劇評講座

2011年4月12日

『わが町』(今井朋彦演出、ソーントン・ワイルダー作)

カテゴリー: わが町

■準入選■

『わが町』劇評

蓑島洋子

とにかく疲れた。気安くリラックスして楽しむことは許されない、何かしらの緊張感と圧迫感とを受け続けていた。その圧力の正体は何なのか。
結局、私たち観客は常に見られていた。冒頭から舞台に立つ俳優たちの視線を強く意識させられた。そして次々と語られるグローヴァーズ・コーナーズの町の風景を食い入るように見つめている私の姿は、そこには存在しないたくさんの目にさらされているということを感じていた。

開演アナウンスが繰り返され、すでに幕が上がっていたことに気付く。現実の世界から「わが町」へと強引に引きずり込まれる。心細くなるほどの暗闇はさらに現実を断ち切り、ようやく得た光に頼らざるを得ない。しかしただの光ではなかった。それは舞台で照明の中に立っているのと同じ感覚だった。
私は観客として、進行係の言葉で描かれる町の景色を追いかけた。活き活きと働き、生活を送る町の人々を見ていた。町の明るい日の光を、ゆったりと流れる時間を、とても美味しそうなウェブ夫人のベーコンを、人々の幸せを、悲しみを、成長を、生と死を見ていた。私は観客として、少し離れた所から町を見守っていたはずであった。ところが私は、知らず知らずのうちに町を見守る観客の役を演じさせられていたのである。思えば舞台の上の俳優たちも私たち観客と同様に、ギブスとウェブの家庭の様子を観る演技をしていたではないか。
町を演じる俳優がいて、町を見守る観客がいて、合わせて一つの町となり舞台となる。実在しない客席を意識しながら作品を創り上げる。時には聴衆として、または町の人として、そして町に眠る者として。再び暗闇に包まれて現実世界へと解放されるフィナーレの瞬間まで、私たちは観客役を演じ続けさせられていたのだった。幕間の休憩の間でさえ、作品の一部だったと振り返る。

そもそもは「劇中で俳優たちが賛美歌を歌います」という案内に魅かれたのである。どのような音楽が聴けるものかと、楽しみにその時を待った。そして確かに賛美歌が歌われた。パートを分けて重唱してもいた。素晴らしい演奏なのか、といえば決してそうでもない。音楽的にはソコソコの出来栄えなのである。しかしそれは町の人が賛美歌を歌うシーンなのであって、ソコソコの仕上がりであることこそが作品のリアリティーであるのだと気付かされた。町の人々が賛美歌を歌う、コーラスの練習で、結婚式で、葬儀の場で。宗教の違いがあれども、まさに私自身の生活の一部を見ているようである。
舞台芸術と音楽芸術との違いがこのような形で現れることは興味深い。ごく狭い視野で言えば、音楽の世界では技術的であればあるほど「上手い」とされるであろうが、舞台の世界でそれは成り立たないということなのだ。あるいは技術的でないと思わせることさえ「上手い」に含まれているのかもしれないが。
私たち観客の役もまた、技術を狙っては成り立たないものであったと思う。役割を知らされていなかったからこそ、演じきることができた。カメラに残った私たちの表情はいかがなものだっただろうか。観客としてソコソコの表情だったなら、上手くできたということではないだろうか。

また特に印象に残るのは、舞台上で小道具として使用される数々の椅子である。それはどれもが未完成で不完全なものばかりだが、自立して床に立つことができ、大体には座ることもでき、見た目には十分に椅子だとわかる。それぞれが個性と存在感に満ちている。
その不完全な椅子の並ぶ様子は、私たち人間ひとりひとりの不出来さと孤立感を現しているようで、ぞっとした。同時にまた、人間の一生も不出来で不完全なものであることを物語っていた。
誰も人生を完成して終わることはなく、全ての人が不用意に不完全に人生を断ち切られていくのが当たり前であるということを、これまで実感したことはなかった。私の人生も例外なく、作りかけの椅子のように完成品とはならずに終わっていくことを。しかし少し残念だが悲観することはない、完成を目指して生きていくことに変わりはないのである。

以上

『令嬢ジュリー』(フレデリック・フィスバック演出、アウグスト・ストリンドベリ作)

カテゴリー: 令嬢ジュリー

■入選■

『令嬢ジュリー』劇評

丹治佳代

フレデリック・フィスバック演出の『令嬢ジュリー』鑑賞は、観劇という行為の枠を大きくはみ出した、ひとつの強烈な体験だった。終演時は心身がはげしく疲労し、出演者たちに拍手を送ることも、ろくにできなかった。懸命に何かに取り組んだ際の疲れを「心地よい疲れ」と言ったりするが、今回感じたのは、そうした疲労とは異なるよりハードな疲労である。ここまでの疲労感・緊張感を私に与えたものは、一体なんだったのだろうか。

観客の精神に緊張感をもたらしたものとしてまず浮かぶのは、舞台装置の存在だ。舞台上には、駅のホームにある待合室のようなガラスの密室が設けられている。洗練されたシステムキッチンと、本来屋外であるはずの竹林が、ひとつの密室として存在しているのだ。上演開始から終了まで、コロスを含めた登場人物たちは、基本的にこの密室内でぶつかり合いを繰り返す。密室が観る者にもたらす圧迫感は大きく、劇の進行とともに密室内には、はけ口を見つけられない登場人物たちの情念が蓄積されていくようだ。観客は、密室内に増し続けるこの圧迫感・閉塞感を受け止めなければならない。

この舞台装置は、戯曲の台詞にも影響を及ぼす。伯爵令嬢のジュリーと、伯爵家の召使であるジャン。この二人の欲望と本音のぶつかり合い、そしてすれ違いが戯曲『令嬢ジュリー』の主だった筋であり、そこに伯爵家の料理番でありジャンの許婚でもあるクリスティンが関わりながら、劇は進んでいく。戯曲のキーワードであり、ジュリーとジャンが取り憑かれているのが、「上昇と下降」という概念だ。何としても社会的に上昇したいジャンと、自らより社会的下位にいる者に戯れに興味を示しつつ、「(社会的な意味であれ精神的な意味であれ)自分は上にいる」という意識に縛られているジュリー。「のぼる」「おちる」「おりていく」など、二人の台詞には、上昇と下降を表現する言葉が随所にあらわれる。しかし、いくら二人が上昇を望んだり下降を呪ったりしても、彼らが身をおくのは上下左右に出口のない密室だ。私たち観客は、彼らが上昇や下降を表現するたびに、彼らが上にも下にも行けず定位置にとどまり続けるしかないことを見せつけられ、彼らの発する言葉に悲愴な影を感じざるを得ない。

