駿府城公園は静岡駅から商店街やデパートが並ぶ繁華街を通り抜けた先にある。城は跡形もないが残った広大な敷地は様々なイベントに使われているらしい。歴史を身にまとった空間で、同時に人々の非日常を一手に引き受ける場でもある。観劇した日にはちょうど「肉フェス」なるものが催されていて、その熱気にあふれた空間はこの時代に外界にはありえないような「生」の様相を呈していたのであった。都市のまんまんなかにどっかりと腰を据えるこの公園が、『イナバとナバホの白兎』公演の劇場、「舞台」となった。野外劇場なのだから、そこでは閉じられた劇場とは違って場所との関係性のようなものが否応なく芝居へと入り込んでくる。夕暮れ後の濃い青の空、気づけば日は落ち肌寒く、照明が付き暗転が生まれる。場所は時と足並みそろえて人々を取り囲み、芝居の時空間と駿府城公園の時空間が混じり合うのである。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【アリス、ナイトメア】吉田美音子さん
本作においてもっとも注目すべきは、この物語が「演劇」であると同時に、「彼女」の死生観にもとづく「経験」そのものの再生とみなすことのできる点であると考える。「彼女」とは、舞台のベッドの上で悪夢に悩まされるひとりの女であり、それは同時に作者のサウサン自身のエキセントリックな実時間上の経験でもある。演劇において、可視化しているが実在ではない「主人公」が「エキセントリックな状態に陥っているサウサン」、ただし一方で「サウサンはサウサン自身」ということは、「彼女」はサウサンを映した鏡ではなくて、「彼女」にサウサンが重なっている二重のキャラクターということになる。つまり彼女自身の「実時間での経験」が「演劇作品」と化しているということであり、まずはこの作品の性質そのものが非常に不可思議な構造をもっており、そのため「Alice」というタイトルが宙に浮いたような存在としてぼんやりと、しかし物語のなかでは唯一でてくる「名前」としてくっきりと提示されている。また、物語の途中で、彼女が明かりを手に「そこにいるのは誰?」と観客に向かって注意深く光を浴びせるシーンでは、それが我々のいる現実世界への問いかけではないにも関わらず、我々は互いに息をひそめ、しかし劇場がやむを得ず立てるどんな小さな物音に対しても、全員がひどく敏感になっていて、神経質で緊張感のある、不気味な空間が演出されていた。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】蒼木翠さん
残され(る/た)父 ~Seuls
「こりゃあ、まったくルパージュのパクリじゃないか。」
ロビーに出た処で知人の声が頭の上をかすめる。なるほど、作者のムアワッドがロベルト・ルパージュに対して憧れを持っているという事を知ってしまえば、そうとも見える事は確かだ。という目で見てしまうと、舞台全体が稚拙な物として捉えられてしまう。装置はいかにも安普請だし、映像効果に至っては無論ルパージュに敵う訳もなく粗い出来だ。だが、観客が指摘するまでもなく、ムアワッドはそんな事は百も承知だろう。なにしろ、敬愛する人物の作品を把握していない訳はない。となれば、いかにもルパージュの作品をなぞる様でいて真逆に位置しているのではないか、と考えたのだった。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】番場寛さん
エディプスの孤独としての「火傷するほど独り」
レバノンで生まれカナダに移り住み、ルパージュという実在の劇作家を敬愛している人物という伝記的な事実の側面をそのまま本人が演じているが、ハルワンは「ロベール・ルパージュのソロ作品におけるアイデンティティに関する空間としてのフレーム」という題の博士論文を準備しており、そのためにサント・ペテルブルクに行こうとする。
しかしルパージュはすでにアメリカに帰らなければならなくなる。そこまで進んだときこれはいつまでもあらわれない「ゴドー」を待つ二人の浮浪者と同じく会えないルパージュを求めて彷徨い続ける主人公の物語かと思わせるが、とんでもない展開を見せる。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】西史夏さん
舞台上にはベッドが一台。
その後ろには窓。
裸の男が、ロベール・ルパージュに関する博士論文を仕上げようとしている。
この戯曲の冒頭をト書きにするとしたら、こんな風になるだろうか。
いたってシンプルな、一人芝居の舞台である。
本作の作・演出・出演までこなすワジディ・ムアワッドは、カナダ・ケベック州出身の演劇人である。日本では昨年、『炎 アンサンディ』が文学座の上村聡史により上演され、広く知られるところとなった。私もこの上演を観て、興味を持ったひとりである。上村の演出では、オリジナルでは複数で演じたという主人公の女性を、麻美れいが少女期から壮年期まで一人で演じ切った。
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ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■選評■SPAC文芸部 横山義志
まず、私たちの手ちがいにより、コンクールの結果発表が非常に遅くなってしまって、大変申し訳ありませんでした。観劇後すぐに力作を応募してくださった方々に、謹んでお詫び申し上げるとともに、今後このようなことが起きない体制づくりに努めてまいりたいと存じます。
