2009年2月18日

『ドン・キホーテ』(原田一樹演出、北村宗介脚本、セルバンテス原作)

「ラ・マンチャの男」を超えて──原田一樹演出、SPAC版「ドン・キホーテ」賛

井出 聖喜

 

 静岡芸術劇場で上演された原田一樹演出、SPAC制作の「ドン・キホーテ」は、私見に拠ればSPACがこれまで上演してきた多くの作品群の中で最高の演劇的達成を示した作品の一つであると共に近年の日本の演劇作品の中でも最高ランクに位置するものである。

 演出家は上演チラシの中の「『ドン・キホーテ』への道」と題する文章で「(ドン・キホーテという名称が日本の様々な分野で多用されている割には)当事者の大多数はこの長編を読み終えていない」と喝破しているが、私もその「大多数」の一人だった。少年時代子供向けにリライトされたもので読んで以来、全くのご無沙汰である。だから、今回の上演作を原作との関わりで論じることはできないが、多くの演劇愛好家と同様、私には別のテキストがある。それは、デール・ワッサーマン脚本のミュージカル「ラ・マンチャの男」だ。日本では松本幸四郎主演で繰り返し上演されている。この脚本の見事さは既に語り尽くされてもいるが、原作者セルバンテスと彼の芝居の作中人物、騎士物語に取り付かれたアロンソ・キハーナ、そして彼の狂気が生み出したドン・キホーテの、三人の男の物語が重層的に展開され、その三つの世界は、物語の後半、セルバンテスによって語られる「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折合をつけてあるべき姿のために戦わぬことだ(森岩雄訳)」という言葉によって鮮やかに一つに結ばれる。

 SPACが「ドン・キホーテ」を上演すると知った時、「ラ・マンチャの男」は「ドン・キホーテ」に触発された別物語だとは知りつつ、どうしてもそこを範とし、基準として鑑賞しないわけにはいかないという呪縛のようなものが私にはあった。さて、その「呪縛」は解かれたか、というのが私の語るべきことである。

 原田一樹と北村宗介の脚本には狂言回しとしてのセルバンテスは登場しないが、アロンソ・キハーナ=ドン・キホーテの物語を現代の観客に橋渡しする語り手が登場する。その意味ではこの作品も三重の構造を持っている。また、もしこの世界が狂っているとするなら、狂気こそは理想と高貴な人生に到達するための最も正しい道だというリア王的メッセージも両作品に共通するものとして指摘できるだろう。

 しかし、「ラ・マンチャの男」は、前述の「あるべき姿を求めて戦い続ける」という理想主義的主題とは別に、アロンソ・キハーナの、常識的には狂気でしかない精神の高潔さが下働きの女アルドンサのすさんだ心を高貴なドルシネア姫の尊厳へと昇華させていく、キリスト教的な魂の救済のドラマをも形作っており、それが大詰めの高揚感をもたらしているのに対して、今回のSPAC版「ドン・キホーテ」の終末部にはそのようなわかりやすい「感動」はない。アルドンサは最後まで娼婦まがいの行為を止めないし、「聖女」にもならない。死にゆくアロンソ・キハーナを見つめる彼女の目は、相変わらず虚無的で冷ややかに見える。そして今や狂気すら奪われた哀れな初老の男は、「夢は稔り難く敵は数多なりとも 胸に悲しみを秘めて我は勇みて行かん(福井峻訳「見果てぬ夢」より)」などと雄々しく歌うこともなく、ベッドに打ち萎れて死んで行こうとする。夢は既に夢見られて、語られるべき物語は既に語り終えられて、残るのは人生の空虚とほろ苦さのみか……と、その時、アントニアが「あなたはやはり遍歴の騎士ドン・キホーテであった。」というオマージュを述べる。そして、それに誘われるかのように彼の脳裏にドン・キホーテの冒険の物語がかすかに蘇ってくる。そう。かすかにだ。人生の空しさをくつがえすほどに、ではない。その匙加減がいい。そう思ってみれば、アルドンサの冷ややかな目つきの中に、死にゆく者への同情ではない、いとおしさでもない、あえて言えば哀しみのようなものも見て取れる。それもこれも含めて秀逸な幕切れだった。──感動は静かに、惻々として、人生へのある種の諦観と共に忍び寄ってくる。「呪縛」はきれいさっぱり拭い去られていた。

 さて、その大詰めだが、アロンソ・キハーナの思いを共有する我々観客は、舞台後方に小振りのプロセニアム(舞台を囲む額縁のような枠)に縁取られたドン・キホーテの世界(風車もあれば人形のドン・キホーテもいる)がせり上がってくるのを見ることになる。その時、はたと気づいた。開演前から舞台中程を大きく囲むプロセニアムと共に前方客席の天井に舞台上のプロセニアムを更に大きくしたものの一部が切り取られたように吊られ、一種の遠近法を形成しているのを見て気になっていたのだが、「ああ、これはアロンソ・キハーナの世界とドン・キホーテの世界、更に死の間際に夢見られた新たなる冒険世界の三重構造を視覚的に表したものだったのか」と。(語り手の世界を考えると四重構造になるが、そこまでやると煩わしくもなる。)このアイデアだけでも見事なものだが、もう少し舞台装置について言えば、木が多く用いられ、作品全体に何とも言えない温かみを与えていたのも成功だった。衣装はリアリズムを基調としながら、色彩とデザインの変化で次々と移り変わる場面をくっきりと彩っていた。

 役者はいずれもまずまずだったと思うが、三島景太のドン・キホーテは滑稽味より剛胆さ、一徹さが勝る造形だった。ラマ追い達を打ちのめす場面で、ささくれたアルドンサをじっと見つめるその澄んだまなざしが忘れがたい印象を残す。本多麻紀のアルドンサは、その容姿、声音含めて適役だ。

 役者諸氏への注文を一つ。この作品はもっと諧謔味を加えなければならない。笑いは確かにあったが、十分ではない。これは脚本の問題ではなく、演技の問題だと思われる。SPACの役者は重厚な演技はお手の物だから、茫洋とした諧謔味を出せるようになってほしい。その意味では今回の上演は完成形ではないだろうし、また、今作はSPACの最も重要なレパートリーの一つとして繰り返し上演していく必要があるだろう。

(観劇日 12月13日)


『ハムレット』(宮城聰演出、シェイクスピア原作) 

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「脳内世界のハムレット」(宮城聰演出 シェイクスピア原作)   

  坂原眞里

 

 この「ハムレット」は意表を突く。亡霊が出ない。そればかりならまだしも、ハムレットが本当に狂っている。彼は余人に見えない父王の亡霊を見、余人に聞こえないその声を聞く。叔父によって「父親殺し」の機会を奪われ母親を横取りされた彼の深層心理が、亡霊という扇動者を作り上げ、無意識の弁を開き、理性をもその歯車に従わせるのだ。新王による戴冠と婚姻の辞の直後に置かれたこの場面が、この上演のすべてを決定づける。

