劇評講座

2024年9月4日

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【ハムレット(どうしても!】後藤 展維さん

カテゴリー: 2023

戯曲『ハムレット』とは何か

テクストに解説を加える注釈は作品の研究において重要な役割を果たすが、『ハムレット(どうしても!)』において、こうした注釈という学問の方法はそのまま、鑑賞に堪え得るナラティブとして落とし込まれている。これは、戯曲の台詞を編んだオリヴィエ・ピィが、あくまで“翻案”ではなく“翻訳”としてクレジットされている姿勢からも明らかである。

概して「注釈劇」という即席の造語が発想できるほど、劇中で繰り広げられる様々な議論や先行思想の引用は、本作のメタフィクション要素における中核を成す。特に、作品の貌とも言える有名な某台詞に焦点を当てた場合、各言語による翻訳の差異が、舞台上では見過ごすことのできない深刻な誤謬となる。なぜならば、『ハムレット』に焦点を置いた古今あらゆる主張の論拠は、常に作品のテクストへと最大限依拠しなければならず、したがって、肝心のテクストそのものには、絶対的な正確性が必要とされるためである。

しかしながら、本作を通じて――むしろ皮肉とユーモアを積極的に交えながら痛烈に突き付けられている現実は、私たちが論じる都度に典拠としなければならない『ハムレット』のテクスト自体が、その正確性に根本的な危うさを孕んでいるという状況である。たとえば、かつて最古と見做されていた四折版(Q1)よりも古い版が発見されたと明かす序盤の大暴露は、恐らく作品全体を構成する大きな問題意識に対して、その一翼を担っている。

劇中に繰り返し引用されたヴィトゲンシュタイン(実証主義)やドイツ現象学など、これまで『ハムレット』に典拠を示してきた哲学分野や関連する研究の多くは、こうした実資料の更新を前にほぼ無力である。つまり、四折版以降の本文解釈に寄与した諸々の主義や思想及び信条は、原書テクストの絶対的な正確性が瓦解した瞬間からその正当性を等しく剝奪され、互いに優劣無く均される。舞台上で繰り広げられる注釈行為全般が、明確な皮肉を込めた喜劇やユーモアの文脈で演じられている理由には、以上の作為が垣間見える。言語の不完全性がもたらす脅威とは、それほどまでに重い。

それでは、凡そ数百年に渡り繰り返し上演されてきたにもかかわらず、未だ誰一人として物語や台詞の真相を正確に知り得ていない戯曲『ハムレット』とは、いったい“何”なのか。この漠然とした問いに対し、本作はさらに深い層に位置するメタフィクション要素を用いることによって回答している。

――私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側になることで、虚構と現実の位置が逆転する。一聞する限りでは修辞法(レトリック)のようにも受け取れるこの提案は、舞台の冒頭、演劇の担う社会的役割を問い直す試みの一環として役者の口から告げられたのち、物語の終盤、王妃やクローディアスの死に際において実践される。

今作が『メタ・ハムレット』として最も特異的な色彩を放つ点は、やはり、虚構の存在であるはずの登場人物そのものが自我〈エゴ〉を持ち、自らの言葉によって独白をする深遠な展開にあると思う。なかでも極めて印象に焼き付くのは、王妃ガートルードの言葉である。

彼女の死に際の、半ば訴えに近い独白が示唆している通り、『ハムレット』における王妃とは、初めからガートルード以外の何者でもなかった。先王が死に、クローディアスと再婚し、ハムレットの策略を意図せず被り命を落とす。長い年月を経てもなお、彼女はそうした在り方を何ひとつ変えていない。

むしろ変化しているのは、『ハムレット』を鑑賞し、批評し、論じる人間の属していた価値観や主義思想、信条にほかならず、それらは常に時代の当事者である。すなわち、今日までに『ハムレット』が“何”であるのかを規定していたのは、そもそも私たち観客側だったという事実に、ここで改めて気づかされる。

そして、舞台から見られる観客とは、詰まるところこの状態を意味する。ガートルードという虚構の存在が自我を持ち、戯曲の台詞でも役者の即興でもない第三の言葉を語り出すことで、批評対象が舞台上から観客席へと移行し、虚構と現実の立場が逆転する。初演当時から同一存在であるはずの彼女にとっては、上演の度に異なる役割や人格をガートルードに求め続けて来た私たち鑑賞者(読み手)の存在やそれらを形成する実社会こそがフィクションであり、いずれも優先して批評されなければならない客体である。また、以上の事柄は、その他のあらゆる登場人物たちに関しても例外ではない。

戯曲『ハムレット』のテクストには、何故これほどまでに多くの注釈が過剰なほど付随しているのか。それは、戯曲自体の不可解さや未成熟さというよりも、戯曲が上演されて来た社会背景の様相が、夥しく存在していたことに根深い事由があると言える。登場人物たちの台詞や言動に或る特定の動機を与えている張本人は、いかなる時代であっても、そのときどきに観客が背後で抱えていた社会的・思想主義的実状そのものである。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【ハムレット(どうしても!】青木孝介さん

カテゴリー: 2023

難しい芝居だった。舞台の上の人々は、どうやら『ハムレット』を演じているらしい。しかし、そこには『ハムレット』だけがあるのではない。時折『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。それは『ハムレット』をかつて観劇し、あるいは読み、『ハムレット』の問いを引き受けた人々の声やその言葉である。

いくつかの小道具が置かれた舞台の上には4人と1人。『ハムレット』の筋をなぞり、多くの登場人物たちがあらわれてくる。だが、次第に『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。『ハムレット』というテキストの外側からその声はやってきた。それは哲学者たちの声であった。

ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、デリダ・・・。彼らの名前も言葉も、いかめしい。だけれども、彼らの言葉に注意深く耳を傾けてみる。観客である私も、彼ら哲学者たちも、同じ舞台を見ている。『ハムレット』に彼らの言葉が重なる。これらの声は、私を困惑させた。私は今、芝居を見ているのか。それとも、『ハムレット』についての講義を聴いているのか。重なり合う声の間で、私もまた思考していた。