登場人物たちを閉じ込め、上昇や下降という概念を無効にしてしまうこの密室を、私たち人間が生きている限り抱き続ける閉塞感のあらわれとみることは、正しくもあるだろうが、安易すぎるように思う。私は、この密室は、閉塞感をあらわすものであると同時に、もうひとつの意味を体現していると考えたい。—この密室は、「対面」や「向き合う」という関係性を私たちに強調して提示しているのではないだろうか。

いま挙げた「対面」そして「向き合う」ということは、今回の『令嬢ジュリー』において大きな意味を持っていた。まず、『令嬢ジュリー』公演のために芸術劇場内に足を踏み入れた観客は、自分自身を含めた場内全体と対面することから、観劇行為を開始せねばならない。というのも、上演前の劇場内は、舞台上の密室—上演前であっても幕で覆われてはいない—が巨大な鏡のような役割をしており、上演を待つ私たち観客を映し出していたからだ。観劇前に自分と対面させられるという体験のインパクトは強く、上演中何度か、「今は見えてこそいないが、この舞台は私たちを映し出しているのだ」という思いが頭をよぎる。また、ジュリーとジャン、ジャンとクリスティンが、これから先のこと—これから先、自分(たち)はいったいどうしたらいいのか—について対話をするとき、彼らは非常に印象的な「対面」をする。彼らは、密室内の四隅のうち対角線上で向き合う地点に立ち、ありったけの大声で叫びながら、未来についての言葉を互いに交わすのだ。近づいて小声で囁くこともできるのにそうせず、「距離をとって大声で叫ぶ」という、もっとも労力を要する方法で自分の言葉を相手に伝えようとするこの対面のシーンは、俳優たちの熱演もあり、見るものの胸を引きちぎるような痛みを帯びていた。

そして、こうした必死の対面を行なう登場人物たちを包み込むかたちで舞台には密室が存在し、この密室が私たち観客と対面していた。密室という強固な舞台装置により、舞台上で観客と向き合っている演劇空間の輪郭が、はっきりと浮かび上がる。ジュリー、ジャン、クリスティンという存在やそれぞれの関係性が個々の細胞となり、舞台上の密室という大きな存在を作り出す。そして私たち観客は、劇場内でこの密室と対面し、ぶつかり合ったのだ。

本評冒頭で私は、観劇後にはげしい疲労を感じたことに触れたが、それは、濃密な演劇空間と正面から向き合ったことに因るものなのだろう。本公演の観客となったことを語るとき、傍観のニュアンスのある「演劇を見た」という表現はためらわれ、「演劇と向き合った」という言い方こそがふさわしい。『令嬢ジュリー』においては、俳優も、観客も、演劇空間そのものも、まさに当事者であった。

今回の公演を「面白かったか」と聞かれてもすんなりと答えることはできないし、人に勧めたいかどうかも、容易には判断できない。しかし、私にとって『令嬢ジュリー』と対面したことで強烈な当事者感覚を得たことは稀有な体験で、観劇を終え数日経ったいま、終演後に劇場内でおくることができなかった拍手を、盛大に打ち鳴らしたい気持でいっぱいである。(10月2日観劇)

『令嬢ジュリー』(フィレデリック・フィスバック演出、アウグスト・ストリンドベリ作)

カテゴリー: 令嬢ジュリー

■入選■

分裂と統合の帰結
SPAC公演<令嬢ジュリー>を観る

阿部未知世

<SPAC秋のシーズン>の演劇作品のトップをきって上演されたのが、ストリンドベリ作の<令嬢ジュリー>である。この公演で、フランスの気鋭の演出家フレデリック・フィスバックは、19世紀末という大きな時代の転換期のダイナミズムを、象徴的なかたちで現わすことに成功した。

物語は、貴族の令嬢ジュリーの、破滅に至る過程を描いている。

保守的な貴族の父と、自由主義的な今は亡き母。このふたつのアンビバレントな遺伝子のもとに生まれたのがジュリーである。貴族のプライドと滑稽ともみえるリベラリズム。その狭間で不安定に揺れ動く彼女は、夏至祭の乱痴気騒ぎの中、使用人のジャンにお相手をさせているうちに、いつしか一線を超えて……、結ばれる。

ともに働く料理女の許嫁がある身のジャンだが、いつになく安らぐジュリーに、事業の夢を語り始める。ジャンは下僕とは言え、充分に有能で才覚もある。ただ、金だけがないのだ。貴族のお嬢様ジュリーに金を出させ、ふたりで事業を始めようと持ちかける。

ジュリーはためらった後、父親の金を持ち出す。しかしジャンの打算と保身により、ジュリーとともに家を出ることは、ついになかった。あまつさえ、力なく佇むジュリーを死へと導いて……。

演出家フィスバックはこの一部始終を、夏至の白夜を彷彿とする、白を基調とした現代的なしつらえの中で展開させる。舞台美術のローラン・P・ベルジェが創り出すミニマリズムの空間は、物語の骨格をはっきりと際立たせる。加えてフィスバックは、原作にはないコロスを登場させる。生活者であり、市民であり、共同体の成員である彼らは、変革の担い手として、ダイナミックに活動する存在なのだ。

何故この舞台が、時代の転換期という情況を反映して、象徴的なのだろうか。分裂と統合という視点から考えよう。

19世紀末、リベラルな社会改革の潮流はすでに生まれてはいたが、ヨーロッパはいまだ階級社会であり続けていた。厳然と分割された階層構造が続いて来たとは言え、すでに貴族階級没落の趨勢は、否定しようもない。そして性は、いまだタブー視され、あまつさえ女性の性欲は、その存在すら否定されていた。当時人々は、精神と身体、身体と性が、程度の差はあれ分断された中で生きざるを得なかった。その中で起こった、ジュリーとジャンの情事は、階級を突破し、タブーを白日のもとに晒し。当時の社会が内包していた境界線を大きく踏み超える、衝撃的で破壊的な事件たり得たのだ。

ジュリーは没落しつつある階級を生きる一方で、時代を先駆け過ぎた意識のある、精神に深く大きな裂け目を持つ女性。彼女は、内的な分裂から生まれる様々な矛盾を、そのまま並置することで、かろうじて精神の安定を保っている。その意味でジュリーは、極めて脆弱な存在なのだ。

