劇評講座

2012年11月6日

■準入選■【「人形」から「人間」へ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(宮城聰演出)を観て― 】番場寛さん

■準入選■

「人形」から「人間」へ
 ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―


 番場 寛

 もうかなり昔にパリでその頃評判だったピーター・ブルック演出の『マハーバーラタ』を観たときとは違い、今回の公演では最初から最後まで退屈する瞬間はなかった。SPACの劇では、その前身である「ク・ナウカ」のときから、演ずる人が語らず演技だけを行い、後方に座った人が台詞だけを言う演出は文楽を思わせる。演劇は普通どれだけ演技であることを忘れさせ、リアルな言動であるかのような錯覚を観客に与えることができるかを目指しているのに、この劇団での、俳優が生命を帯びた人形のように動くさまは、演劇の歴史を遡り、演劇の原型そのものに迫ろうとしているかのようで新鮮であった。登場人物が、いかにも作り事であり、絵空事であることがこれ見よがしに演じられている様は、そこで日本の神楽や祭りの儀式を観ているかのような臨場感を与える。 
 今回の『マハーバーラタ』では、昨年鳥の劇場にて上演された『王女メデイア』よりも更に複雑な構造をとっていた。神々なのだろうか、面を被った人物たちと、動物の面を被った人物、張り子の動物たちなど、まるで人形が人形を使っているかのような重層構造をとっていた。
 なぜ演出の宮城聰はこうした「作り物」的な演出を意識的に推し進めているのだろうか?その演劇的効果とはいったいどういったものなのだろうか? それはこう思う。いわゆる「劇を演じる」という意志と行為を可視化することで、「演ずる」という行為を隠すのではなく、逆にそれを露わにすることによって生まれる感動を狙っているのではないか? ちょうどそれは作物の豊穣や民衆の健康と安全を神に願って行われる宗教的儀式に似ている。実際、能も大木の前で演じられ神に捧げられたことがあると能楽師から伺ったことがある。古代ギリシアで、劇が演じられたときもこんなだったのだろうか?

物語の形態学
 さて、劇の内容についてはどうだろう。美しい妻と二人の子を授かり、国を支配していたこれ幸せの絶頂の王がふとした気の迷いから賭博に浸り、自分の持っていたすべてを失う。自分のふがいなさに嫌気がさし、自分と一緒にいては不幸になるばかりと考え、眠っている妻の服の片袖をこっそり切り取り、それを持ったまま流浪の旅に出る。様々な変遷の末、賭に勝つ魔力を授かり、最後はまた全てを取り戻すという波瀾万丈ともいえるし、失ったものを再び取り戻し、離別した主人公たちが再会するという点だけみれば、ごく単純な話にも思える。ロシアの昔話を分析し、すべての話を登場人物の機能に分解し、その構造が全て人物の31の機能の組み合わせによって成り立っていることを証明したウラジーミル・プロップの公式はおそらくこの『マハーバーラタ』にも当てはまるであろう。ナラ王が最後に妻と再会し、賭け事に勝ち国を取り戻すことは、「発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される(定義は、「不幸・欠如の解消」。記号は、K)」(『昔話の形態学』)という機能に分類できるだろう。
 ではこの宮城聰の演出の素晴らしさはどこにあるのであろう。一つは打楽器の演奏者の音だけでなくその身体性までもを観客に披露したことであり、台詞を語る人と演じる人を分けるだけでなく、時には演じる人までもが自分自身の台詞を発するという普通の劇で行われている当たり前のことが、今回の劇では驚きとなって感じられる。

野外劇場という「場」の特異性
 演劇では、いったいどこまでが劇場なのだろう? 舞台は勿論だが、劇場の建物、それを取り巻く環境全てであろう。野外ステージの場合は空の色、暗くなってからは月の光やライトを当てられた木々、冷たい夜風、虫や鳥の鳴き声、客席の赤ん坊の泣き声さえも、まるで京都の庭が採用している「借景」のように、観客の反応までも含めたその場で起きていること全てが装置として機能していた。この劇の本質は、張り子の動物や仮面など、これみよがしの「作り物」と、人形のようにうごく俳優と、それらを説明する「語り」を通して、「ナラ王」の物語を観客自身が完成させようとする想像力そのもののうちにあるのだと思う。
 美加理の演ずる美しい王女は眼が大きく表情を変えないか、変えていても見えないように演出されており、見えない人形遣いによって操られているかのような動きに見える。そうした語りの中で動く人形が突如として生々しい肉体を露わにしたのが、没落したナラ王が彼女のもとを去るとき、名残として眠っている彼女から切り取り持ち去る服の片袖を切り取ったときである。白く肉感的な彼女の腕がさらされたとき、人形としての可愛らしさ、動きは変わらないまま突如として彼女は人形から人間の女へと変身した。それは今回の作品で、「語り手」とは別に王女を演じる美加理自身の口から自らの台詞が発せられた演出とも重なる。「形態学の公式」に当てはまる機能を果たす人形の物語が、一挙に人間の物語へと変貌する瞬間をも見せてくれた。

 (参考 ウラジーミル・プロップ 北岡誠司他訳『昔話の形態学』 水声社)

2012年6月25日

■入選■『少女の十字架』鈴木麻里さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■入選■

少女の十字架

鈴木麻里

 継母はなぜ自死したのだろうか。
 こぶ付きで転がり込んできて無理難題を言いつけた挙句に少女を家から追い出してしまったのは、連れ子をこの家の唯一の娘として幸せに育てるためである。少女のフィアンセである王様に薬を飲ませて彼女を忘れさせたのも、愛娘と結婚させるためだった。馬丁がこの娘の正体を亡き子の似姿の蝋人形だと知っても母は動揺を見せず口止めし、王様と人形との婚姻成就に努めることをやめなかった。少女が劇の演し物になぞらえて王様の記憶を取り戻すのを阻もうとしていた。
 それが何故か、王様自身が舞台上に立っておりもはや上演を止めることは叶わないと知るや、喚きながら去ってしまう。王様が本物のフィアンセは少女であると思い出した頃、馬丁の台詞で最期が告げられる。継母は身を投げ、蝋人形は落下して砕けたと言う。

 母親の発心は、限りなく不可解に映る。この王様を奪えないならば、今度は隣国の王様でも何でもそそのかすべく、直ちに人形を抱えて出立すればよい。他でもないこの王様と娘を結婚させることがかねてから人生の最終目標だったのならばもう少し王様と縁故のある家へ潜り込んでいれば良さそうなものの、市井の肉屋とわざわざ冒頭で結婚しているあたり、どうもそうは考えにくい。
 この役は男性によってパワフルに演じられており、『伽羅先代萩』の八汐等、歌舞伎の上演で女の敵役を立役が務める慣例を連想させる。そうすることによって線の細い女形が演ずるより凄みが出るとの言にも頷けるが、男の敵役に比べて女の敵役は例が極端に少ないことからも、悪い女を描くことへの忌避が念頭に上る。立役が演ずることにより、「これは女であって女でない」というエクスキューズが付与される。