今回は22本の投稿のうち、半数近い10本が『三代目、りちゃあど』を対象としたものでした。でも、極めて多彩な要素によって構成された作品だからでしょうか、多くの劇評は、この作品の意義を端的に言いあらわすことに困難をおぼえていたようです。その中で柴田隆子さんの【もう影法師はいらない? ~オン・ケンセン『三代目、りちゃあど』】は、この作品の意義を「(1980年代の)消費文化から共に創造するコミニケーションの文化への移行」を目指すものとして、明確な結論を提示できているという点で、群を抜いていたために、最優秀賞に選ばれました。 続きを読む »
2017年7月12日
SPAC秋→春のシーズン2015-2016 劇評コンクール 審査結果
SPAC秋→春のシーズン2015-2016の劇評コンクールの結果を発表いたします。
この度は、審査結果の発表まで、大変お待たせしましたことを、心よりお詫び申し上げます。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せての厳正な審査をしました結果、以下の作品を受賞・入選作と決定いたしました。
(応募数23作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選5作品)
(お名前をクリックするとそれぞれの劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
坂本正彦さん【亡霊になること―クロード・レジの『室内』をめぐって】(『室内』)
■優秀賞■
下田実さん【「劇をする劇をする劇」を観る】(『薔薇の花束の秘密』)
坂本正彦さん【宮城聰の繊細なる挑戦 ~SPACの『黒蜥蜴』をめぐって】(『黒蜥蜴』)
■入選■
平井清隆さん(『舞台は夢』)
下田実さん【「悪徳」のよろめき】(『黒蜥蜴』)
伊豆の元康さん(『黒蜥蜴』)
福井保久さん(『黒蜥蜴』)
小長谷建夫さん【運命の黒枠に縁どられた未熟な恋】(『ロミオとジュリエット』)
■SPAC文芸部 大岡淳・横山義志による選評■
大岡淳
横山義志
SPAC秋→春のシーズン2015-2016 作品一覧
『舞台は夢』(演出:フレデリック・フィスバック 作:ピエール・コルネイユ)
『室内』(演出:クロード・レジ 作:モーリス・メーテルリンク)
『王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの「鳥」~』(脚本・演出:大岡淳 原作:アリストパネス)
『薔薇の花束の秘密』(演出:森新太郎 作:マヌエル・プイグ)
『黒蜥蜴』(演出:宮城聰 作:三島由紀夫)
『ロミオとジュリエット』(構成・演出:オマール・ポラス 原作:ウィリアム・シェイクスピア)
秋→春のシーズン2015-2016■最優秀賞■【室内】坂本正彦さん
亡霊になること―クロード・レジの『室内』をめぐって
淡い光が、かろうじて三日月形に照らし出す空間。すべてに、露光不足の写真のように粗い粒子のヴェールが被さって見える。(実際、『室内』のリーフレットの表紙には、この埃のような粒子のヴェールが被さった写真が使われている。その埃は、床に敷き詰められた砂が煙となって立ち上ったものだろうか。)
人影たちが匿名のまま、緩慢に移動する中、やって来た二人の男が、舞台手前の薄暗がりの中で話し始めるので、三日月形の空間が室内であり、人影たちが家族であること、男たち自身はその家の娘の死を告げに来た使者であることが明らかになる。しかし、その使者たちの声も、抑揚を欠き、不自然な分節が施され、人間らしい感情をまとうことはない。だから、家族も使者たちも、まるで亡霊のようだ。
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秋→春のシーズン2015-2016■優秀賞■【薔薇の花束の秘密】下田実さん
「劇をする劇をする劇」を観る
舞台を見つめながらずっと、自分がサルになったような気がしていた。子どもの頃に聞いた「タマネギの皮をむくサル」のことだ。サルにタマネギを与えると、実を食べようとしていつまでも皮をむき続け、最後には何も残らない……きっと嘘だと思うが、妙に本当らしくて気になってしまう。この舞台も、登場人物の真実を見極めようとするといつまで経っても皮をむくことになる。味わうべきは皮であり、嘘の皮をまき散らす2人の言葉と姿を追うことに楽しみがあるのだけれど。
「薔薇の花束の秘密」には人生に深い後悔を抱く2人の女性=患者と付添婦の嘘と誠を交えながら互いに心を通わせていく姿が描かれる。15分の休憩をはさんで3時間弱、2人のやりとりを堪能した。
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秋→春のシーズン2015-2016■優秀賞■【黒蜥蜴】坂本正彦さん
宮城聰の繊細なる挑戦 ~SPACの『黒蜥蜴』をめぐって
戯曲『黒蜥蜴』で、三島由紀夫は、ト書きによって自身の演出プランを細かく示している。たとえば、冒頭のホテルのシーンでは、並んだABC三室を使う進行が詳細に指示されている。今回、演出を担当した宮城聰は、こうした三島の指示に基本的に忠実である(注1)。ただし、幾つかの例外を除いて。まずは、この例外を通して、宮城が『黒蜥蜴』をどのような芝居として現出させようとしたのか、明らかにしていきたい。
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