 方形の白布を敷いた主舞台は能空間を思わせるが、ここには魂の召喚も異界のものの到来も起こらない。これはハムレットの脳内世界であって、ここに現れるのはその脳裏に浮かぶイメージの投影なのだ。当然、新王クローディアスは卑小であり、その忠臣ポローニアスはおあつらえむきに滑稽。旅回りの芸人たちは脳味噌の襞からわき出した子鬼たちのようだ。そして、彼らの芝居を観た新王と王妃が動揺することを、扇動者を作り上げた無意識はあらかじめ「知っている」。二人は有罪でなければならない。しかもテキストレジーの結果、原作に流れる王権の正統性と復讐行為の正当性の問いは弱音化し、形容語としてロマン派好みの「立派な」「美しい」という言葉が耳につく。演出は、ハムレットとクローディアス双方がそれぞれの行為の正当化に「立派な」という同じ形容語を用いることを観客に気づかせるが、ハムレットはそのことの問題に気づかない。深層心理の「シテ一人主義」は悩むよりも糾弾させ、自らの物語の進行を急がせる。

 頬骨が高く、荒武者も犯罪者も適役にしてしまいそうな武石守正が、このハムレットによくはまっている。観客を引かせる難役である。ハムレットの狂った意識に限界付けられた出来事は「怖れ」よりも嫌悪を、「憐れみ」よりも脱力感を覚えさせる。悲劇のカタルシスは生まれない。悲劇的ヒーローとしてのハムレット像が脱神話化されているのだ(これには「ドン・キホーテ」が同シーズンに上演されることも無関係ではな

いだろう)。およそ30年前、ハイナー・ミュラーが、ハムレットの物語を歴史的成層のテキスト空間の中へ投げ入れることで、個体としての人間を超えた言葉が響く演劇テキストを生み出しておきながら、ハムレット的運命の方は呪いつつもむしろ普遍化してしまったことを考えると、静岡芸術劇場の脱神話化されたハムレットは明らかに「ハムレット・マシーン」後の時代の変化と創り手および観客双方の変化から生まれてきている。

 このことは舞台表現に関しても言えるだろう。方形の白布による主舞台(四隅の一角が最初から少しめくれあがっており、狂ったオフィーリアの場面では持ち上がってなだらかな膨らみを見せ、脳の襞の変容を思わせる)、その白布を効果的に変化させる照明、上演のベクトルをほぼ間断なく支える音楽、「小栗判官照手姫」の記憶が鮮やかに甦る遠藤啄郎制作の仮面の妖しさ、和装の特徴を残しながら無国籍な衣裳、言葉と身体表現をともに大切にする演出。ハムレットが観客を引かせる一方で、「ハムレット」は豊かで創意あふれる現代的な総合芸術の楽しさで引きつける。この総合芸術が現代的であるのは、それが20世紀の西欧演劇が東洋演劇に着想を得て試みてきた数々の成果や、それらが東洋演劇にもたらした新たな自覚を土壌に、資源としての東洋に甘んじることはできない演劇芸術創造をめぐる認識の地平に立っているからだろう。

 この「ハムレット」が出版界のドストエフスキー熱冷めやらない日本で生まれたことには、不思議な印象を持つ。192030年代のフランスで、時代と演劇の病をめぐる問題がジャック・コポーら演劇人の関心を集めていたとき、ジャン=リシャール・ブロックがその著「演劇の運命」(邦訳1954)の中で、「20世紀のロマンチスム文学は、心理学を標識とし、ドストエフスキーとフロイドを名付け親としている。つまり内部世界への逃避である」と書いていたからだ。その頃ブロックと接触しようとしたこともあった一回り年下のアントナン・アルトーは、むしろ物理的演劇言語の探究を進めてバリ島演劇を発見し、東洋演劇への関心も含めて20世紀半ばの世界的演劇シーンに大きな影響を与える論を書いていった。ハイナー・ミュラーもまた、アルトーに関心をもった演劇人の一人である。

 見えないものを見ることの危険を「ハムレット」に学んだ上で言うのだが、宮城演出の「ハムレット」を観ながら、私はこのような20世紀演劇の大きなうねりをそこに重ね合わせてみずにはいられなかった。 

                      (11月23日観劇)


『ハムレット』(宮城聰演出、シェイクスピア原作)

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構造的読解と革新的手法を求めて

―宮城聰演出『ハムレット』劇評

 

森川泰彦

 

 暗めの冷たい光を基調に巧みに変化する照明の下、端をやや吊り上げたりする四角い白布が主舞台をなす。周囲には金属板を円錐形に一巻きしたようなオブジェが配置され、それが役者の物語空間からの(さらにはこの世からの)出口を示している。そうした簡素で硬質な空間に、陰影が質感を際立たせる衣装を纏った役者たちが登場し、鍛え上げられた朗誦法で明確に台詞を回してみせる。そして、ク・ナウカからのファンにはおなじみのリズミカルでエキゾチックな伴奏が加わる。奏者は役者でもあり、その存在は聴覚にとどまらず視覚にも訴えかける。冒頭、音楽で台詞がかき消されるところがあったが、総じて他の舞台要素と衝突することなく、その効果を高める役割を堅実に果たしてゆく。演技は、惰性的な身体の使い方を極力排したバロック的と言うべきスタイルで、斬新な所作が観る者を飽きさせない。そして同時にその身体レヴェルの過剰さは、技巧的な修辞の連鎖からなるシェイクスピアの台詞の過剰さに対抗し得るものとなっている。

 美しく心地よい舞台である。大した戦略もなく上演される凡庸なシェイクスピアが氾濫する現代日本演劇においては、これらだけでも十分評価に値する。残念ながら最後方の席であったため臨場感に乏しく、この演出家の舞台独特の硬質な生々しさは感じとれなかったが、それでも十分楽しめた。

 しかしながら、この古典中の古典を綿密に読解したか、それに基づいて上演を有機的に組織し、舞台上の様々な形象・記号を整合的・効果的に配置したかについては、強い疑問が残る。紙幅が限られているため、主な問題点のみ簡潔に取り上げよう。

 第一に注目されたのは、ホレイショーらによる亡霊の目撃場面が省かれると共に、影が映されただけで亡霊役は登場せず、ハムレット役者によってその台詞が語られたことである(二度目の出現も同様)。これは精神分析的読解に基づき、亡霊がハムレットの幻想に過ぎないとの趣向を示すものであるかに思われた。息子は、母親を欲望できるのは父親のみであるという規範を受け入れて母親への欲望を断念し、父親に同一化する。そうして社会秩序に組み込まれるわけだが、他人が母親を手に入れたのを目の当たりにしたハムレットは、再び葛藤に直面し、現秩序を是認できなくなったと解するのである。ハムレットが現秩序に留まりつつも自分の憎悪を正当化するためには、叔父が罰せられるべき大罪を犯したと考える必要があり、そこで彼の無意識は亡霊の語りを欲したのだということになる。実際宮城氏は、当日の配布物において「いったん『世界から切り離されてしまった』人間が、」「もういちど、世界と和解」しようとする物語だと書いている。

 しかしながら、不敵な面構えで落ち着いた今回のハムレットは、反抗心はあっても強く健全な人格統合を感じさせる野武士のごとき人物である。なるほどロマン主義の描く悩める柔弱な青年像は、少なくともこの読みからはふさわしくない。彼はただ受身なのではなく、機知に富んだ弁舌を披露し、ポローニアスを刺し殺すなど行動的だからである。しかしその行動は、多くは激情に駆られてであり、高い知性にもかかわらず計画性に乏しい。彼の内部では「この世の関節が外れてしまった」ことにより様々な力が激しくぶつかり合っており、それがしばしば噴出するのだ。だとすれば、多重人格的あるいは境界性人格的な振る舞いが強調されるべきである。今回の舞台では、墓場でレアティーズにくってかかる代わりに、オフィーリアの死体を前にして号泣する場面が加えられていたが、逆効果ではないか。