 少女に残忍な仕打ちをする継母であると同時に、彼女は献身的な実母である。蝋人形に優しく語りかけ、幸せにするべく尽力する。この義理の妹は背格好が不思議に少女とそっくりであり、劇中、多くは舞台奥の白い幕に映る影で表された。少女の姿と義妹の影がぴったり同じ形状で重なり合う場面や、お人形そのものを少女役の俳優が演じる場面があった。虐げられる継子と溺愛される実子の奇妙にも寸分違わぬ姿は、あの蝋人形が実は少女を象ったものであることをほのめかしている。
 母性の持つ包含性は、子どもを丸ごと抱きかかえ慈しむこと無限である様な肯定的な面を持つとともに、子どもの自我の芽を呑み込んで混沌へ退行せしめ終には死へ至らしめる恐ろしい顔も持っている。初版グリム童話で白雪姫をお城から追い出したのは実の母親であった。継子譚に現われる継母とは「母であって母でない」というエクスキューズを付与して語られる、母なるものが元来持つ姿なのである。

 実母の死によって示唆されているのは、思春期を迎えた少女の中で母親の絶対性への信頼が揺らいだことであると考えられる。継母が彼女に無理難題を言いつけたのは、それを察知した焦燥に発するものではないだろうか。懸命な躾が高じたものとも取れる。少女にそっくりな人形をかわいがるのは「昔はよかった。小さい頃はあんなにかわいかったのにね」と言う、しばしば人の親が漏らすあの恨み節であると同時に、子を慈しむ今も変わらぬ情の表出である。
 家からの追放は、「そんな子はうちの子じゃありません。出て行きなさい」と言う、あの常套句を想起させる。本当に子どもを追い出すわけではない。この少女も、家を出た後、フィアンセに忘れ薬を飲ませると言う手段で義母に干渉されている。未だその段階では、物心双方に於いて親の手の届く範囲で彷徨っているに過ぎない。

 継母からの理不尽な仕打につけ、家を出てからの身寄りのない境遇につけ、少女は概して運命を受容することによって乗り越えていった。片付けられそうにない言いつけに「絶対に無理……」と一人で呟いたり、森の小屋でひっそり泣いたりはするものの、声を上げて親に刃向かったり家に戻ろうと画策したりすることはなく、出来事に対して淡々と心を動かしていた。
 自発的な行動をし始めるのは、冠を探しに行って帰らぬ王様を探し、ついに宮殿まで尋ねて行く場面である。別れ際に受け取った彼のシャツの切れ端を見せるも、王様は少女を思い出さない。義母の命で放り込まれた牢屋には、旅の役者たちがいた。少女は彼らとともに王様の御前で芝居を上演することになる。

 彼が本物のフィアンセを思い出す様に、彼女は役者たちのレパートリー台本を書き直しはじめる。ペンはみるみるそのスピードを速め、震える様に動いた。「出来た……」と口にする少女は、両の腕を掲げて空を仰いでいた。運命をその本分とする親子結合に直交する、意志より成る男女結合の小さな枝をすっくと差し伸べた瞬間に思われた。
 王様が記憶を見事取り戻すに至って、継母の死と義妹の粉砕と相成る。少女を呑み込もうとする強烈な鬼の影は去り、お母さんの手から離れたことがなかったかつての少女は喪われた。

 父との邂逅を経て物語は終幕へと向かう。もうお話することが無くなったからである。
 少女は次なる母へと変身を遂げた。いずれ、身中から分離していった我が子を大きく見開かれた眼で見つめる時が来る。物語ははじまりから、子々孫々繰り返されて行く。

参考文献
河合隼雄『家族関係を考える』(1980年9月、講談社)
同『昔話と日本人の心』(2002年1月、岩波書店)
金田鬼一訳『完訳 グリム童話集5』(1979年11月、岩波書店)
G.K.チェスタトン(福田恒存・安西徹雄訳)『正統とは何か』(1973年5月、春秋社)