一方、平民のジャンは、貴族に対して表面は慇懃に使えている。有能であるが故に野望もある。しかしそれを実現する手段を持たない。それ故に思いと現実の間で分裂し、行動を起こせない無力な存在となっている。

こんな二人に訪れた夏至祭は、祝祭という非日常の時であり、夜がない非現実の時である。その時だからこそ可能となった、異なる二つの存在の融合の力は、コペルニクス的転回をもたらした。

ジャンは、実業家となる野望をもう隠さず、そのためにエゴイスティックな行動をとって恥じない。分裂していたジャンは、統合されることで力を得た。しかしジュリーは、自らが抱える分裂情況を、はっきりと認識することによって、これまでかろうじて保たれて来た精神の統合が破綻し、急に無力化する。

貴族と民衆という二つの力がこの時、ドラスティックに転換した。無力化する貴族と力を得る民衆という新たな図式が、息づくこととなった。ジャンに代表される民衆はいまや、貴族階級の象徴たるジュリーを破滅させるだけの力を持ったのだ。事実、ジュリーの父親の貴族はついに姿を見せず、ただ厳つい革のブーツでのみ象徴される。そしてエネルギーに満ちた民衆を象徴するのが、コロスなのだ。彼らはしかし、決してカマとハンマーを手にした、プロレタリアートではない。共同体の成員、市民社会の生活者として存在している。何故なら彼らの中には、伝統的な共同体の祭礼に登場する、異形のものが混ざっているのだから。

しかし、彼らは伝統を墨守し続ける存在ではない。事実、貴族の家の料理女はキリスト教を盲信し、尊敬できる人に雇われていることに自尊心の根拠を置いていた。彼女はいつしか、舞台から消え去って行った。演出家は、近代的な自我を持った市民社会の成員としての民衆を登場させたのだ。

歴史はまさに、この物語に呼応している。戯曲発表の翌1889年。ヨーロッパ最強を誇ったハプスブルグ家が支配するオーストリアでは、皇太子ルドルフが謎の死を遂げた。貴族の娘との情死との定説はあるが、交際相手の女優に断られた果てのこととも言われる(暗殺との説も)。この事件により、ハプスブルグ家によるオーストリア支配は終わりを告げた。当時の文化的最先端の地、首都ウイーンはまさに、こんな情況だったのだ。

時を同じくして、性の問題にも、微かな光が当たり始めていた。ジークムント・フロイドはウイーンにあって、精神分析を確立する歩みを始めていた。もしジュリーが精神分析に出会えていれば、こんな破滅的な結果には至らなかっただろうに。

フィスバックはこの戯曲を、ジュリーとジャン二人だけの、密室的な葛藤の物語を、より高次な、時代の転換期の悲劇へと昇華させることに、手堅く成功したのだ。

<了>

『ユ メ ミ ル チ カ ラ-REVE DE TAKASE-』(メルラン・ニヤカム振付・演出)

■入選■

「ユメミルチカラ」を取り戻せ!

おおのひろみ

公演が終り、ふと気が付くと、自分の頬ほころんでいて「笑っている」事に気が付いた。その瞬間まぎれもない幸福感に会場全体が包まれていた。後ろの席の女性は感極まって涙さえ見せていた。

こういった舞台には、『よく頑張ったねー、上手だったねー』で終ってしまうモノが少なからず存在する。子供たちの一生懸命さが伝わってきたとしてもだ。

テレビ番組などでも、実に巧みに歌ったり踊ったりする子供たちがしばし登場したりもする。しかしその子供たちから「生きている」感じは伝わってこない。「歌わされている、踊らされている」感がつきまとっているのだ。

オーディションで選ばれた静岡県内の中高生10名のダンサーたちが、90分間舞台の上を縦横無尽に駆け抜け、確かに「生きて」いた。

初心者も含まれていたらしいが、ほとんどは、ダンスやバレエなど「腕に覚えアリ」の子供たちだったように見受けられた。しかし、ニヤカム氏の振付は彼らのそのような経験値をあてにはしているようには見えなかった。個々の身体能力に応じた振付を施し、かつ、稽古の過程に於いて徐々にハードルを上げていき限界以上のモノを引き出したのではないのだろうか。そこに「踊らされている感」が無かった理由があるように思う。

当初のフライヤーには上演予定時間が60分と記載されていた。ところが、公演時には90分近い作品になっていた。稽古を積み上げる中、どんどん要求に応えてくるダンサーたちを前にニヤカム氏も、新たな要素をどんどん加えていったのではないかと睨んでいる。子供たちが輝く瞬間を導き出したニアカム氏の手腕に脱帽するとともに、しかしそれだけでは、単なる「子供たちが一生懸命頑張った舞台」にしかなるまい。プラスアルファの感動を生んだのは、他にどのような要素があったのだろうか?

公演当日の配付資料によると、この公演は仏題で「タカセくんの夢」というのだそうだ。様々な文化と世代の出会いと混じり合いを描き、自然と調和しながら暮らし、お互いのコミュニケーションがとれるような、よりよい世界を夢見ている、ということだそうだ。

この資料を読んだのは、実は舞台を観た後だったのだが、意外にベタな設定だったのだなと、逆に驚いてしまった。

確かに、モノクロの映像だったり、上下逆さまの映像などの前で、黒ずくめのマント、マスクで顔を覆ったダンサーたちなどは、コミュニケーションレスの現実世界を象徴したモノだったのだろう。翻って、後半は映像も衣裳も軽やかでカラフルでユメの世界の実現を描いていたように思う。また、同じく後半に登場した大きな木。切り絵のようなレース編みのような美しい模様の木は、希望の象徴である「バオバブの木」なのだそうである。照明で色とりどりに照らし出されたり、影絵のダンスを映し出したりした。

衣裳は何パターンもあり、ダンサーたちは早着替えで臨んでいた。

素晴らしい舞台装置・仕掛けの数々である。

夢や希望を語るには格好のシチュエーションである。

しかし…この手のテーマのモノにつきまとう胡散臭さ…にいつもうんざりしてしまうのは自分だけではあるまい。夢だの希望だの愛だの平和だの声高に語られれば語られるほど、「青臭いなあ」とか「そんなことアル訳ナイじゃん」などと思ってしまうのだ。