『ハムレット』には決まったストーリーがある。誰もが知る著名なセリフがある。それまで一度も『ハムレット』という芝居を見たり、テキストを読んだりしたことのない私でも『ハムレット』は知っている。否、知っているつもりになることができていたのだ。「まぁ、ハムレットってこんな話でしょう」。

しかし、舞台からやってくる、ときに騒々しい言葉たちが『ハムレット』という覆いを少しづつ引きはがしてゆく。私は『ハムレット』を見ていたつもりだったのだが、どうやら違ったらしい。ふと壇上の上のポローニアスと目が合う。ここでようやく思い知る。私は芝居を見ているが、私も見られている。誰からだろう。ハムレットに、ポローニアスに、オフィーリアに。「ハムレットって、何なのだ」。

様々な声、言葉たちの間で、ハムレットたちもまた右往左往しているようだった。彼ら・彼女らは、常に世界に向かって問いを発し続けてきた。同様に、彼ら・彼女らもまた、問われ、解釈され、理解されてきた。積み重ねられた言葉の上で、ハムレット達もまた、呼びかけられていた。一体お前たちは何なのか。お前たちは何をしているのか。

ついには観客の声も巻き込んでいく舞台から、登場人物たちはやがて観客へ自らを語りだす。ハムレットたちの声が聞こえてくる。自らを語りだし、観客へと問い掛ける彼らの言葉は、薄闇の中照らされた劇場に満ちてゆく。呼びかけられたものは応答しなければならない。ハムレットたちは応答していたのだ。自らに差し向けられた言葉に向かって、声を上げていたのだ。その声を、言葉を次に受け取るのは誰か。それは彼ら・彼女らの前に座っている私(たち)なのだ。

呼びかけに答えること。これは「倫理」でもあり、「責任」でもある。ハムレットは、父王の呼びかけに答えようとして、苦悩した。かたき討ちは、ハムレットにとって為すべき倫理であり、果たすべき責任だった。それらは思いくびきとしてハムレットを引きずりまわしたのだった。いま、そのハムレットが観客に問い掛ける。応答をせまっている。しかし、観客たる私は、まだ答える声も、言葉も持っていない。私は応答できない。私にできるのは、ただ舞台を見ること、彼ら・彼女らの声に根気強く耳を傾けることだけだった。それが応答であり、倫理であり、責任なのだ。どうしても。

この芝居は、あまたの声や言葉の中に私(たち)を放り込む。私(たち)は問われ続け、呼びかけられ、応答を求められるのだ。これは遠い昔の、海の向こうの国のお話、ではない。声は、言葉は、今この時、観客の目の前にある。この芝居を前にして、私(たち)はただ舞台を眺める第三者ではない。『ハムレット』を巡る多くの言葉やハムレットたちから呼びかけられる。呼びかけとは、「私」が「あなた」にするものだ。観客は、舞台の上から「あなたは」と呼びかけられる。それに対する答えは、「私は」と始まるだろう。この芝居を見て、この芝居について何かを言おうとするならば、「私は」と語りだすよりほかはない。

『ハムレット』をシェイクスピアが作り出したのは17世紀、いわゆる「近代」の幕開けである。その近代において生まれた「主観」、「自我」、「主体」といった言葉については、現代にいたるまで盛んに論議されてきた。されてきたが故に、皆それを分かった気になってしまった。ハムレットたちの声は、呼びかけるという仕方で、私を「私」へと引き戻してゆく。それは、宙に浮いた何者かではなく、今ここにいる、呼びかけられる者としての「私」なのである。

やがて声は止み、言葉は消えて、役者は舞台から去った。観客は劇場を後にする。それでも、劇場の幕は下りていない。幕は最初からなかったのだ。問いは私の中に残り続ける。

難しい芝居だった。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【XXLレオタードとアナスイの手鏡】海沼知里さん

カテゴリー: 2023

この奇妙な組み合わせの二つの単語は、この劇において何を意味するのだろうか。一見何の関連性も見られない、XXLサイズの巨大なレオタード、そして美しい蝶が羽を広げる高級ブランド・アナスイの手鏡。この二つの物が象徴的に表すものは、物語が進むにつれて明らかになる。

韓国の高校生の日常と葛藤を描いた本作は、韓国社会を取り巻く貧富の差、ジェンダー問題、受験戦争などの社会課題を批判的に織り交ぜながらも、直接的にそれらを伝えるのではなく登場人物たちの様々な側面を巧みに浮かび上がらせることによって、彼らの生きる社会の抱える問題、そしてその中で生きる個々人の在り方を描写する。高校生五人と教師一人という人物構成で進む物語は、見ないようにしていた現代社会の歪みやひびを刻銘に映し出す鏡そのものである。昨今の社会では、個々のジェンダーアイデンティティが多様であるという認識が進み、自身のセクシュアリティを表す言葉が増えるなど、一人の人物の中で内在していた要素が社会的に顕在化することが増えた。そうした個人のアイデンティティが言語化され言葉として提示されていくと、一人の人物であってもある面ではマイノリティとして社会の中で生きる苦しみを抱えていながらも、他の面では特権性を持ったマジョリティであり他者を無意識に虐げているという一見矛盾した側面も存在しうることが分かる。

それは例えば、レオタードを着用することに喜びを覚え、ひそかに学校にも着用していっているジュンホが、自分よりも貧しい同級生に高圧的な態度を取り侮蔑している姿であったり、そんなジュンホにいじめられているヒグァンがジュンホのセクシュアリティを馬鹿にし貶めようとしたりしている姿からも感じられる。他にも、裕福な家庭でより良い大学に入るために努力を重ねているミンジが、母親からの過干渉に追いつめられている中で、自分が世間の目線からどのように見られるのかを気にして体裁を整えようとしている姿が描かれていたり、ミンジのかつての友人であったヒジュは片親家庭でアルバイトに勤しむ傍ら受験の準備に励むといった側面を見せながらも、表面的には全てを持っているミンジの完璧な姿に嫉妬し悪い噂を流す姿があるなど、一面では描き切ることのできない人物たちのアイデンティティの複雑さを伝えている。それを、様々な社会的・心理的バックグラウンドを持った人物たちを交差させることで表しており、それを特徴的で巧みな演出や舞台装置が補強している。

