2016秋→春のシーズンの劇評コンクールに対しては、19本の応募がありました。観劇の感動を文章にしてお送りくださった応募者の皆さんに、お礼申し上げます。以下、劇評コンクールの講評を記しておきます。
まず、19本の劇評が、どの作品を対象にしていたかの分布を見ますと、『サーカス物語』への劇評が1本と少なかったことを別にしますと、どの作品——『東海道四谷怪談』『高き彼物』『冬物語』『真夏の夜の夢』——に対しても4~5本と、平均的に応募がありました。しかし、入選以上の劇評は、一部の作品に、特に『高き彼物』に偏りました。この偏りは、『高き彼物』が観客に伝えようとしているメッセージが、他の諸作品より分かりやすかったからだと推測されます。全体として、原作者や演出家が明示的・自覚的に言おうとしていることを解説するというレベルを超えた、批評性をもった分析や解釈になっている劇評は、残念ながら、たくさんあったとは言えません。 続きを読む »
2017年9月19日
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016 劇評コンクール 審査結果
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016の劇評コンクールの結果を発表いたします。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せ全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。
(応募数22作品、最優秀賞1作品、優秀賞1作品、入選7作品)
(お名前をクリックすると投稿いただいた劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
柴田隆子さん【もう影法師はいらない? 〜オン・ケンセン『三代目、りちゃあど』】(『三代目、りちゃあど』)
■優秀賞■
田鍬麗香さん(『少女と悪魔と風車小屋』)
■入選■
小長谷建夫さん【アジアのごった煮の味はいかが】(『三代目、りちゃあど』)
三木春奈さん【ありもせぬ影】(『三代目、りちゃあど』)
伊澤拓人さん(『イナバとナバホの白兎』)
吉田美音子さん(『アリス、ナイトメア』)
蒼木翠さん【残され(る/た)父 ~Seuls】(『火傷するほど独り』)
番場寛さん【エディプスの孤独としての「火傷するほど独り」】(『火傷するほど独り』)
西史夏さん(『火傷するほど独り』)
■SPAC文芸部・横山義志の選評■
選評
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016 作品一覧
『イナバとナバホの白兎』(演出:宮城聰)
『三代目、りちゃあど』(演出:オン・ケンセン 作:野田秀樹)
『少女と悪魔と風車小屋』(作・演出:オリヴィエ・ピィ)
『ユビュ王、アパルトヘイトの証言台に立つ』(演出:ウィリアム・ケントリッジ 製作:ハンドスプリング・パペット・カンパニー)
『火傷するほど独り』(作・演出・出演:ワジディ・ムアワッド)
『It’s Dark Outside おうちにかえろう』(作・演出:ティム・ワッツ、アリエル・グレイ、クリス・アイザックス)
『アリス、ナイトメア』(作・演出・出演:サウサン・ブーハーレド)
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■最優秀賞■【三代目、りちゃあど】柴田隆子さん
もう影法師はいらない? ~オン・ケンセン『三代目、りちゃあど』
様々な参照先を示唆する引用の断片が、裸舞台に繰り広げられる。舞台芸術が「引用の織物」であることを端的に示しながら、オン・ケンセン演出『三代目、りちゃあど』は文化の多様性、多数性の中でのコミュニケーションの可能性を問う舞台であった。
1980年代の日本の観客に向けて野田秀樹が執筆した本作は、異なる時代や地域の文化が入れ子構造に反映されているテクストである。15世紀半ばの薔薇戦争を素材にした、16世紀後半の戯曲『リチャード三世』を下敷きにした物語は、作者であるシェイクスピア自身を被告とする裁判をめぐって進行する。己が野心のみを追い求める、極悪非道な「せむし」で「びっこ」の「リチャード三世」というキャラクター像は、時流に擦り寄る劇作家の歴史の歪曲、捏造であると彼の作中の登場人物が告発するのである。「創作」するという劇作家の行為そのものが主題となり、薔薇戦争やシェイクスピアの作品を緩い参照項に、創造者の苦悩が疾走感を伴った言葉遊びと共に語られる。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■優秀賞■【少女と悪魔と風車小屋】田鍬麗香さん
小さな手をひいて、劇場へ向かう。森の中にある空の見える劇場。夕刻、暗くなる少し前に華麗な音楽と共にその物語がはじまった。繰り返されるメロディ、打ち鳴らされる太鼓のリズムは独特の高揚感を煽り、観る者をまるで飲み込むように物語の世界にさらっていく。「舞台小屋」一度も訪れたことのないその場所に抱くイメージと重なる。そこはとても親密で小さな空間、人々は息をのんで舞台を見つめている。まるで「ここ」のように。舞台の上にはまた最低限とも思える舞台が設えられている。4人乗れば一杯の板張りの小さな台、後ろには素っ気なく下げられた四角い布、布を囲うように電球が並べられ素朴な華やかさを沿えている。役者たちはその舞台に収まらず飛び降りたり飛び乗ったりする。舞台上の舞台、自ずと視線はそこに結ばれる。リズミカルに間断なく飛び出す異国の言葉、前ぶれなくその言葉たちは音楽に乗り歌になる。4人の役者たちはそれぞれに幾つかの役柄を掛け持ち、楽器を鳴らす。くるくると表情を変え躍動する役者たちと共に物語もダイナミックに進んでいく。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【三代目、りちゃあど】小長谷建夫さん
アジアのごった煮の味はいかが
りちゃあど、どうしたのだ。あの自信満々にして大胆不敵な面構えは。殺した王の妃さえ口説き落とすという絶妙な弁舌は。用意周到、卑劣な讒言をさりげなく漏らす背徳の振る舞いは。
