『夜叉ヶ池』の劇構造
奥原佳津夫
SPACの『夜叉ヶ池』は、泉鏡花の名がイメージさせる日本的な情緒を拭い去った、無国籍なドラマとして立ち上がっていた。装置は簡素な屋台ひとつ、セリを使ったスピーディな展開―土の匂いを感じさせない現代演劇として演じられた鏡花戯曲は、その特殊性に向かうよりは普遍性に光があてられ、全編を覆う打楽器の音色も手伝って、汎アジア的な水神伝説の水脈に連なる様相である。演出者(宮城聰)は、旧来の新派や歌舞伎の制約から戯曲を解き放つ一つの方法を提示するとともに、戯曲に寄り添う丁寧な演出によって、小説に於いては、細部にこだわるあまり構成はバランスを欠きがちと評される鏡花が、その戯曲に於いては意外にも強固な劇構造を築いていることを再確認させた。
まず、家系的にも能楽と由縁の深い鏡花だが、その怪異ものと云われる小説には、語り手が伝聞によって物語る再話の形式が多く(よく知られたところでは『高野聖』『春昼』など)、ワキを介して異界が披かれる能の形式の影響が夙に指摘されている。この上演では、都会と山奥の物語とをつなぐ山沢学円(僧籍にある設定)を客席から登退場させているが、大詰、折り重なる主人公たちの骸に手を合わせる姿には回向のワキ僧の面影が濃く、上演の枠組みを固めた。また、雨乞いを断行しようとする村人たちが、手にした太鼓を一斉に叩き続ける演出は、閉塞的な連帯感や、権力者の横暴にも付和雷同する村落共同体の性質を明確に描いて、実に効果的であった。泉鏡花は、社会の通念や固定観念に抑圧された個人を描くことでそこに疑義を呈する、いわゆる観念小説で世に出た作家だが、やがて人間社会の軋轢をたやすく一蹴する存在として、異界の超越的な視点を作品に導き入れる。この『夜叉ヶ池』でも、もちろん白雪姫ら異界の者たちは、人間界の価値観、現世の桎梏をはるか高みから見下ろすアンチテーゼであるわけだが、その意味では、鏡花は破壊すべき対象を実に正確に見定めていた、と云えるだろう。
こうしたドラマの構造が明確になったについては、分かり易さを心がけたであろう演出もさることながら、再演を迎えて、俳優陣の演技がこなれてきたことの功も大きい。初演時には、鏡花の言葉に喋らされている観もあったが、特に学円を筆頭に、晃、百合との場も消化されて胸に落ちる台詞になった。そのため、続く妖怪たちの場面との演技の質の違いが克明になり、結果、どこか人形めいて切れ切れな台詞を語る百合が、人間界と異界との境にある存在であることが際立った。夜叉ヶ池の魔物たちは、人間界に隣接して棲んでも直接交わることはない。白雪姫が百合の唄声に心動かされるように、ただ白蛇に魅入られたとも噂される彼女を通じて、その消息を聞くばかりである。図式化するなら―つまり、固陋な村人たちと対極をなす異界の者たちの間に一本の線を引けば、その中間点に位置するのが百合であり、そして、客席の我々が棲む現実世界から、自身物語と化した晃を訪ね、舞台上の異界へ踏み入る学円の足取りをもう一本の線とするならば、二本の線の垂直に交わるところに、この『夜叉ヶ池』のドラマは広がっているのだ。
一方、魔物たちの描写には、物足りぬものがないでもない。鯉、蟹、鯰の精霊は、ユーモラスな被り物めいた衣装の女優たちによって屈託なく演じられ、作品全体の印象を軽いものにしており、現代的な意匠としてそれなりに評価できるのだが、今回の再演では、白雪姫までも初演時の好演に比べ幼く演じられているのが気になった。周りの眷属たちとは釣り合いが取れて、作品全体の色分けとしては明瞭なのだが、その恋の情熱には、ある種デーモニッシュなものが必要なのではないだろうか?原戯曲大詰のト書きに、村人たちに「立ちかゝつて、一人も余さず尽く屠り殺す」とあるように、この魔物たちは禍々しい荒神でもあるのだ。そうした残酷さ、グロテスクさも鏡花の資質のうちであり、彼の描く異界の者は、人間世界の尺度の届かぬ曖昧さのうちにある。村人たちが百合を襲う場のスリリングな立ち回りや、大詰のスペクタクルの爽快さなど、見所も工夫され上質のエンターテインメントに徹した上演に、欠けたものを求めればやはりこの部分であろう。
基本的にストーリーラインに沿った演出だが、唯一の改変はラストシーン―「晃、お百合と二人~熟と顔を見合わせ莞爾と笑む」という主人公たちの彼岸の幸福を示すト書きを削除した、というより、執拗なまでにこのト書きに逆行したことである。白雪姫が語りかけても自刃した二人は伏したまま。演出者は、甘すぎる幻想に都合よく身を任せず、距離を置くように現実を対置したのであろうし、その点は納得できるのだが、カーテンコールの間も遺体として留まり続けるのは、念が入りすぎて却って奇異である。
(於.静岡芸術劇場 2009.11.1所見)