韓国の高校生が置かれている親や学校、受験といった社会的圧力が差し迫る出口のない状況は、三方面が白い壁で囲われており、入口や出口がない舞台装置に表象されている。出入り口がないため、劇中役者ははけることなく舞台中央で起こっている場面ごとの人物のやりとりを壁際に座って眺めることもなしに眺めている。通常舞台は、その場面で登場する必要のない人物を同じ舞台上に存在させようとしない。しかしこの劇で、常に全ての登場人物が存在している意味を考えてみたときに、今ここにいなくても繋がりのある身近な他者を存在させることで、狭い高校の中の関係性の網の目を可視化させること、またその網の目は同時に社会の縮図でもあるということを感じさせる意図があると考える。また、登場人物が何らかの事情や人柄を揶揄されているときに、舞台上にその人物がかつて虐げていた人物が存在していることで、常に物事は表裏一体であることを感じさせ、人物の一面を切り取って一つの印象だけを押し付けないようにする工夫をしているととることもできる。また、俳優が舞台からはける構造自体がないことで、舞台裏を感じさせることがなく、舞台上で起こっていることが観客席で傍観している私たち観客と地続きでありこれは創作の舞台でありながらそうではないということを伝えているようにも感じられた。

物語はレオタードを着用した画像が流出したジュンホの内面の葛藤と、秘密が知られたことによる外的世界の変容が中心となって進んでいく。最後、自身のアイデンティティをカミングアウトしたジュンホは、周りにも結局は受け入れられハッピーエンドを迎える…と思わせる。しかし、結局は世間体を気にするジュンホの母親により転校を余儀なくさせられ、周りも手のひらを返してジュンホから離れていく。口当たりの良い「多様性」という言葉や理想と、実際にどうにもならない現実との齟齬が明らかになり、社会の圧力に絡み取られていく高校生たちの姿が残像として残る。

本作品の特長は、アイデンティティの複雑さと、数字や分かりやすさによって線引きをする社会の姿勢といった描き難い対象を、暗く重く描いていくのではなく、ダンスのシーンを挟み音楽のリズムと踊る肉体に観客の目線を誘導させブレイクを挟みながらポップな音響やカラフルな照明の色彩で彩り、あくまでリズミカルに、皮肉な笑いを交えながら進んでいくことにあるだろう。更に、韓国語で上演されることを踏まえて壁に日本語字幕を投影させ、2カ国語がオーバーラップしていく工夫や、冒頭で視覚障害がある人を意識して劇中で使われる音響の紹介をするなど、アクセシビリティへの配慮が行われている点も、劇団自体が社会とのアクセスを図ろうとしている態度を見せていた。

困難と葛藤、自己との格闘と相克の渦中で揺れ動き、突破できない社会の壁にもがく生々しい若者たちの姿は、韓国社会に特有のものではないだろう。決してハッピーエンドでは終わらない物語の残した、ジュンホの大切にしている言葉が胸に刺さる。

 

The only true currency in this bankrupt world is what you share with someone when you’re uncool else.

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【XXLレオタードとアナスイの手鏡】酒巻鼓さん

カテゴリー: 2023

韓国の劇団、シアター・カンパニー・ドルパグがふじのくに⇄せかい演劇祭 2023 にて「XXL レオタードとアナスイの手鏡」を上演した。2014 年のセウォル号沈没事故をきっかけに、犠牲となった高校生たちが暮らしていたアンサン市の協力を得て製作されたこの作品では、劇中に登場する 4 人の高校生がそれぞれ持つ生きづらさが複雑に絡み合って物語が紡がれていた。
高校生のジュンホは女性用のレオタードを着用することを好んでいるが、そのことを周りに打ち明けられないでいた。ある日、女性用のレオタードを着用した男性の写真が SNS上で拡散された。ジュンホの友人のテウやヒグァン、パートナーのミンジらをはじめ、学生らはその写真の男性が誰なのか、まるで犯人捜しをするように探り始めた。その写真を拡散した人物はヒジュであった。ヒジュはバイトをしながらソウルの体育大学入学を目指す学生である。ヒジュは体育の授業成績を良くしなければいけないため、写真に写る男性の顔のモザイクを外すと脅して、ジュンホとダンスのペアになることを要求した。体育教師のヨンギルは学生たちに「ダンスにおいて重要なことはペアを観察することである」と言う。ヒジュとペアになったジュンホはヒジュと関わり、互いに観察する中で、自分自身の問題に向き合おうとするようになった。一方で、テウやヒグァン、ミンジらは、写真に写る男性がジュンホであると気づき始めていた。ダンス発表会の授業の日、ジュンホが写真の男性であると確信したヒグァンは、ジュンホの衣装を隠してしまう。発表の時間が近づき、手立てが無くなったジュンホは女性用のレオタードの姿でダンスを踊ることを決意する。ダンス発表会の日から時がたった頃、ジュンホは周りの目を気にする母の決定により転校することとなった。
本作では 5 人の俳優が客席側から登場し、上演中は常に舞台上におり、終演後にはまた客席の方へはけていくという構成であった。客席側から登場し、客席側にはけることで、目の前で繰り広げられている物語の中にいる登場人物は私たちと同じ社会の一員であるということをより強く感じることができた。舞台は圧迫感を覚えさせるかのように際まで白い壁が埋め尽くし、蛍光の塗装がされた姿見と鉄棒、俳優が座るいくつかの椅子、モップ等の小道具から構成されていた。ジュンホとヒジュの乗り越えるべきものを象徴する姿見と鉄棒は蛍光の塗装によって暗い中でも発光し存在感を主張していた。
本作の終盤、ヒジュとミンジが同じタイミングで電話をする演出があった。二人は同じタイミングで電話をしているが、それぞれ話している相手は別である。ヒジュはバイト先の大人と、ミンジは彼女の母親と話していた。この演出はヒジュとミンジがそれぞれ置かれている状況を対比していたと考える。ヒジュから見たミンジは裕福で自分のようにバイトをしなくてもよく、勉強もできるため悩むことも少ないような存在である。ミンジから見たヒジュは自分ほど親に過干渉されることもなく、受験勉強や模試のプレッシャーを感じなくてもよい存在に映っているだろう。人は自分が抱いている悩みを分かってもらえるかどうかで相手を判断してしまう節があるのではないだろうか。しかし、本作に登場する人物はみな異なった生きづらさを抱えていたり、同じような事象に対して別の角度から悩みを抱えていたりしていた。誰一人として全く同じ生きづらさを抱える人はいないのではないか。このことに気づくことが大切である。相手は自分が抱えるような悩みを持たないからといって妬み、複数の生きづらさが絡んでゆくのではなく、自分が悩みを抱えているときに相手も何かと戦っているのかもしれないと考えてみることで、ジュンホとヒジュのように生きづらさを共有して互いに抜け道を見つけることができるのかもしれない。
自らが抱える悩みや生きづらさを妬みに変え、さらに誰かの生きづらさを生んでしまうという悪循環ではなく、それぞれが抱える悩みを共有することで、自分の生きづらさにも改めて向き合えるような関係性が社会の中に必要だと感じた。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【パンソリ群唱~済州島 神の歌】澤井亨さん

