで、座るためだった椅子を倒し、失ってしまう。もしデモクラシー発言があってもなくても、誰もがその場に座ることのできる椅子として喩えることができるのなら、自らその椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアに託された欲望と主体の布置と可能性は、「大人の責任」という主体性の裏側がうっすらと顕わになる契機ともなるだろう。

共産主義体制下の知識人の苦悩をシェイクスピアの「ハムレット」に重ね合わせ、「ハムレット」を欲望/戦争機械として脱劇化するハイナー・ミューラーのテクストは、大人と子供ならほぼ〈子供〉に属する市民参加の教育劇として生まれ変わっていた。だからこそテクストのメタファーの増殖として構成された劇というよりもむしろ、テクスト内在的な骨格を有する歴史的唯物論の立場としてこの劇を読むことができるだろう。

始まりは子どもたちの教室での資本主義と共産主義についての授業である。「今の日本をどのようにしたらよいのか」、と子どもたちなりにデモクラティックに考えてみる。自由で個性を尊重するが格差・不平等を生む資本主義と、平等だが自由は抑圧される共産主義体制。ほぼ多勢が資本主義に傾くなか、一人が平等の大切さを説き共産主義を唱え、一人はどちらにも傾けない苦悩を抱えたハムレットとなる。しかし第一場「家族のアルバム」において、教室での結論は覆され、ハムレットは権力者の息子として〈子ども窃盗団〉なるものに拉致され、資本主義は崩壊したと告げられる。

第四場「ブダのペスト グリーンランドをめぐる闘い」では、アメリカ合衆国初の有色人大統領オバマが〈子ども盗賊団〉に捕まる場面において、ミシェル・オバマやヒラリー・クリントン、シュワルツネッガーを匂わすターミネーターまでも登場してコミカルに描かれる。テロリストと名づけられる〈子ども窃盗団〉の要求は、ディズニーランドとハワイと核兵器である。日本にも同時並行的に流入されたアメリカ消費文化と、世界の防衛覇権を持つアメリカの要となる核が、皮肉にもポストキャピタリズムの象徴となっている。

一転した第三場「スケルツォ」はミニマムなコントラバスの響きと韓国打楽器が舞台上を打ちながら踊りまわるなか、前方隅の大きな木製の脚立装置でハムレットとオフィーリアが無言で交わしあう、魅入られる場面が繰り広げられる。歴史が中断され、男であることを降りるハムレットと自己破壊をして往来に出たオフィーリアは、もう近づこうにも近づけない距離を保ち、振り向いたり振り返ったり、柱の影に隠れたり、手を差し出したり、縦横無尽に舞台上を動き回る韓国打楽器奏者が刻む鼓動が静謐な情熱を高める。音の響きに表現の基底を委ねた、全体を通じて最も美しい演出である。

第五場「激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑を身にまとって/幾千年世紀」では、深海に一人車椅子に座るというオフィーリアのモノローグのテクストに続き、ホメロスの「オデュッセイア」における甘美な歌声によって船乗りたちを誘惑するセイレーンの逸話が視覚化される。マシーンとして機械化/機能化され、「啓蒙の主体」の道具となった船乗りたちは、欲望を抑圧し「主体性」の自己保存に加担するが、最後には生の終わりを迎える。職業的専門人(知識人)を暗示するこのような〈大人〉の主体性は、女・子どもが居るゆえに成立しているにもかかわらず、それらを巧妙に排除し、自己保存に至る。

既に座る椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアと自らが〈主体性〉に至りきれないハムレットとのモノローグの往信のような詩的テクストは、「移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念」というヴァルター・ベンヤミンの進歩主義ではない過去の解放を表わすがごとく、2008年の現在に過去が一瞬のあいだ現れるかたちをとっている。やや難と思われる点を述べるとすると、子どももしくは市民という表現者たちと観客とが地続きであることが強調されるために、ポピュリズムに加担した喜劇的様相を呈したところだと思われる。しかしそれ自体が既にデモクラシーの闘争のなかにあるのかもしれない。

 

観覧日:12月14日(日)