■準入選■ 永田なづなさん  『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

永田なづな

 物語の中盤まで圧倒的な魅力で観客を惹きつけるのは主人公の継母である。彼女は強烈な意思をもち、白く平面的な舞台を極彩色に染め上げる。自ら物語をパワフルに造り出し観客の心を掴む。継母の所業が残虐であることは否定しようがない、しかし彼女は登場人物の誰より世界と真剣に関わっているようにみえる。
 それに比してヒロインや王は紙人形のごとくどこか頼りなく魅力を欠いている。感情はあるが意思が感じられない。白い衣装にも白い舞台にもそして彼等の白い貌にも色彩は乏しく茫漠としている。恋をしてもどこかおままごとのよう。しかし彼等は生まれながらのヒロイン、ヒーローであり、少女は美しく素直、王は高貴で勇敢だ。舞台上でもみな彼等をヒロインとヒーローとして遇する。彼等は大して望まずとも脇役が先回りして助けてくれる上げ膳据え膳といったような人生を歩む。彼等は決して怠けているわけではない。少女はけなげに生きている。王は気高く生きている。
 何か、おかしい。私はこの美しい作り物の舞台を期待して劇場に足を運んだのではなかったか。折り紙のような美しい非現実の舞台。人形のように美しい貌と肢体を人形のようにぎこちなく動かす女優。身体に遅れをとって紡がれるたどたどしい言葉。暗転などの演出によって絵画のように切りとられる光景。2011年宮城氏演出の『少女と悪魔と風車小屋』を観て満足し今回も期待していることが目の前で起こっているのではないのか。私は何を求めているのか。
 ヒロインとヒーローへの物足りなさは継母が力強く彩ることによって補われる。そうか、これはおとぎ話なのだ、主人公が浮世離れしていても人間としての存在感に欠けていてもしょうがないのだ、と思いかけたとき、物語は大きく動き出す。
 少女は王宮の牢獄に囚われそこで旅の一座(いくらも団員はいない)と再会する。ヒロインはまたも都合よく旅一座に助けられる訳だが、この先がこれまでとは大きく違ってくる。ここへきてヒロインは自ら考え、行動し始める。少女は旅一座が王族の前で披露する劇中劇に出演することになる。少女は旅一座の脚本に手を加え、王と少女のいきさつを再現する。ハムレットの『鼠捕り』のように……。
 そして劇中劇に取り組むシーンで少女は呆気なく主役の座をあけ渡す。劇中劇のではない、この劇自体の主人公の座をあけ渡すのである。ただその座は誰に譲られたというでもなく、いきいきとした群像劇が繰り広げられる。意思薄弱でつまらないヒロインは意思をもち行動し始めた途端に魅力的な群衆のうちの一人となる。
 少女は全く新しい物語をつくったのではない。ただ王に真実の物語を追体験させただけである。けれど紛れもなく自らの物語を創り始めたのだ。自分の人生を歩み始めたといえばよいだろうか。これまで与えられた、ヒロインとしての人生、身も心も美しく生まれ、白馬の王子様に出会う。おとぎ話の必然にただ流されるように、そして持ち前の気質にもれなくついてくる特典を享受するだけで生きてきた少女が初めて王の愛を取り戻そうと、泥臭い真似をする(演劇が泥臭いというのではありません、念のため。)。すましてなんかいられないとばかりに。おとぎ話の主人公がこれまでの役回りを手放して、スポットライトの外へ出てまでして、ただ一つのものを得ようと動き出すのだ。それはまるで、地位も名誉も失って国を追われた勇者の冒険譚の始まりのようで、いきいきと動く少女の姿に心動かされ、物語は大団円に向かいつつあると理解しながらもワクワクしてしまう。
 少女と対照的に力と色を失った継母の最期は舞台では演じられず、観客はただ演者による報告をきくのみだ。あのように強烈なパワーを持った継母が呆気なく身を投げることに俄には納得がいきかねた。しかし思えば彼女の娘がコッペリア紛いの人形だったことが暴かれたときから、彼女の拠り所はずっと以前に喪われており(本当の娘はずっと以前に亡くなっていた)彼女の強烈な力がひどく危ういものの上に成り立っていたことは判っていたのだ。虚勢さえはることができなくなったとき、彼女は儚い露と散るしかなかったのかもしれない。
 最初頼りなく退屈にみえた少女は欲するものを見つけてそれを得るべくはばたいた。かたや力強く魅力的にみえた継母は、実は一番大切なものを喪いながらそうと認めることさえできず亡霊とダンスを踊っていたのだと判る。
 人は優しい。悲しんでいる者がいれば同情するし、余裕があれば助けもする。けれど、それは無限の優しさではない。また余裕というのは不思議なもので、ありそうなところになかったり、なさそうなところにあったりする。週末に劇場に来ているからといって余裕の欠片ももちあわせていない者がここに居るのに、舞台に目を向ければ、庭師を始めとする脇役達はさして恵まれた境遇でもないのに主人公たちの世話をやき、天使に至っては忙しいことこの上ないはずなのに、度々登場しては一晩主人公の仕事を肩代わりするのだ。また人は嫉妬もする。多くを持つ者がいれば、羨み、苦労もなく多くを得る者があれば嫉妬する。自分の中の醜い感情と向き合いたくなければその感情を封印することもできる。そして共感することも封印してしまう。主人公が欲するものを自分の手で掴みとろうと動き出すまで、私が主人公に共感できなかったのはそういうことだろうか。
 他の人の感想が気になりだして会場で配られた解説を手に取る。少女の英明さをコルベイ氏が指摘している。ああ!もしや私がうとうとしている間に少女は静かに闘っていたのだろうか!そう、私は舞台前半、まどろむ度、演者の歌に起こしてもらっていたのである。
 前半、重い瞼と格闘していた私が何故無責任にも劇評を書こうと思ったのか。後半すっかり目を覚まし、ちゃっかり感激したためと、そして昔デッサンの教師が言ったことばを都合よく覚えているからである。「半眼で観たほうが、はっきりすることがある。」

■準入選■ 深澤優子さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

深澤優子

 1月28日の「少女と悪魔と風車小屋」を観劇した。
 劇場入口で演出家の宮城さんが出迎えてくれる。きらきらした目の、きどりのない小柄な人だ。「この人はかわいいものが好きそうだなー」と思いながら入口をくぐる。
 柔らかな光に照らされた舞台は隅から隅までが白い。舞台上左側に打楽器を中心に、楽器が並べられている。舞台装置は折り紙の手法で構成されているので直線的な印象であり、巨大な白い壁が正面にある。グリム童話を下敷きにしたこの劇が記号と隠喩に満ちたものであることを予感させる。だが、それよりも、私の注意を引いたのは、舞台上、右手におかれた、白い折り紙で作られた木きな角のある鹿のオブジェである。これは、ただの「童話に登場する森の鹿ではなかった。この鹿は役割を三転し、後に天使の起こす奇跡を舞台に現出する仕掛けとなった。
 舞台袖の白い衣装の役者たちによる生演奏は祝祭的で賑々しい。音楽に応じて現れた一人目の登場人物、風車小屋の娘の父親は、やはり白い衣装である。そしてロボットのように、平板に不自然にしゃべる。動きもロポットのようである。男の妻も(これは男性が演じていて迫力があった。古典的でもある。)他の登場人物もみな、衣装は白で、平板にしゃべり動く。後に出てくる少女も庭師も王子も、出演者の衣装はみな白だ。動きも発声も意図的に統制され制限されている。不自然な姿勢でのストップモーションでせりふをしゃべる場面の連続を可能にするのは演技者の鍛錬であろう。
 舞台では余分な動きも、色彩も排除されている。その分、デザインも素材もより注意探く作られていて、観客は舞台上の仕掛けや演出家の意図にきちんと気づくことができ、何度も謎解きの楽しさを味わうことになる。
 巨大な白い壁はいつしか大きなスクリーンになり、そこに写った父親の薄い影は、いつのまにやら、黒く顔を塗った悪魔にすり替わっている。不古な悪魔の出現は実に巧妙に演出されており、観客は思わずしらずぞっとする。この瞬間、黒は白に対するもう一つの色彩となり、存在となる。口数少ない父親に対し、悪魔は饒舌だ。父親はいつの間にか風車小屋にいる自分の娘を悪魔に与える契約をさせられてしまう。だが、少女は悪魔にたった一人で抵抗する。少女が描く水の結界の輪は光の円で表現される。悪魔に命じられて抵抗する娘の手を切る父親が現実に手に持っているのは鈴である。だが、スクリーンに映しだされた父親の影が手に持つのは斧である。斧の記号としての鈴が鳴るとき、少女は両手を切られてしまう。もちろん、白い舞台に赤い血が流れるわけはなく、少女は無感情に「いたいわ、おとうさん」と叫ぶ。それでも観客はこの場面の残虐性に打たれる。舞台では、実在と影、善と悪、天使と悪魔、虚と実、が対立したり、交わったり、次々に柔軟に入れ替わっていく。
 手を切り落とされた少女が家を出ることで物語は俄然動き出す。
 折り紙の鹿の位置を出演者がずらして光線の角度を調整すると、白いスクリーンに映る鹿の角の影は梨の木である。その木には光でできた梨の実が実り、少女はその梨で空腹を満たす。そして、梨園の主であり運命の相手である王と出会う。二人の間には玉のような男の子が生まれる。やがて、悪魔の悪巧みで殺されそうになった子どもの身代わりとして「鹿」は殺され目玉をくりぬかれ舌を切られる。だが、鹿は退場せずそのまま舞台上にある。鹿の角の影はもう一度角度を変えて、子どもを連れて森に逃げ込んだ少女の隠れ家になるのである。
 少女は天使に困難の度に、食べ物を、家を与えてくれと無邪気に祈る。だが、それははじめから舞台の上に準備されていたのである。ただ、天使はそのありかを示すだけだ。奇跡はいつもすでにそこにあるのだ。
 少女は言う。王は王冠をかぶっているから王なのではないと。王は王であるから王なのである。とするならば、手を父親に切られ、勇敢にも一人荒野をさまよう少女はあらかじめ王の后になるべくしてなったのかもしれない。風車小屋の娘が王妃になるなど、まさに奇跡の範疇である。
 世界は奇跡に満ちている。奇跡は世界のあちこちに、当たり前のように私たちのために準備されている。
 私がこの舞台から、受け取ったメッセージだ。見終わった後、おいしい西洋菓子を食べたような幸せな気分になる。自分がいつかみたいと思っていたのは、こんな舞台だったような気がふとする。
 その気分を乱されたのは、7歳の王子の声が成人男性の声であったときと、風車小屋の父親(この人は声優のような特徴のある声の人だ)の役の人が別の配役で出ていたときの2回だけだった。

