劇評講座

2012年11月9日

■依頼劇評■『鏡の国の、ロミオとジュリエット ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間』柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

鏡の国の、ロミオとジュリエット
 ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間

柳生正名

 それは不思議なロミオとジュリエットだった。少しばかり、刺激的なもの言いをすれば、これがロミオとジュリエットか、と思われるほどに―静岡で〈完全版〉と銘打たれたオリヴィエ・ピィ演出を観た第一印象である。
 この名作は映画、バレエ、ミュージカルなどの分野で多様な時代設定に読み換えられてきた。今回も登場人物は今風のドレスやスーツ姿。舞台には椰子の木が登場し、ヒロインの手に自動式拳銃が握られ…ただ、こうした道具立てが「らしくなさ」をもたらしたのではない。むしろ、舞台を二〇世紀米国に移したウエスト・サイド物語より「らしくなく」、かつ、その「らしくなさ」にむしろ魅かれている自分に気付く―そういった性格のものだ。
 ピィにはオデオン座芸術監督としての最後の作品となった本作。台本の仏語訳に自ら当たったことでも話題を呼んだ。台詞は細部では省略があった半面、例えば、シェイクスピア=shakes pear(洋梨を振る)といった言葉遊びが淫猥な仕草ともども追加され、観客の笑いを誘った。ただ、〈完全版〉の名の通り、基本は原文に忠実。そもそも、原文自体、卑俗な地口と厳格な韻文の融合であり、それはより「らしさ」が増してしかるべき試みだったはず。にもかかわらず、「らしくなさ」―それも好ましい―を感じた理由は何か。
 例えば幕切れ。二人の亡骸を目の当たりに、それまで反目してきた両家の当主は口々に黄金のロミオ像、ジュリエット像の造立を誓う。しかし、その和解の言葉と裏腹に、彼らが手から撒き散らすのは白い粉―それは、二人の死をよそに続く争いの不毛を象徴する「灰」さながらだった。
 場面はキャピュレット家の納骨堂内という設定だ。石壁は舞台の淵ぎりぎりまでせり出し、間に穿たれた窮屈な階段上に、一同は寿司詰めで並び、灰が撒かれる。大団円の高揚感は薄く、まるで時間の袋小路に行き当たったがごとき閉塞感と重苦しさが漂う。
 気付かされるのは、二人の愛が悲恋として完結し、メロドラマ「らしく」観客の涙を絞るためには、両家の和解という結果を伴うことが重要である点だ。和解という結末があればこそ、いつの時代も変わらぬ若者の典型である二人が、聖別された犠牲として栄光を帯び、その愛は世紀の悲恋として自己完結する。受肉した神の子キリストが自らを犠牲として人類を救済したのと同様に。
 が、今回の結末は、むしろ街が戦乱によって灰燼に帰したかのイメージだ。そのまま、場面は争いにすさんだ冒頭に戻るかと錯覚するほどに―結局、二人の死は和解を生まず、悲恋が平和という実を結ぶこともない。この結末から連想されるのは、むしろ、果てしなく繰り返し、決して完結しない物語だろう。
 主役2人の演技も、特に幕間を挟んだ3幕2場以降の後半部、格調を喪わない台詞回しといい、手振りを主体に感情の高まりを自然に表現する所作といい、観客の涙を絞らんがためのけれんには走るところはない。自ら死を選ぶ場面も、巨大な運命に押し潰される悲哀や、恋の成就を彼岸に託す思いを、取り立てて強調せず、むしろ本能の赴くまま突っ走る、普通の若者として演じ切った。
 先にウエスト・サイド物語と図らずも比較したが、悲恋物語といった場合、われわれはハリウッド映画に典型的な物語の作法―冒頭で世界を立ち上げ、中盤で盛り上げ、最後に最高潮を据える―という図式を期待しがちだ。多分、それは終幕で涙を絞る「感動」を演出するための心理学的法則にかなう。加えて、そこにはヘブライズムに源を持つ歴史観=「神による世界創造」から「最後の審判を経た救済」という図式さえ、うっすら透けて見える。しかし、今回の舞台は演出でも演技でも、そうした方程式が微妙に外されている。
 《言葉》が役者の身体に降り、受肉することで起こる奇蹟―という演劇観からうかがえるように、ピィ自身にはカソリック信仰に裏打ちされた形而上学的志向が強い。にもかかわらず、今回は逆の道を選んだように見える。なぜか?―この点を考えるため、今回の演出をもう少し掘り下げて見てみよう。
 舞台装置は、矩形にモジュラー化された木製ブロック3基ほどが主体の簡素なもの。これを役者が移動させると、場は時にヴェローナの広場、二人が恋を語らうバルコニー、またキャピュレット家の墓所へと変化する。
 装置の簡素さは、劇の土台をなすシンプルな構造に観客の思いを誘う。この点は、開幕から終幕までほぼ変わらず舞台上にあり続ける唯一のもの―メイクアップ用鏡台に注目するとき、はっきりする。鏡は役者にとって神聖なものだ。能楽では楽屋と舞台との境界、揚幕のすぐ内に「鏡の間」が存在する。シテはその姿見の前で面をつけ、役への変容を遂げるが、今回の演出は通常、観客の目から隠される、その存在をあえて舞台上にさらした。
 そして、幕開きの1幕1場。モンタギュー役のマチュー・デセルティーヌは鏡台の前に坐し、ベンヴォーリオと息子ロミオをめぐる言葉を交わした次の瞬間、ロミオに早替わりする。さらに、3幕1場、カンタン・フォール演じる瀕死のティボルトが黒いヴェールをまとい、キャピュレット夫人に変ずる印象的な瞬間。また、オリヴィエ・バラジュークが、ジュリエットの父キャピュレットと許婚パリスの二役を多重人格者さながら演じた場面もまた、鏡の持つ変容の魔力を感じさせた。こうして、鏡の存在は登場人物それぞれが抱く欲望の深層意識レベルでの一致をあばき、人間関係の「対称」的構造を露わにした。
 即ち、ロミオとジュリエットを筆頭に対立する両家の当主、その夫人、ロミオの親友マーキューシオとジュリエットの従兄ティボルト、ロミオの従僕とジュリエットの乳母―と、鏡に映り合ったような「対称」性に沿い、登場人物は互いに諍い、愛し合う。主人公二人が舞踏会で出会った瞬間、口づけを交わすという尋常でない心の振幅さえ、物語を貫く「対称」性からは、ごく自然なこととなる。この物語では近代リアリズム的な心理の流れより、形式の自己完結性が優先する。そのことが鏡によって暗示された、といえるだろう。