 さらには、クローディアスによる己の罪の独白場面が省かれず、現実の出来事として扱われる。しかし、精神分析的読解に基づくということはハムレットの主観的世界に焦点を当てるということであり、クローディアスが客観的に弑逆したかどうかは宙吊りにしてしまうべきだろう。結局、そうした読みがあったわけでなく、物語をスリムにするためにカットしたに過ぎないようなのだ。

 第二に注目すべきはこのスリム化である。この芝居は長いから短縮は普通だが、今回カットはかなり多い。付加の方は、覆面の人物を登場させてオフィーリア暗殺を示唆するなど意図不明の場合もあるが、ほとんどは削るためのつじつま合わせのようだ。しかし、『ハムレット』は復讐をひたすら延ばし、最後はほとんど偶然、半ば敵失によってそれを完遂するという芝居である。通常は、復讐へ突き進むのでなく、悩み逡巡するというこの「遅延」にこの劇の現代性を見出すわけで、このように迅速に進めてしまうとこの特長は大きく損なわれる。ではそれに代わる何を得たのか。初心者向きになったということを除けば、それが見えないのだ。

 これに関連して第三に注目されるのは、このように切られた細部が多い中、劇中劇部分が残され、『リチャード三世』が挿入されたことである。劇中劇は雅語で語られ、内容を把握しづらいことが多いから、同じシェイクスピア作品の主題の共通するよく知られた場面に差し替えるのは面白い試みである。しかしこの部分は、直後のホレイショーとの会話だけでも話を繋げられるから必須ではない。確かに、この芝居の演技性の主題を強調する場面としては重要であるが、ローゼンクランツらが消え、彼らとハムレットの騙し合いが存在しないので、その主題論的連関の豊かさは半減している。

 それでは、こうした「深」読みなど要求しない演出であったのかと言えば、そうでもない。第四の注目点は、ラストにおいて、亡霊とよく似たやり方でマッカーサーらしき人影を映し、その演説?を流していたことである。明らかに大戦後のアメリカの日本占領をフォーティンブラスの武力を背景にした王位奪取に重ね、その読み取りを要求しているのである。しかしこの演出では、外敵の脅威というフォーティンブラスに関わる部分や、民衆がレアティーズと共に彼の即位を求めて押かける階級闘争的?な部分など、政治的文脈はほとんど消し去られている。そうしておいて、最後に原作にない政治史的要素を付加しても説得力を欠く。

 辛口の批評になってしまったが、これは思い入れの裏返しである。SPACでの演出作品は観られなかったが、休止までの数年間ほぼ欠かさずク・ナウカを観続けた私が宮城氏に期待するものは大きい。氏は「二人一役」と称する画期的な手法で刺激的な舞台を造っていたが、自己模倣になったとしてこれを封印してしまった。しかし、自身でもしばしば踏み越えていたし、何よりこの手法の本質は「言動分離」にあり、その観点からは様々な発展が可能なはずなのだ。例えば、一人のムーヴァーの身体に対し、二人のスピーカーの声がかかっていけば、一人の人間を突き動かす二つの異なる力のぶつかり合いを端的に視聴覚化しうる。『ハムレット』なら「To be, or not to be.」を分割してかけるのだ。革新的手法が鋭い古典読解に結びつけば傑作が生まれる。今後の作品に注目してゆきたい。

20081122日観劇)

 

 

 

 

 

 

 

 


2008年10月11日

春の芸術祭2008、劇評掲載中! 秋のシーズンでも募集いたします

Filed under: 告知

「春の芸術祭2008」の劇評、御覧になりましたでしょうか?今回の「SPAC演劇講座」では28本のご応募があり、いずれも劣らぬ力作ぞろいでしたが、SPAC文芸部の厳正な審査の結果、13本が掲載されることとなりました。「秋のシーズン」がはじまる前に、「春の芸術祭」の作品を振り返ってみてはいかがでしょうか?

秋のシーズンでもひきつづき、劇評の募集をいたします。「SPAC演劇講座」は、劇評の優れた書き手を育成するための場です。劇評家としても活躍するSPAC文芸部のメンバーにより、全ての応募作品に対して講評が送付されます。論点をより明確にするために書き直しが求められることもあります。こうして、作品を深く理解した上で、独自の視点を鋭く提示した劇評のみが掲載されることになります。

つまり、SPACサイト劇評コーナーの掲載者は、舞台創造に刺激を与え、いま・ここの感覚を鮮やかにとどめる「演劇批評家」の素質がある、と認定された方々なのです。この方々には、「演劇批評家」への道を目指していただくために、原稿料をお支払いし、さらにSPAC公演一回分にご招待いたします。

秋のシーズンではおなじみの名作『ハムレット』と『ドン・キホーテ』の登場です。
この機会に、あなたも一筆書いてみませんか?

SPAC演劇講座
SPAC劇評募集! 求む!舞台を視るつわもの達

優れた劇評はSPACのサイトで発表、もちろん原稿料あり!


投稿すると
●原稿は選考委員が必ず講評をつけて返信します。


入選すると
●原稿料は字数に関わらず20,000円(税込み)とします。
●入選原稿はSPACのサイトに掲載します。
●入選された場合、SPACの公演1回分の入場料を無料とします。

選考・講評
●選考と講評はSPAC文芸部(菅孝行、山村武善、大岡淳)が行います。

■ 字数 2,000字程度
■ 締め切り 批評対象の舞台が上演された5日後必着
■ 投稿はメールまたはFAX・郵便(封書)でお願いします。


◎ Eメールの場合の宛先 mail@spac.or.jp (必ず件名欄に投稿劇評と書いてください)

◎ FAXの場合の宛先 FAX054‐203‐5732(必ず1頁目の冒頭に投稿劇評と書いてください)

◎ 封書の宛先 〒422-8005静岡市駿河区池田79-4 静岡県舞台芸術センター(必ず封筒の表書きに投稿劇評と書いてください)

■ 原稿には、住所、氏名(ペンネーム可、ただしペンネームの方は本名・ペンネーム両方)を明記してください。
■ 観劇日を明記してください。
■ 連絡方法/連絡が取れやすいよう、自宅の電話番号、FAX番号、携帯電話番号、メールアドレスなど複数の連絡方法を書いてください。


2008年10月7日

『エレクトラ』(鈴木忠志演出、ホーフマンスタール原作)

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車椅子のエレクトラ——二十一世紀のギリシア悲劇

                      奥原佳津夫

 この上なく残酷な作品である。
 また、これほど観客の予想を裏切るギリシア悲劇の上演もあるまい。いうなれば確信犯的ギリシア悲劇未遂である。

 冒頭の十分余り観客は、山高帽に黒皮靴、そして下着一枚の半裸の俳優五人が見事に統制された動きで車椅子を乗り回すのを見せられる。その動きは力強く、並々ならぬ緊迫感を保ちながら、やがてコミカルなものに変ってゆく。物語が始まる以前に、演出者(鈴木忠志)のテクストに対するスタンスがはっきりと示される場面と云えるだろう。
 五人の男たちは、そのままこの作品のコロスとなるのだが、ごく一部原戯曲のコロスの台詞を口にするものの、この作品での彼らの役割は、大半エレクトラの台詞を代弁するに終始しており、それがこの上演の特色ともなっている。そもそも、古代ギリシア悲劇のコロスの役割が、プロタゴニストの共鳴装置でもあったことを思えば、正統な処理と云えるかもしれない。また、役を演じるロシア人女優に対してその内面の声を語る日本語のコロスという、日露二ヶ国語が生かされた上演であった。