『大人と子供によるハムレットマシーン』(大岡淳演出、ハイナー・ミュラー原作))

ハムレットは人間に戻れるのか  —大人と子供によるハムレットマシーン

 

おおのひろみ

 

 東西冷戦の終結/社会主義世界の崩壊から20年の歳月が過ぎた。かつて二極構造という危ういバランスの上に成り立っていた世界は、一方の崩壊により一方の暴走を招き、今や資本主義ですら崩壊の危機を迎えようとしている。

 非常に難解な「ハムレットマシーン」というテクストを、子供たちに語らせた。そのテクストはおそらく彼らの世代では、目にしただけでも「恥ずかしい」言葉が散りばめられている。しかし、性的で暴力的で過激なそのテクストは、子供たちにとって、むしろ実感の伴わない遠い世界の「神話」にすぎず、かつマイクロフォンを通した機械的な声は、観る者にその解釈を拒絶しているかのようであった。

かつて「悩みも痛みもないマシーン」となることを切望していた「ハムレットだった」若者は、時の流れと共に、今や「悩めることのみをインプットされたマシーン」と化してしまった。冒頭の「資本主義 VS 社会主義」に関するディスカッションにおいて、我が道を行く女達、意見が変わってしまう男達、そして悩み続けるハムレット(だった若者)。そう、もう既に「資本主義 VS 社会主義」という二極構造はとっくに崩壊してしまっているにもかかわらず。

 悩み続けるマシーンと化したハムレットを横目に、悩まない男達は、しなくてもいい選択を強行し、バランスを欠いた世界により一層のブレを生み出す。女達は、自らの生(性すらも)を楽しむため、全てを享受していく。しかしそれすらも一方に大きくぶれた世界の中においては、全てを破壊し尽くしてしまう危険をはらんでいる。少し前に世間が大騒ぎした「産む機械」という言葉。本当にこの言葉は否定されるべきものだったのか?全てを自らの胎内に戻し「産まなかったこと」にしようとするオフィーリアは、むしろ「産む機械」になりたかったのではないか。ハムレットが「マシーン」となりたかったのと同じように。

 どんな人間にも相反する価値観や世界観が内在している。二律背反な価値観があるとして、現代の日本人は、必ずしもその価値観を選択する必要はないのではないか。ハムレットが機械的に悩むことをやめた時、本当の「幸せ」が訪れるのだろうか?あどけなさの残る子供たちが精一杯背伸びして語ったテクストをはさんで演じられる現代社会のパロディに、混沌としながらも、力強いエネルギーを感じた。

 コントラバスと韓国打楽器は、西洋と東洋というこれまたある意味相反する文化の競演であった。コントラバスにあのような多彩な表情があるとは。

 さて、舞台は脚立と、反対側の天井に逆さまの脚立のみ。二つの脚立が、様々に対峙する二律背反な価値観を象徴しているようにみえる。出演者が持ち運ぶシンプルな椅子が、椅子のみならず、ベッドやバルコニー、船、あるいは「何者でもない物」など様々に見立てられる。ハムレットとオフィーリアは、現代の、平成の、子供の姿に身をやつした。誕生してから30余年の歳月を経た「ハムレットマシーン」は、「見立」と「やつし」という日本的手法を持って、我々の前に提示された。

 悩み続けるマシーンと化したハムレットと、オフィーリアもまた全てを享受しているように見せつつ、全てを破壊し尽くそうとするマシーンと化してしまった。ハムレットが悩むことを止める時、それは「痛みを感じない」機械になることなのか、それとも人間に戻ることなのか。人が人として生きることに、痛みや悩みは常に伴う。人が人として生を受けた瞬間から母親の「産みの苦しみ・痛み」を背負わなければならない。しかし、ハムレットの悩みは母親の痛み苦しみを理解できない「産めない性」であるが故の苦しみなのか。それならば、ハムレットは永遠に悩み続けなければならないしオフィーリアも破壊し続ける。