先に書いたが、この舞台が、夢や希望を描いていたと知ったときは少なからず驚いた。というのも、この舞台には「胡散臭さ」をほとんど感じなかったからである。

解の一つは、対立軸に「オトナ達」を持ってこなかったことがあるのではないだろうか。「生きづらい社会を作ったオトナ達」を対立軸にして「正義の子供たち」が世の中を救うというありがちな構図が無かった。舞台にいる子供たちは、コドモではなく、一人一人のダンサーたちであり、コドモでありオトナであった。人間であった。子供は決して純真無垢で正しいイキモノではないのである。ミドルティーンの出演者達は、その表現者として最適であった。

何でも労せずに手に入る環境の中で、子供たちは、夢や希望を失ってしまったという。

理由は様々あろうが、ニヤカム氏は、その閉塞感の理由が、バーチャルな世界にあるのではないかという仮説にたった。

私が子供だった頃より、この国は、ずっと豊かで便利で安全でクリーンな社会を実現してきた。そして、それは様々な感情・体験に「身体」を伴わないという弊害をもたらしてしまった。

そんな大人たちがお膳立てした、安全でクリーンな世の中で、自分のチカラ・身体で何かをつかみ取る事はむずかしい。しかし、この舞台のダンサーたちは、それを成し遂げたようにみえたし、舞台を観た私たちにも、それが可能である事を、思い知らしめた。

しかし、それはニヤカム氏の稀有な演出やSPACの組織力という、完全に守られた環境で成し遂げられたものだ。実は大いなる矛盾を抱えていたのだが、ニヤカム氏は、それすらも見越していたのではないだろうか。してやられた!脱帽。 (了)

2010年9月28日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

カテゴリー: 彼方へ 海の讃歌

■卒業者劇評
母なる海が煽り立てたマゾヒズム的生成変化の舞台
―フェルナンド・ペソア作 クロード・レジ演出『彼方へ 海の讃歌』劇評

森川泰彦

1 テクスト分析
I 大意
II 解釈
i マゾヒズム幻想論
ii 生成変化論
2 上演分析
I 演出家の読解
II テキスト・レジ
III 演出
i 前説
①〈現実〉〈虚実〉〈虚構〉
②「空無」「欲望」「力動」
ⅱ各説
①〈物体〉
②〈身体〉
③〈光〉
④〈声〉
⑤〈空間〉
iii 総説
①一体的〈虚実〉
②無と力の美学
③無意識的「交歓」
3 レジ演劇導入の意義

1 テクスト分析

この舞台が上演対象とするのはペソアの長詩であり、これをほぼそのまま一人の役者が「朗誦」することが、その大部分を構成している。従って、この舞台の享受においてかかかるテクストの理解は決定的に重要であり、まずはこれを詳しく分析しておく。

Ⅰ大意

波止場に佇む一人の男が、遠く入港してくる貨物船を眼にするところから、「物語」は始まる。動力船に我知らず同一化し、己と世界のアイデンティティの揺らぎを感じ始めた男は、内なる「はずみ車」を回して想像の大海に乗り出すのだ。まず、「絶対の隔たり」である「在りし日の海」の「神秘」に想いをはせながら、彼は「水の夢」に囚われ始める。海は様々に彼を呼ぶが、それを集約するのは、「イギリスの船乗り、わが友、ジム・バーンズ」の叫びである。彼はその声に「おれの血へ向けられた古の愛」を感じ、狂おしく出発へ駆り立てられて、「人生の窮屈さ」に「激昂する!」。海洋冒険者たちへ、「おまえたちと道徳観念をなくしたい!」、「遠くで自分の人間性が変わるのを感じたい!」「規律ある、繰り返しの生活を」「脱ぎ捨てたい」と羨望を込めて呼びかける男は、雄叫びを上げつつ次第に常軌を逸してゆく。反乱を起こして船長を首吊りにする船乗りたちに血を滾らせた彼は、ついには、古の「凶暴で強欲な大海賊の歌」が轟く中、自ら非道な殺戮に加担して愉しむに至るのだ。
ところがそうした「サディスティック」なイメージは、二度にわたって「マゾヒスティック」なイメージへと一転することになる。「おれの人生を」「海に投げ入れたい」男は、「苦痛を孕みながら享楽的に『死』に導くこと」を欲し、「おれを切り刻み、殺し、傷つけよ!」と叫び、「おれは生身のまま、世界のあらゆる海賊犠牲者たちの集大成になりたい!」、「海賊たちに犯され、殺され」「たすべての女になりたい!」と告白するのである。「夢がその絶頂に達しようとするなか、おれは完全に自失し、」「おれの中の女性性」が「おまえたち(=海賊)となる」。「とめどない官能性の中で」「おれは服従の役割をいつまでも誇り高く手にしたい」と洩らす。言葉にならない叫びは極まり、「おれのなかでなにかが砕け」、その結果「おれの魂は空になり」「夜の海だけ」が残る。その「『海』の深いところから」「セイレーンの声が」「生まれ」、「この歌の響きはおれの過去から二度とふたたび手にすることのなかったあの幸福を呼んでいる」。彼は、「息子を亡くしたこともあっておれをかわいがってくれた年老いた叔母」の歌った船の歌を思い出して涙を流し、「美しき王女」の歌や「誰かに壊されたおれの人形」の想い出に浸りながら、「子どもとしていつまでも、喜びのままいつまでもいることはできないのか」と嘆く。崩壊しかかった想像力を呼び覚まそうと苦闘する中、「突然に、より遠くから、より深くから」やってきたのは、「思いがけない冷たさ」である。「バーンズの古の声」が、「おれのなかで母親の膝と妹の髪のリボンといったたわいもないことについての不可思議な慈愛の情の声となり、事物の表層を超えて奇跡的に到来する」。それは、「絶対的なるものの声」となって「おれを呼ぶ」のだ。
その後「おれは閉じていた眼を開」き、「夢から抜け出」して「神経の休まるここ実在の世界に」帰って来たこと喜ぶ。そして「すべてがしっかり整備され、すべてがとても自然に配置され」た「現代の海の生活」に感心しながら、「自分の時代を誇らしく思」いもする。しかし「現実のむき出しの時刻」、残ったのは「おれの悲しみだけ」である。
続きを読む »

『頼むから静かに死んでくれ』(ワジディ・ムアワッド作・演出)

■卒業者劇評
頼むから静かに死んでくれ(原題─沿岸─)