 実際、1幕3場でジュリエットは乳母や母親と言葉を交わしつつ、拳銃をもてあそび、自身に向け撃つ真似までする。いったん、鏡台に仕舞われた拳銃は3幕3場、ヴェローナ追放の沙汰を受け、発作的に自殺を試みるロミオの手に握られる。鏡台を仲立ちに、そもそも二人が共有する死への願望が浮き彫りにされ、親同士の争いが二人を死に追いやった風の、ロマンティックかつ単純な解釈に疑問を投げ掛ける。そして、二人が鏡像同士としての「対称」性を分け合う存在であることも示す、際立った演出だった。
 実は、この物語で「対称」性はこうした人間関係にとどまらず、劇的構成にまで貫徹する。ドラマを動かす最大の推進力となる「争い」の場面を見ていこう。1幕冒頭、舞台にはⅠ①キャピュレット家の使用人二人が登場、Ⅰ②モンタギュー家の使用人二人とでくわす。そこにⅡ③モンタギューの甥ベンヴォーリオ、Ⅱ④キャピュレット夫人の甥ティボルト、Ⅲ⑤数人の市民、Ⅳ⑥キャピュレットと同夫人、Ⅳ⑦モンタギューと同夫人と加わる過程で小競り合いが次第に本格的な争いへと発展。最後にⅤ⑧領主エスカラスの仲介で当座の和解が図られる。常に「対称」的な人間関係を踏まえつつ、身分が競り上がる構造だ。
 次に、作劇上、物語の大きな転機となる3幕1場の争いだ。今度は、両家の使用人同士のいざこざは省略されるが、Ⅱ①モンタギュー側のベンヴォーリオ、その友人マーキューシオと従者たち、Ⅱ②キャピュレット側のティボルトら数人、Ⅱ③ロミオ、Ⅲ④市民、Ⅴ⑤領主と従者、Ⅳ⑥モンタギュー夫妻、⑦キャピュレット夫妻―1幕の争いと両家の先後関係を入れ替えた上で、同様の「対称」構造を形成する。注意すべきは、領主の親族かつロミオの友人たるマーキューシオと、モンタギュー嫡男かつキャピュレットの婿であるロミオだ。二人は人間関係の「対称」性に深く組み込まれつつ、「対称」性をかく乱する存在であり、ともにティボルトと命のやり取りを行うことで、物語に悲劇的加速度を与える。
 そして、大詰め5幕3場、「争い」の解決の場。タイトルロールの二人が死んだ直後の墓所には、Ⅰ①キャピュレットが婿に選んだパリスの小姓、Ⅰ②ロミオの従者バルサザーが、ともにⅢ③夜警、を伴い登場した後、Ⅴ④領主と従者、Ⅳ⑤キャピュレット夫妻、⑥モンタギュー夫妻―の順で現れ、両家長は灰を撒く。ピィの演出は〈完全版〉にふさわしく、原作の指定にほぼ忠実に人間を動かしており、以上の三つの場面がそれぞれ形づくる劇的「対称」性は忠実に舞台に再現される。
 ここまで見たように、この物語はロミオとジュリエットという二人が織り成す悲恋を軸とした流れとは別に、社会的な二つの力の相克が生み出す三つの争いの場を柱とした劇的構造をはらんでいる。悲恋は終幕が迫るにつれ高まりを見せるが、争いという視点から劇的な頂点を形成するのは3幕1場のマーキューシオとティボルトの死の場面だ。
 話は飛躍するが、筆者は芭蕉の「おくのほそ道」の構成が、平泉、出羽、象潟の3場面に感動の頂点を持ち、特に中央の出羽が最も高い三峰構造と論じたことがある。さらに、その形状は金融市場のチャート分析に用いる「三尊天井」の概念を連想させることも。横軸に時系列、縦軸に例えば株価を刻んだグラフには、中央が高く、前後に同じ高さの2峰が並ぶ「対称」形状がしばしば出現する。それは、そこまで続いたトレンド(上昇・下落)が完了し、別のトレンドに転換するサインと理解される。この三尊パターンが完成した時点で相場には一定の終結感が生じるが、取引は続き、新たなトレンドを経て、また三尊パターンが登場する。この、仏教用語に由来する概念は次への継続を前提とした読点的存在であり、ヘブライズムの終末に向かう物語と言うより、東洋的輪廻の流れの内にある。
 とすると、「ロミオとジュリエット」は、「争い」の物語としては中央の峰を軸に折り返すと前後が重なる三尊天井的「対称」構造をとりつつ、悲恋物語としては右肩上がりの「非対称」性を持つ。言い換えれば、ヘブライズム的時間と東洋的な繰り返す時間という、二つの相反する原理を内包する。
 本作では通常、ヘブライズム的時間を前面に押し出した演出が行われる。観客に幕切れで「感動」を与えるのが芸術という考え方は根強く、商業的成功にもつながりやすいからだ。ただ、シェイクスピアのテキストを読み込み、それに忠実たらんとすれば、本質的な劇的構成を反映し、もう一方の「対称」構造を持つ時間も、また舞台上に姿を現してしかるべきだ。その結果、幕切れに向かう劇的昂揚の質が、通念的なメロドラマとは異なり、かつて某国の宰相が連発した「感動」という言葉にはぴったりこない形の上演になるとしても…。今回の「らしくなさ」―例えば、大団円の―は、〈完全版〉に相応しく、シェイクスピアの意図した劇本来の姿が、演出、演技両面で正当に汲み取られた結果と感じる。
 ここに言うシェイクスピアの意図とは何か。考えるに、彼が生きた時代から四百年を経た現在も、国家であれ、個人のレベルであれ、世界から争いが消える気配はない。歴史を紐解けば、そうした争いは、若者二人が交わす一度きりの恋などには無関係に、幾度でも繰り返す時間の内に息づくものなのだ。この事実から露わになる人間の本質的な愚かしさと悲しさ。それをリアルに把握せずに、美しい物語にひたることの欺瞞性―これこそ、かの劇聖が強調したかった点であり、この物語を「悲劇」たらしめる根本的な要素ではないか。
 本作を最後に「解任」という形で、この国立劇団を離れたピィ自身、在任中は自らの信念を貫くため、争いに巻き込まれ、攻撃の矢面に立つことがあったかもしれない。今回の舞台で、パリスとの結婚を拒む娘に執拗な攻撃性を見せる家長キャピュレットの造型を観て、なぜかそう感じた。そのような争いの体験こそ、ピィがこの悲劇の上演史に一頁を書き加える原動力となったのでは―とつい穿った見方さえしてみたくなる。それほど、この舞台と彼の退任が衝撃だったということだ。
(戯曲の構造をめぐる考察にあたっては、市川真理子氏の論文「『ロミオとジュリエット』の劇構成」〈小樽商大人文研究64号〉を参考にさせていただきました)(了)