 今回、「ハムレットマシーン」を演じた子供たちも、「性」や「生」「死」というものへ実感を持つことは、まだまだ難しいことだろう。間もなく訪れるであろう「性」や「生」「死」の持つ、喜び、苦しみを見つめ、そして時には悩み、さらに30年後の「ハムレット」を考えて欲しい。

 ラストシーンに、ハムレットとオフィーリアのモノローグの冒頭を持ってきたのは印象的だった。30年前の東ドイツでハイナー・ミュラーが感じた閉塞感。その対局であるはずの30年後の平成の自由を満喫しているはずの我々にも同じ未来が見えると言うことなのだろうか、歴史は繰り返されるのだろうか。今回演じた子供たちが大人になる頃にも、ハムレットは悩み続け、オフィーリアは破壊し尽くそうとしているマシーンであり続けるに違いない。彼らが悩むこと、戦うことをやめる時こそ、人間そのものが痛みを感じない「マシーン」になってしまうのだ。

『ドン・キホーテ』(原田一樹演出、北村宗介脚本、セルバンテス原作)

カテゴリー: ドン・キホーテ

「ラ・マンチャの男」を超えて──原田一樹演出、SPAC版「ドン・キホーテ」賛

井出 聖喜

 

 静岡芸術劇場で上演された原田一樹演出、SPAC制作の「ドン・キホーテ」は、私見に拠ればSPACがこれまで上演してきた多くの作品群の中で最高の演劇的達成を示した作品の一つであると共に近年の日本の演劇作品の中でも最高ランクに位置するものである。

 演出家は上演チラシの中の「『ドン・キホーテ』への道」と題する文章で「(ドン・キホーテという名称が日本の様々な分野で多用されている割には)当事者の大多数はこの長編を読み終えていない」と喝破しているが、私もその「大多数」の一人だった。少年時代子供向けにリライトされたもので読んで以来、全くのご無沙汰である。だから、今回の上演作を原作との関わりで論じることはできないが、多くの演劇愛好家と同様、私には別のテキストがある。それは、デール・ワッサーマン脚本のミュージカル「ラ・マンチャの男」だ。日本では松本幸四郎主演で繰り返し上演されている。この脚本の見事さは既に語り尽くされてもいるが、原作者セルバンテスと彼の芝居の作中人物、騎士物語に取り付かれたアロンソ・キハーナ、そして彼の狂気が生み出したドン・キホーテの、三人の男の物語が重層的に展開され、その三つの世界は、物語の後半、セルバンテスによって語られる「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ(森岩雄訳)」という言葉によって鮮やかに一つに結ばれる。

 SPACが「ドン・キホーテ」を上演すると知った時、「ラ・マンチャの男」は「ドン・キホーテ」に触発された別物語だとは知りつつ、どうしてもそこを範とし、基準として鑑賞しないわけにはいかないという呪縛のようなものが私にはあった。さて、その「呪縛」は解かれたか、というのが私の語るべきことである。

 原田一樹と北村宗介の脚本には狂言回しとしてのセルバンテスは登場しないが、アロンソ・キハーナ=ドン・キホーテの物語を現代の観客に橋渡しする語り手が登場する。その意味ではこの作品も三重の構造を持っている。また、もしこの世界が狂っているとするなら、狂気こそは理想と高貴な人生に到達するための最も正しい道だというリア王的メッセージも両作品に共通するものとして指摘できるだろう。