 さて、車椅子に乗せられて登場したエレクトラは、己が身の不運をかこち復讐を叫ぶ。語られるのはホーフマンスタールのテクスト——抒情的で、時に奇想でさえある幻想性に彩られている。ソフォクレスの原戯曲が鼻白むほど論理的であるのに対して、このテクストを選んだこと自体が、演出者・脚色者(台本・鈴木忠志、宮城聰)の、そしてこの作品の指向を明確にしているように思う。
 二千五百年の時を経て、古代の物語を二十一世紀の現代に上演する方法の一つは、思想だの性格だのといった近代的なものを跳び越して、人間の情動のおよそ原初的なもの、情念にまで遡ることだと思っている。(云うまでもなく、関係性・社会性に重きを置くことは、その対極にあるもう一つの方法である。)この上演は、「精神病院」、「車椅子」、という設定によって、外界と遮断され、身動きを封じられ、ひたすらに内なる情念へと沈潜していく。

 その結果として立ち現れる登場人物たちの人物像は、やはり観客の先入観を大きく裏切るものだ。 おそらく最も観客のイメージに近く、違和感が少ないのは、タイトルロールのエレクトラだろう。冒頭、看護婦に車椅子を押されて登場するものの、打楽器のリズムにあおられて、叫び声をあげ、転げ回り、大きく躍動する(但し、限られた圏内から出ることはないのだが)。事件が彼女の妄想の中で起こるとするならば、車椅子で運ばれてきた姿が彼女の実体であり、激しくのたうつ身体は溢れ出る情念ということになろう。
 美貌と伸びやかな肢体のクリソテミスは、原戯曲では姉エレクトラとの対比から、感情的であるよりはむしろ計算高い人物像が窺えるのだが、この上演では、姉に劣らず明確な意思と強い欲望をもった人物として演じられる。自ら素早く車椅子を駆って、舞台上を一直線に走り込んでくる姿が印象的だ。
 だが彼女にしても、「世界は病院である」という世界観の中にあって自由ではなく、「精神的な障害を表す」と演出者の述べる車椅子から、一度として立ち上がることがない。自在に駆使すると見える車椅子こそが、彼女の桎梏なのである。
 杖にすがってようやく立ち上がるクリテムネストラは、夢に怯える老残の姿。古典の王妃は真っ赤な靴下で戯画化され、悪夢から逃れることだけを切望している。(付き添う赤いランジェリーを覗かせた看護婦が肉感的であるだけに、彼女の病んだ肉体と精神がきわだっていた。)

 大詰、エレクトラの期待を一身に背負って現れる筈のオレステスは、無残に年老いて力なく車椅子に身を寄せている。勇ましい台詞とは裏腹に、それを実行する力の無いことは明白だ。(ロシア人女優たちのエネルギッシュな身体に対して、この日本人俳優の枯れ具合が効果的。)彼は、復讐を誓う大言壮語ののち、力尽きて俯いたまま車椅子を押されて退場する。
 エレクトラの思い描く復讐は幻想の中でさえ実現しそうにない。
 このあと、凶刃に迫られたクリテムネストラの悲鳴が聴こえてくるが、エレクトラの願望、幻聴としか受け取れまい。もちろん、ソフォクレスの原戯曲でも、殺人の場面が直截的に舞台上で演じられるわけではないが、クリテムネストラの遺骸を示すだけの現実性はあった。

 エレクトラは幻聴の悲鳴に快哉をあげ、打楽器のリズムに感情を高揚させて激しく身をくねらせるのだが、観客はそれに共感することはできない。力尽きたエレクトラの姿が闇に沈んでいくのをただ距離をおいて見つめるばかりである。
 二十一世紀の現代、悲劇を個の情念のうちに突き詰めていけば、すなわち反悲劇とならざるをえない。

 鈴木忠志演出によるロシア人劇団の上演作品といえば、先年のモスクワ芸術座による『リア王』が記憶に新しい。まさに現代演劇の最高峰ともいうべき洗練された作品であったが、この『リア王』は(またその他の鈴木忠志演出のギリシア悲劇についても云えることだが)、主人公の幻想、精神病院、車椅子、など共通する道具立てを用いながらも、まぎれもなく高純度の悲劇であった。
 それに対して、この反ギリシア悲劇とも云うべき『エレクトラ』が、(謂わばブレヒトの劇場である)タガンカ劇場の俳優たちによって演じられたことは、興味深くも、また、いかにもふさわしくもある。
 

(於.静岡芸術劇場 2008.5.11所見)


2008年8月19日

『かもめ・・・プレイ』(エンリケ・ディアス演出、チェーホフ原作)