カテゴリー: 2023

パンソリ群唱の舞台である、韓国の最南部にある済州島は、楕円形をした火山島で、その面積は、静岡県の約4分の1ほどである。温暖な気候から、静岡県と同じく、みかんやお茶が栽培されている。その国の最高峰、漢拏(ハルラ)山があるという点でも静岡県と同じだ。こうしたことから、「パンソリ群唱」が静岡舞台芸術公園の楕円堂で、コロナ禍がようやく落ち着いたこのタイミングで上演されたことは、いろいろな縁が積み重なって起きた奇跡だと私は思う。

済州島には、三無島という別名がある。物乞い、泥棒、門がないというのだ。だから、この劇にも、物乞い、泥棒は出てこない。門に関する話としては、チョンジュモクが出てくる。家の入口にあり、両脇に3つの穴が開いていて、3つの横長の丸太(チョンナン)をかけて置くというもの。主人がいるかいないかだけでなく、不在の時はいつ頃戻るかを、かけて置くチョンナンの数で示すというものだ。一般的に言う「門」が、外と家(うち)を区分するものだとしたら、チョンジュモクは基本的に開かれている。劇中においても、チョンジュモクに3本のチョンナンがかけられることはなく、果ては、父親であるナムソンビがオドン島に行く際に、七男のノクティセンイにより1本のチョナンは櫓にされてしまう。

いずれにせよ、いつも開かれたチョンジュモクを通して、ジョンサンおじさんがやってくるところから、劇は動き始める。三無島だから、ジョンサンおじさんは悪人ではない。その証拠に、劇後半には、ノクティセンイをヨサン夫人に会わせるという大役を担っている。とはいえ、ジョンサンおじさんがナンソンビをオドン島に行って、貿易をするように勧めなければ悲劇は起きなかったのにとも思ってしまう。でも、ジョンサンおじさんは、泥棒に代表されるところの悪人ではないのだ。いや、ヨサン夫人をチュチョン川の池につき落としたノイルジョデは、悪人だろうと指摘する方もいるだろうが、彼女は、済州島の人間ではなく、オドン島から来た。だから、ノイルジョデが悪人だとしても、済州島が三無島であるということには変わりない。

ちなみに、済州島には、もう一つの別名がある。それは三多島だ。なにが、多いかというと、石と風と女性だ。女性が多いというのは、人数というよりは、働く女性が多いという意味で、現在も多くの海女が活躍している。男性は、ナンソンビのように、女性に働かせて楽をしているというイメージだ(済州島の男性の名誉のために、あくまでイメージ)。この劇でも、太鼓等の演奏をした鼓手1人以外は、カヤグム(韓国の伝統的な弦楽器)の演奏者を含めて、舞台上にいるのはすべて女性だ。ここにも、三多島の話らしさを感じる。

題名にあるパンソリは、基本的に、歌を歌う「ソリックン」と太鼓等の演奏をする鼓手の二人で構成される、韓国の伝統芸能である。林權澤(イム・グォンテク)監督の韓国映画「西便制」(ソピョンジェ)が、芸術性を高めるためにわざと娘を失明させるという衝撃的な内容を含め、パンソリを追求する人々を詳しく描き、とても感動的であった影響か、私は、パンソリを日本文化にあえて例えるならば、平家物語を語って日本各地を巡った琵琶法師を連想する。琵琶法師は廃れたが、パンソリは国家の保護も受けて、韓国において続いていて、今も広く愛されている。

ただ、伝統を守るだけで、パンソリが続くのかという、高い芸術性を持つゆえの葛藤を常に持っているのでしょう。今回、主役だけでなく、脚色、演出、作詞作曲、音楽監督を務めたパク・インへさんは、従来の二人構成のパンソリではなく、パンソリ群唱に挑戦した。ただ、パク・インへさんを始めとするソリックンたちは、幼い頃から師匠について修行を続けてきているので、いわゆる伝統が日常習慣のように身についている。だから、今回のような創作・新作においても、自然と伝統を踏まえたものになっている。そこには不自然さはない。ちなみに、パク・インへさんによれば、パンソリの3要素は、ソリックンと鼓手に加えて、聴衆が必要だということなので、従来の二人構成という私の表現は、適切ではないかもしれない。

この劇を作るきっかけについては、劇冒頭に説明がある。コロナ禍により、公演もなくなり、パク・インへさんは、将来に対して不安ばかり増していく。そこで、その不安を忘れるためにトイレや寝室等を掃除する。突然、引っ越しの際に、母親が玄関に貼った赤札を発見する。赤札に何が書かれているかもわからない。でも、そこには神がいる。そこここに神がいる。そのことに気づき、どんな神が、どんな理由で、そこに宿ったのかという由来を突き止めようと思い立ったというわけだ。そのため、劇を通して、コロナ禍をきっかけに、今ある生活が成り立っている由来や歴史を見つめようとする姿勢が貫かれている。劇の最後には、ナムソン村らしき、かやぶき屋根の家々がソリックンたちとともに映し出される。そこには、高層ビル群には探し求められない、人と神とのつながりが息づいている。蛇口をひねれば、すぐに湯水が出てくる生活をしている我々は、その恵みに改めて感謝すべきだろう。ちょうど、公演日には、楕円堂周辺で新茶の摘み取りが行われていた。素晴らしい歌声を素晴らしい環境で楽しむことができた、素晴らしいひと時だった。関係者一同に深く感謝する。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【天守物語】夏越象栄さん

