「アンティゴネは、なぜ<過剰に>天を仰ぎ見たのか?」
古代ギリシャ三大悲劇詩人に数えられるソポクレスは、作劇上の「数々の革新を行った」とされる。一例としては、従来は詩人自らが役者として演じる慣例を破り、その伝統自体を廃止した。さらには、コロス(合唱隊) の数を15人にまで増員したのも彼の発想であるとされる。古代ギリシャ悲劇の手法として、一行の科白を2人以上で分割して語る「割り科白」の手法を「アンティラバイ」と呼ぶが、宮城聰演出『アンティゴネ』は、言ってみれば究極のアンティラバイを演じて見せたことになる──時には、3~8名もの“スピーカー”の輻輳する声が、1人の“ムーバー”の語りを構成し、ムーバー/スピーカー制を採るSPACの真髄が発揮されているのだから。こうした事実を本稿の冒頭で確認しておいたのは、次の疑問を鮮明に認識しておくためである──宮城版『アンティゴネ』はまさに、詩人/演者から分離せしめられた「声」の増幅を志向したソポクレスの意図を明確に踏襲することに成功している。しかし、これだけだろうか?そんなはずはない、これだけではないはずだ、──と。 宮城が、詩人自身の意図をも超え、濃縮したかたちで表現することを目指した工夫が、他にも潜んでいるはずだ。──多くの魅力的な演出がほどこされている本作だが、この劇評ではその中でも、アンティゴネのたった1つの動作に注目したい。その所作こそは、決定的に宮城版『アンティゴネ』がソポクレスの凌駕に成功している演出であると考えられるからだ。それは何か? 続きを読む »