演じることができない、ついにはトレープレフさえも
西川泰功

俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける。
 これが『かもめ…プレイ』から得た私の演出上の認識である。この方法が舞台上で切実な効果、観客への力能を発揮するためにはトレープレフとトリゴーリン、ニーナとアルカージナというそれぞれ二方向に伸びた座標軸を思い浮かべなくてはならない。それはエンリケ・ディアスの言うように「時間」についての座標軸だ。若さと老いの座標軸だ。
 演出を分析する前に、戯曲上での若さと老いを区別することにする(以下の下線部分は演出に関わる)。というのも、それを前提にしないと、演出の意味するところが明らかにできないからである。
 若さの座標軸上の高度には、トレープレフのデカダン染みた劇中劇がある。それは彼の作家への憧憬と嫉妬を抱え、真っ裸のニーナを含み(そのことでニーナの女優への子供っぽい陶酔がトレープレフの作家への偏屈な憧れと重なる)、名誉を真摯に希求する。そこにはトレープレフとニーナの陽光に支えられたような若々しい恋愛関係の率直さも内包されている。あるいは新しい芸術への衝動も。
 他方、老いの座標軸には、アルカージナの若さへの執着、それでいて彼女は息子つまり若者の真情の告白たる演劇を理解しようとはしない、そのふてぶてしさ、そうした「大人っぽさ」に厚顔無恥にすがりつくことができる傍若無人な態度がある。だからアルカージナのような“大人”は自分の幼稚性に堂々と浸ることもできる。トリゴーリンがニーナに横恋慕を抱いたのを察すると我を忘れて彼の足首にまとわりついて離れない。あるいはトリゴーリンのつまみ食い的なニーナへの恋も“大人”の領分だ。彼の小説の構想通りにニーナを破滅に追い込む、そのことをはじめから予感していたからこそ魅惑的であったように彼は恋をするのだ。ソーリンの生への執着も“大人”であるからこそだ。
 そうしたソーリンの態度に真っ当にも死を突きつけるドクトルは“大人たち”の中で唯一トレープレフの劇中劇を認める。またマーシャはトレープレフへの恋心を胸に秘めて、その叶わぬ思いに葛藤しながら、喪服に身を包んでいる。ここで問題は死に関わる。トレープレフに同情するドクトルは“大人”ではないし(かといってもちろん若くない)、恋心に邁進できないマーシャは若くない(かといって“大人”ではない)。この二人は若さと老いの座標軸から離れたところにいる、死を自覚する者として。
 あの老いの座標軸上に居座っている“大人たち”は死を自覚できないのだ。どこまでも老いの座標軸が伸びて、生の続きを延長させる、と思い込んでいる、あるいは思い込まないと生きていられない。「思い込まないと生きていられない」、これが“大人”だ。思い込みに居直ってどっぷりとそこに浸かり反省を避ける。見たくないものは見ない。反対に、真摯な若者は何でも見ようとする。貪欲に生へ向かう。本来的に死とは無縁である(最終的にトレープレフが自殺するからといって、彼が死に憑かれていたとは限らない)。その偏狭な態度は“大人”には耐え難い。“大人”も若者も、凹凸という字の関係のように、いびつには違いない。
 若者と“大人”、それからそのどちらにもありうる死を自覚する者をそれぞれ示した。これで演出について書きはじめることができる。
 真摯な若さは真剣さを突き詰めた先で滑稽になる。だからそうした若さの演技が「遊び」に見えたとしても、それは遊びではない。「遊び」と見えるのは単に観客の遊びであって俳優の遊びではない。それはあくまで真剣な演技なのだから、それを「遊び」と認識するのは観客なのだ。そこで俳優は演じることを避けはしない。潜水服のヘルメットをかぶりその上からドライヤーを突きつけて真面目な顔で未遂に終わることが自明な自殺をする、あるいは服の背中にモップを四本も差し込んで決闘を挑む(本当に自殺する気があったのか?闘う気があったのか?と問うことはこの演出ではあまり意味がないように思われる。というのも若さの真剣さとはそういうものだから。)、またカリフラワーをかもめと言い張る、このような類いの演出は真摯な若さの滑稽さを助長するためにある。真摯な若さの滑稽さを“大人”の遊びと区別しなければ、この作品を豊かに読み解くことができないだろう。
 “大人”の遊びは演じることを避ける。戯ける、嘲る、気取るの類いだ。それは真剣さを回避し、対象へ迂回して向かう。アルカージナは息子の真摯な演劇を豪快に笑って見せねばならない、背中にモップを立て両手に椅子をグローブのようにつけたトレープレフに決闘を申し込まれたトリゴーリンは可愛らしい水色の小さな扇風機で対応せねばならない、カリフラワーのかもめに対抗するように“大人”はタイプライターや別の野菜をかもめと言い張らなければならない、このような遊びは“大人”の身振りである。それらは若さ、取り繕った若さではなく抑えようもなく湧き出る真情としての若さの率直さを回避する。それは演じることを避けることでもある。なぜなら戯れることは演技の本領ではなく、創造の源泉と結びついた演技とは、自己憐憫に近づく寸でのところで思いとどまる、若さの率直さを否定しきれない大人の分別の葛藤だからである。
 冒頭に書いたこの作品の演出上の私の直観、俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける、における、遊ぶこと、とは“大人”の身振りである。つまり、遊ぶことに“大人”が、演じることに若さが対応する。だから、この劇の主題は、“大人”の遊びへ向かわざるを得ない時間の神秘である。この皮肉な神秘である。だからこそ、終幕のトレープレフの自殺が、その演出上の卓越な効果でもって、力能を発揮するのだ。
 トレープレフとの再会で、ニーナは二年前のトレープレフの芝居の台詞を語るのだが、そこでの台詞はすでにあの真っ裸の若い真情ではなくなっている。二年という時間があの若さを想い出にしてしまった。このことはトレープレフを自殺させるには充分だった。彼はトマトをくわえ、素の頭にドライヤーを突きつける。しかし、見物はこの後の演出である。トマトを床に置き、それに銃口が向くような形でドライヤーを横に置くと、足でトマトを潰す。この秀逸なアイディアが、トレープレフさえも時間によって押しやられるように“大人”の遊びへ流れ込まなければならなかったのだ、とその演出上の明確な意図を開示する。自殺を演じるのではなく、足でトマトを潰すという演技を避ける遊び、“大人”の遊びによって、あまりにも苦いクライマックスを演出している。ここで方法上の遊びが、この劇の主題(真摯な若さはことごとく“大人”の遊びへ流れ入る!)に、これ以上ないというほど一体化し、観る者に肉迫する。
 このとき音楽が劇場全体を包み、受苦的に意味(劇の主題)と一致するやいなや、時間とは何か、老いるとは何か、若さはどこへ行くのか、という問いが頭のなかで泳いでいたとしても、そしてその問いの先に、死がぽっかりと穴を空けている、と全くの空白を予感したとしても、あながち私の幻覚とは言えないのではあるまいか。若さと老いという時間のいびつな仕掛けから身をひいて、死を自覚する者の方へ、劇場的アイロニーが誘導したわけだ。

(2008.6.7観劇)


2008年8月14日

『若き俳優への手紙』(オリヴィエ・ピィ作・演出)

道徳劇は蘇るのか――オリヴィエ・ピィ演出『若き俳優への手紙』

                             北村 紗衣

 オデオン座の芸術監督であるオリヴィエ・ピィ作・演出『若き俳優への手紙』は、2008年Shizuoka春の芸術祭の締めくくりとして、6/28(土)及び29(日)に野外劇場「有度」で上演された。
『若き俳優への手紙』は演劇そのものを主題とする二人芝居で、もともとはコンセルヴァトワールで演劇を学ぶ学生に向けて書かれたものである。プロローグではジョン・アーノルド演じる男性の詩人が登場し、舞台を志す若者に真の「反抗」を教えると宣言する。彼は舞台上で化粧をし、かつらをかぶり、女物のローブをまとって老いたる悲劇の女神に変身し、一種の劇中劇を始める。女神が言葉(parole)の芸術を称えていると、「コミュニケーション担当大臣」や「豚」などという名札を下げた演劇の敵たちがやって来て攻撃を仕掛ける。彼らは重みのある言葉ではなく無味乾燥で効率的な伝達(communication)のみで全ては事足りると主張して女神を嘲う。一方、味方となる「真の観客」も登場して女神を励ますが、この敵及び味方の役柄は全てサミュエル・シュランが演じている。激しい議論の果てに劇中劇は終わり、エピローグでは女神は化粧を落として再び男の姿に戻る。そこにシュラン扮する若者がやって来て、先程まで自分の友がここで言葉の芸術を称えていたと語り、演劇の力を肯定する台詞を口にする。これによって女神の努力が無駄ではなく、演劇という言葉の芸術が若者によって受け継がれ、生き続けることが暗示される。
 劇中劇という入れ子構造を採用し、演劇論を主題としている点で『若き俳優への手紙』は典型的なメタシアターの作品である。しかしながら「メタシアター」といういかにも近代演劇らしい言葉とはうらはらに、この芝居は驚くほど古風な印象を与える。
 この芝居の「古めかしさ」は、抽象概念を擬人化して舞台に出すという中世カトリックの道徳劇(morality play)を思わせるスタイルに起因している。中世の道徳劇の多くは、「人間」(Man)や「万人」(Everyman)というような全人類を象徴する名を持つ主人公が、「悪徳」(Vice)の誘惑で道を踏み外しそうになり、それを「美徳」(Virtue)や「善行」(Good Deeds)などが救済しようと努めるという筋書きになっている。抽象概念は全て擬人化された役柄として舞台に登場し、善悪の葛藤はそうした登場人物同士の争いとして表現される。こうした道徳劇は大衆の教育を目的として中世ヨーロッパで広く上演されていた。
 『若き俳優への手紙』はこうした道徳劇の方式を忠実に踏襲している。主人公である悲劇の女神は演劇の擬人化だ。一方、敵たちは演劇の力を封じようと企む「悪徳」の擬人化だと言える。『若き俳優への手紙』においては「言葉の受肉」という表現がしばしば用いられるが、悲劇の女神とその敵たちは、まさに抽象概念が肉をまとった存在、「言葉が受肉した」存在として舞台に登場する。
 『若き俳優への手紙』は、アレゴリーとしての人物が登場するという点のみならず、若き観客を演劇の「美徳」へ教え導く教育的役割を担っているという点においても中世の道徳劇に近い。男性の俳優が女装して女神を演じるという一見現代のドラァグの文化に通じるような演出も、中世劇においては男が女装して女を演じることもあったという経緯を考えれば一種の「先祖返り」である。言葉の受肉がテーマであることも含めて、この作品は伝統的なキリスト教、さらに言えばカトリックの哲学を忠実に踏襲している。
 しかしながら、「言葉の受肉」を論じる際に、演劇に敵対する「悪徳」をも擬人化して舞台に上げることは果たして賢明なのだろうか。女神は演劇における言葉の受肉の重要性を切々と訴え、薄っぺらな「コミュニケーション」においては言葉が受肉しえないと語る。しかしながら皮肉なことに、彼女をあざ笑う演劇の敵たちは既に肉体を獲得して舞台に姿を見せてしまっている。言ってみれば、この芝居においては受肉しえないはずの敵たちが受肉して舞台に上がり、言葉の領域を侵犯しているのである。得られぬはずの肉体を得てしまった演劇の敵たちは、不遜な肉体で老いたる女神を愚弄する。女神の意志は若き俳優によって引き継がれるものの、肉をまとった「悪徳」たちはあまりにも強力に見える。
 現代の観客は、おそらく中世ヨーロッパの観客に比べると抽象的な事柄を擬人化することには慣れていない。抽象を抽象のまま考えることに比較的慣れている現代の観客に対しては、演劇に敵対する悪徳を徹底的に「受肉」し得ない存在として提示したほうが効果的だったのではないだろうか。『若き俳優への手紙』は中世の道徳劇を現代に再生させる意欲的な試みであるように思えるが、悪徳に肉体を与えてしまったがゆえにかえって焦点がぼやけてしまったように思われる。薄っぺらな言葉が横行する現代社会において道徳劇が敵として必要としているのは、昔ながらの方法で擬人化された悪徳ではなく、実体がなく軽薄な影にすぎないがゆえによりいっそう不気味な悪徳なのではないだろうか。