井出聖喜

主人公のウィルフリドの独白によって舞台は始まる。彼は、行きずりの少女と「人生で一番すごいセックス」をしている最中に電話が鳴り、父親の死を知らされる。この若者は、「(ぼくの人生は)はじまらないうちにおしまいになった」(三島由紀夫『近代能楽集─邯鄲─』)ような思いにとらわれており、セックスをすることにしか、言を換えれば性的高揚感の中にしか生きていることの実感や意味を見出せないでいる。
その一方、彼は自分の人生の折々の場面を映画に撮る幻想にひたっている。これは彼が自分の人生にとにかく美しい形を与えたいと願うロマン主義者の一味であることを物語っていよう。要するに彼に欠けているのはずしりと手応えの重い現実であり、希薄な現実がさらさらと手の間からこぼれ落ちた後に残ったのものは、持て余すしかない虚無であろう。

「リーン・モシモシ・キテクダサイ・アナタノオトウサンガシニマシタ!」と、父親の死を知らせた言葉が何度も彼の中で反芻される。これは、ずっと自分の中で決着を付けきれないできた父という存在が、その死によって「宙吊り状態」になってしまっていることを証している。「母を殺し、父と寝た」というシニカルな自己批評の言葉は、エディプス・コンプレックスなどというわかりやすい言葉でくくられる以前の未分化な状態に彼がとどまっていることを証拠づけている。また、その彼は突然現れたアーサー王の円卓の騎士の一人と思しきギィロムランと共に父の死体を葬るために父の故郷まで旅をすることになる。円卓の騎士と結構饒舌(!)な父の死体──彼の中では現実も幻想も境目なく同居しており、そんな子どもの心を捨てきれないのが、彼、即ちウィルフリドなのだ。
結局彼は父を海に葬り去り、幻想の騎士とも別れることになる。その時、彼の子ども時代は終わり、彼は知り合いになった若者達と共に人生に向かって歩み始める。要するに2時間45分、休憩なしでひた走るこのドラマは、オイディプスに近付き、ハムレットを越えていこうとする現代の少年のイニシエーションの物語なのだ。

さて、ウィルフリドの独白で舞台は始まると冒頭に述べたが、正確にはウィルフリドが他の人物によって白いペンキ様の塗料をかけられ、塗りたくられるところから始まるのである。この「ペンキ塗り」は、しばらく後、次のような場面へとエスカレートする。則ち、ある人物が円筒型の缶らしきものを握って股間にあてがい、ピストン運動をさせた後フタを取って中の白い液体を放出させるというものだ。度の過ぎた悪ふざけとしか思われない場面である。しかし、そうした思いは、ウィルフリドの母が難産に苦しむ中、子どもに命を与えるために死ぬ場面で彼女が頭から赤い塗料を浴びせられるのを見るに及んで一変する。この白と赤の塗料は要するに精液と女の子宮の血液であり、性と生の簡明なるアレゴリーであったと納得させられるのだ。「人が生まれて、生きること」とは畢竟この二つの液に収斂されるということか。

しかし、このドラマは社会道徳の欺瞞性を告発したり、倫理的アナキズムを過激に主張したり、といったものではない。しばらくこのドラマを追っていくと、そうした過激な、あるいは児戯にも等しいと見えるパフォーマンスの中から各登場人物(死体である父も含めて)のイノセントな魂、そして彼、または彼女らが語る言葉の詩的イメージの広がり、更にはそれぞれの直面した苛烈な現実と、それをくぐり抜けて到達したであろう、人生に対する透徹した洞察とが次第に立ち現れてくるのである。また、活力のみなぎったスピーディーな舞台展開とはうらはらに、その内奥には生と死に対する静謐な祈りにも似た思いがある。
例えば、前述の、ウィルフリドの母が「妻を助けるために子供の命を絶つ」と主張する夫イスマイルの訴えを拒み、ウィルフリドを産んだ後に死ぬ場面。「命が、命が私の外に!」「命がそこにある! 命はなんて美しい」と、魂の叫びを叫ぶ時のウィルフリドの母、ジャンヌは神々しいほどに美しい。また、例えばウィルフリドが父親の故郷で知り合った若者の一人、サベが、自分の父親をこれ以上ないとも思われる残酷さと辱めの中で殺されたことを語る様の衝撃は観客の胸を突き刺さんばかりだ。
更には、人の名を次々に口にしながら登場するジョゼフィーヌ──彼女はその国のすべての町や村のすべての人の電話帳を持ち、小さな村のものは手書きをして集めたが、鉛筆がなくなった後は全部暗記したという。彼女はまた、「洞窟に住んでいる隠者や隠れた湖のほとりに住む世捨て人を忘れていないか」不安であり、「新しく生まれた子供たち、私が訪ねた後から来た人たち」もいると訴える。ただの一人もゆるがせにするわけにはいかないというオブセッションとも言うべき執念が彼女にはある。一つの名前にはその人の膨大な人生の記憶が詰まっている。だとすれば、ただのひとりといえどもいいかげんにすませるわけにはいかないのだ。「交通事故死者数5155名で、減少傾向が続き、大変喜ばしい」などという立場とは全く正反対の姿勢がここにはある。

ドラマもこの批評もそろそろ最後になる。ウィルフリドの父親の死体は海に沈められる。父は羊飼いとなり、群れの守り人となる。群れの守り人とは神のことだろうが、現代の神は「虚無」の御手に抱かれている。人生に折り合いを付けると言っていたウィルフリド。彼は父の死体を虚無の広漠たる海に委ねることで、自分の中の「虚無」を葬り去ったのではないか。そうすることによって、彼は生きることに向き合おうとする。広大無辺な虚無の海のこちら側の岸に我々の人生がある。生きている者はその海を背後に感じながらも沿岸の大地を踏み進んでいかなければならない。人生は生きている者たちに委ねられているのだ。
ラスト・シーン。父親を葬り去った若者達は、一種透明な微笑をたたえながらゆっくりと、しかし、確かな歩みを始める。その歩みが捉えようとしているものは「未来」などではない。今の彼等の、そして私たちの、のっぴきならない現実なのだ。

美しい舞台だった。「ペンキ塗り」がどんなに汚かろうとも美しい舞台だった。
いい舞台作品を見ると、自分の目の前の現実がつまらなく思えることがある。しかし、これほど美しいドラマを見た後では、自分も自分の人生とまっこうから向き合ってみようかと、遠からず還暦を迎える筆者も、粛然として襟を正す気になったものだ。そういう力を、この作品は持っている。