■準入選■蓑島洋子さん 『グリム童話~本物のフィアンセ~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

蓑島洋子

 演劇って何なのか。
 感動的な物語を伝えるもの。登場人物になりきって演じるもの。誰かの人生を疑似体験するもの。強い思想を訴えて納得させたり説得したりするもの。テーマを提示して考えさせるもの。身体の表現、舞台や衣装や光の美しさ。難しい概念をわかりにくく練りこんで惑わせるもの。
 演劇とは何なのか。目的は、役割は何なのか。誰のためのものなのか。

 私は何かを求めて劇場に向かう。少しだけ心を揺さぶられること。自分の奥で眠っていた気持ちが目を覚ますこと。感動すること。新しい発見をすること。不快になること。反発すること。だいたいの場合は、期待していたことと実際に感じることとは違っている。それでも、創り手は何かの意図を投入しているものだと思って作品を観る。そして何らかの手ごたえを感じることができれば、観劇したという実感と満足感が持てる。

 この作品から感じたものは何だろうか。

 「グリム童話~本物のフィアンセ」のストーリーは、少女が度重なる苦難を乗り越えて、王様と結婚するというハッピーエンドのお話だ。
 母を亡くした少女は、父が再婚して新しい母親と妹と暮らすことになる。継母は少女を追い出すために無理な仕事を与えるが、「働く子供のための天使」が現れて少女を助けてくれる。継母は少女のせいで父親が死んだと嘘を言い、とうとう少女を追い出すことに成功する。少女は庭師とともに森へ逃れ、やっと泣くための夜を見つけたと言う。
 そこへ王様が現れ、少女と恋に落ちる。少女と結婚する約束をして森を離れたが、継母に「忘却の水」を飲まされ、少女のことを忘れてしまう。王様は実は人形である少女の妹に恋をして、継母の言いなりに戦争を始める。
 森で待っていた少女は、戻ってこない王様を追って自ら探しに行く。少女は継母に投獄されるが、役者たちの助けを得て、王様の記憶を取り戻し、二人は結ばれる。

 物語の展開に楽しみを見出そうとするのならば、この作品のストーリーそのものはシンプルで退屈だ。かわいそうな少女に同情しようにも、少女が受ける苦悩は、周りの助けを借りたり自らの力を発揮したりして、次から次へとあまりにもあっさりと解決され、むしろ少女のしたたかさが目立つくらいである。
また、登場人物のキャラクターは魅力的で楽しく目を奪われるのだが、彼らのインパクトは強烈で、ストーリーが吹き飛ぶくらいの存在感である。セリフなのかアドリブなのか。演じているのか役者自身の顔なのか。敢えてカツラを取ったり、衣装の名札を見せたり、舞台スタッフ役が登場したりして、役者が演じていない姿を見せることで、ストーリーに没頭しそうになるのを押し戻される。
 他にも特徴的な表現のひとつとして、たびたび静止した場面が登場するが、これは絵本を一枚ずつめくるように情景が目に飛び込んできて、動く映像を見る以上に状況を想像できる。想像の中では絵と絵の間まで大げさにイメージができあがり、ますますのめり込まされる。それなのに、王様と馬丁の登場によってイメージが停止する。二人の場面は不自然な姿勢をキープしてセリフを言い、滑稽にも見える。ストーリーに引き付けられては、突き放されるのである。

 また、舞台での生演奏も印象的である。こちらがハラハラしたりドキドキしたりする感情を誘導するように鳴らされて、ストーリーの展開に引き込まれることをコントロールされているかのようだ。そうかと思うと、さっきまで舞台にいた役者が演奏に加わっている。彼らが役から解かれて演奏する姿は、舞台上で進められていることが演じられた世界、偽の世界であることを強く意識させられる。そしてたぶん、演奏者という役を演じているのである。
 同様に劇中で俳優たちが芝居をしてみせる場面があるが、これもまた演じることを演じるという2重、3重の行為によって、舞台上の演じられた世界について意識を向けさせられる。

 役者が演じないこと、静止画による進行、生演奏、演劇の中で行われる演劇、その他いくつかの手法が、一見演劇の可能性を模索するように登場するが、そのこと自体は目的ではないのかもしれない。それらは単なる羅列であり、この作品の本質的な狙いは別の何かなのだろうか。

 「このバラはなぜこんなにも美しいのか」
 劇の冒頭で少女は言う。その答えを切望している。それは美しい心の少女の目に美しく映ったからなのか。少女のために母が自分のお墓に美しいバラを咲かせたからなのか。バラが咲くことそのものが、美しいということだからなのか。
 でも、もしもそんな理由に意味などなくて、そのバラは「なぜ美しいのか」を考えさせるためにそこに存在しているのだとしたなら・・・。

 「演劇って何なのか」
 おそらく演劇を創ることに係わるすべての人たちが、そのことを問い、可能性を求めてさまざまな作品が出来上がっている。演劇を観る私は、作品にちりばめられた答えに触れようと目を凝らす。
 でも、この作品に答えはなくて、そのこと自体を問うために在る作品なのだとしたなら。

2012年6月19日

■準入選■ 渡邊敏さん 『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作)