(観劇日:6/28)


2008年8月5日

『かもめ・・・プレイ』(エンリケ・ディアス演出、チェーホフ原作)

   『かもめ』の演劇論

                  奥原佳津夫

 モスクワ芸術座やマールイ劇場の『かもめ』を正統な上演と呼ぶならば、このブラジルのカンパニーによる上演もまた正統なものと云いうるのではないか。戯曲『かもめ』は、広く知られるようにスタニスラフスキーによる近代リアリズム演劇の出発点であると同時に、作者チェーホフの演劇論、芸術論にほかならないのだから。
 この作品は、戯曲を上演するのではなく、演出者(エンリケ・ディアス)と俳優たちが戯曲と向き合う様を上演として提示することによって成立している。“playing the play”とは「ホモ・ルーデンス」の概念を思い出させるような懐かしい響きだが、その意味では、戯曲を見事に遊びたおして見せた。
 冒頭、女優の一人が「失敗した戯曲を上演するにはどうしたらいいのか?」「舞台上で時間を表現するにはどうしたらいいのか?」と問いかける所から始まるとおり、彼らが戯曲と対峙するその切り口は明確である。

 野外劇場にしつらえられた、真っ白な裸舞台。点々と置かれたガラス鉢の植物、無造作に転がる野菜、途中まき散らされる土——無機質なものと自然物とが絶妙に配置されたスタイリッシュな空間である。
 俳優たちは、何の区切りもなく、時に役を演じ、時に役へのアプローチを語る。それは、近代劇の稽古場を知る者なら覚えがあるプロセスであり、場面の前提条件を想像し、人物の内面を忖度するその過程は、スタニスラフスキー(システム)へのオマージュであるのかもしれない。
 とはいえ、演出者は近代劇への訣別を示していて、一つの役を一人の俳優が一貫して演じることはない。各場面は一旦エチュードに分解され、再構成された趣——そこから、ニーナの登場をを二人のトレープレフが出迎えたり、トリゴーリンの出発を三人のアルカージナが引き留めたり、という魅力的な場面が現出する。(この方法によって、トレープレフとトリゴーリン、ニーナとアルカージナの交換可能な同質性が浮き彫りにされた。)
 チェーホフのテクストも適宜パラフレーズされ、彼ら自身の言葉と地続きのものにされていたようだ。(そこには『かもめ』初演から現在に至る百年間、二十世紀という時間を想起させる事象への言及もちりばめられている。)確かな造形力を持ちながら畏まらない、南米の俳優たちの演技が生かされていた。

 初演当時、『かもめ』が画期的な作品であり、演劇史上の事件であったことを喚起すべく、第一幕の終りに、モスクワ芸術座初演時の様子が語られる。この上演でスタニスラフスキー演じるトリゴーリンに対してトレープレフを演じたのが、当時若手俳優であったメイエルホリドであることを知る我々は、「新しい形式が必要だ」と語るその台詞に歴史の皮肉を感じずにはいられない。
 極論すれば、二十世紀の演劇は、そして現代演劇のすべては、スタニスラフスキーとメイエルホリドの間に(あるいは、アルカージナとトレープレフの間に)、その位置を占めていると云える。(演出者は十九世紀的なものへの目配りも忘れず、劇中『椿姫』の台詞を引用してみせる。)
 近代劇の枠内に留まろうとするのでないかぎり(演劇という表現形式に自覚的であるかぎり)、トレープレフの失敗に終わる劇中劇がいかに重要な意味を持つかは容易に理解できよう。彼が自信過剰な田舎の青年にすぎないのか、新たな形式を模索する芸術家なのか、観客はこの劇中劇の成否で判断するのではないだろうか?月並みな手法で処理できる場面ではない筈だ。(この部分のチェーホフのテクスト自体、後のハイナー・ミュラーを思わせ、そこに語られる終末の情景同様、未来に向かって開かれたものと云えるかもしれない。)
 さて、本編自体が極めて前衛的なこの上演で、新しい形式の劇中劇はどのように処理されただろうか?メイキング映像をバックに、制作裏話を語るナレーションにかき消されながら、全裸のニーナが台詞を口にする——という、おそらくは苦肉の策で、演出者は何の形式も提示しないことを選んだ。新しい形式は、依然未知のものとして未来に託されている。

 あたかも稽古場でのように、ヘアドライヤーは銃に、カリフラワーはかもめに、ジャケットは人間にと、見立ての小道具を駆使して物語は進んでゆく。
 終幕を前に、ニーナを演じる女優が身を横たえたまま、両腕をゆっくりと羽ばたかせながら、モスクワに出たニーナの失墜を語る。その腕の動きにつれ、撒かれた土に大きく弧が描かれる。泥にまみれたかもめの鮮やかな表象であった。
 大詰、出演者一同は舞台後方の椅子に一列に居並びながら、私語を交わすなど舞台上のアクションには無関心のままである。一人取り残されたトレープレフは、ヘアドライヤーでの拳銃自殺をためらった末、舞台中央の泥の上に真っ赤なトマト一つを置くと、静かに踏みつぶした。
 我々は、(戯曲では一言触れられるだけの)孤独な芸術家の死に立ち会わされる。新たな形式を求める前衛芸術家は、孤独のうちに破滅するしかないのだろうか?彼は敗北したのだろうか?
 演出者の答えは違うと思う。このラストシーンは、無条件に美しかったのだ。真っ白は舞台、土のコントラスト、潰されるトマト——トレープレフの自死を、これほど美しく描いた上演を私はかつて知らない。この美こそ、自身新たな形式を模索する演劇芸術家である演出者の回答であり、矜持でもあろう。

