野外劇の開演前、高低差のある観客席から舞台を見下ろすと、砂の格子がまず目に飛び込んできた。砂の格子は、舞台の床面に規則正しく原稿用紙のマス目のように引かれていて、所々に欠けがあった。
それが固定された舞台の装飾ではなく、本物の砂でたんに引かれた線であることが、はっきりしたのは舞台がはじまってからだ。精神病患者たちが、その砂の格子を必死に避けるようにして、飛び跳ねまわるのだ。
砂というのはそもそも海と陸との境界線によくあるものだ。精神病患者たちの狂気が限界まで高まると、倒れながら、砂の境界線を壊してしまうものもある。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■入選■【マダム・ボルジア】小田透さん
心理劇は野外化できるか、または『マダム・ボルジア』に欠けているもの
もしオイディプス神話が根源的な物語であるとしたら、それはフロイトが考えたのとは別の理由かもしれない。欲望の原型――息子は父を殺し、母を娶りたいと欲望する――を示しているからではなく、起源をめぐる原‐物語――わたしの母は誰なのか、わたしの父は誰なのか、わたしは何者なのか――だからではないだろうか。ヴィクトル・ユゴーの室内楽的な心理劇『リュクレース・ボルジア』を、宮城聰は、母と息子についての根源的な神話的物語『マダム・ボルジア』へと翻案的に演出する。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■入選■【メディアともう一人のわたし】西史夏さん
メディアともう一人のわたし~メディアのなかの多様性~
いま、韓国フェミニズムが熱い。
“Kフェミ”と日本で呼ばれるそれらの文学が注目を集めるきっかけとなったのが、昨年末邦訳された『82年生まれ、キム・ジヨン』である。今も書店に平積みされているこのハードカバーを私も最近になってようやく読んだ。胸が痛くなると同時に、これまで自分が感じて来たわだかまりのひとつひとつを飲みこめたような、どこかすがすがしい読了感があった。ここには、二〇一五年に三十三歳を迎える主人公キム・ジヨンの半生が描かれている。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■入選■【マイ・レフト/ライトフット】小田透さん
「障碍についての映画についての劇についてのミュージカルについてのコメンタリー」
障碍についての自伝、についての映画、についての劇、についてのミュージカル。ロバート・ソフトリー・ゲイルの『マイ・レフトライトフット』は入れ子状の構造をしている。起源には1954年に書かれたクリスティ・ブラウンの自伝『マイ・レフトフット』がある。第2の起源が1989年にダニエル・デイ=ルイス(DDL)主演の映画だ。スコットランド演劇祭での優勝を切望するアマチュア劇団がこの物語を舞台化しようと悪戦苦闘するさまを描くのが、2幕仕立てのミュージカル『マイ・レフトライトフット』である。インクルーシヴでダイヴァースな劇にしたら審査員にアピールできるのではないかという劇団員の軽い思いつきが、次から次へと思わぬ厄介事を引き起こし、ついには劇団の分裂に至ってしまう。脳性まひで片足が不自由な修理工のクリスをアドバイザーとして劇団に招いてはみたものの、障碍者ブラウンの生の真実をストイックに追求するのか、健常者DDLのプロフェッショルな障碍者らしい演技をエンターテイメント的に再現するのかで劇団内に諍いが勃発し、主演男優グラントが役を降りてしまう。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■入選■【歓喜の詩】浅川和仁さん
涙のわけを考えている。
劇評など書いたことはない。が、書くことで何かを解決しようとしている自分がいる。たまたま帰宅後に広げたパンフレットの中に劇評コンクールのチラシを見つけた。これも何かの縁かもしれない。
2019年5月6日、私は比較的新しい友人の誘いで、静岡芸術劇場で上演される「歓喜の詩」を観た。日本の元号が平成から令和へと変わり、狂騒の中で迎えた、人によっては10連休にもなるというゴールデンウイークの最終日。前日の仕事を終え、深夜静岡に向かった。友人から同行も勧められたが、仕事の都合もあり、また人と過ごすことが得意でないこともあって、劇場の席で待ち合わせた。ピッポ・デルボーノという詩人、劇作家についてはもちろん知らない。だからどんな演劇が上演されるのかもまったく予想していなかった。 続きを読む »
ふじのくに⇔せかい演劇祭2019■選評■SPAC文芸部 大澤真幸
「ふじのくに⇄せかい演劇祭2019」の劇評コンクールに対しては、26本の劇評の応募がありました。内訳は次のようになります。『Scala』への劇評が4本、『コンゴ裁判』の劇評が2本、『ふたりの女』に対しては4本、『マダム・ボルジア』の劇評が6本、『メディアともう一人のわたし』の劇評は1本、『マイ・レフトライトフット』への劇評が5本、そして『歓喜の詩』に対しては4本。すべての作品に対する劇評が集まりました。昨年と比べて、はっきりとレベルがあがっており、読みごたえがある劇評がたくさんありました。 続きを読む »