■依頼劇評■『平らかなる昂揚、の果てに 宮城版「ナラ王の冒険」評』柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

平らかなる昂揚、の果てに
   宮城版「ナラ王の冒険」評

 柳生正名

 まごうかたなく、それは祝祭だった。演劇という祭が持ちうる力の大きさに感嘆し、ある意味で畏怖を感させられるほどに―6月の静岡県舞台芸術公園野外劇場。有度山麗の木々を背景としながら、舞台は6メートル四方そこそこ。そこに、ゆうに20人を超える演者全員が上がり、宮城聰演出「マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜」は大団円を迎えていた。
 舞台が発散する熱気に手拍子で応える客席。その昂揚を目の当たりに、遥か昔、小林秀雄訳で読んだランボオの一節が思い出された。
 嘗ては、若し俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出た宴であった。
 今回の舞台を一見して気付く点―それは登場人物の出で立ちが、およそ白一色だったことだ。古代インドの物語が平安朝に伝播し、演じられた、との設定通り、主人公二人を含めた王族は束帯・十二単、神々は伎楽風の仮面をまとう。ただ、装束の色使いは当時、身分などで厳密に決められており、全員が純白の衣ということはありえなかったはずだ。
 さらに、装束の素材はすべて紙のように見えた。小道具やコロス演じる獣の着ぐるみ、木、果ては炎も同様で、舞台全体がほぼ白一色に塗り上げられた印象だ。
 ふと思い出されたのは現代美術作家・村上隆が提唱した「スーパーフラット」という概念だ。日本の伝統絵画から漫画・アニメにまで共通した平面的、二次元的な絵画空間を意味する。省略と余白が多用され、遠近法や陰影など立体感の表出が控えられる結果、表現上の装飾性、遊戯性が増すのである。
 さらに、そのフラットさには日本社会の階層性の薄さとの関連が指摘され、また、ポップアートの旗手アンディ・ウォーホルが自作について「裏には何もない。表面だけ見て欲しい」と述べたのと同様、本質/表層という図式を根本に据えた西欧的世界観・芸術観へのアンチテーゼを読み込むこともされる。
 アニメに代表される日本のサブカル製品が、海外で熱狂的なファンを得ていることは、今や常識だ。村上が制作した漫画風の絵画やアニメのフィギュアさながらの立体作品も国際的に高く評価されている。
 今回の演出について言えば、能を思わせる橋掛かりを取り入れ、自然林を借景にするなど、野外劇場の奥行きを積極的に活用する。ただ、全体を白一色としたことで、観客はあたかも鳥獣戯画や北斎漫画などの線画を観る感覚を味わっただろう。これに、歌舞伎、狂言や神楽を思わせる様式的で身体の垂直軸を意識した所作が加わり、日本的で「フラット」な世界観が体現されていた気がする。
 さらに、印象的だったのはコロスが演じた聖なる木や森の造型だった。本作はそもそも、宮城演出の特色である所作役(ムーヴァー)と語り役(スピーカー)の分離を基調とする。コロス役のムーヴァーが白一色の群体をなし、枝が風にそよぐさまなどを、しなやかな腕の動きで表現してみせた。その美しさは際立っていたが、日本人からみると演出自体にさほどの発想の飛躍は感じない。古来、日本では神も、人も、さまざまな動物、植物、果ては岩や山川まで、ひとつの命を分け持つというフラットな形のアニミズム思想が根強いためだろう。インドからもたらされた仏教が、この国に根付く過程で「山川草木悉皆成仏」という独自の命題を掲げるに至ったほどに。
 もちろん、ナラ王の物語の中にもアニミズムはある。蛇と人が語らい、神と人が一人の美女をめぐり恋のさや当てを見せ、といった具合だ。ただ、インド文化の枠組みは、意識作用を持たない植物や無生物に解脱、つまり成仏はありえない、という立場を取ると聞く。
 実際、ナラ王物語の原作を読むと、ダマヤンティー姫が無憂樹に話しかける場面があるが、樹自らは言葉で応えない。ヴァーフカに身をやつしたナラ王がサイコロ賭博の奥義を巡り、リトゥパルナ王と問答する際には、今回の舞台ではシクンシの木にどれだけの葉や実があるか、瞬時に見極めるために「木全体を見よ」と深遠な哲学が語られた。ただ、人間という主体に対し、木はあくまで観照の対象という客体的立場にとどまる。
 インド文化では人間界にカーストが存在するのと同様、自然界にも明確な階層が存在する。日本人ほど、木と人間は一体とは思わず、木を人間が演じることも自然とは感じないのではないか。
 そもそも、この物語では登場するすべての存在が、自らの階層から逸脱することはない。物語の中で結ばれるナラ王とダマヤンティー姫は王族同士。王と生き別れ、森をさまよう姫を呑みこんだ途端、にしきへびは狩人に腹を割かれ、その狩人は姫に身分違いの懸想をした途端、絶命する。王と姫がさまざまの試練を受ける羽目に陥る直接の原因、言わば、物語の根本動因も、人たる姫を神たるカリが階層を超え、横恋慕したことだ。このように、すべてが自らの階層にとどまることを指向する物語と、すべてを均質な白に塗りつぶすフラットな発想と、本来はひとつの舞台上に両立しがたいはずである。
 であるがゆえに、そういった異質さの境界を取り除き、薄っぺらな表層に伸ばすことで生まれる、本質/表層の別が曖昧化する感覚。それこそ「誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出る」祝祭性の本質ではないか。
 ここまで、宮城版「ナラ王の物語」は白一色と言わんばかりに論じてきたが、実は、登場場面は限られるものの、強いアクセントを放つもう1色が存在する。それは「赤」だ。
 カリ神に憑かれたナラ王が、弟プシュカラとのさいころ賭博に我を忘れる場面、コロスは勝者を白と赤の手旗で示す。ナラが白、プシュカラは赤。いずれが勝つか見極めようとする群集の姿が、平安末期の源平合戦で右往左往する貴族を髣髴とさせた
 それ以上に、赤が重要な意味合いを帯びるのは、ナラ王とダマヤンティー姫の結婚直後のこと。民草をよく養う王にふさわしく、狩られた猪をナラ王が手際よくさばき、みなに振舞う。結婚の際に神々から料理の奥義を授かったことを受けてのエピソードだ。舞台で、獲物となる紙の猪は外面こそ白いものの、包丁を入れられると、飛び出す絵本よろしく、背が割れ、中から紅の扇のような肉が取り出される。これを王が箸でつまみ、姫の口に運ぶ仕草は、白い世界のなか、赤の存在が印象的でエロティックな隠喩にさえ満ちていた。
 これが終幕近く、計略により呼び寄せたリトゥパルナ王の撲、醜い姿に変化したヴァーフカを、姫がナラ王その人と知る伏線にもなる。調理した焼肉の味で姫は正体を見破る。
 さらにナラ王に取り付いていた悪神カリは、王がサイコロにまつわる奥義を会得した瞬間、その体内にとどまることができなくなり、飛び出す。そして、呪心の象徴である赤い手ぬぐいを放り投げると、その場を逃げ去る。
 日本で紅白と言えば、祝事を表象し、「日の丸」色である半面、切腹の正式な作法は御白州で白装束をつけて、という具合に死と生が交錯する危うい美学もはらんでいる。今回、肉にこの色が与えられたのは、バラモン教定着後のインド、さらに仏教を通じその影響を受けた日本でも、肉食に負のイメージが負わされてきたことを受けているのかも知れない。インドでは現在もバラモン階級の多くが菜食を貫いていると聞く。
 そして、逆説的だが、そういう背景があってこそ、大団円で、善神も悪神も、王族も平民も、食べる側も食べられる側も、ありとあらゆる存在が、あらためて白一色に立ち返ることの圧倒的な昂揚感が生まれてくる。際立った存在感を持つダマヤンティー役のムーヴァー美加理やスピーカー阿部一徳も含め、主演、助演、コロス役の区別無く、舞台に上がり、ひとつの台詞を一糸乱れず斉唱する演出は、橋掛かり脇で民俗音楽風の曲を奏で続ける演者、手拍子で応える客席、さらには背景をなす自然の木々も巻き込み、巨大な祝祭空間を作り上げる。ここでみられる昂揚の基盤は、「スーパーフラット」に通じる美学によって形づくられたもののように思える。
 舞台上の全員の口から唱和される、その台詞は、和歌や俳句さながらの七五調だった。背景に流れる音楽は、各奏者が国籍も由来も雑多に寄せ集められた楽器によってまちまちな拍子を奏でつつ、全体として調和をなすポリ(複)リズムを基調としたもの。その上に、日本伝統の韻律が完璧に収まり、多様な文化の階層を取り払って、人々の心を昂揚させるさまは、魔術的な宇宙の出現を思わせた。
 宮城によれば、製作過程で作曲サイドからは、音楽的にあまりにのっぺりしたその台詞回しが問題にされたという。結局、「台詞が完璧に合うこと」を重視し、七五調での上演となったが、それゆえ、フラット性が最上の形で舞台に具現されたのではないか。
 ここまで、演出の側面から宮城版「ナラ王の冒険」のフラットな側面を焙りだしてきたが、もうひとつ、物語構造についても考えるべきかもしれない。原作と対照した場合、宮城版の台本は冒頭部分の重要なエピソードが省略されている。
 実はナラ王が、深窓の姫ダマヤンティーに直接目通りできたのは、使者として彼女に神々の求婚を伝える任務を負ったためだ。姫は決断の鮮やかさと冴えた機知で、神の祝福を巧みに取り付けつつ、意中のナラ王と結ばれる。が、結果的に神の求婚をはねつけた姫への恨みは残る。これがカリという悪神に具現化され、王との生き別れという結果を招く―これが、二人の冒険譚の前史となる。
 物語をつむぐ立場からは通常、神の意思を拒絶した結果、人間がさまざまな苦難を味わう―そんな展開こそ、一番おいしい部分と映るはずだ。しかし、今回の演出では省略され、舞台は神々が二人の結婚を祝福する場面から始まる。その分、登場人物のさまざまな言動の裏に根本的原因を仮定し、それが何かを探る、という西欧流の鑑賞姿勢をとると、この筋立てには物足りなさを感じざるをえない。
 つまり、動機→行為という図式の上に成り立つ心理的遠近法の立場からは、この舞台の主人公たちの言動は平板で、時に不条理だ。しかし、だからこそ、そこに生の人間性が投げ出された実存の生々しさを見出すこともできる。動機/行為、本質/表層という人間中心の視座にとらわれ、森羅万象を包み込む宇宙観を描き切れない近代の物語との対比で、むしろ、そのフラットさに可能性を感じる―2006年、この舞台がパリで絶賛を博した理由も、ひとつはそこにあっただろう。
 ただ、こうしたことを、例えば「フラット」性に集約される日本文化・社会の優越性というような方向で論じるのは大きな誤りだと思う。この概念自体、頭に「スーパー(超越的)」の語が冠されるように、実は醒めた視線による自己批評性―そこには日本社会の階層性の薄さのみならず、消費文化の薄っぺらさや横並びの風潮まで読み込まれた―が前提されたはずだ。そうした点を捨象して「フラットな日本の賛美」に走ったりすれば、近くは1980年代のバブル経済が、国民全体を巻き込む総上流志向というフラットな風潮として現われた愚を繰り返しかねない。
 一部愛好家にのみ受容される現代演劇の枠を脱し、言語という障壁も乗り越え、よりフラットな世界との交わりとしての祝祭性―今回の舞台が、そんな思いに裏打ちされたものだったことは間違いない。ただ、決して安直な伝統回帰には向かわず、単なるエンタテインメントに終わることもせず、むしろ、そのフラットさを極端(言い換えれば超越的)な形で示す―それによって、例えば昨今、格差拡大が叫ばれる一方で、「絆」なる言葉が多用されるがごとき、妙に平ぺったい風潮への醒めた批評性を感じさせる性格のものだった。
 ちょうど、ほとんど白一色の舞台上、「酒という酒は悉く流れ出る」大団円の昂奮の中でも、それまでに、さりげなく、しかし緻密に配された「差し色」赤の視覚的記憶が強烈な違和感を放ち、「すべからく、醒めつつ淫すべし」と耳元で囁き続けると思われたように。個人的感慨ながら、それは、ランボオが、未開の祭儀さながらの混沌の美に満ちた自らの詩業に幕を下ろす、その最後に「断じて近代人でなければならぬ」と書き留めたことと、どこか通底する気さえする。(了)
(以上敬称略)