『王女メデイア』(宮城聰台本・演出、エウリピデス原作)

カテゴリー: 王女メデイア

■卒業者劇評
“言葉”の悲劇

奥原佳津夫

有度山の深い翠を借景に緋傘が立てられ、裏を返せば文明開化の錦絵をあしらった傘も並んで、ハイカラな野点といった風情。ただし床に敷き延べられたのは毛氈ならぬ、血だまりのような日の丸である。襷掛けの女中が十人ばかり紙袋で顔を隠し、それぞれの写真を遺影のように抱いて立ち並んでいる。法服の男たちが登場し、謡の会めいた座興に人形として使う女を品定めする。こうして劇中劇として幕の開くSPACの『王女メデイア』は、まさに“言葉の悲劇”と呼ぶにふさわしい作品であった。その“言葉”と“悲劇”について、以下三つの観点から見てみたい。

まず第一に上演形式から。古代ギリシア悲劇は、ヨーロッパの言葉の演劇の源泉たる詩劇であって、擂鉢型の客席をもつこの野外劇場は往古の上演を偲ぶにはうってつけなのだが、この上演は古代劇を模したものではなく、台詞を語るSpeakerと人物の動きを受け持つMoverが分離した、いわゆる二人一役の手法が採られており、むしろ義大夫語りと人形、丸本歌舞伎の床と役者の関係を思わせる。この演出者(宮城聰)が開拓してきた独自の手法と云えようが、今や充分に成熟し、一つの演劇形式として確立した観がある。ことに、端座したまま客席に垂直に語られる台詞が、そのロジカルな構造までも存分に伝え、動きと分離することによって、むしろ豊かな言語表現を獲得していることに注目した。西洋古来の劇詩の、近代劇的な感性が曇らせてしまった一面を、東洋的な語りの手法が再発見した、とも云えようか。

第二に社会的な側面から。古代ギリシア悲劇は、紀元前五世紀に都市国家の祝祭に国家行事として上演されたものであり、その劇場は同時に、社会的、政治的、言論の場でもあった。現存するほとんどの劇詩が神話時代に材を得たものであるとはいえ、そこには、当時の都市国家とその市民にとってのアクチュアルな問題が読み込まれていた筈である。この上演では、Speakerを男性、Moverを女性に振り分け、明治末期から大正を思わせる時代設定の下、メデイア役の女性を朝鮮半島の出自とすることによって、ギリシア神話の異邦の魔女の物語は様相を変え、現代日本の観客が無関心ではいられぬ問題に引き寄せられている。これは、劇場を詩の言葉に耽溺するのみならず、アクチュアルな言論、言説に向けても開かれたものにしようとする試みと云えるだろう。

第三に、戯曲解釈の面から。上演は、前述の外枠の設定によって(男性による)言葉の収奪というテーマが明確に打ち出される。冒頭、女性たちが紙袋を被って立ち並ぶ光景に示されるように、言葉の収奪は、個性の収奪、(固有の)文化の収奪でもある。そして、男性たちの法服によって示されるように、支配する側の言葉は固定化され、権威付けされ、流布される。イアソンが手にして登場する書物(侵略者の視点による『アルゴ船記』か?)、塔のように聳え立つ無機質なオブジェいっぱいに挿された本、鬘桶のように使われる小道具の蓄音機が、その表象となる。メデイアの悲劇は、言葉の収奪の悲劇として読み換えられる。

実子を殺害するというメデイアの復讐手段は様々に解釈され、その動機づけは作品解釈の眼目である。原戯曲どおりに読めば、家系の隆盛を何より望む夫から、その機会を奪うことが目的であろうが、それだけで我が子を手に掛ける動機として充分だろうか?(余談めくが、ハイナー・ミュラーが『メディア・マテリアル』で提示した、「己の血を回収する」という概念は注目に値する。)この上演では、メデイアの子別れの愁嘆場を無対象で演じさせ、その傍らで当の息子は本を読んでいるという形で、完全なディスコミュニケーションを視覚化した。つまり、息子はすでに支配する言葉の側に取り込まれてしまっているのだ。メデイアの子殺しは、ミュラーにならえば、(父親の)言葉から(息子の)肉体を取り戻す行為、ということになる。

大詰、原戯曲では竜車に乗ったメデイアが登場する件りでは、意表をつく演出がなされる。それまでMoverとして男たちの言葉の支配下にあった女たちが、Speakerの男たちを殺害するのだ。芝居の外枠部分の概略を追えばこうなるだろう―座興の劇中劇が進行するうち、女の一人が手籠めにあって争ううち男を殺してしまう。(これが領主とその娘の毒殺にオーバーラップして演じられる。)それを契機に事態は破局へと向かい、メデイア役の女が巫女鈴を打ち振るのを合図に、女たちが男たちに襲いかかって鏖殺する。―芝居の幕切れとしては見事にキマる。だが反面、“言葉の収奪の悲劇”としては、これは復讐になりうるのか、という疑問も浮かぶ。緻密に提起された問題を単純化してしまいかねないからだ。原戯曲のメデイアが領主にも警戒されるのは、男の武器である言葉=ロジックを存分に使いこなす優れた知力の故でもある。そう考えた時、この上演形式における女たちの復讐は、ナイフを振るう実力行使、肉体の言葉への復讐であるよりも、計略の進行に従って、いつしかMoverとSpeakerが入れ替わるたぐいの、したたかな言葉の奪還であるべきなのかもしれない。

最後に一つ、この演出の特筆すべき点として、舞台上の離れた場所から終始展開を見守っている浮浪者めいた老婆を置いたことに触れたい。この老婆が舞台の進行に関わるのは二回だけ。メデイアが復讐の計画を乳母に打ち明けた時、彼女も言葉を奪われた女たちの一人らしく、それに応える台詞を手元のテープデッキから流す。原戯曲にこの場の乳母の台詞はない。(エウリピデスがことさら謎めかしたわけではなく、当時俳優は三人しかいないため、冒頭の乳母を演じた第二俳優はイアソンに役替わりしてしまっているという上演法の制約によるのだが)過激な復讐計画を年老いた乳母がどう受けとめたのか、演出者はこの乳母の沈黙に着目して、メデイアの情熱とは距離を置く台詞を、いわば幕外のコメンタールとして付け加えた。