■準入選■

渡邊敏

 グリム童話やシャルル・ペローの童話には、こどもの頃の絵本に始まって、長い間親しんできた。お姫様に王子様、魔法使いに巨人、毒りんご、豆の木・・・などなど。何度読んでも楽しいのは、苦難の果てにはハッピー・エンドが待っていて幸福感が味わえることと、残酷なものや、わけのわからないもの、深遠なものが混じっているせいかも知れない。

 先週見てきたお芝居は、グリム童話の「手なし娘」をもとにしたもの。脚本はフランスのオリヴィエ・ピィ氏。SPACの舞台は折り紙づくりの純白の世界だった。折り紙の木々や動物には無邪気さや遊び心とともに、洗練された神経の細かさも感じられて、こちらの神経もぴりりとする。現代のグリム童話の舞台には、昔話の大らかさや土の匂いはなく、美しく静かで、ひんやりしている。
 舞台も衣装もすべて白の、白一色の世界に、様々なものが浮び上がる。白は乙女の純粋さや無垢のように輝き、また、毒気や悪意のようなものも、白をバックにじわじわとにじんで来る。登場人物は生身の人間というより象徴的な存在のようで、ときどき紙芝居の絵みたいに停止したり、操り人形みたいに動いたりする。
 英語版のせりふも片隅に表示されていて、見ていると英語の方が日本語より低温に感じられる。この真っ白な舞台に英語のせりふが響くのを聞いてみたいと思った。

 お芝居は、粉引きの男が悪魔と契約する場面から始まる。薄闇からそおっと立ち上がる悪魔。男は、悪魔のささやきに、小声で、モールス信号みたいに単調に答える。心が死にかけているみたいだ。
 悪魔に命じられると、男は、娘が描いた魔除けの円も消してしまうし、とうとう娘の両手も切り落としてしまう。こういうことって、もう、私たちの日常になってしまっている、と思った。わが子の将来のために(あるいは自分のために)親が子どもを作りかえる。または、自分で自分の一部を譲り渡す。金持ちになった粉引きは、手を失った娘に、このお金で一生面倒を見ると言う。でも、娘はひとり、放浪の旅に出る。本当の人生、本当に生きるということの象徴だと思う。

 グリム童話の書かれた時代には、この物語にはそのままの意味があったかもしれない。ヨーロッパには魔女狩りや魔女裁判があったから、「悪魔との契約」は現実で、最後には聖なる力が勝つというお話。
 現代では、この物語は、社会のシステムや、世界を覆う不安感、無力感に流されずに、「本当に生きる」ことをすすめているようだ。たった一人で森の中をさまよう時、頼りになるのはもともと体の中にそなわった知恵、直感、内なる声のようなもの。「私の足は私より賢い」、そう言って森に入っていく娘。

 そうは言っても、今は、悪魔の誘いにのる方が当たり前に見える。人生に妥協はつきもの。自分の心に問いかけ、心の声を聞くのはやめて、大きな力に従えばうまくいく、楽に生きられる。それは、賢い処世術かもしれない・・・でも、物語は注意する。両手を切られちゃうよ、と。
 ひとりでさまよい、自分の足で歩いたごほうびは、成長、知恵。物語の結末、娘には新しい両手が生えていて、彼女自身も、森の女王か、女神のように輝かしく、威厳と知恵に満ちている。

 森は、自分の心とか、魂の深さを表していると思う。私にとっては、森に入るのが一番難しそうだ。ずっと自分の外に気を配って生きてくると、内なる声を聞き、足にまかせて歩くなんて、よくわからない。たぶん足だって麻痺しているだろう。森へ入るには、まず、心の中の要らないものを捨てなくちゃ。

2012年1月20日

『オイディプス』(小野寺修二演出、ソポクレス作)

カテゴリー: オイディプス

■準入選■

小野寺修二「オイディプス」について

仲田あゆみ


例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」は、古典絵画として余りにも有名だ。モナリザは初めコローなどの画家によって捧げられてきた主にオマージュの対象だったが、現代では多様な変容を遂げるに至った。マルセル・デュシャンによって髭を付けられ、アンディ・ウォーホルによって複製され、その後も多くの作家によってコラージュされ加工され、日々新たなモナリザが生み出されている。モナリザは、最早美しくも謎めいた女性の肖像画であるだけでなく、作家にとっては切り貼り自由でアレンジ自在な恰好のモチーフとなっている。数多くの、言わば亞流のモナリザが一堂に会す展覧会が企画される事さえある。

それと同じような事が「オイディプス」にも言えるだろう。ギリシャ時代より現代まで数え切れぬ程演じられ、様々な媒体に影響を及ぼして来た演目であるが故に、それら無数の「オイディプス」や他のギリシャ悲劇、その派生作品と同じ舞台に上がる事にもなる。小野寺修二が「オイディプス」を演目として選択することは、挑戦である。台詞を必要としないパントマイムの出身である彼が敢えて「オイディプス」と云う台詞劇を選ぶのだから、尚更のことである様に思われる。実際、小野寺の手によるこの舞台には多くの試みがなされている。以下では紙幅の都合により、その一部について述べたい。


小野寺の「オイディプス」には観客の意表を突く表現によって演じられる場面が多々ある。その一つは、特に映像においてはよくされる表現だが、登場人物の心理描写である。オイディプスが、かつて三叉路で口論の末に殺害した人物が先王ライオスかも知れないと疑う場面では、舞台上でオイディプスの心理が具現し展開する。過去が思い起こされる度に三叉路が舞台に出現し、問題の出来事が再現される。オイディプスは幾度もライオスと対峙する、或いは対峙させられる。オイディプスが自身の記憶の中にある三叉路に紛れ込むくだりは時に唐突だが、同時に観客も心象風景に巻き込まれる事になり、効果を上げている。それによりかえって、不吉な預言を裏付ける出来事が次々と明らかになっていく過程における登場人物の混乱や葛藤を体験する事になっている。

一つの役を三人が次々に演じ、かつ、それぞれが個々のキャラクターを主張する演出もある。オイディプスの妻イオカステは、イオカステの二人の侍女も加わり三人で演じられる。三人が一連の台詞を口々に述べる。イオカステに話かけようとする伝令が、三人のイオカステのうち誰に話したら良いのかと迷う場面もある。観客は演出の効果としてごく自然に受け入れていた約束事との間で不意に生じたユーモアに笑う。オイディプスを演じる三人もまた、常に三人が同じ場所にいるわけではなく、一人のオイディプスが喋っている間に、別のオイディプスが別の場所で何かしていたりする。演劇独自の面白い表現である。


小野寺はオイディプスの運命を余り隠さない。「オイディプス」と云うギリシャ悲劇を知らない観客に対しても物語の輪郭が判るように、時にははっきりとオイディプスの素性や運命を説明する場面を劇中に設けている。