2012年11月8日

■準入選■ 【「おたる鳥をよぶ準備」雑感 】柚木康裕さん(構成・演出・振付:黒田育世)

■準入選■

「おたる鳥をよぶ準備」雑感

柚木康裕

 舞台とはライブである。そこに演者がいて初めて成り立つ。ライブであるということは、繰り返すことができないということだ。たとえ何度再演されても、その時のその場所での舞台は二度と現れることがない。この1回性が醸し出す緊張感、このユニークネスこそが舞台の面白さだと思う。この事実は今日素晴らしかった舞台が明日もまた素晴らしいと言い切ることは出来ないことを意味している。最良の舞台のためにどれほど備えをしていても、時に舞台の印象を決定的に替えてしまうようなハプニングが起こることもあるだろう。たとえばそれは野外舞台での雨である。

 SPACふじのくに⇄せかい演劇祭の最後をかざったダンス公演「おたる鳥をよぶ準備」はこのユニークネスでは突出していたのではないだろうか。世界初演であること。今後3都市を巡回するが野外公演は静岡だけであること。さらに演劇祭のプログラムに目を向ければ、一日3演目あるうちの最終演目だったこと。つまり観劇者のなかにはこの日3本目という方もいたこと。そして千秋楽だった日曜日の公演に雨というハプニングが加わったこと。まさに今しか経験できないことが揃った。これこそライブの醍醐味である。

 とはいえ、雨中の観劇は勘弁というのが本音である。オマール・ポラス「春のめざめ」を観劇後さらに3時間の長丁場に集中力が続くのかだけでも不安だったが、悪いことに追い打ちを掛けるような雨である。雨粒がカッパを通して身体を打つ。正直言って始まるまでは心が折れていた。だがしかし始まってしばらくするうちに雨降りの舞台を愉しんでいる自分がいることに気が付いた。(子どものようだが)雨など一度濡れてしまえばどうということはない。雨に濡れながら踊るダンサーを観ていると心が回復しだし、次第に舞台に集中していった。

 もしかしたら雨はこの舞台に良い効果を与えているのではないだろうか。
 (雨も舞台装置としてあらかじめセットされていたのではないだろうか)

 黒田育世率いる女性だけのダンスカンパニー「BATIK」の名前は知っていたが、舞台を観るのは初めてだった。YoutubeでBATIKのダンスを垣間見たが、今回の「おたる鳥をよぶ準備」もBATIKらしい舞台といえるようだ。ダンサーたちの力強さは驚くべきもので、大声を張り上げ絶えず動きまわる。確かにダンスを褒める時に使う華麗という言葉は見あたらない。しかし洗練という言葉なら与えることは出来るだろう。身体性、・スペクタクル性、物語性、ループの使い方、それらを支える松本じろの創り出すミニマルサウンドが合わさり現代性あふれるダンスに仕上がっているように感じた。ただしこの現代性とは常に細分化された結果として表れてくるので、好き嫌いがはっきりと分かれることになるだろう。大衆が楽しめるには社会全体で共感できる価値観が必要だが、相対化が進む社会では価値観も細分化され共感の幅も自ずと狭くならざるをえない。

 1877年(明治10年)初演だったクラシックバレエ「白鳥の湖」はこれまで多くの共感を集めてきた。それは優美で華麗な踊りと音楽の成果だが、同時に勧善懲悪的な対立項が分かりやすく示された物語だったからだろう。王子と悪魔、白鳥と黒鳥のように。そしていつでも大衆は王子と白鳥の立場に付く。美しくみられたいという願望を投影し、常に王子を探し、白鳥に憧れてきた。だが2012年の今、舞台上には「おたる鳥」がいる。

 「おたる鳥」とは黒田育世の造語で「満ち足りて体が動き出すこと」という意味だそうだ。「おどる」の語源といわれている。まさにこの舞台はそれを体現しているような舞台だ。激しく、執拗に踊る。少女たちは白鳥になりたいのではなく、王子様も待ちはしない。なぜならもうすでにそれらが失われていることを知っているから。彼女たちは内なるおたる鳥を呼び寄せるために踊る。その時に美しく「おどる」必要はない。なぜなら「おどる」ことそれ自体が美いのだから。3時間に及ぶ舞台を見ながら、私はそう感じていた。

 雨はなかなか止まず、結局終わりまで降り続いた。時折その雨が効果的に舞台へ介入していた。雨がなかったらどんなふうに見えていたのだろうか?屋内でも今日の野外公演以上に素敵なものになるのだろうか?確かめるためにはもう一度観るしかない。きっとその時はまったく違った「おたる鳥」を体験することになるだろう。

■入選■【おたる鳥を産む準備】鈴木麻里さん『おたる鳥をよぶ準備』(構成・演出・振付:黒田育世)

■入選■

おたる鳥を産む準備

鈴木麻里

 「あ、流れ星! あなたの願い、叶えてあげましょう。……私ダンサーになるの!」と繰返し叫んで走り回る水色のレオタードの女、客席後方からスーツケースをガタゴト引いて降りて来てピンク色のビキニ姿になったかと思うと白粉を頭から引被る女、ペットボトルを股に挟んで立小便の様に水を流す女、肩車や片足立ちして連なって練り歩く行列など、開幕から不可思議な様子の女たちが次々と現れた。雨が降りしきる野外劇場の舞台には、まぶしく光る人工芝が青々と敷き詰められている。

 おたるはおどるの語源であって「満ち足りて体が動きだすこと」だと、鳥になったおたるが自らの死体を食べてくれることを夢見たと、プログラムには記されている。鳥をよぶ準備とは、体を満たしておたるを育み鳥に羽化させることなのだろうか。鳥葬を待つ屍を目指すことなのだろうか。

 いつか私が死んでいるとき何処かで誰かが踊っていて何処かで誰かが死んでいるとき私は踊っていると黒田が背中を地に着け差上げた足を打鳴らしながら歌うと、ミニマルミュージックが突如流れ舞台前方では世界の国々の名があらん限りマイクを通して呼ばれた。彼女は拍子を踏んで踊る。

 世界地図を貼られたパネルが舞台中央にあって、女性の胸を象った真白な花器を捧げ持つ女たちがその周りをぐるぐる延々と走り続けている。歌を始める前、黒田はリンゴを一口かじっては「愛してる!」と口にすることを無数に繰返していた。彼女たちは、知恵の実から言葉を得たと同時に永遠に喪われた母の乳房を頭上に浮かべ求め続けている様にも見えてくる。

 この場面を観ていて思い起こされたM・ベジャール振付『ボレロ』では、真赤な円卓の上で一人踊る「メロディ」を黒い床にひしめく男性ダンサー「リズム」たちが取り囲んでおり、欲望を示唆するピストン運動を延々と繰返す。人工芝の緑がボレロのステージの赤と補色を成すことも相まって、男根が欲望の対象に納まることで帰結するドラマに比して女たちの欲望はどんな道程を辿るのかという興味をそそられた。

 倒れて死体の様になった女に、別の女が代わる代わる馬乗りになって腰を振りながら喘ぎ声を出す場面があった。
 黒田が、股間で数回前後させたビニール傘の先を顔に向けて片足立ちで「あかんべえ」し、今度は横向きにして上から順に体の数カ所に打ち付けてうつぶせになり、反って天を仰ぐ。正座して両手を下腹部に揃えがたがた震えたのち気持ち良さそうに右に傾く。左足で立って右手を水平に伸ばしながら七三にやってくる。舞台全面中央で花器を捧げ持ちながら祈る様に跪く黒いワンピースの女に黒田がおーいと呼びかけると、「あ、流れ星! あなたの願い、叶えてあげましょう。……私ダンサーになるの!」と駆け回りながら叫んで跳ねて地に倒れ立上がって自らの腰を腕で前後から包んだ。
 「私も!」と黒田は彼女に抱きつく。「私ダンサーになるの……」「私も……」と親密に繰返しながらくるくる回るうち抱擁が外れお互いに空気を抱いて旋回する中でそのまま倒れて死体の様になったダンサーに、別のダンサーが馬乗りになって腰を振りながら喘ぎ声を出す。3人交わったところで、黒田が再び件の振付を始め、生き返った彼女も粛々と舞台中央でのお祈りに戻る。