 しかし、「ラ・マンチャの男」は、前述の「あるべき姿を求めて戦い続ける」という理想主義的主題とは別に、アロンソ・キハーナの、常識的には狂気でしかない精神の高潔さが下働きの女アルドンサのすさんだ心を高貴なドルシネア姫の尊厳へと昇華させていく、キリスト教的な魂の救済のドラマをも形作っており、それが大詰めの高揚感をもたらしているのに対して、今回のSPAC版「ドン・キホーテ」の終末部にはそのようなわかりやすい「感動」はない。アルドンサは最後まで娼婦まがいの行為を止めないし、「聖女」にもならない。死にゆくアロンソ・キハーナを見つめる彼女の目は、相変わらず虚無的で冷ややかに見える。そして今や狂気すら奪われた哀れな初老の男は、「夢は稔り難く敵は数多なりとも 胸に悲しみを秘めて我は勇みて行かん(福井峻訳「見果てぬ夢」より)」などと雄々しく歌うこともなく、ベッドに打ち萎れて死んで行こうとする。夢は既に夢見られて、語られるべき物語は既に語り終えられて、残るのは人生の空虚とほろ苦さのみか……と、その時、アントニアが「あなたはやはり遍歴の騎士ドン・キホーテであった。」というオマージュを述べる。そして、それに誘われるかのように彼の脳裏にドン・キホーテの冒険の物語がかすかに蘇ってくる。そう。かすかにだ。人生の空しさをくつがえすほどに、ではない。その匙加減がいい。そう思ってみれば、アルドンサの冷ややかな目つきの中に、死にゆく者への同情ではない、いとおしさでもない、あえて言えば哀しみのようなものも見て取れる。それもこれも含めて秀逸な幕切れだった。──感動は静かに、惻々として、人生へのある種の諦観と共に忍び寄ってくる。「呪縛」はきれいさっぱり拭い去られていた。

 さて、その大詰めだが、アロンソ・キハーナの思いを共有する我々観客は、舞台後方に小振りのプロセニアム(舞台を囲む額縁のような枠)に縁取られたドン・キホーテの世界(風車もあれば人形のドン・キホーテもいる)がせり上がってくるのを見ることになる。その時、はたと気づいた。開演前から舞台中程を大きく囲むプロセニアムと共に前方客席の天井に舞台上のプロセニアムを更に大きくしたものの一部が切り取られたように吊られ、一種の遠近法を形成しているのを見て気になっていたのだが、「ああ、これはアロンソ・キハーナの世界とドン・キホーテの世界、更に死の間際に夢見られた新たなる冒険世界の三重構造を視覚的に表したものだったのか」と。(語り手の世界を考えると四重構造になるが、そこまでやると煩わしくもなる。)このアイデアだけでも見事なものだが、もう少し舞台装置について言えば、木が多く用いられ、作品全体に何とも言えない温かみを与えていたのも成功だった。衣装はリアリズムを基調としながら、色彩とデザインの変化で次々と移り変わる場面をくっきりと彩っていた。

 役者はいずれもまずまずだったと思うが、三島景太のドン・キホーテは滑稽味より剛胆さ、一徹さが勝る造形だった。ラマ追い達を打ちのめす場面で、ささくれたアルドンサをじっと見つめるその澄んだまなざしが忘れがたい印象を残す。本多麻紀のアルドンサは、その容姿、声音含めて適役だ。

 役者諸氏への注文を一つ。この作品はもっと諧謔味を加えなければならない。笑いは確かにあったが、十分ではない。これは脚本の問題ではなく、演技の問題だと思われる。SPACの役者は重厚な演技はお手の物だから、茫洋とした諧謔味を出せるようになってほしい。その意味では今回の上演は完成形ではないだろうし、また、今作はSPACの最も重要なレパートリーの一つとして繰り返し上演していく必要があるだろう。

(観劇日 12月13日)

『ハムレット』(宮城聰演出、シェイクスピア原作) 

カテゴリー: ハムレット

「脳内世界のハムレット」(宮城聰演出 シェイクスピア原作)   

  坂原眞里

 

 この「ハムレット」は意表を突く。亡霊が出ない。そればかりならまだしも、ハムレットが本当に狂っている。彼は余人に見えない父王の亡霊を見、余人に聞こえないその声を聞く。叔父によって「父親殺し」の機会を奪われ母親を横取りされた彼の深層心理が、亡霊という扇動者を作り上げ、無意識の弁を開き、理性をもその歯車に従わせるのだ。新王による戴冠と婚姻の辞の直後に置かれたこの場面が、この上演のすべてを決定づける。