幕切れに、老婆は初めて演技エリアに足を踏み入れ、殺害された男の骸を上着で覆ってやる。同じ言葉を奪われた女の一人でありながら、暴力による復讐に(あるいは復讐という選択自体に)与しない第三の視点を設定することで、作品のメッセージは多義的なものとなり、この老婆の存在は興味深い。ただし、そもそもが重層的な(記号過剰な)この作品構造に、さらに一つ外枠を加えることは、観ようによっては、結論を躊躇う演出者の留保のようでもあり、この第三の視点は観客に委ねてもよかったかもしれない。

小雨模様のこの日、芝居ごころある雨風は劇展開につれて絶妙の効果となり、満席の観客に野外劇の醍醐味を存分に味わわせる一夜となったことを云い添えておく。

(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2010.6.26所見)

『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

カテゴリー: 若き俳優への手紙

■卒業者劇評
〈間〉に立ち上がる演劇  「若き俳優への手紙」評

柳生正名

演劇とは観客と俳優の間で起こるもの―鈴木忠志の言だったろうか。オリヴィエ・ピィ作「若き俳優への手紙」が平田オリザの日本語訳、宮城聰の新演出を得て上演された。現代演劇の尖端に立つ三人の力が収斂した、その舞台上で露わになったこと、それは〈間〉で起こる出来事としての演劇そのものだった。

この戯曲(テクスト)で、主人公の「詩人」は、冒頭から幕切れまで「悲劇の精」の姿をまとい続ける。自らが「演劇」そのものの人格化され、受肉した存在であることを示すように。

劇場内には能舞台が設けられ、その上に布で覆われた巨大な立方体が据えられた。もっとも、詩人が常に身を置くのは能舞台上でなく、そこから客席へと斜交(はすか)いに渡された橋掛りの上。この「観客と俳優の〈間〉で起こるもの」としての演劇がそのまま実体化された空間で、詩人が問題にし続けるのは、演劇の依って立つ足場としてのことば。いや、正確には、ことば自体ではなく、ことばを挟み向かい合う同士の〈間〉で起こる出来事―それを、詩人は「愛」「約束」「死に打ち勝つ希望」などと名指す。今回の演出と舞台装置は、こうした戯曲(テクスト)の本質を的確に造型したものだ。

次々と能舞台上に現れ、詩人が説く理想論的な「演劇」のあり方に茶々を入れる「皮肉屋」や「文化政策担当者」。逆に過激な挑発を仕掛ける「子ども」ら、詩人以外に登場する8人の言動は様々だが、いずれも詩人の論理とは相容れない。ある意味で、彼らは「反演劇」の人格化した存在として一体であり、事実、1人の俳優(杉山夏美)が演じる。

ただ、台詞の大半を担うのは「演劇」の人格化たる詩人だ。その自己言及―演劇が演劇を演劇で語ること―が戯曲(テクスト)の基本構造である分、演出や演技次第では、物語は抽象的な台詞の堂々巡りに陥る。そうなると、演劇が立ち上がる場としての〈間〉は失われ、詩人の饒舌すら、観客には「おじさんが独りで怒っている」たぐいのものに映りかねない。

今回の舞台では、詩人が敵視するサブカルチャーの代表格、アニメ風コスプレ美少女の姿が「皮肉屋」たちに与えられた。これによって、詩人と皮肉屋にくっきりと〈間〉が刻み込まれ、そこに演劇が立ち上がる。能舞台とアニメの取り合わせは一見唐突だが、日本文化という文脈で考えれば、両者の〈間〉に通底する何かが見えて来るのではないか。

詩人が依って立つ足場である橋掛りが、物語の進展に従って徐々に朽ち、崩れていく演出もまた鮮烈だった。これにより、詩人の長台詞が適度に分節化され、物語に推進力が加わる。とともに、その場に、単なる演劇の危機にとどまらない、より根源的な世界の終焉を思わせるイメージが現出した。上演に立ち会ったピィ自身「自分の演出以上にペシミスティックだった」と漏らしたほどに。

それは、戯曲(テクスト)自体に色濃く漂うキリスト教的終末観と響き合う一方、20世紀末以降の日本アニメ界を席巻した“セカイ系”と呼ばれる潮流との近親性も感じさせた。「私を巡る『小さな日常性』の問題と『世界の終焉』といった抽象的かつ非日常的な大問題とを、中間に社会的な文脈を挟むことなく直結させる」と評されたセカイ系の作品群には、さらに共通する傾向として「独り語りの激しさ」「自己言及の欲望」などが見て取れる。

正統的な西洋の文明観に棹さす詩人は本来、「ことば=演劇」の崩壊を『世界の危機』という極大の物語に直結させ、格調高く散文詩体で語る。ただ、今回は平田オリザ訳の、若者語を交えた口語文体が、詩人役ひらたよーこの一種、草食的な身体性を受肉する。おかげで、その言説が熱を帯びるほど、『小さな自我の危機』を埋め合わせるための、独り語りめいた空虚ささえ醸し出された。曲がりなりにも飢餓や移民問題を語る「反演劇」を否定し、自己言及の内にすべてを解消しようとする詩人の心性―それが実は社会から逃避し、セカイ系の物語の消費に耽る(それゆえ、詩人が批判の矛先を向ける)現代の若者の内なる風景と紙一重、と思わせるほどに。

そして幕切れ、崩壊の度を増す橋掛りから追われても、詩人は能舞台には上がらない。舞台下の白州に橋板の切れ端を並べ、伝い歩くことで、あくまで客席と舞台の〈間〉にとどまる。そして、あたかも世界の終焉を生き延びた唯一の人間、新たに紡がれる創世記のアダムその人であるかのように、漏らすことば―「私は、あなたと共に、苦しむ」。

この最後の台詞は、詩人=演劇が、自らはいかに無力で、様々な矛盾を抱えていようとも、異質で対立するもの同士の〈間〉にあって、双方を結び付ける宿命を受け入れようとする「約束」のことばとして、心に響いた。それは、詩人と、演劇に全く関心を示さない今時の若者とが、その存在の奥深くに心を通い合わす回路を持つことの「希望」を、今回の上演が演劇的に造型し得た証拠ではないか。

詩人の最後の台詞はまた、今回の上演が、国籍も言語も演劇的主張も異なる、言い換えれば、互いの〈間〉を美しい距離で満たす同士の共同作業(コラボレーション)だったからこそ、露わにされた「奇蹟」のことばだった、と信じてやまない。

芒(すすき)挿す光年といふ美(は)しき距離  奥坂まや

(了)

劇評講座“卒業者”の劇評掲載!