 相手の触覚を知り得ない異性結合や男性間の同性結合とは異なり、女性間の同性結合では、類似した感覚が同時に複数発生することによって同情的・共鳴的な感覚が強くなる。その繊細な一体感は精神面に接続するところも大きい。また、時間的制約を抱える男根に比して、底無しの世界でもある。

 この振付は数えきれないほど繰り返され、刻々とその姿を変えていった。肉体が酷使される中で表面に現われる主張が削ぎ落されていき、体が情感に満ちていき、観ているこちら側が目を向ける対象も振付や言葉の意味から二人が孕む体の状態へと移り変わっていく。
 二人の一体感がどんなに高まっても、抱擁はいつも解け女は地に倒れて死んだ様になる。無底である代わりに行方のない行為を、黒田たちはそれでも続ける。

 冒頭では明るい色をまとって登場していた肩車や片足立ちした女たちの行列が、終幕では葬列のごとく黒一色をまとって登場する。奥のパネルには、リンゴが一つなっている木の絵が現れた。黒田はその前で死んだ様に倒れている。一つリンゴのなっている立体的な木も、舞台の真ん中に運ばれてきた。これが地に倒されると、リンゴは落ちて、誰にも食べられることなく転がっていってしまった。
 女たちが木に群がって一斉に枝を折り始めた。その様子が火葬の準備を思わせ、ものものしい空気が醸し出されていたその時、黒田が起き上がって唐突に吹き出した。釣られて、女一同大笑いした。

 自他未分への回帰願望が性倒錯の原動力だとするならば、黒田はそれを飽くまで健康的に発露した。飽きるまで遊んで、狂気に踏み込む前に蘇生した。

 舞台で上演された第一部を終え、第二部では客席側に設えた小さなステージを舞台側から観客が見上げた。ダンサーの肖像画たちに囲まれて、黒田は白でも黒でもないグレーの衣裳をまとい鳥の様に踊った。
 彼女は鳥葬ではなく、おたる鳥を孕んだまま生きることを選んだ。

参考文献
藤田博史『人形愛の精神分析』(2006年4月、青土社)
稲垣足穂『A感覚とV感覚』(1987年5月、河出書房新社)
G.K.チェスタトン(福田恒存・安西徹雄訳)『正統とは何か』(1973年5月、春秋社)

■準入選■ 【反復される「踊ることへの欲望」―『おたる鳥をよぶ準備』を観て― 】番場寛さん(構成・演出・振付:黒田育世)

■準入選■

反復される「踊ることへの欲望」
 ―『おたる鳥をよぶ準備』を観て―

番場 寛
 サッカーではキーパー以外は手を使うことを禁じられているように、ダンスでは、言葉は禁欲的にしか使わない。しかしこの作品では、冒頭から水色の水着を着た女性が微笑みながら「わたしダンサーになるの」と大声で発しながら踊ることを繰り返している。
 遠くの木々の近くの高いやぐらの上に設けられた小さな舞台では一人の女性が座ったまま、何か、白い布か紙の切れのようなものを自分の体に貼り付けていく。黒田育世の振り付けの特徴が次第に浮かび上がってくる。舞台に立っているダンサーたちが、同時にあるいは時間をずらして同じ動作をする。一人一人のその踊りを観ていると、手脚を十分に伸ばし、体のどちらかの側を軸にしてクラシック・バレーように回転する動作が目につく。動きのヴァリエーションもあくまで曲線的な動きを中心に構成され、いかにも女性だけの集団の踊りだなと思わせる。
 人間の手脚の動きでダンスと呼べるような動きの組み合わせはいくつあるのだろう?屈曲、振動、回転、はためかせる動き、たたく、さする、…等、純粋な動きとしては無数の組み合わせがあるとしても、ダンスとして観るに耐える動きはそれほど多くはない。ではそのダンスをダンスならしめている動きの本質とは何か?それはG.ドゥルーズの言葉を借りれば「差異と反復」ではないだろうか?ある偶然の瞬間的な動きがダンスとして意味を持った動きと感じられるのは、ある「反復」が感じられるよう身体が制御されている時だ。そしてその「反復」が「反復」として知覚されるのは、「差異」との対比によってである。あらゆる芸術はこの「差異」と「反復」によって成り立っているのであるが、最もそれを明確に示すのがダンスだと思う。
 今回の公演でもその「反復」が、観ていて苦痛に感じられるほど執拗に繰り返された一連の振り付けがあった。まず一人の女性が「あなたの夢を叶えてあげましょう」と言い、別の女性がそれを見て、「わたしダンサーになりたいの」と言うと相手は「わたしも」と言ってその女性に抱きつく。その傍らには横たわったままの女性がおり、その女性にまたがり、性交のように喘ぐ。別の女性が順に同じ動作をやり、次に立ち上がると踊りながら「わたしダンサーになりたいの」と叫ぶ。
 また、舞台装置において執拗に反復されたのは、女性たちが各自時間をおいて脱ぎ捨てた衣装を舞台前に置かれたロープに結びつけていたのだが、それを舞台両脇に立てられた 支柱に結びつけると上まで万国旗のように掲揚し、しばらくたつとそれを落下させ、また 掲揚することを繰り返す動きである。
 この一連の動作はどう考えれば良いのだろう。これは彼女たち、つまり脱いでは着替えることを繰り返す、衣装に象徴される「女性性」の顕揚ではないだろうか?
 また、舞台後方に立てられた大きな看板には最初世界地図が貼られていた。それを一人が剥がし、時間をおいて再び貼り付けたが、何度か鳥が空を舞う翼の動きがなされたことと併せると、世界で踊りたいという彼女たちの欲望を表しているのであろうか?
 最後にその看板の一部が剥がされるとそこにはリンゴが一個だけ下がっているだけの葉のない木が一本描かれた絵が現れる。リンゴという果物は俗的にはイヴを連想させずにおかない。黒田の言うように、ダンスと一体となるということは、人間としては「死」であり、それは結果としての果実をもたらすという意味なのだろうか?
 最後に黒田一人が、客席の狭い空間で踊ったのだが、それはそれまでの集団での振り付けとは明らかに異なっていた。特に手先だけをぷるぷると振動させたり、背を向けて手を後ろに回したりする動作は、彼女がついに「おたる鳥」になったのかと思わせた。   
 作品全体を貫いている「女性性」がこれ見よがしに示されたのが、最初舞台前中央に置かれた乳房だけの白いトルソーによってである。そのトルソーを一人が持ち上げ天にかぎす。強い光があてられその乳房が白く輝いたかと思うと次の瞬間にはそこから緑色の血が滲み出たのかと思われるほど徐々に緑色に染まっていく。再びそれが下に置かれたときもとの白に戻ったことからそれは緑色の照明を当てられたせいなのだと分かる。最初一個だった乳房はやがて舞台にたつ8人分のトルソーが置かれめいめいが同じようにそれをかざした後、置かれ、そこには一輪の花が飾られる。
 J.ラ力ンは「女というものは存在しない」と言ったが、スカートを穿き、乳房を持っているからと言って「女というもの」であるわけではない。「おたる」は「踊り」の語源だと黒田育世は書いているが、「踊り」は「男取り」から来ていると聞いたこともある。これは存在しない「女というもの」を目指すため「女性性」を顕揚しながら、「おたる鳥をよぶ準備」、 つまり「ダンサーになりたい」という欲望の全面的な開放をダンスで表した構造を持った作品であった。