秋→春のシーズン2018-2019 劇評コンクール 審査結果
秋→春のシーズン2018-2019の劇評コンクールの結果を発表いたします。
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。
(応募数13作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選3作品)
(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)
■最優秀賞■
高須賀真之さん【「野ざらしで吹きっさらしの肺」としての叫び】(『授業』)
■優秀賞■
小田透さん(『授業』)
小田透さん【美的でありすぎることの問題性】(『顕れ ~女神イニイエの涙~』)
■入選■
朴建雄さん【「本当に確かなことなんて、一つもないんですよ!」-『授業』の反転と反復に滲む教訓】
小長谷建夫さん(『顕れ ~女神イニイエの涙~』)
小田透さん【愉快で奇妙な劇を批判的に楽しむために観客が知っておくべき2,3のこと】(『妖怪の国の与太郎』)
■SPAC文芸部・大岡淳の選評■
選評
秋→春のシーズン2018-2019 作品一覧
『授業』(演出:西悟志 共同演出:菊川朝子 作:ウジェーヌ・イヨネスコ)
『歯車』(構成・演出:多田淳之介 原作:芥川龍之介)
『顕れ ~女神イニイエの涙~』(作:レオノーラ・ミアノ 演出:宮城聰)
『妖怪の国の与太郎』(演出:ジャン・ランベール=ヴィルド、ロレンゾ・マラゲラ 台本・翻案・ドラマツルギー:ジャン・ランベール=ヴィルド、平野暁人、出演者ならびにワークショップ参加俳優一同)
秋→春のシーズン201-2019■最優秀■【授業】高須賀真之さん
『授業』―「野ざらしで吹きっさらしの肺」としての叫び―
ウジェーヌ・イヨネスコ『授業』という作品をはじめて観たのは(というより、「イヨネスコ」という名前をはじめて知ったのは)いまから10年ほど前、まだ学生だった頃に、百景社による公演を観に行った(正確には、公演のお手伝いをして、本番を観させてもらった)ときだった。かなり前のことなので詳細は覚えていないが、途中からどしゃぶりの雨が降りだしたこと(野外公演で、客席には屋根があったが、舞台上は野ざらしだった)、教授が言っていることも怒っている理由もさっぱり理解できなかったこと、そして終盤に一度暗転してふたたび明るくなると、ナイフを握りしめて血塗れになった教授が舞台上に茫然と突っ立っていたこと(雨はその頃にははかったようにやんでいて、余計に静かに感じられた)などが記憶の断片としておぼろげに残っていて、「なんだかこわい芝居を観た」という印象がある(ちなみに百景社は2009年の利賀演劇人コンクールにおいて、この『授業』で演出家の志賀亮史と教授役の村上厚二が優秀演劇人賞をW受賞している)。 続きを読む »
秋→春のシーズン201-2019■優秀■【授業】小田透さん
ウジェーヌ・イヨネスコは『授業』を「喜劇的ドラマ」と呼んだというが、ここで演出家の西悟志がたくらんだことのひとつは、不条理の喜劇性を徹底的に拡張することである。イヨネスコの笑いは、キャラクターのなかからというより、キャラクターのあいだから発生する。足し算はできても引き算ができず、自分の知的能力を信頼できないから考えうる限りの掛け算の答えをすべて暗記している女学生はたしかに滑稽だ。フランス語だとかポルトガル語だとか新ポルトガル語だとかさまざまな言語に翻訳しているように見せかけて、実はずっと同じ言葉を話し続けているだけの先生はたしかに馬鹿馬鹿しい。だが、真に可笑しいのは、ふたりの言葉がかみあわず、ディスコミュニケーションが発生するときだ。女学生のなかにある愚かしさと賢さの奇妙な同居は、先生が教え込もうとするある種の論理に激しく抵抗する。ふたりとも全く真面目で、茶化したところは皆無だ。この全力の真面目さのすれ違いが不思議と笑いを誘う。 続きを読む »
秋→春のシーズン201-2019■優秀■【顕れ ~女神イニイエの涙~】小田透さん
美的でありすぎることの問題性
完全な暗闇。舞台手前のオーケストラピットから舞台へと通じる階段だけがほのかに照らし出される。白をまとった女が、体の隅々にまで神経を張りめぐらせながら、ゆっくり、ゆっくりと上がってくる。指先のわずかなカーブにいたるまで完全にコントロールされた、おそろしくスローなムーブメントは、これから始まるのが厳粛な何かであることを予告している。舞台奥に向かって無言のまま歩みを進めるうちに振り鳴らされる鈴の音は、異界への誘いである。宮城聰が演出するレオノーラ・ミアノの『顕れ』は神聖な夢幻の空間のなかで演じられていく。 続きを読む »