興味深い事に、観客は二重の視点で以て観劇する。私たちはオイディプスに共感することで、神託に翻弄されるオイディプスの視点に近づく。それと共に、劇中のオイディプスが未だはっきりとは知らないうちから、オイディプスの意志に反して神託の通りに全ての物事が運んでいる事を知り、結末を期待してもいる。それは観客がオイディプスの宿命を預言する神々の視点にも近づき、その世界を受け入れる事をも意味しているのではないか。

ギリシャ悲劇が観客を招き入れようとしている世界は神々の世界である。「人間の手によっては変えようのない宿命が存在する」と、悲劇「オイディプス」は我々に伝える。しかも、神々が下す宿命は、本質的にはオイディプスの過誤によりもたらされたのではなく、理不尽極まりない。オイディプスは努力によってそれを避けようとしたにも関わらず、どうしても避けられない。神々は終始一貫して彼を救おうとはしない。神々の僕たる預言者もまた、オイディプスに如何なる未来が待ち構えているのかを知りながら非協力的だ。観客が舞台に関与できないように、誰も彼を救う事は出来ない。神々は一体何故オイディプスを悲惨な運命に陥れるのか、それは判らない。究極的に世界は不可知である。人間の目から見れば計り知れないと結論するしかない。

現代において「オイディプス」が演じられる事にどの様な意義があるのか。小野寺は饒舌にも観劇の意味を劇中で語っている。福田恆存の『人間・この劇的なるもの』からの引用である。以下では部分的に要約しながら記す。

「オイディプス」が演じられる事は、「全体感の獲得をうながすものにほかな」らない、と彼は言う。「路傍の花」が私たちに季節を知らせる様に、オイディプスは神々の世界の存在を知らせる。私たちはオイディプスによって導かれ、「全体」を、即ち世界の神秘を体験しようとするのだ。「それは自己と対象とのあいだに、あるいは自己のうちにある自己の情念とそれを否定してくる外界とのあいだに、調和と均衡とを保とうとする試みである。いってみれば、違和感の消滅にほかならぬ。」神々の手を離れようともがき葛藤するも、自ら運命の扉を次々と開き、必然の破滅へと向う。人間の自由意志で行っているように見える物事ですら、ことごとく神々の手中にある事を証明する。それこそ「個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである」……。

小野寺による「オイディプス」が成功したと言えるならば、少なくとも観客は、人間には計り知れない神々の存在する不可知の世界において生き、そして破滅の道を辿るオイディプスの悲劇を経験し得た筈である。

『ガラスの動物園』(ダニエル・ジャンヌトー演出、テネシー・ウィリアムズ作)

カテゴリー: ガラスの動物園

■準入選■

ジャンヌトーさんの「ガラスの動物園」

渡邊 敏

「欲望という名の電車」という映画を見たのは、高校生の時のこと。偶然テレビで見た白黒映画は、繊細さと暴力的なものがいっしょになった映画で、主人公のブランチが哀れでならなかった。そのとき、テネシー・ウィリアムズという人の名前は、荒々しさと、猥雑さ、美しさといっしょに私の中に記憶された。

二週間ほど前、長い間忘れていた彼の世界に久しぶりにひたった。「ガラスの動物園」のリーディング・カフェ。そうそう、この感じ、と体が思い出していた。台詞を声に出して読んだだけなのに、頭の中がぐるぐるし出し、終わった時には作品を「見た」ような満足感があった。不思議。それから、舞台も見に行ってしまった。10月29日、土曜日。

薄暗かった舞台に灯りがつくと、白い四角があった。紗、のようなうすもので囲われた空間。床も綿布のようなものが厚く敷き詰められ、裸足で歩いたら気持ち良さそうだ。
ああ、これは「テネシー・ウィリアムズの」ガラスの動物園じゃないんだ、と思う。
ミニマルで美しい舞台装置にはアメリカ南部の匂いはないし、ローラは色味のないメーク、衣装で、透明に近い雰囲気で、ひっそりとしゃべり、息をし、歩く。弟のトムは「多感な青年」ではなく、人生を知り尽くしたような中年男が語り手のトムと若かりし日のトムの両方を演じている。

母親の解釈も、ずいぶん違っていた。ちょっと時代遅れで、見栄っ張りだけれど、娘を愛している、ごく普通の母親を想像していたのだけれど、ジャンヌトーさん演出のアマンダは病的で支配的、神経衰弱ぎりぎりのようだった。ローラを問い詰めたり、トムにコーヒーの飲み方までとやかく言ったりするところでは、この家の不幸の根源はこの母親なんじゃないかと思える。「お客様」をお迎えする日の、踊り子みたいな黄色の衣装は、痛ましくて笑えない。「ガラスの動物」って、この家族3人全員のことだったのだろうか。じゃあ、あの真綿の床はクッション材?

こんな時代だから、ローラがタイプ学校をやめたことがバレて母親になじられるシーンは、重くて、身につまされた。人並みの生活を送れない娘に「この先どうするの」と問い詰めるのを聞いていると、ひきこもり、ニート、という言葉が浮かぶ。ローラが学校に行くふりをして、一日中歩き回り、植物園や映画館で時間潰しをしていた、と打ち明けるところでは、リストラされたことを家族に打ち明けられずにいるサラリーマンを連想した。今の日本だからこそ、そういうテーマの作品、と思う人もいるかもしれない。

このお芝居の圧巻は、暗闇の中、蝋燭のあかりで、ローラがジムとダンスし、キスし、一瞬のロマンスを味わった後、夢破れるシーン。リーディング・カフェで読んだときから、どんな風に演じられるのか期待していた。私が思っていたより、ずっと抑えた演技で、ローラの顔は、静かで、でも、内にぽっかり穴があいたようだった。

こうして戯曲や舞台にふれてみて、想像力というものの楽しさ、すごさを感じた。ジャンヌトーさんの舞台は、私の想像とはちがう世界を見せてくれて、あの白い空間は、トムの回想の空間であり、ローラが安らいでいた純白の繭のようでもあり、世間から隔絶した家族の空間でもあり・・・。その中に、トムだけは靴をはいて入り込んでいて、あれ、と思う。ベールのような幕は、「お客様」が現れてドラマが起こる兆しに、はたはたとはためき始め、ドラマが起きると、もう乱れたままだった。

終演後、ジャンヌトーさんは「芸術は安心させるものではなく、人の心を揺るがすもの」と語っていた。始めから終わりまでひりひりする舞台。でも、痛さも心地いい。
ローラはあの後どうなったんだろう、と想像しながら、帰りのバスに揺られた。遠くの町の灯りが、舞台に置かれていたガラスの動物みたいに輝いていた。普通の人々がねがう「人並み」の幸せが訪れなかったとしても、まだいくつもの美しいドラマが彼女には訪れたにちがいない、と思った。