2012年11月6日

■入選■【「知の欲望」の解放へ ―『春のめざめ』(オマール・ポラス演出)を観て―】番場寛さん

■入選■

「知の欲望」の解放へ
 ―『春のめざめ』を観て―

番場 寛

 アフタートークのときに演出のオマール・ポラスへ「この劇のテーマは確かに書かれた18世紀や初演された時代においては、リアルであったかもしれないが、学校でも性教育がなされるようになった現代においてもこの劇を演ずる意味があるとしたならそれは何だろう?」と質問をした。それに対しポラスは、この劇で描かれた教育や道徳が子供を抑圧している状況は現代においても何ら変わっておらず、これは極めてアクチュアルな劇なのだと答えた。その意味を考えてみたい。 
 舞台には手前に一部が破壊されたコンクリートの建物の残骸があり、その後ろにはおそらく社会、つまり大人たちの世界の象徴としての枠組みだけの建物が見え、さらにその背後には森が広がっており、これは童話的な子供の世界を象徴しているのだろう。その三つの世界を横断する問題は「知」と「快楽」である。「知」とは子供たちの純粋な疑問、つまり「赤ちゃんはどうして生まれるのか」という知への欲望であり、大人たちが子供たちに押しつける、ギリシア語やラテン語などの教科としての「知識」である。
 モーリッツは落第させられるという恐怖におびえて自分の望んでもいない知識を詰め込もうと苦しんでいる。子供たちの「知への欲望」は「性」に対するものだけではなく、メルヒオールが、「何のためにこの世に生まれてきたのだろう」と言い、モーリッツが「何のために学校に行くのだろう」と問いかけるように極めて哲学的で真剣な問いでもある。
 しかし大人たちは子供たちの知の欲望には答えず、知りたくもない知識の習得を強いる。モーリッツが自殺した後残されていた卑猥とみなされた論文を書いたという教師たちの非難に対し、メルヒオールは「私はあなた方のよく知っていることをそのまま書いたに過ぎません」と弁明する。つまり大人の世界では当たり前のこととして流通している「知」を子供に対しては禁じることの不条理がこの場面では際立たせられている。
 赤ちゃんは愛している男の人と結婚することで生まれるのだという母親の説明を信じたヴェントラはメルヒオールの衝動に身をまかせた後も、「愛してない」し「結婚もしてない」のだからと安心したまま妊娠してしまう。そして堕胎薬を処方されたことで死んでしまう。これは大人が正しい「知」を与えなかったことにより子供の受ける被害と言える。
 また、「春のめざめ」というテーマが会話としてではなく、劇の演出として巧みに描かれているシーンがあった。それはヴェントラが見つめる中、彼女が遊んでいた木馬が遠ざかっていき、時間をおいて再び近づいていくシーンである。遠ざかっているとき手を差し伸べていた少女は、再び自分の元に戻ってきた木馬に跨がるとまるで大人の女のように木馬を揺すり、快楽の表情を浮かべる。
 またトークで、子供たちは土の上を裸足で歩き、大人たちは靴を履いていることについて、ポラス自身が説明したように、土は子供の世界を表し、その世界の侵入を恐れるから大人は靴を履くのだ。しかし劇の最後の方で観客を驚かせ、一瞬何が起きたのか戸惑わせる場面がある。それはそれまで子供たちを非難し、「自殺病」を防ごうと思案、議論していた教師や親たちが突然長い髪のかつらを取る場面である。かつらをとると彼女らは、一人で母親や教員を演じていた姿から少女へと変身する。移動公演という制約上の理由から一人で何役も演じたのでないことは、観客の目の前でかつらをとったことで明白である。ずっと昔にタディウシュ・カントールが「死の教室」という作品で行っていた演出を思い出させる。それは今にも倒れ息絶えそうな年老いた老人たちが背中に自分の幼年時代を表す人形を括りつけ登場した場面の効果に似ている。つまり実際は舞台で年月が流れる時間を表すべきところを、一挙に同時に表すのだ。
 この「春のめざめ」では、純粋な「知への欲望」を抱いていた子供たちも、年月をへるうちにはいつの間にか、その「知への欲望」を抑圧し、別の子供たちが欲しない知を押しつける大人へと変わるのだということを瞬時に見せている。
 墓地をメルヒオールが歩いているとき、幽霊となったモーリッツと再会し言葉を交わすが、その墓地の壁にはムンクの「叫び」を模した落書きが描かれており、そこにはcondemned to AGONY(激しい苦痛へと有罪を宣告されている)という言葉が添えられている。今回の上演で、墓地の墓標を見ながら、埋葬されている者の名として、この戯曲の作者のヴェデキントやフロイトやニーチェの名が発せられるが、これはフランスで上演されたときの脚本にはない。さらに子供たちを前にしてメルヒオールが言う「行け」と字幕に訳されたフランス語のSortez !も、もとの脚本にはないもので今回付け加えられたものと分かる。これは「大人たちの世界」、社会を成り立たせるために「知と性の欲望」を抑圧している世界から「外へ出ろ」という意味に訳すべきではなかったろうか?

■準入選■【まいりました、赤い封筒】小長谷建夫さん『THE BEE』(野田秀樹演出)

■準入選■

まいりました、赤い封筒

小長谷建夫

 筒井康隆のファンである小生にとって、なかなか興味深くかつ刺激的な舞台であった。
 尤もそれ以上に静岡の野田秀樹ファンにとっては長く渇望していた来訪だったのかも知れない。なにしろ機関銃のような台詞のやりとり、怒涛の如く転換する舞台や配役、これらに加え野田秀樹の驚くべき身体の柔らかさも、中年らしからぬリズム感溢れるダンスまでをも眼前にすることができ、まさに野田ワールドにどっぷり浸かった70分だったからね。
 それを言ったら宮沢りえちゃんファンには、これはもう興奮の極み、ほとんど絶頂感を味わった舞台であったことだろう。かく言う小生も、ポカリスエットのCMでの鮮烈なデビュー以来のりえちゃんファンでもあるから間違いない。あの妖艶さ、あの庶民性、あの啖呵。そういえば前半に足の長い警官が出て来るが、あれもりえちゃんだったのかな?印刷物の配役には載っていないから最後まで気付かず残念な限りだ。
 ともかくも離婚騒動で落ち込んでいるのではないかと危惧していたが、全く心配無用のようで、りえちゃんのことを心配するよりも自分の前立腺のことでも心配しようと思った観劇の夜であった。
 さてこのまま俳優論をやっていたら、確実に劇評失格だ。話を筒井康隆論から始めよう。
 筒井の毒気に満ちた作品が演劇人の嗜好に合い創作欲を刺激する理由はよくわかる。なにしろ筒井が各作品で取り上げるのは人間の隠し持つ狂気だ。どの作品も狂気が狂気を呼び、それはスパイラル状に高まり深まる。これが演出家の関心を引かないはずはない。
 毒気に満ちた作品と言ったが、その毒は決して筒井の毒ではない。読者の心に潜む毒であり、観劇者の毒なのである。筒井はそれを覆っていた常識や世間体や倫理道徳を取っ払い、白日の下に晒したにすぎない。
 筒井の悪い所は、いやいい所なのかも知れないが、狂気がとどまることなく収拾がつかなくなるまで放置してしまうことだ。
 常識や世間体にがんじがらめの我らは、物語が破局にいたる過程を寛容の精神で耐えるのだが、最後にはなんとか収拾してくれるだろうとの淡い期待を持ち続けるのである。全く我らは懲りない予定調和信奉者なのだ。
 一方筒井に収拾しようなどという気はないから、読者あるいは観劇者は狂気の高みに登りつめ、突然梯子を外されてしまうのである。いやもともとそこに梯子などもなく、スパイラル状に高まる興奮、男女がよく経験するあれだな、その上昇気流に乗って行っただけだから、クライマックス即転落死となるわけだ。
 筒井ファンを長く続けているとこの転落感がたまらなくなる傾向がある。
 野田秀樹はこの狂気を忠実に、いや更に増幅して表現した。小生が野田作品を観たのは、はるか昔、シアターコクーンでの「贋作 罪と罰」一回こっきりだから、あまり評論もできないのだが・・・その時も激しく転換する舞台で大竹しのぶが走り回っていたのを思い出す。
 大竹しのぶは不思議な女優だ。小柄なくせに、あの存在感。可愛いくせに、あのふてぶてしさ。そういえば宮沢りえちゃんだって負けてはいない。こんなタイプが野田秀樹の演出家としての五感、六感を刺激するんだろうな。
 いけない、いけないこのままだとまた女優論になってしまう。元へ戻ろう。
 文学作品や演劇の中では子供の指を折ったりしてはいけない、子供を殺してなどいけないという規制があるわけではないが、読者、観劇者には絶対にタブーとしてある。そんなタブーを次々と破る筒井作品。このタブー破りをさらに残酷に再現した野田。
 ポキリ!ポキリ!と。
 そこまでやっちゃいけない!と叫びたくなるな。
 そういえばBEEは被害者が加害者へ転ずる境目に登場するのかな。もう一度よく見ないとわからないね。タイトルになっているくらいだから極めて重要な役割をしていることは間違いない。このサラリーマンは虫嫌い、とりわけ蜂の類が嫌いなのはわかった。いや嫌いなだけでなく、あの羽音が生理的不快感とともに彼の狂気を増幅することもわかった。
 BEEが原作に登場してきた記憶はないから、きっと野田秀樹のメッセージがこめられたアイテムなんだろう。蜂の拡大映像が出てきたのは、主人公が血肉にまみれ始めた頃だったろうか。
 この芝居が、日常と非日常、正気と狂気、被害者と加害者などの境目あたりをテーマにしていることは間違いない。とするとBEEの出現と登場人物達の意識転換との相関関係を見落としている小生に劇を語る資格はないね。まあそれを言っちゃお終いだから、ここは演出家も井戸も蜂が大嫌いで、プッツンするきっかけになっていることがわかったというだけでいいとしよう。
 狂気の身体切り刻み惨劇の中、登場人物たちは一生懸命日常の行為を繰り返し、精神の均衡を保とうとする。まな板を叩く包丁の音が今も残るね。男女の性行為だって、最初はレイプまがい、いやしっかりしたレイプだったが、そのうち和姦だか習慣だかわからなくなっていく。放出を表すピストルの音も、徐々に湿り勝ちになるのも演出者の実感なんだろうな。
 高みに上り詰めたと思う狂気がまだまだ途上に過ぎないと思い知らされるのが、ドアの隙間からポトリ、ポトリと届け続けられる封筒だ。鉛筆の指折り音もそうだが、封筒の邪悪の赤さにも本当にまいったね。演出家の鋭敏な感性に脱帽である。
 さて原作者も演出家も、我ら小市民が自らの狂気を剥き出しにされて戸惑っているのを見て、にやにやと笑っているに違いないが、小市民だってそう初心ではない。
 井戸が加害者となってその悦楽に耽る時だって、それでいいのだと心の中で歓声を上げている者、指切りの場面で、次ぎは鼻を削げ、目玉をくり抜けと煽り立てている者といろいろなのに違いない。いや小生がそうだと言うのでは断じてないが。
 ともかくも終演後、覆いを無理やり剥がされた心や感性に冷たい外気が当たりヒリヒリ痛むのを感じながら、劇場を出て誰もが日常に帰っていくのだ。そこは昨日までの日常とは何かが確実に違っているのだがね。