カテゴリー: 2023

あれはおとぎ話のラブロマンスではなく、富姫という女性の再生譚だったのかもしれない――。
2023年5月6日、小ぬか雨のちらつく不穏な曇天の下で演じられたSPACの「天守物語」について開眼するように直感を得たのは、数日後の、奇しくも土砂降りの深夜のことだった。巧みに物語を省略・、人物にテキストにない所作を追加することにより、テキストとは異なる富姫像を現出させたのだ。
天守物語をラブロマンスとして観た時に、今回の舞台で最も違和感を覚えたのが図書之助の存在だ。人間という最も「現実的」なキャラクターであるはずなのに、清廉すぎて現実味がなかった。宮城作品特有の言動不一致で、声を女性が演じていたことも要因の一つかもしれない。元服したての少年かと思えるほど無垢な男主人公。それに対して、ヒロインである富姫の生々しさ、存在感は、一見アンバランスですらある。
この作品を整理する上で引き合いに出したいのが、今年の春に上演された、SPACの「人形の家」だ。天守物語とはかなり対照的な作品となっている。
人形の家で能を意識した演出がみられる一方、天守物語では歌舞伎を思わせる手法が使われている。例えば、ヒロインの登場シーン。前者(ノーラ)は舞台の左手からひっそりとすり足で、後者(富姫)では客席から出現した後、観衆の間を進んでいく。
ヒロインの心の動きも対照的だ。ノーラの変化が清楚な小面から般若へのそれなら、富姫はその逆。前者は男性への信頼が嫌悪に、後者は軽蔑が慈愛に転じていく様が描かれている。共通しているのは、物語の主役があくまでヒロインで、男性は主役が脱皮するための装置となっていること。いずれも物語の中で、その内面や葛藤には重きを置かれていない。
こうした「舞台装置」の上で、演出自体、富姫の心の動き・人物背景にクローズアップされている。まず音楽に着目すると、物語の前半、富姫と図書之助が初めて相対したシーンでは、比較的少ない楽器を使い、単調で暗く、冷たいリズムが刻まれる。その後、図書之助が天守に戻ってきた後は楽器の種類が増え、激しくなっていく。物語の盛り上がりに合わせているだけとも思えるが、富姫の心情、あるいは図書之助の目に映る富姫の印象を表現しているのではないだろうか。物語の序盤、富姫の周囲にはほとんど「女」しかいない。「女の園」の中では、少女の疑似恋愛めいたやりとりが続く。テキストには見られない、富姫が亀姫を自分の袖の内に包み込むシーンはその最たるものに思える。
男の生首を前に繰り広げられる残酷な悪態も、思春期の少女が男性に向ける嫌悪感を想起させる。富姫が人であった頃の悲惨な体験は、語られず、物語の「外側」に置かれている。それ故に、少なくともこの舞台では、富姫が男を知らない無垢な少女にも見えてくる。天守に初めて足を踏み入れた「男性」に、戸惑いつつも敵意を向けることなく、淡々と対応することにも筋が通るのではないか。
一転、図書之助が同胞に追われ天守へ戻ってくると、富姫は情念の虜になったように、善意の塊のような若武者と絡み合いながら、むさぼるように、情熱的な言葉を吐き出す。背後に映し出された二人の影はぴたりと重なり合い、まるで一つの生き物のように壁を這う。富姫はここで初めて、男を受け入れ、知ったのだ。
富姫のこの二面性を象徴しているのが、彼女の打ち掛けだろう。天を仰ぐ1匹の黒い鯉と、下界を見下ろす2匹の赤い鯉。同じく鯉のデザインの亀姫や桔梗の衣装が、色は同系色で、鯉の向きもそろっているのとは一線を画している。化け物と人間、天守と地上の間で葛藤を抱える彼女そのものに見えるそれは、上演中ほとんどずっと、舞台上に置かれてる。
図書之助という、善性を持つ人間の男を受け入れたことにより、富姫は人間性を取り戻したのだ。物語の最後に二人を救うのが神でも化け物でもなく、人であるのも象徴的だ。ご都合主義にも見えかねないが、ここで先に触れた歌舞伎的な演出が生きてくる。
これは「ファンタジー」なのだ。現実で傷付いた心と魂を、幻想の中で癒やし、現実へ生還するための物語。
この構造は、先に触れた人形の家と見事なまでに対照的だ。囲われた夢の世界から目を覚まし、現実に傷付き失望するノーラ。これは、前世で男に傷付けられ化け物に変じた富姫なのではないか。
傷付いた「富姫」は「ファンタジー」の中で癒やされ生まれ直し、再び「ノーラ」の「現実」に戻っていく――。そんなループが思い浮かぶ。
SPAC版「天守物語」は、傷付いた心の再生の物語なのだ。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【ハムレット(どうしても!】山田淳也さん