 方形の白布を敷いた主舞台は能空間を思わせるが、ここには魂の召喚も異界のものの到来も起こらない。これはハムレットの脳内世界であって、ここに現れるのはその脳裏に浮かぶイメージの投影なのだ。当然、新王クローディアスは卑小であり、その忠臣ポローニアスはおあつらえむきに滑稽。旅回りの芸人たちは脳味噌の襞からわき出した子鬼たちのようだ。そして、彼らの芝居を観た新王と王妃が動揺することを、扇動者を作り上げた無意識はあらかじめ「知っている」。二人は有罪でなければならない。しかもテキストレジーの結果、原作に流れる王権の正統性と復讐行為の正当性の問いは弱音化し、形容語としてロマン派好みの「立派な」「美しい」という言葉が耳につく。演出は、ハムレットとクローディアス双方がそれぞれの行為の正当化に「立派な」という同じ形容語を用いることを観客に気づかせるが、ハムレットはそのことの問題に気づかない。深層心理の「シテ一人主義」は悩むよりも糾弾させ、自らの物語の進行を急がせる。

 頬骨が高く、荒武者も犯罪者も適役にしてしまいそうな武石守正が、このハムレットによくはまっている。観客を引かせる難役である。ハムレットの狂った意識に限界付けられた出来事は「怖れ」よりも嫌悪を、「憐れみ」よりも脱力感を覚えさせる。悲劇のカタルシスは生まれない。悲劇的ヒーローとしてのハムレット像が脱神話化されているのだ(これには「ドン・キホーテ」が同シーズンに上演されることも無関係ではな

いだろう)。およそ30年前、ハイナー・ミュラーが、ハムレットの物語を歴史的成層のテキスト空間の中へ投げ入れることで、個体としての人間を超えた言葉が響く演劇テキストを生み出しておきながら、ハムレット的運命の方は呪いつつもむしろ普遍化してしまったことを考えると、静岡芸術劇場の脱神話化されたハムレットは明らかに「ハムレット・マシーン」後の時代の変化と創り手および観客双方の変化から生まれてきている。

 このことは舞台表現に関しても言えるだろう。方形の白布による主舞台(四隅の一角が最初から少しめくれあがっており、狂ったオフィーリアの場面では持ち上がってなだらかな膨らみを見せ、脳の襞の変容を思わせる)、その白布を効果的に変化させる照明、上演のベクトルをほぼ間断なく支える音楽、「小栗判官照手姫」の記憶が鮮やかに甦る遠藤啄郎制作の仮面の妖しさ、和装の特徴を残しながら無国籍な衣裳、言葉と身体表現をともに大切にする演出。ハムレットが観客を引かせる一方で、「ハムレット」は豊かで創意あふれる現代的な総合芸術の楽しさで引きつける。この総合芸術が現代的であるのは、それが20世紀の西欧演劇が東洋演劇に着想を得て試みてきた数々の成果や、それらが東洋演劇にもたらした新たな自覚を土壌に、資源としての東洋に甘んじることはできない演劇芸術創造をめぐる認識の地平に立っているからだろう。

 この「ハムレット」が出版界のドストエフスキー熱冷めやらない日本で生まれたことには、不思議な印象を持つ。192030年代のフランスで、時代と演劇の病をめぐる問題がジャック・コポーら演劇人の関心を集めていたとき、ジャン=リシャール・ブロックがその著「演劇の運命」(邦訳1954)の中で、「20世紀のロマンチスム文学は、心理学を標識とし、ドストエフスキーとフロイドを名付け親としている。つまり内部世界への逃避である」と書いていたからだ。その頃ブロックと接触しようとしたこともあった一回り年下のアントナン・アルトーは、むしろ物理的演劇言語の探究を進めてバリ島演劇を発見し、東洋演劇への関心も含めて20世紀半ばの世界的演劇シーンに大きな影響を与える論を書いていった。ハイナー・ミュラーもまた、アルトーに関心をもった演劇人の一人である。

 見えないものを見ることの危険を「ハムレット」に学んだ上で言うのだが、宮城演出の「ハムレット」を観ながら、私はこのような20世紀演劇の大きなうねりをそこに重ね合わせてみずにはいられなかった。 

                      (11月23日観劇)