■準入選■【『THE BEE』(野田秀樹演出)】佐倉みなみさん

■準入選■

佐倉みなみ

 「THE BEE」、この物語にまず浮かぶ言葉は「不条理」である。そして自分の中で既に確立し当たり前となっている善悪、正義、悪、倫理、道徳、それら全ての概念に疑問を抱かせる。

 物語は平凡で善良な市民である井戸が、ある日突然妻子を脱獄犯である小古呂に人質にとられるところから始まる。彼は何も悪いことはしていない。その日は息子の誕生日で井戸は仕事終わりに誕生日プレゼントを買い、家路へ急ぐ家族思いの温厚な人物である。平凡だが慎ましく幸せな生活を送っていた彼は、ある日いきなりその日常をぶち壊される。
 
 井戸も観客もどうして彼がこんな不幸に遇うのかわからず、わからないまま物語は進んでいく。家族を救いたい一心で、警察に、小古呂の妻に、家族を解放してもらえるように小古呂への説得を頼む。しかし警察は井戸の懇願を端から聞く耳を持たない「警察が解決する」という固定概念で固められたマニュアル男。小古呂の妻は自分も井戸と同じ歳の子供を持つ親でありながら、自分のこと以外知ったこっちゃないという自己中心的な女。

 井戸は自分の目を疑う経験をする。誰しもが当たり前だと思う勧善懲悪は、現実では起こらない。ただ無慈悲に事件は起こり巻き込まれていく。頼れる正義など絵に描いた餅、責任や罪悪感など皆無の無関心な当事者。それらは次第に井戸を別人へと変貌させる。そして井戸は自らも犯人の妻と子を人質にとり加害者へと変わる。そしてマスコミや警察を利用しながら、小古呂の妻を強姦しその息子の指を切り、小古呂への復讐と家から去ることを求める。
 被害者でも加害者になったら、加害者と同じ悪である、と思うであろう。しかし、この舞台で一体誰が悪なのであろうか。警察が井戸の懇願に耳を傾けていれば良かったのか?小古呂の妻が当事者としての意識を持ち小古呂の説得に初めから応じていれば良かったのだろうか?しかし、井戸自身加害者になるにつれて実感していく、「俺は初めから被害者を演じることができなかった。だから加害者になるに徹した。そして本当はこれが本来の自分の姿ではないのだろうか」と。ならば初めから加害者の芽を持った井戸が悪かったのだろうか。しかしそもそもこんな事件が起こらなければ井戸は善良で温厚な市民でいられた。ならばこの事件が起こったという事自体が悪であり、井戸を加害者へ導いた運命こそが批難されるべきことなのだろうか。しかし運命など批難できない。ならば一体何が、誰が悪いのであろうか。しかし井戸の人生には何の落ち度もなかった。因果応報とは到底いえない。理不尽である。
 しかし現実とはそもそも理不尽なものではなかったか。観客である私たちはそこでふと気付かされる。井戸という人物は決して舞台上の人物ではないと。現実は正義、悪、善、それらの概念はわかりやすく線引きされてはいない。いつもそれらは表裏一体であり、明暗混沌とした社会で私たちは生きている。そして一歩、何かをちょっと踏み外せば、それらは逆転し、時には被害者が加害者へと変わってしまうのだ。だがしかしその一歩すら明確ではない。朝が昼になり夜になるように、徐々に、ゆるやかに、踏み外してしまうのだ。自分の意思ではなく、見えない周りの、何かの、もしかしたら自分の潜在意識などの力によって。
 この舞台もそうなのだ。井戸も、小古呂も、警察も、小古呂の妻も、そして井戸の運命さえも、そのどれもが加害者であり被害者なのだ。悪も正義も善も全てが混沌と入り混じるこの世界に、果たして正解などあるのだろうか。
 序盤で感じた井戸への憐れみの気持ちは、いつしか井戸への恐怖と嫌悪感に変わっていく。小古呂の妻への嫌悪感や怒りは井戸が変貌するにつれ憐れみと同情に変わっていく。そして次第にわからなくなる。何が正しいのか。
 小古呂の子供も妻も殺してしまい、もう小古呂に送る指がなくなった時、井戸は叫ぶ「次は俺の小指を送ってやる。」もう井戸自身、答えなどない。ただ繰り返される指を送る毎日をまた送り続けようとする。目的は一体なんだったのか?不条理からスタートするこの物語に、正解など用意されず、つきはなされるように演目は終わる。
 被害者が加害者になり、手段がいつしか目的となり、強姦が日常に、切断が当たり前になる。そして段々井戸の人物像が輪郭を失っていく。何もわからなくなる。 
 
 「THE BEE」は恐ろしいほどの湿度と熱く冷めた狂気を身にまとった作品である。しかしその狂気と湿度こそ、私たちが日々現実で対面しているものであり、井戸は私たち自身の投影であると気づく。
 問題提起をされているようで、逆にこの作品自体がもう答えを私たち観客に投げかけているのだ。その答えを私たちはもっと掘り下げ、自分自身の答えを見つけなければいけない。その答えはゆっくりと、朝が昼に昼が夜になるように、形を変え生きる意義へと変わっていく。

■入選■【「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て 】渡邊敏さん

■入選■

「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て

 渡邊 敏

 工場の制服みたいなグレーのワンピースに、赤いスカ-フを身につけた女の人が3人、音楽に合わせて膝屈伸でリズムをとりながら語り、歌う。内容は、一人の女性の子どもの頃の思い出だ。延々三時間、ずーっと子どもの頃のささいなエピソードが語られていく。
 ニューヨークの劇団だそうなのに「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ」という田舎な感じのする名前に魅かれて、ミュージカル「ライフ・アンド・タイムズ」を見た。

 背景に白い垂れ幕があるだけの舞台に、赤いスカーフと、時々赤いボール、黄色の投げ輪といった明るい色が持ち込まれる。軽やかで、ユーモラスな色彩感覚。彼女たちのズック靴も、さりげなくグレーと赤のコンビだ。色づかいだけでなく、この控えめなユーモア感覚は至るところに感じられた。
 たとえば、「ミュージカル」と聞いて、超絶技巧のダンス、驚異的な歌唱力、主役は美男美女・・・と連想していたけれど、この劇団はちがっている。私でもやれそうな、ラジオ体操みたいなダンス。そのダンスも、あまりキマッていない。タイミングが何となくずれていて、それもおかしい。
 主役の女性3人と男性3人は、太っていたり、小柄でやせっぽちだったり、中年でお腹が出ていたり、髪が薄かったりする。「ごく普通」の感じの人たちが舞台にいる。そして、観客を感動させようとか、何かを訴えようというより、自然体な様子で、でも楽しそうに演じている。
 音楽も、感動を呼ぶような類いのものではなくて、親しみやすいメロディーを劇団の人たちがキーボードやフルート、ウクレレ(?)で弾いていた。(それもやっぱり、真剣に、というより手作り感が感じられる、楽しそうな弾き方で。)
 見始めてすぐ、この人たちと友だちになりたいと思った。終わった時には、「ありがとう」と言いたかった。こんな気持ちになったのは、去年静岡の町で見た大道芸以来だ。その、日本語が上手な外人の芸人さんからは、人を喜ばせたい、楽しませたい、愛みたいな気持ちが伝わってきた。「オクラホマ」の人たちからも、そういうあたたかさとユーモアを感じた。