カテゴリー: 2023

この作品は、ヨーロッパという「演出」によって書き抜かれるヨーロッパという「戯曲」の到達点と限界点を見せていた。演劇の言語の重厚性を十分に感じさせるが、それをメタ的に観つつ、でもやっぱり言葉の力を信じていることを圧倒的なパフォーマンスで説得していく。観客を圧倒する密度と強度をもった作品となっていた。
この劇は、シェイクスピア作「ハムレット」を様々な哲学者たちの解釈や、俳優たちによって語られる新たな解釈を交えながら上演していくものだった。本当は10時間に及ぶパフォーマンス作品のようで、それを3時間弱にまとめていたこともあってか、俳優は怒涛のスピードで語りを入れてはシーンを作りを繰り返していく。戯曲「ハムレット」の結論やセリフを完全にメタ的に捉えて、これまでに語られてきた解釈を先に語ったうえで観客にも解釈の余地を残し、膨大な量の「問いかけ」を残していく。基本的な流れは、「問いかけ」と「仮説」を縦構造、つまり物語の構造になるように積み上げていくことで最大の疑問である、「to be or not to be」に対する答えを探していくものだ。その問いはいつの間にか「私達は存在するのか、しないのか」という形而上学的な問いへ、またそれは「この虚無の中で私達は何をするべきか」という現在形の問いへと繋がっていく。
演劇には、いや他のあらゆる「行為」には「根拠」が必要で、その「根拠」が太く、強くあることによって「行為」の方も太く、強くなっていく。そして強められた行為には実際に起っていること以上の力が宿る。ガンジーの塩の行進を思い出してほしい。あれは多くの人々が彼を支持し、同行するという強烈な「根拠」が彼の「行為」(行進)を裏付けていたことによって、「行為」の力が強まり、同時に「根拠」の力も強まって現実を動かした。行進以上のことが起こったわけだ。この作品も構造は同じだ。この作品で登場する西洋哲学の巨人たちの哲学は、「ハムレット」の言葉たちの「根拠」となって、目の前で行われるパフォーマンス(行為)を強烈にエンパワーする。さらに恐ろしいのが、この俳優たちの「行為」のされ方にも西洋演劇の巨人たちによる「根拠」があることがわかる。例えば、どう展開していくかにハラハラさせるのではなく、結論を先に提示して出来事のプロセスを吟味させる演出はブレヒトの演劇論に見えたし、舞台の上で俳優自身がどのように見えるかを、繰り出す動きや立ち方、体の状態まで細かく計算され尽くしているが、まるでその場その場で俳優が自分のすべき行為を一から発見し直しているように見える点でピーターブルックの演出法のようだった。また、ハムレットの劇中劇では人物の感情がとても自然に体に表出されているようにみえて、スタニスラフスキーの演技法を思わせていたし、観客を大胆に巻き込んで香水を振りまいたりボールを投げてキャッチボールのようにしたりと五感を刺激し、インタラクティブにして場に熱狂の渦を創っていったのはアントナン・アルトーの残酷演劇を思わせた。私が予想するだけでこのくらいの人物による「演出」の「根拠」を持ち、「戯曲」に関してはシェイクスピアの天才性と、西洋哲学の積み重ねによる圧倒的な「根拠」を持たせることに成功したこの劇は、まさにヨーロッパを「行為」する威力を持ち得たのだった。彼らの行為は「この虚無の中で私達は何をするべきか」という問いに「言葉を残し、言葉を信じる」というやり方で答えている。やはり言葉が中心にある結論だと言える。
この結論部に対し、私達はツッコミを入れることができる。それはこの劇で行為される問いがあまりに大きいのに対してその答えに至るまでの思考法があまりに限定されていることについてだ。合理主義的な思考法によってではない方法で「私達がどう生きるべきか」を探すことはできるはずだ。例えばそれは上演中起きたあるアクシデントから垣間見ることができる。
オフィーリアの死のシーン、死の場面で舞台と客席の間を蝶々もしくは蛾が横切っていった。野外劇場の奥の森から舞台照明につられてやってきたのだろう。蝶は日本文学では古くから死者の化身のメタファーとして扱われてきた。また莊子の「胡蝶の夢」では私達が何者にでもなりうる曖昧な存在であることを表すものとして登場する。そしてこの自然現象による劇の意味の変化は言葉によって根拠付けられたものではない。磯崎新の建築、また静岡の日本平という地が呼び寄せた偶然だった。(英語では蝶と蛾は同じbutterfly、フランス語でもどちらもpapillonであり、日本語とは一見表層の微妙な違いにしか見えないこの生き物たちの差を細やかに捉えることができる言語であることも、このエピソードは示している)私はこの蝶の飛び入り出演から、あらゆる可能性のゆらぎを受け入れながら偏在する自我としての自然に身を委ねるような(けっしてそれは諦めや虚無ではない)思考法へ賭けていくのもいいのではないかと感じた。むしろ、西洋近代的な思考法の限界を超えて、これからの現実の問いと向き合っていくのにも可能性のある転換かもしれない。演劇はいつも劇場の外、つまり政治を見据えるが、近代の限界を超えるすべを、近代を貫徹できない私達が演劇の上で明確にしてみるのはどうだろうか。

2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 2022

SPAC 秋→春のシーズン2022-2023の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数35作品、最優秀賞1作品、優秀賞3作品、入選6作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
柚木康裕さん【□△○の界(さかい)に。】(『弱法師』)

■優秀賞■
小田透さん【心ならずも目撃者となったわたしたち観客の戸惑い】(『リチャード二世』)
鈴林まりさん【ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって】(『ペール・ギュント』)
山上隼人さん【仮面を付けていない仮面劇】(『人形の家』)

■入選■
小田透さん【複数的な演出原理の説明なき同居】(『弱法師』)
小田透さん【美的カタルシスか、批判的挑発か】(『ペール・ギュント』)
小田透さん【チープでポップなシリアス、あるいは全員の温度差】(『SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校』)
丞卿司郎さん【『ドールハウス崩壊の奇蹟』】(『人形の家』)
はやしちひろさん(『ペール・ギュント』)
美音子さん【よろ星—―弱く激しい光りに灼かれて】(『弱法師』)

■SPAC文芸部・大岡淳の選評■
選評

作品一覧
弱法師』(演出:石神夏希 作:三島由紀夫 [『近代能楽集』より])
みつばち共和国』(作・演出:セリーヌ・シェフェール 日本語台本:能祖將夫)

SPAC 秋→春のシーズン2022-2023
ペール・ギュント』(演出:宮城聰 作:ヘンリック・イプセン 翻訳:毛利三彌 音楽:棚川寛子)
SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校』(演出:ジャン・ランベール=ヴィルド 翻訳・通訳・ドラマツルギー:平野暁人 アーティスティック・コラボレーター:ロレンゾ・マラゲラ 音楽:棚川寛子)
リチャード二世』(演出:寺内亜矢子 作:ウィリアム・シェイクスピア 訳:小田島雄志 舞台美術デザイン:深沢襟 衣裳デザイン:清千草 照明デザイン:花輪有紀)
人形の家』(演出:宮城聰 作:ヘンリック・イプセン 訳:毛利三彌 [論創社版])