観劇日 2011年10月29日

2011年12月26日

『ガラスの動物園』(ダニエル・ジャンヌトー演出、テネシー・ウィリアムズ作)

カテゴリー: ガラスの動物園

■依頼劇評■

手品の種に仕込まれた思い出

野中広樹(演劇評論)

テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』は、冒頭でトムが客席に向かって話しかけるように「思い出の劇」である。1944年にシカゴで試演され、翌年、ニューヨークで初演された。

原曲では、1930年代、アメリカ中西部にあるミズーリ州セントルイスの路地裏が舞台だが、ダニエル・ジャンヌトー演出においては、時代性と地域性が注意深く取り除かれている。おそらく普遍的なドラマとして『ガラスの動物園』を上演したいという意図によるものだろう。そして、時代と場所が特定できない分だけ、個人的な「思い出」であることが突出している。

劇が始まると、まずはじめにトムを演じる役者(阿部一徳)の年齢が、従来の上演と較べてずいぶん高いことに気づくだろう。トムはローラ(布施安寿香)の弟という設定であり、場面によっては姉弟として演じるところも出てくるため、弟あるいは同年代に見える役者が扮することが多い。ローラの年齢は「高校をやめてから6年」という台詞から推定すると23か24歳なので、今回の舞台では、時間がいたずらをして、トムとローラは親子のようにも見える。しかし、この不自然さは、『ガラスの動物園』の劇全体がトムの「思い出」のなかの出来事であることを際立たせる効果にもつながっていく。

もうひとつ、舞台が透明な紗幕で二重に蔽われているのも大きな特色である。しかも、かつてウィングフィールド家が4人で住んでいたにしては、ずいぶん広くて、がらんとした空間だ。だが、これも「思い出」の空間を創りだすのにひと役買っている。そこにはトムの「思い出」を甦らせるための必要最小限の装置しか置かれていない。ある場面では、テーブルと蓄音機、またある場面では、大きなボンボリのような照明と縦長の鏡と蓄音機が置かれているだけだ。そこからは大きな不在が見えてくる。言うまでもなく、芝居が始まるまえに、この家を出ていった父親の不在である。

もう一度、冒頭に戻ろう。

はじめにトムが客席に向かって話しかけるとき、漆黒の闇に包まれた舞台上にスポットライトが当たり、トムは白い点のように浮かびあがる。「この劇は思い出です。思い出の劇なので、ほの暗い明かりに包まれ、センチメンタルで、現実味がありません」このときトムは二重の紗幕の外側にいる。時間の流れからして、紗幕の外は「現在」だろう。

そして、二重の紗幕に囲まれたいちばん内側の空間は、トムの「思い出」の世界である。そこでは、ローラはまだ20代前半で、母親のアマンダ(鈴木陽代)も若い。その世界に行き着くには、ずいぶん時間をさかのぼる必要があるため、薄暗くてぼんやりしている。

トムの意識は常にローラに向かっているせいか、母親のアマンダが話しているときは目を凝らす必要があるほど見えにくいのに、ローラの場面になると、にわかに舞台が明るくなる。そこでは、母親は主として声の記憶にすぎないが、ローラは具体的なイメージを伴って出現する。そこからも『ガラスの動物園』はローラについての思い出の劇であることが見てとれる。

内側の紗幕と外側の紗幕に挟まれた細長い部分には、上手寄りの舞台前面に、ローラが大切にしていた「ガラスの動物園」が設置されている。ここだけはローラの聖域で、だれも踏み込むことはできない特別な空間だ。ただし、2度だけ例外がある。

ひとつは、毎晩の外出をめぐってトムとアマンダがはげしく口論する場面。母親に悪態をついたトムは、怒りにまかせ、勢いあまって内側の紗幕を飛び出し、ローラの「ガラスの動物園」をうっかり踏みつけてしまう。ガラスが脆くも割れる音がする。この瞬間、わたしは思わず息を呑んで縮みあがった。すでに取り返しのつかない出来事が起きてしまったことをあざやかに知らされる。すばらしい演出だ。

テネシー・ウィリアムズは、現実においても、この劇のように姉を置き去りにしたことを一生悔やみつづけた。そして、その悔恨の情が『ガラスの動物園』を書いたいちばんの動機だったのだろう。そのことは、これに続くもうひとつの例外を見れば、劇作家がこの戯曲に込めた想いが理解できる。

それは、トムが友人のジム(牧山祐大)を招いて連れてくる場面である。友人のジムは、劇のはじめのほうでローラが母親に打ち明けたように、高校時代に憧れていたたったひとりの同級生だ。『ペンザンスの海賊』で美声を聞かせ、弁論大会では優勝し、ローラが肋膜炎(プルーローシス)で休んだあとには病名を聞きちがえて、ずっと「ブルー・ローズ」と呼びつづけた男性である。

この場面が始まるまえに、演出のジャンヌトーは、舞台を二重に蔽っていた外側の紗幕をゆっくりと取り払った。思い出がそっと開かれてゆく。そして、剥きだしにされた内側の紗幕も、どこからか吹いてきたかすかな風を受けて、まるで生きているように静かに揺れはじめる。この空間が、トムの「思い出」そのものであるならば、これから起きる出来事を思い出すことが、トムを深い部分で動揺させずにはおかないのだろう。

そのうちに夏の雨が降りはじめ、さらに紗幕の揺れが大きくなる。すると、唐突に照明が消える。トムが督促を受けていた電気代を船員になる組合費にまわしたため、未払いで止められたのだ。しかたなく、数本のロウソクに火をともして、ジムは内気なローラのいる居間へと話しにいく。そこは内側の紗幕を越えたところにあるローラの聖域である。

ロウソクの小さな光による魔法だろうか、いつも引きこもりがちなローラは、珍しくジムと高校時代の思い出話に興じる。ローラはいちばんお気に入りのユニコーンを紹介し、光にかざして魅力を語る。そのうち、盛りあがったふたりは、路地の向こうにあるダンスホールから聞こえてくる音楽に合わせてダンスをはじめる。足元に置いた本物のロウソクの炎がゆらゆらと揺らめき、ジムに手を取られて踊りながらくるくるまわるローラをほんのりと映しだす。なんという幻想的な場面だろう。しかし、途中で「ガラスの動物園」にぶつかり、中断してしまうのだ。そして、ローラは角のとれてしまったユニコーンのいる「ガラスの動物園」に、ひとりで取り残されてしまう。

ブルー・ローズという「不可能」を意味する薔薇の名前、ユニコーンという空想上の動物、華奢なガラスの動物たち、そしてロウソクの炎――あまりに美しく儚い思い出によって、ローラの人生最高の瞬間を彩ってみせる。これこそが『ガラスの動物園』で劇作家が実現させたかったことに他ならない。ジャンヌトーはこれらすべてをトムの「思い出」の世界に作りだし、ロウソクの炎が作りだした魔法の空間で、ローラを初恋の相手であるジムとエレガントに踊らせてみせた。