 最後に——今回の野外劇場での上演は、自然の借景、何もない舞台、という劇中劇そのままの設定にこの作品を置き、トレープレフの新形式の劇が『かもめ』そのものを包摂するかのような入子構造の妙味で、この作品に興を添える好企画であった。

(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2008.6.7所見)


2008年7月28日

『剣を鍛える話』(中島諒人演出、魯迅作)

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祝祭的寓話の革新的演出
―中島諒人演出 魯迅『剣を鍛える話』劇評

森川泰彦

 まず、形式についての検討から始めよう。この上演の最大の特徴は、語り物形式を採用することにより、小説のすべての言葉を舞台に上げたことにある。それでは、かかる手法をとる理由はどこにあったのか。それはこの小説が、極めて豊かに広がる主題論的体系を有する作品だからである。この作品においては、寓話の寓話とも言うべき重層的な意味を帯びた登場人物たちの行為が、グロテスクなカーニヴァル的世界を繰り広げてゆく。相互に木霊し合う細部を形作っている地の文を切り捨てて、現代演劇のスタイルで上演してしまえば、この作品の魅力はあらかた失われてしまうのである。
 しかし、これを劇として成立させるのは容易なことではない。小説は、言葉だけで成り立つべく編まれているのであり、そのまま舞台化すれば語り(語られるもの)と視覚形象(見えるもの)がだぶってしまうのだ。しかし演出家は、そのようなハードルを、数々のテクニックを駆使して乗り越えることに成功している。
 まず、演技は簡略化され、言葉をそのまま再現しない。また、語られる視覚的事象が語りに遅れて現れたりもする。語りと視覚形象の間に、絶えず様々なずれが持ち込まれるのである。これは両者に存在意義を与えると同時に、そのせめぎ合い自体を舞台上の劇的表現の一部とすることになる。視覚形象には一定の抽象化が施され、特に演技は、伝統演劇に観られるような様式性を帯びる。しかし、完全な様式と異なり、ある時は言葉に接近して具体的(=リアリズム的)になり、ある時は乖離して抽象的になるといった具合に、両者の離接振り自体がこの上演を構成する重要な要素となっている。このような様式なき様式は、舞台にリズムを生むと共に、その予測不能さがサスペンスを生むことにもなった。
 加えて、「仕掛けの露呈」に関わるブレヒト的な手法も的確に用いられる。語り手の語りが演技者の発話に移る過程で、両者が同時発声したり、異時発声(語り手の語りを演技者が繰り返す)したり、片方が口パクになったりといった「遊び」が、随所に盛り込まれているのだ。このように、言葉に対して視覚形象が一定の自律性を持つことが、この舞台を極めて豊かなものにしている。また、暗めの照明を基調とした抽象的空間に、質感豊かな衣装、小道具が置かれるという模範的なセノグラフィーは、この作品のグロテスク・リアリズム的な幻想性をよく支えていた。
 工夫は、このような視覚面と言葉の関係をめぐるものだけではない。聴覚面との関係においても際立った技巧が使われる。まず、聞き取れなければすべての言葉にこだわる意味がなくなるから、明晰に発音することが当然の前提となる。その上で、言葉の有する音声としての物質性を際立たせるべく、誇張された語り口が採用される。さらに太鼓の強い連打を中心とする、まさに「劇的」な効果音を随所に挟むことで、語りの冗長さ単調さが避けられる。きびきびとした役者の動作もそれに連動する。これらを実現するためには、通常の芝居でのそれとは異なる高い技量が要求されるわけだが、役者たちはそれに見事に応えていた。
 この舞台は、伝統演劇の主たる手法の一つである語り物形式を、上演テクストの内容に即する形で、鮮やかに使いこなして見せた。現代演劇に新たな可能性を開く優れた舞台であったというべきである。
 次に、テクスト細部の形象化を検討しよう。まず今回の舞台では、眉間尺の母の父についての語りの際に、父を視覚形象化し、その父親役の役者を黒い男役の役者と兼ねさせていた。これは、黒い男が実は眉間尺の父であるという解釈に適合する。眉間尺の母を娶り、眉間尺をもうけたことも含めて、彼自身の復讐のための謀だと解して初めて、この物語の数々の謎が明らかになるのだ。またこの演出では、眉間尺の生首を、うっすらと青く塗ったマネキンの首によって表していた。これは、眉間尺の首が青剣の寓意であること、つまり「剣を鍛える」とは、彼の成長の寓話であることを示すものである。さらに演出は、大王の鼻を赤くしていた。これは、眉間尺親子の安眠を妨げた鼠が、臣民を苦しめる暴君の分身であることを示している。さりげなくテクストの構造的理解を誘導するこれらの演出は的確である。
 また、大王の前に現れた黒い男は、ひょうきんな扮装をし、おどけた声で口上を述べる。これはテクストに直接書き込まれていないものを、適切な読みに基づいて掘り出した説得力ある演出と言える。男は大王の気を紛らせるためのエンターテイナーとして登場しなければならないわけだし、この作品の本質はカーニヴァルにあり、その上演はクライマックスに向かってグロテスクな笑いを増していくべきだからである。
 カーニヴァルにおいては、「真面目、恐怖、教条主義」を特徴とする公式文化に支配された日常的生活が、「自由、笑い、陽気な相対主義」を特徴とする民衆文化に突き動かされた非日常的混乱に取って代わられるとされる(バフチン)。黒い男の魔術により、生首が乱舞し噛み殺し合った末、暴君の「恐怖」の支配が崩壊するこの物語の世界は、まさにカーニヴァルそのものなのだ。
 最後に、テクスト外部の形象化について検討しよう。この演出は、ブレヒト的な手法を用いることにより、テクスト外の「歴史」を巧みに舞台に取り込むことに成功している。まず物語最後の人民が行列を見る場面、人民を演じる役者たちは、それまでの誰かを演じるための表情を一変させ、鋭く冷ややかな眼つきでじっと観客席(行列)を眺める。見られる者(客体)であった彼(女)らが、見る者(主体)になる瞬間である。これは、有史以来、支配の客体であった人民が政治の主体となる時代の始まりを告げるものだと解し得る。またこの演出では、最終行の「1926年10月作」まで発話の対象としているが、これは効果的にこの時代を想起させる。そしてこの演出では、語りが始まる直前、民衆の子供がこの話を幾度も聞きたがり、母親もまたそれに喜んで応えるという場面が付加されている。この数少ない創作部分は、語りの導入を正当化すると共に、人民の革命願望を表象し、革命到来を暗示する物語終末の場面と響き合うことになるのだ。
 他方でカーニヴァルは、民衆の不満を解消させることで社会秩序を安定化する、「ガス抜き」の装置でもある。そこで演出家は、革命到来を謳い上げたりはしないし、また人民を美化したりもしない。行列を見つめる場面のすぐ後の行列の混乱を示す場面では、我先に人を押しのけて前へ出ようとする人民の姿を描き、最後には悠久普遍であるかのような人民の生活を凝縮した場面を付け加えてこの劇の幕を下ろすのだ。テクストの内容にふさわしい、バランス感覚を備えた演出だというべきである。