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■最優秀賞■【弱法師】柚木康裕さん

カテゴリー: 2022

□△○の界(さかい)に。

宮城聰SPAC芸術総監督は以前に「芸術とは自分が孤独と戦った傷跡だ」と語ったことがある。SPAC新作『弱法師』は演出した石神夏希の傷跡とまでは言わないが、三島との格闘の軌跡だったのは間違いない。演出を依頼された時に「なぜわたしが」と感じたことはうそではなかろう。その戸惑いから始まった創作は謡曲などのオリジンと「近代能楽集」を行き来しながら磨かれていったはずだ。オリジン「弱法師」には救いがあったが、三島「弱法師」には救いがない。しかし、石神は俊徳(三島)の魂をどう救済するべきかという問いを立てた。格闘の軌跡として戯曲を二度繰り返すという驚くべき演出で我々を刮目させ、ひとまずの答えを差し出した。ただ創作過程でもうひとつの問いに気づいたのだと思われる。それは魂を救済したのは「誰か」である。

これらの問いを考察する前に触れておかなければいけないことがある。それは野村善文の手掛けた舞台美術である。必要最低限の舞台セットはシンプルそのもので、乳白色を基調にしたソリッドな空間を立ち上がらせていた。能舞台のような正方形をした高さ60cmほどの演台。その上部天井に設置された壁を意味する幅60cmほどの円柱がぶら下がる。そして演台には中央に脚立と両側に椅子2脚ずつ、扇風機、マイクスタンド。2mほどの高さがある脚立の存在感が際立つ。現代アートのインスタレーションのような空間は、さながらスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号室内のような雰囲気を醸している。

このミニマルな空間は、3つのパートで構成されていることに気づく。正方形の舞台。その上に脚立。そして円形の天井。これは幾何学的に見れば□△◯で表される。この三界は何を示すのか。たとえばキリスト教的に捉えれば地獄、煉獄、天国。あるいは仏教的ならば、地獄、俗世、浄土ということになろうか。上演終盤に正方形の舞台上で展開される爆撃による地獄絵図。あるいは窓の向こうに現れる極楽浄土からもその見立ては外れていないだろう。また□△○はそれぞれの内角の和が360°、180°、360°を示す。これは象徴的だ。地獄と浄土は姿は違えどそれぞれの調和のとれた円環の内にある。それにくらべて俗世を示す△(180°)の界(さかい)は秤のようにバランスが求められている。反転した事物を対極におくことによって辛うじてバランスを取る俗世。そこに配置される6人の人物。前後半での俊徳と桜間の反転。高安夫妻と川島夫妻の服装が補色になっているのもその表れだろう。青と黄色、赤と緑は円相環でみると正反対(180°)の位置にあり、お互いを補い合う関係だ。ただ興味深いのはその関係が夫同士妻同士ではなく、高安と川島夫人、高安夫人と川島のように男女の関係が示されている。これはどういうことだろうか。

さきほど「誰が」魂を救うのかという問いに気づいたと述べたが、そのためにもこの戯曲での男と女の関係を再考してみるべきだろう。その際に注目したい人物がいる。それは川島夫人だ。この舞台でひときわ目立つ赤できめたハイヒールとスタイリッシュなワンピースは母というよりは、女であることを強調しているように思われる。それは中西星羅をキャスティングしたことで一層効果的であったし、後半の山本実幸が演じた淡然たる桜間とは際立って対照的だった。そこはかとない色気を漂わせた川島夫人は、終盤に対話が物別れに終わり別室に促され、部屋を最後に出ていくといきに、桜間に小声で囁く。(これは後半の演出で強調されている。前半は俊徳にも聞こえるような演出だった)

「あの子は危険ですよ。大へんに危険です。あの子の持っている毒にお気をつけにならなくちゃいけませんよ」という夫人に桜間は「それはどういう?」と聞き返す。夫人はそれを受けて、「どうって・・・それは申上げられません。私の経験から申上げただけですよ」と言葉を残し去る。経験とはどのような経験だろうか。毒とは何か。夫(男)たちが部屋を出たあとに聞こえない声でこの台詞は発せられる。女から女へ。夕方で暗くなる部屋に残される俊徳と級子。男と女。この「性」を感じさせる台詞はこの戯曲の裏面にたゆたうもうひとつの主題ではないのか。俊徳(三島)の魂を救うのは誰か。菩薩か、母か、それとも女か。

舞台を去る時に俊徳を引いて退場する姿からも、その役割が桜間級子なのは間違いない。その時に彼女は果たして誰か。菩薩か、母か、それとも女か。それははっきりとは示されない。しかし、彼女が俊徳と触れることがゆるされる存在であることも確かだ。舞台の始まりを思い出そう。熊のぬいぐるみを抱いて登場する俊徳。桜間扮する八木光太郎は熊を表す帽子や靴などを身につけている。つまり俊徳は最初から桜間を触れていた/抱いていたとも見なせるのである。幕が降りる時にぽつねんと熊のぬいぐるみが残されていたのは、救いを象徴していたのだろう。なぜなら俊徳はひとまず桜間級子をはっきりと得たのだから。ただ筆者にはその時に彼女が菩薩か、母か、それとも女なのか判別できない。いや、あるいは判別する必要もないのだろう。石神の格闘の軌跡はミラーボールのような多面球となり、私たちが放つ裸の魂の輝きを乱反射する。今はその光の眩しさの中にただただ佇むだけでよいのかもしれない。

[ 観劇日 ]
2022年9月9日(金) 18:30「SCOT Summer Season 2022」創造交流館
2022年9月17日(土) 15:30 静岡県舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【リチャード二世】小田透さん

カテゴリー: 2022

心ならずも目撃者となったわたしたち観客の戸惑い

黒い大きな格子に妖しげな光が投じられている。舞台奥から観客席に向かって少し傾いで、どことなく威圧的に、どこどなく不気味にそびえている格子は牢獄を思わせるかもしれない。舞台の両袖は大きく開けているが、そのような広がりは解放感をもたらさない。黒一色の空間の空虚さが際立つばかりである。舞台中央には、棺にも机にも台座にもみえる可変的な黒い長方形の物体が横たわっている。気がつくと、入場してきていた俳優たちがその後ろの、格子の足元の椅子に腰かけている。寺内亜矢子の演出によるシェイクスピア『リチャード二世』は、虚ろな黒さのなかから始まっていく。