 ふつう、お芝居も映画も、語られるストーリーに意味があって、私たちはその中に入り込むことで何かを得るが、この作品は題材の選択やその見せ方に意味があったように思う。
 観客は、一介の女性の子どものころの思い出を、延々と聞き続ける。語られるエピソードは、両親や、仲良しの友だち、人の家に遊びに行くのが好きだったこと、兄弟で変な名前のバンドを結成したこと、教室でおもらししたこと・・・などなど。電話で語った話を録音して、そのまま台本に使ったそうで、「Um(えーと)」とか「like(~みたいな)」といった口癖が頻出する。台所でコーヒーとドーナツでも食べながら、女ともだちの話を聞いているような気がしてくる。
 ごく普通の人の話を、普通の感じの人たちが、あまりカッコよくなく、でも心がある感じで演じているのが、このお芝居のテーマかと思う。
 「幸せになるには、人よりもきれいでカッコよくて、才能がなくちゃ」という現代の信仰に近い思い込みに、NO!。別にフツーでいいじゃない、と言うより、フツーの人の中にあるすばらしいものに目を向ければ、幸せに生きられる。心のあたたかさとか、大らかさ、ユーモア。一言でいうとヒューマニティー。誰もがもっているものをお互いに贈りあえば、こんなにも楽しい。
 そして、人と接するときは、鎧をまとわずオープンな心になること。女性たちは胸もブンブン揺れちゃっているし、フトモモや、時にはパンツも見えちゃうのは、そういうことだと思う。空気を読んだり警戒したりせず、心を開いて素直に語り合うことができれば、幸福を感じられる。
 それから、人に敬意をもつこと。思い出を語った女性の口癖をそのまま生かしたり、話をはしょったりしないで延々三時間を費やすことの意味は、敬意だと思う。それで、お芝居のラストで、男性が舞台に直立して、訴えるように語っていたあの真剣さも、同じことだと思う。「フツーの女性のフツーの話」は、実はすごいことなんだ、本当にすごいことなんだ、というメッセージ。ヒューマニティーの全面肯定。ヒューマニティーに対して大きなYES!。
 疎外や孤独。この作品は、日本を含め、いわゆる「先進国」で不幸のもとになっているものへのクスリだと思う。でもそのメッセージがあたたかくつつましやかに語られているところに作者の知性が感じられる。それゆえに信じる気になれる。

 終演後、演出家とのQ&Aがあった。バヴォル・リシュカ氏とケリー・コッパー嬢。聞きたい気もしたけれど、この幸福感に純粋にひたりたくて、出てしまった。ちらっと見たケリー嬢はTシャツに短いデニムのスカート、髪にスカーフを巻いたきれいな人だった。パンフレットを見たら、頭に青い鳥や花を飾った彼女の写真があった。すてきだ。また幸せな気持ちになった。

■準入選■【ジュリエットよ、なぜあなたは…?― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―】番場寛さん

■準入選■

ジュリエットよ、なぜあなたは・・・?
 ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―

番場 寛

 今回のオリヴィエ・ピィの演出には冒頭から驚かされた。ジュリエットはそれを演じる女優があまりに成熟しているばかりか、忠実にフランス語に翻訳されている筈の彼女の台詞を聴いていても、彼女がどうしても14歳の乙女には見えない。両手を大きく広げ、ヒステリックに感情をむき出しに激しく叫んだり、恋心を告白したりする姿は、『ハムレット』のオフィーリアが死なずに年を取った姿を想像させる。
 ハムレットは、自分の母親が夫の死後、すぐその夫の弟と再婚したせいだろうか、純粋可憐なオフィーリアに対し、彼女もやがて性を露わにする「女」になるのだと嫌悪感をむき出しにする。
 しかしこのピィ演出の『ロミオとジュリエット』を最後まで観ていると、ハムレットだったら抱いたかもしれない、その「女」に対する嫌悪感は克服されなければならないものなのだと説得されるほど「女」の成熟さの魅力が表れていた。
 また、畳みかけるかのように強くて、速い発声法は、シェークスピアの台詞の見事さを際立たせていた。「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?・・・」という有名な台詞は、今までの他の舞台や映画で何度も聞いていた筈なのに、今回の女優の口からそれが発せられるとき、それは恋の自己陶酔を超えて、彼女とロミオの置かれている状況、つまり彼が自分の家が対立しているモンタギュー家の息子であるという状況への攻撃的な問いであると聞こえる。 

「移動式バルコニー」という舞台装置と一人二役
 舞台装置は驚くほど簡素であった。演奏は舞台上に置かれた一台のピアノのみで行われているだけなのだが、それも移動させられバルコニーに上がるときの踏み台とされ、そこを登場人物が上がる仕草がそのまま鍵盤を鳴らすという工夫もされていた。ロミオが人目を忍んでジュリエットに会いに行く場面で使われるバルコニーは横の階段で上がっていくようになっており、それは極めて効果的に機能していた。つまり、舞台装置は観客の想像力により様々な場を表すよう移動し、据えられる。
 互いに愛を誓って「婚姻」を交わしたその場は、そのまま最後に毒を仰ぎ、命を終える場ともなり、赤みがかった透明なスクリーンが降りることで、他の人物が死者を見つめる「墓場」ともなる。それどころか黒いそのバルコニーの壁はチョークで登場人物が言葉を記す「黒板」の機能をも果たしていた。発語されたとたんに消え去るフランス語の台詞やそれを簡略化して映し出される字幕も数秒か数分後には消え去るのに対し、書かれた文字として舞台に存在し続ける言葉は観客にその意味を考えさせるに十分な時間を与えた。
 そのうちの一つはLa nuit est blanche et noire(夜は白くかつ黒い)であった。これは「夜は遅すぎる。いや、むしろ早すぎる」という台詞に対応するのだろう。「夜」と「朝」は連続しており、いつから「朝」なのかは曖昧であるのに言葉になったとたんに明確に分節されてしまう。この演劇全体が「夜と朝」と同様に「愛と憎しみ」、「生と死」等の対立によって成り立っていることが分かる。
 そのシェークスピアの戯曲そのものが持っている、対立するものの転換という技法は、二人の登場人物を一人の俳優が演じるという演出にも見られる。モンタギューと息子のロミオを同じ俳優が演じるのは、家系を際立たせるためだと理解できても、ティボルトが死んだとき、喪服に身を包みその死について語る伯母であるキュピュレット夫人を同じ男の俳優が演じたときには驚かされた。つまり自分の死を嘆く役を自分で演じていることを観客に見せているのだから。ここで顕著なように、ピィは人物のリアルさではなく、あくまでシェークスピアの台詞を最大限に生かすことに演劇のリアリティを求めているのだと分かる。

「死は存在しないLa mort n’existe pas」
 舞台装置の壁にこの「死は存在しない」という言葉が書かれるのは二人の主人公が死を迎える最後の場面である。これは普通だったら二人は死んでも、愛は生き続けているという意味に取るべきなのかもしれないが、なぜかこの言葉を見たとき、J.ラカンの「性関係はない」という言表を思い出した。
 ラカンの「性別化の式」と呼ばれる図式では、男は「欲望の原因対象」と呼ばれる「対象a」を求め、女は「ファルス(記号となった男性性器)」と「<他者>に欠如しているシニフィアン」を求めているという点で、男女では欲望の向かう対象が異なり、その欲望は互いに交差することはない。ではこの劇のロミオとジュリエットの間には、「性関係」はあるのだろうか?
 婚姻はしても二人にもやはり「性関係」はないと思う。最初バルコニーで逢って二人が接吻をするとき、それを「罪」と名づけ、口で相手の「罪」を自分に戻すと言い、接吻を繰り返す。その口を通じての「愛」の交換は、敵を欺くために毒を仰いだロミオを見たジュリエットが、そのロミオが飲んだ毒を自らに移そうとする仕草となって反復される。
 「~はない」という言表は「~はある」を前提としておりそれに抗い、その不可能性の追求という人間の夢を表すものであり、演劇の本質そのものを表している。