(2008年6月14日観劇)


『アンティゴネ』(ハナン・スニル演出、ソフォクレス作)

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『アンティゴネ』における議論の政治
―ハナン・スニル演出 ソフォクレス『アンティゴネ』劇評

森川泰彦

 『アンティゴネ』は「対立の劇」である。この劇では、国家の敵ポリュケイネスの埋葬禁止の是非と、それを敢行した妹アンティゴネの処罰の是非をめぐって、アンティゴネが主張する神の掟とクレオンの主張する国の法がぶつかり合う。どちらが正しいかを原理的に決定できない対立が生じ、しかし決定を下さなくてはならないという極限状況が、この劇の基本構造をなしているのである。
 そしてまた、『アンティゴネ』は「議論の劇」である。登場人物は、ひたすら政治的な正当性をめぐって討議する。たとえそれが、肉親の埋葬や自己や許婚の生命という重大な私的利害に関わることであれ、ひたすら弁論によって、自己の主張の公共的正当化を図ろうとするのである。この劇の大部分は議論によって構成されているのだ。まず物語は、アンティゴネとイスメネの埋葬実行の是非をめぐる議論に始まる。これは私的な会話であるが、捕えられたアンティゴネは、公的な場でクレオンに同様の議論を挑み、クレオンもこれに応じる。続いてクレオンは、アンティゴネを弁護する息子ハイモンとの論戦に応じる。そして最後の預言者テイレシアスとの議論の後、急にクレオンは、自己の主張を全面的に撤回することになる。
 ではなぜ、登場人物たちはこれほど雄弁なのか。そしてなぜ、その発言において、公的正義を私的利害に優先させるのか。クレオンは独裁者であるのなら、なぜ相手の発言を封じ命令だけを下さないのか。同じ日に上演された魯迅の『剣を鍛える話』においては、大王の「発言はいつも短い。」これが絶対的権力者の通常の姿であろう。また、なぜクレオンは急に弱気になるのか。
 以下のように解すれば、これを合理的に説明できる。つまりは、クレオンは絶対的権力者ではないのである。「全体主義」と言われる政治体制の中にも、様々な類型がある。民主政でないとしても、首長に権力が集中しているとは限らず、複数の主体が権力を分かち持っている寡頭政も広く存在する(権威主義体制)。それではクレオンは、誰と権力を共有しているのか。それはテーバイの長老たち(コロス)である。彼は「同輩者の中の第一人者」に過ぎないのだ。だから彼は、自己の政治的決定を常に長老たちの前で正当化し、その(暗黙の)同意を得なければならない。だから挑戦者たちは、長老たちを味方につけるべく、言葉によって王に闘いを挑むのである(もっともアンティゴネの主張は、現世の公共性にとどまらない点で特殊であり、その検討は極めて重要であるが、紙幅が限られているので割愛する)。
 原理的に決定できない決定を執行するためには、裁定者の権威だけがその担保となる。戦勝の高揚の中で、既に決断に踏み切っていたクレオンは、そのように考えて後に引くことができない。彼は、自己の権威を印象付けるべく振る舞いつつも、同時に長老たちの説得に必死になる。家父長主義的な長老たちは、女に負けてよいのかと煽られてクレオンへの忠誠を維持し、民衆はアンティゴネを支持していると聞いてハイモンに傾きかけるが、踏みとどまる。彼らの中には信念を変えぬ者もいようが、大部分の者は、どちらが正当なのか迷い続けて、揺れ動く。そして程度の差はあれ、優勢な方につこうと周りをうかがう日和見主義者でもある。
 このような流動的状況を決定付けたのが、王も認める権威者テイレシアスの態度表明である。長老たちは一人ではクレオンに歯向かえず、その世俗的権威を畏れなければならないが、彼らの多数の支持がなければ、クレオンは直ちにその座を失う。そして、テイレシアスという宗教的権威の反対を目の当たりにして、まさにその危険が迫ったのだ。クレオンは己の形成不利を悟って、態度を変える。独裁者を「演じる」のをやめたのである。後は、普通の人間に戻ったそれなりに優れた男が、過酷な運命にさらされ転落していく様が描かれることになる。
 今回の上演は、クレオンの権力の限界とそれに関連した長老=コロスの重要性に着目した点で注目すべき舞台であった。クレオンは、最後を除いて堂々と自信ありげに振舞いつつも、絶えず長老たちの動向を気にし、直接の論敵たちの方ばかりでなくそちらにも語りかけ、彼らが反対意見を述べようとするなら、機先を制しようとしたのである。そしてこの舞台では、発言者が常にコロスを意識するために、体や首の向き、視線の動きが必然的に運動性に富むものになる。これは、舞台上に台を設けて、簡単な移動により身体の高低差や視線の上下を作り出すことを可能にした美術や、特にクレオンを演じた役者の高度な技量とあいまって、豊かなスペクタクルを形作ることになった。
 しかしながら、先に述べた立場からは、演出家の読解は不十分である。まず演出ノートによれば、コロスは「尊敬すべき経験豊かな大衆」で「現代における世論を体現する存在」であるという。また、アフタートークでの発言では、クレオンは短絡的思考の現役の司令官、コロスは思慮深い退役軍人であると位置付けられていた。しかし、テクストはコロスをそのように理想化していないし、かかる解釈では、ポピュリズムに対する批判を欠くことになる。さらには、そもそも民主主義国家(イスラエル)を、権威主義国家テーバイに直接重ね合わせることはできないのだ。
 そして最も重大な欠点は、そのような理解では、王と長老たちとの、また長老同士の間の、イデオロギーや利害の対立・緊張関係が基本的に存在しなくなってしまうことである。実際の舞台も当然これを反映し、対立が生じても原理的なものにはなっていなかった。このような演出では、この劇が持っている政治劇としての可能性、現代にも通じる政治の本質を描いた普遍性が、十分捉えられているとはいえない。長老たちの支持獲得をめぐる『言葉の政治』に着目するにとどまらず、彼らに出自や信条により異なる政治的主体性を与えて初めて、それが実現するのである。そうして初めて、異なる意図を持った様々な主体に働く多様な力のぶつかり合いとそのダイナミックな変化を、ギリシャ悲劇特有のコロスを活かして顕在化する演出も可能になる。そしてそのためには、せりふを意味論的に理解するだけでは不十分であり、語用論的に把握する必要があるのだ。今回の舞台は、すぐれた着想を有し、かつそれを巧みに形象化していたが、これらの点で不徹底に終わったと考える。
 なお、日本の古典演出においては、テクストにきちんと向かい合うことのない安易な改竄が横行しており(根拠があれば改作を否定はしないが)、特にギリシャ悲劇の合唱部分は、扱いが難しいためきちんと上演されることは少ない。この点この舞台では、コロスの合唱なども省略せず、かつ無理なく上演していた。そしてギリシャ悲劇は、能がそうであるように本来音楽劇でもあったのだが、この舞台では、台を太鼓代わりにした荒々しい演奏や、アンティゴネの歌など、優れた舞台効果を有する音楽に富んでいた点でも、見応え聴き応えがあった。これらも高く評価すべきである。

(2008年6月14日観劇)