寺内の『リチャード二世』は、わたしたちに、君主の戸惑いに戸惑う廷臣の気まずさを見せつける。しかし、共感を促すようなかたちではなく。というのも、そのような感情移入が発生しそうな場面転換の瞬間で、毎回、狙いすましたように、演出が介入してくるからだ。舞台上の出来事にたいして芽生え始めた共感が無理やりに断ち切られる。悲劇に耽溺することを許されないわたしたちは、なぜこうなってしまったのかと、思考を走らせ続けることを強いられる。

登場人物の多いかなり込み入った史劇を、その歴史性や複雑性をいたずらに簡略化することなく、しかし、それでいてわかりやすくとっつきやすいものにすることが、演出家のプランの根底をなしていたようだ。それはおそらく、寺内が、県立の劇団であるSPACの使命と真摯に向き合うことから導かれたものではなかっただろうか。中高生が鑑賞しても愉しめる舞台にすること、しかし、中高生におもねるのではなく、懐の深い古典のポテンシャルを引き出すこと。

舞台がつねにリアルとつながっていることを、わたしたちはたえず意識させられる。虚構と現実を橋渡しするかのような存在——劇中人物とも観客代表とも言い難い、共感を促しつつも断ち切る境界線上の存在――がいる。「この劇の案内人」(永井健二)は劇が始まる前に、登場人物をひとりひとり壇上にあげて紹介するだろう。すると紹介された側も、虚構の役柄を演じる生身の存在であることを告白するように、おどけたように、「〇〇役を務めます」と軽口を叩く。彼はト書きを読み上げて場面転換を促すとともに、幕が終わるごとにそのあらすじをまとめ、次の幕の予告を行う。だからわたしたちは、物語の筋を追うことにとらわれすぎることなく、舞台上で生起する言葉と身体の饗宴を満喫することができるものの、同時に、その虚構性を忘れることができない。

複数のスタイルの共存が異化作用を強化する。キャスティングには、ジェンダーと年齢の面で、意図的な偏りがあったが、それは対立関係を視覚化するための演出的工夫でもあったようだ。既得権益側のリチャード二世サイドは男性で年長より、簒奪者たるボリングブルック側は女性で年少より。タイトルロールのリチャード二世を演じる阿部一徳は、圧倒的な安定度を誇る揺るぎない身体を基盤にして、気まぐれなところからメランコリックなところまで、虚無的な不気味さから突然の感情的な暴発まで、言語的な超絶技巧の演技を軽々と繰り広げ続けていた一方で、もうひとりの主役であるヘンリー・ボリングブルックを演じる本多麻紀は、身体的強度と語りの密度を呼応させるように、怒れる若者の軽率さや勇敢さから、強いられた威厳やいかんともしがたい困惑まで、可変的で柔軟な力強さと繊細さで表出することに成功していた。 しかし、両サイドとも、意図的にニヒルであったり、不思議な踊りであったりと、意誇張された不自然な所作を、力業で自然に提示していた。社会の様々な階層、王家から貴族から民衆までが、異なる演技スタイルによって、的確に演じ分けられていた。

『リチャード二世』は家系の物語だ。臣下としての衷心と、血縁ゆえの僻目とが、本劇のクライマックスをかたちづくることになる。超法規的な、恣意的でしかない、不公平な赦しの可能性が上演される。オーマール(ながいさやこ)は、リチャード二世への忠誠心から、あくまで彼に殉じようとするが、父ヨーク公(木内琴子)は、中立派として、我が子の陰謀を罰しようとする。しかし、ヨーク公爵夫人(片岡佐知子)は、血のつながりを押し通すことで、我が子の赦しを新王ボリングブルックに願い出るだろう。ヨーク公、ヨーク公爵夫人、息子オーマールは、歌舞伎的な、いかにもわざとらしい愁嘆場を演じることになるが、それはいわば、歴史的特殊性のなかで表出する肉親的普遍性が、日本的な表現様式に落とし込まれた瞬間にほかならなかった。そのような様式的交雑性こそ、宮城聰率いる劇団SPACの強みである。この赦しのシーン——そこには「この劇の案内人」までもが口三味線で加わっていた——には、日本的としか言いようのない情緒的なカタルシスがあった。

ただ、寺内亜矢子の演出は、宮城的なものを引きずりすぎたのではないかという気もする。心ならずも王位についたボリングブルックを祝福する音楽がマシンガンやミサイルの音であり、幕切れのかたちながらの和解が分裂の表象にほかならないというアイロニーは、宮城による『ハムレット』を想起させずにはおかない。シティー・ポップ的な軽快な音楽と、舞台上の重苦しさのコントラストも、宮城のアングラ演劇の演出でお馴染みのレパートリーを思い出させる。

しかし、ボリングブルックの独り言めいた希望——リチャード二世の死——を叶えてしまう存在を、フードを被ったロングコートの複数的な存在に転化するという現代的な翻案——そこで彼らと彼女らの声は混ざり合い、匿名的な世論と化すだろう——は、宮城ならば試みなかったかもしれない冒険であり、現代性を強く押し出した演出でもあった。 権力者にたいする忖度は、誰か一人の問題ではない。集団的な問題にほかならない。そして、忖度された側が、忖度されることで、本当に幸福になるかは、決して定かではない。誰もが相手のためによかれと思ってなした行為が、誰のためにもなっていなかったことを、わたしたちは目の当たりにさせられる。利他的な滅私奉公が、環境的な居心地の悪さに転化したことを、わたしたちは強制的に見せつけられる。

虚構の舞台を安全な距離から愉しんでいたはずのわたしたちは、そこで、突如として、現実における戦争の問題を真正面から引き受けることを余儀なくされるだろう。鳴り響く戦禍の音は、虚構の音などではない。舞台はたんなる虚構ではない。ありえるかもしれない可能性であり、ありうべきではない可能性である。アクチュアルなものに転化された史劇がわたしたちに問いかける。これをどうするのか、どうしたいのか、どうすべきなか、と。