背中のこぶが幻だったと知った時、はたまたリチャード三世の容姿端麗なる肖像画を見せられた時、その時から、りちゃあど、舞台上のお前は河童に尻子玉を抜かれた百姓のように頼りない。あやふげだ。
いや、初めからいこう。
中世のイングランドにリチャード三世という実在の人物がいた。戦死した最後のイングランド王であり、名称だけは艶やかな薔薇戦争の真っ只中、波乱万丈の人生を送った。この男を戦場で破ったのはヘンリー七世、今のエリザベス王女に至るテューダー朝の系譜に当たる。
その約百年後に活躍した劇作家シェイクスピアにとって、これほど料理し易い材料はない。どんな悪辣な人物にしようと、いやすればするほど、観劇者はやんやの喝采だ。世はテューダー朝全盛期となれば、不敬罪も気にすることはない。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【三代目、りちゃあど】三木春奈さん
ありもせぬ影
悪名高く残虐な王として語り継がれる王、リチャード三世。彼のその滑稽な容姿と、目的のためなら手段を択ばない暴虐ぶりはまさに悪役そのものである。しかし、彼は本当にただの悪人であったのか、本当に王位を手にするために数々の殺人を犯したのか、そして本当に“せむし”で“びっこ”だったのか。すべての真相を知るのは彼を悪人として描き、世間にそれを知らしめた、『リチャード3世』の作者シェイクスピアただ一人であろう。
劇の冒頭、舞台は三代目りちゃあど(すなわちリチャード3世)の最後の戦場、ボスワースである。窮地に追いやられたりちゃあどはそこで例のセリフを叫ぶ。「今ここに一頭の馬あらば、代わりにわが国をくれてやる。」
舞台が一変する。そこは法廷であり、被告人は大量殺害の罪に問われたりちゃあど、検事調書をかくのはシェイクスピアである。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【イナバとナバホの白兎】伊澤拓人さん
駿府城公園は静岡駅から商店街やデパートが並ぶ繁華街を通り抜けた先にある。城は跡形もないが残った広大な敷地は様々なイベントに使われているらしい。歴史を身にまとった空間で、同時に人々の非日常を一手に引き受ける場でもある。観劇した日にはちょうど「肉フェス」なるものが催されていて、その熱気にあふれた空間はこの時代に外界にはありえないような「生」の様相を呈していたのであった。都市のまんまんなかにどっかりと腰を据えるこの公園が、『イナバとナバホの白兎』公演の劇場、「舞台」となった。野外劇場なのだから、そこでは閉じられた劇場とは違って場所との関係性のようなものが否応なく芝居へと入り込んでくる。夕暮れ後の濃い青の空、気づけば日は落ち肌寒く、照明が付き暗転が生まれる。場所は時と足並みそろえて人々を取り囲み、芝居の時空間と駿府城公園の時空間が混じり合うのである。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【アリス、ナイトメア】吉田美音子さん
本作においてもっとも注目すべきは、この物語が「演劇」であると同時に、「彼女」の死生観にもとづく「経験」そのものの再生とみなすことのできる点であると考える。「彼女」とは、舞台のベッドの上で悪夢に悩まされるひとりの女であり、それは同時に作者のサウサン自身のエキセントリックな実時間上の経験でもある。演劇において、可視化しているが実在ではない「主人公」が「エキセントリックな状態に陥っているサウサン」、ただし一方で「サウサンはサウサン自身」ということは、「彼女」はサウサンを映した鏡ではなくて、「彼女」にサウサンが重なっている二重のキャラクターということになる。つまり彼女自身の「実時間での経験」が「演劇作品」と化しているということであり、まずはこの作品の性質そのものが非常に不可思議な構造をもっており、そのため「Alice」というタイトルが宙に浮いたような存在としてぼんやりと、しかし物語のなかでは唯一でてくる「名前」としてくっきりと提示されている。また、物語の途中で、彼女が明かりを手に「そこにいるのは誰?」と観客に向かって注意深く光を浴びせるシーンでは、それが我々のいる現実世界への問いかけではないにも関わらず、我々は互いに息をひそめ、しかし劇場がやむを得ず立てるどんな小さな物音に対しても、全員がひどく敏感になっていて、神経質で緊張感のある、不気味な空間が演出されていた。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】蒼木翠さん
残され(る/た)父 ~Seuls
「こりゃあ、まったくルパージュのパクリじゃないか。」
ロビーに出た処で知人の声が頭の上をかすめる。なるほど、作者のムアワッドがロベルト・ルパージュに対して憧れを持っているという事を知ってしまえば、そうとも見える事は確かだ。という目で見てしまうと、舞台全体が稚拙な物として捉えられてしまう。装置はいかにも安普請だし、映像効果に至っては無論ルパージュに敵う訳もなく粗い出来だ。だが、観客が指摘するまでもなく、ムアワッドはそんな事は百も承知だろう。なにしろ、敬愛する人物の作品を把握していない訳はない。となれば、いかにもルパージュの作品をなぞる様でいて真逆に位置しているのではないか、と考えたのだった。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】番場寛さん
エディプスの孤独としての「火傷するほど独り」
レバノンで生まれカナダに移り住み、ルパージュという実在の劇作家を敬愛している人物という伝記的な事実の側面をそのまま本人が演じているが、ハルワンは「ロベール・ルパージュのソロ作品におけるアイデンティティに関する空間としてのフレーム」という題の博士論文を準備しており、そのためにサント・ペテルブルクに行こうとする。
しかしルパージュはすでにアメリカに帰らなければならなくなる。そこまで進んだときこれはいつまでもあらわれない「ゴドー」を待つ二人の浮浪者と同じく会えないルパージュを求めて彷徨い続ける主人公の物語かと思わせるが、とんでもない展開を見せる。 続きを読む »