現世的秩序を拒んで自らの死を差し出し、ついに叔父クレオンを破滅に至らしめるアンティゴネの行為は「権力が、返されるのを期待せずに与える行為に根づくのであれば(…)生命を一方的に与えるという、主人のもつ権力が廃棄されるのは、この生命が延期されざる死という形で主人に返される場合だけである」(『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳)というボードリヤールの言葉をなぞる、革命的なものであるように思われる。しかしその振る舞いもまた「神の法」に即したものであり、それが彼女の命運にもたらした帰結を思えばどこか全体主義的な薄ら寒さが漂う。再度ボードリヤールの言葉を引けば「すべての単一支配システムは、永続したいならば、二元支配による調節を行う必要がある」(同上)のであって、『アンティゴネ』とは、ピュシス(神の法)とノモス(人間の法)の対立において理解されるならば、感動的な拍子の裏で個人に自刃を促す全体主義の足取りを再生産する舞台に他ならない。「死ねばみな仏」なのである。さらに古代ギリシアの世界では、ボードリヤールが扱う現代の消費社会とは異なり、冥界が現世から隠蔽されることなく相互の交通が約束されており、ピュシスのシステムは此岸と彼岸の二元支配によって一層強固に安定する。もはや個人の死はシステムの瓦解を意味しない。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■優秀■【三文オペラ】小田透さん
「戦略的ハッピーエンドの演出的アンハッピーエンド」
4月末の18時は夜というにはまだ明るい。中途半端な狭間の時間、ただっぴろい灰色の広場の中央奥に、黄色のショベルカーが異様に鎮座している。これから2時間のあいだ束の間の舞台となるはずの広場を現実世界の歩道から隔てるのは、杭とロープだけだ。ぼろきれのような長いコートをまとった人々が、生気なく、ひとりまたひとりと、ロープの向こうからやってきては、寒そうに地べたに横たわっていく。虚構が現実に侵入してきたのか、それとも、別の現実がいまここにある現実に闖入してきたのかと、観客は自問せざるをえない。ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ演出『野外劇 三文オペラ』は、本来ならソロで歌われる「刃(ヤッパ)のマッキーのモリタート」を合唱させることによって、わたしたちの現実感覚を切り崩す群集劇として始まっていく。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■優秀■【おちょこの傘持つメリー・ポピンズ】小田透さん
「ウィズコロナ様式の可能性と野外劇」
舞台のうえには傘屋の仕事場とおぼしきものがポツンと立っている。色とりどりの傘が並んでいる。開いたものが手前に、閉じたものが下手側の天井からぶら下がっている。上手側の一段高くなったところの机には傘職人のおちょこがいる。開いた傘の後ろで居候らしき檜垣が寝転んでいる。野外劇場である有度の舞台裏にそびえる大きな木のせいで、昭和の匂いをただよわせる舞台装置はやけに小さく、いかにも作り物めいて見えるが、作り物でしかない歴史的時間と、それにシンクロしない自然の風景という不釣り合いな場のなか、事実とゴシップ、虚構と妄想が混ざり合う。そこからなにかとても奇妙で異様な舞台的真実が迫り出してくる。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■入選■【おちょこの傘持つメリー・ポピンズ】森川泰彦さん
おちょこの傘持つ芸術史的記憶
この戯曲は、映画『メリー・ポピンズ』を出発点とする大気をめぐる主題群と、創作当時の社会的事件、そしてそこから連想された芸術史的記憶という三つの要素からなっている。
『メリー・ポピンズ』に由来するのは、傘を持って飛来する若く美しい女性のイメージであり、精神分析的に言えば、幼児的万能への退行を可能にするファリックマザー(男根を持つ理想の母親)との邂逅である。開いた傘は勃起した男根、(象徴界への参入が不可能にした)現実界との接触を可能にする母のファルスの隠喩なのだ。おちょこは飛び上がる度にあえなく落下するが、かかるファルスが実在するかのごとき錯覚は、つかの間の享楽をもたらすのである。「おちょこ口」とは傘(男根)が使用不能(性的不能)になった状態であり、つまりはその直前の射精を示唆している。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■入選■【アンティゴネ】山上隼人さん
『アンティゴネ』における「四次元的演劇空間」の創造
演劇とは「空間的」芸術作品である--。そう信じていた私にとって、2021年5月3日、駿府城公園・紅葉山庭園前広場で催されたSPAC公演『アンティゴネ』は衝撃的だった。「舞台上で役者が横一列に並ぶ」「舞台後方の壁面に役者の影を映す」など、極めて「絵画的」だったからだ。しかし、それによって演出が失敗しているかというと、そんなことはない。むしろ、美しいことこの上なく、「四次元的な演劇空間の創造」により、舞台作品として成功しているのだ。
舞台は床一面が水で覆われ、そこに浮かぶ上手、中央、下手の3カ所の岩場によって装置が構成されている。「ムーバー」と呼ばれる「動きをみせる役者」たちは岩場に立ち、それぞれの役を演じる。一方、「スピーカー」という「声で演技する役者」たちは、水の中で腰掛けたり、立ったりしたままセリフを言う。つまり「二人一役」であるわけだが、特筆すべきはムーバーの演技だ。彼らは3カ所の岩場に分かれて演技しているため、一向に交わらない。ほとんどが、客席に向かって演技している。顔を突き合わせて「対話」することなど無いのだ。 続きを読む »
SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■入選■【アンティゴネ】菅谷仁志さん
生者の葬式としてのアンティゴネ
亡くなった家族と一度も対面することができなかった―。いま、日本中にあふれる現実だ。新型コロナウイルス感染症は、予防を名目に弔いの場を奪い、感染した死者に対して不平等を強いる。遺族には死の事実が伝えられるのみで、突然目の前に骨だけが帰ってくるという現状は「身体なき死」とも呼べる事態に直面している。遠く2500年前、反逆を理由に弔うことを禁止された兄ポリュネイケスの魂を、国王クレオンの命令に背いてでも弔った主人公アンティゴネ。その物語を通して「死ねばみな仏」という死生観を描いた宮城聰の演出は、現実問題として社会が平等を担保できなくなっている今、何ができるのか。その答えを「身体なき死の葬式」として示し、世界に鎮魂を届けた。 続きを読む »
ふじのくに⇄せかい演劇祭2021■選評■SPAC文芸部 横山義志
ふじのくに⇄せかい演劇祭2021劇評コンクールには計16作品の応募がありました。16作品の内訳は、『アンティゴネ』9、『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』5、『三文オペラ』2でした。コロナ禍のなか、多くの方に劇評を寄せていただき、とてもうれしく思いました。
今回、最優秀賞に選ばれたのは小木郁夫さんの【アンティゴネは、なぜ<過剰に>天を仰ぎ見たのか?】です。「約10分をかけ、[…]力無く地面にうずくまっていたアンティゴネが、[…]最終的には常人の為せる体屈角度の限界にまで仰けに反り返り、その姿勢を数分に渡り維持する」というたった一つの動作に注目し、その過剰さを従来の西洋文学史における戯曲解釈に反して「神の法それ自体への「挑戦」」とみなし、さらにキリストと重ね合わせるというかなりアクロバティックな展開なのですが、具体的な演出と丹念に突き合わせ、説得力をもたせています。静岡で二回、さらにアヴィニョンでもご覧になったという観劇体験から、「終劇後にふしぎな「原罪」を負ったような感覚」の根源を、時間をかけて突き止めてきたことがうかがわれます。
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