トムははじめに「手品の種はポケットに仕込んであります」と語った。つづけて「僕は、感じのいいまやかしに見せた本物をお目にかけます」と述べた。最後の場面までたどりついたとき、私たちはこれまで見てきたのが、劇作家に実際に起きた出来事であることを知る。

テネシー・ウィリアムズの本名はトマス・ラニアー・ウィリアムズ、すなわち愛称はトム、ローラのモデルになった姉の名前は、ブルー・ローズならぬローズである。これは劇作家自身による姉ローズの思い出であり、実現してほしいと願った夢だったのだ。

■執筆者紹介

野中広樹(のなか・ひろき)

演劇評論。1962年生まれ。学習院大学文学部卒業。出版社勤務の後、演劇評論。「テアトロ」「東京人」「レプリーク」などに寄稿多数。

2011年11月14日

『WHY WHY』(ピーター・ブルック演出)

カテゴリー: WHY WHY

■準入選■

「演劇人」の常識 〜ピーター・ブルックによる演劇リサーチ『WHY WHY』

柴田隆子

演出のピーター・ブルックは、裸舞台を横切る人間とそれを見つめる人間がいれば演劇行為は成立するという、非常にミニマムな形で「演劇」を定義したので有名だが、今回の公演は、ほぼその定義に近いものである。椅子やドア枠などごくわずかな小道具だけで、イリュージョンを作り出すような舞台装置は一切なく、ミリアム・ゴールドシュミットの語る「言葉」、それを支えるフランチェスコ・アニェッロの「音楽」、そして彼らの身体の「動き」からなる。これといった筋はなく、「舞台」は観客の想像力の中で引用の織物を紐解き、記憶と紡ぎ合わせて新たに織り上げる、『WHY WHY』はそんな演劇体験の場であった。

2010年にピーター・ブルックとマリー=エレーヌ・エティエンヌによって書かれた本作は、アルトー、ゴードン・クレイグ、シャルル・デュラン、メイエルホリド、世阿弥、シェイクスピアのテクストからなる、まさに「演劇」の舞台であった。「私は誰?」という俳優の問いに始まり、「芸術は何のために」と問う場面で終わるこの上演には、終始「演劇」をめぐる問いがある。なぜこの舞台は上演されているのか、なぜそれを観るのか、なぜ演じるのか、なんのための劇場なのか、なんのために演劇はあるのか、私とは誰で、どうして今私はここにいるのか。古今東西の演劇人らの言葉は、それらの問いを考えるための媒介にすぎず、その答えは観客が自ら考えなければならない。つまり、この作品は舞台を支える「演劇」のコンベンションを理解し、これらの問いを自らの問いとして受け止めることができる観客を必要とするのだ。

舞台上の「演劇的行為」は自明に「演劇」にはなりえない。そこには演劇を「演劇」たらしめるコンベンションが存在する。それは日常的な振る舞いの延長線上にある日常のコードであるときもあるし、その作品が所属する文化圏の慣習や、その演劇形式が独自にもつ決まり事だったりする。観客が想像力を羽ばたかせるには、土台となる世界観や枠組が必要であり、今回はそれが、ロイアル・シェイクスピア・カンパニーと国際演劇研究センターに長年関わってきたブルックにとっては当然のことだが、西洋を中心とした演劇理論であった。テクストで引用とその構造を確認したい気持ちに駆られるが、それはあくまでテクストベースの「意味」に過ぎず、舞台上で上演されるパフォーマンスは、観客の持つ演劇体験と呼応して、「問い」にさらに広がりを持たせていく。

演劇は書物とは異なり、辞書で調べたり引用を確認することはできない。むしろ語られる言葉のもつ多義性を、音や響きに身振りなどを加味して想像力で膨らませるところにその醍醐味がある。「死を忘れるな(Memento mori)」「芸術の女神(Muse)」「亡霊(Geist)」の含意は、単にこれらを「死」「芸術」「知」の表象と置き換えて理解すれば事足りるというわけではない。前提となる西洋的知の枠組があり、それに呼応あるいは対抗する形での「演劇」の「言葉」なのだ。それに「言葉」は上演の一部にしか過ぎない。『リア王』や『ハムレット』の有名な場面は、かつてブルックが演出した場面が記憶の中で重なり、耳慣れぬ言葉の後「スターリン万歳」で言い過ぎたといわんばかりに口元を押さえるミリアムの演技は、ひょっとしてこれはメイエルホリドの「弁明」なのかと想像はどんどん膨らむ。「マリオネット」はクレイグだろうが、「蝋人形」が燃えるのはひょっとしたらタデウシ・カントールだろうか、「おやつの時間(Brotzeit)」は・・・。舞台をそっちのけで自身の演劇的記憶に沈殿していく。フランチェスコの音楽は時にそれを助長し、時に舞台に引き戻してくれる。

知的ゲームのようでとても楽しく、座していながら演劇体験に参加している気分も十分味わえる。しかし、ここで発せられている「演劇人」の言葉は、問いは、そのような知的好奇心のためにあるのではない。ここでは俳優と観客との丁々発止があるべきで、「演劇人」としてのそれぞれを見つめる場が期待されていたはずなのだ。しかし、残念ながら舞台と客席の溝は、少なくとも私にとっては深く感じられ、他者としてそのことを認識できたのは別な意味で収穫ではあったものの、ブルックやゴールドシュミットら向こう側の「演劇人」との差異を大きく感じざるを得なかった。

「演劇」の意義を問い直すこと、それは、今、日本においてなお一層必要なのは間違いない。その意味でこの上演の「問い」は非常にタイムリーであった。しかし今回の舞台はあまりにも西洋の「知」がベースになっており、ドイツ語上演ということもあって、それがどれほど観客に理解されたのかは疑問である。問いを共有する前提として、世阿弥すら取り込んでいる西洋の演劇的知にアクセスできない観客は、そこから排除されてしまう。そして日本の一般的観客の多くは、演劇的知をこうした西洋的文脈では少なくとも捉えていない。

その意味でこの舞台は特権的な「演劇人」のための舞台であったといえる。急遽決まった上演であり、SPACに集う優秀な「演劇人」には有用な舞台だったのだと思う。だが、今日の状況において本当に必要なのは、このような西洋演劇的知のコンベンションによらず、「一般」とよばれる観客の「生」に響く「演劇」ではないだろうか。今こそ演劇の本当の力が試されていい時である。今回の『WHY WHY』での問いに対し、これを観た「演劇人」がなんらかの演劇的行動をすることで初めて、この舞台の真価が問われることになるだろう。

2011年6月18日 静岡芸術劇場 観劇