カテゴリー: 告知

いよいよ「SPAC秋のシーズン2010」が本格的にスタートします。

その前に、終幕して3ヶ月近くが経過した「Shizuoka春の芸術祭2010」で、劇評講座“卒業者”に依頼した劇評を掲載します。“卒業者”とは、SPACの劇評講座で過去3回以上採用された劇評投稿者のことです。

今年も刺激的な舞台が目白押しで多くの反響があった「Shizuoka春の芸術祭」ですが、SPACでもそれらの作品のチカラを記録するため、劇評講座“卒業者”に劇評を依頼しました。鋭い批評眼をもった書き手から見た「Shizuoka春の芸術祭2010」はどのようなものだったのでしょうか?

これらの劇評から「Shizuoka春の芸術祭2010」の興奮を思い返して頂けますと幸いです。また「SPAC秋のシーズン2010」でも劇評を募集いたしますので、その際の参考にして頂ければと思います。

■柳生正名:宮城聰演出『若き俳優への手紙』劇評
■奥原佳津夫:宮城聰演出『王女メデイア』劇評
■井出聖喜:ワジディ・ムアワッド演出『頼むから静かに死んでくれ』劇評
■森川泰彦:クロード・レジ演出『彼方へ 海の讃歌』劇評
(掲載順)

2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

カテゴリー: 彼方へ 海の讃歌

■準入選■

孤独な“観客”  ――「彼方へ 海の讃歌」を観劇して

渡辺美帆子

あんな拍手の音を聞いたのははじめてだった。たった一人の俳優、ジャン=カンタン・シャトランは観客の鳴り止まぬ拍手に応え、何度も舞台上に呼び戻され、まっすぐ正面を見つめた。

演劇を観ているとき、人は孤独だ。劇場が笑いに満ちても、涙に満ちても、一体になることはない。客席に座る一人一人は別々のことを感じ、別々の人生を参照している。しかし、今までに「彼方へ 海の讃歌」を観たときほど、その孤独さを強く感じたことはなかった。それは舞台に立つたった一人の男、その男自身もまた、孤独な“観客”だからであろう。

舞台はうす暗く、俳優の姿は闇の中で浮かび上がるようだ。俳優はただ正面を見つめている。そこから一歩も動かずに正面を見つめている。

俳優が見ているのは海だ。詩人が見つめている海だ。詩人は海の感覚に飲み込まれ、そこを行きかう船や船乗り、船乗りに略奪され凌辱された女に思いを馳せる。詩人はその全てになりたいと願う。しかし、詩人はただ波止場に立つことしかできない。海やそこにいる人々の血になりたいと願う。しかし、詩人はそうなることはできない。「ああどうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!」。そこにあるものがたとえ残忍さであったとしても、それを感じたい。いやむしろ「血なまぐさく、凶暴で、嫌悪され、恐れられ、崇められる」ものがいい。「海の生活の陰鬱でサディスティックな情欲が俺からほとばしる」。詩人はサディステッィクに、マゾヒスティックに叫ぶ。ときに言葉になる前の摩擦音で、ときに大声で、ときに絞り出すような声で、震える唇で、それを叫ぶ。俳優は動かない。しかし、その息遣いや表情で痛いほどの感情が伝わってくる。私は仏語がわからないが、だからこそむしろその音やリズムが彼の切望を伝えてくる。

「切望でいっぱいのおれの人生の窮屈さ」と詩人は自らの状態を語る。彼の目線の先には世界がある。しかし、彼はそれを見つめることしかできない。海に、船に、人々に、同化することはできない。ただ正面を見つめ、そこに入っていかれない自分の体を思うことしかできない。俳優は一歩も動かないことで、どんどん存在感を増していく。時間が経過することがとても効果的に使われている。俳優のゆっくりした喋り方も、観客の時間感覚を日常から引き離す。俳優が舞台上で一人きり、届かない世界を思うにつれ、観客も自分が一人きりであることに自覚的になっていく。

観るということは窮屈なことだ。どんなに感情が動かされても、そこに参加することはできないし、影響を与えることはできない。客席の最前列に座ると、芝居の途中に舞台上に侵入したいという気持ちになることがある。小劇場の客席最前列と、舞台の上に物理的な距離はほとんどない。しかし、観客は舞台上に入ってはいけない。まれにそれが許されるのは、演出が観客を舞台の上に連れてこいと命じたときのみである。観客が無断で舞台に上がってしまうと、芝居は止まってしまう。観客は舞台上で起こる様々なドラマを見つめる。しかし、観客は客席という狭い場所から動くことは許されていない。観客は舞台から隔てられているのだ。どんなに感動したところで、観客が見ているものは、観客の頭の中の妄想にすぎない。一人一人の頭の中の世界は決して誰とも共有されることはない。詩人が自らの体の窮屈さを嘆くのと同様、観客も自らが一人きりで、誰とも同化され得ない存在であることを理解している。

「彼方 海の讃歌」は鏡のような作品だ。そこには他者がいない。対話も事件もない。詩人が語る他者、対話、事件は、詩人の言葉の中にしかいない。それらは詩人の頭の中で激しく描写されるが、現実にはどこにも存在しない。そしてそれを詩人自身が深く自覚している。それはこの作品が一人芝居であることや、モノローグであることにも由来するが、それだけではなく、詩人の世界観にも由来する。レジは詩人について、パンフレットに「フェルナンド・ペソアの人生には、旅も性生活も、実際には起こらなかった。だが精神のなかで彼は大波に乗り、性の境界を自由に行き来しながら、サド・マゾヒズムの限界を超越した」と書いている。実際の現実にくらべ、精神はなんと自由なことだろう。観客の精神もまた自由だ。

本作品は観客の想像力を広げさす。俳優の動きはなく、照明は薄暗く、音響も最小限しか用いられていない。観客の集中力を保とうとする為の仕掛けは全く行われていない。しかし、観客の集中力を保とうとする為の演出は、観客をアジテートし、観客の想像力を奪うことにも繋がる。本作品で、観客の想像力は自由に広がっていく。しかし、観客は自分の集中力が切れることと戦わなくてはいけない。例えばお腹が鳴ったり、隣の人がもぞもぞ動いたり、色々な現実が集中力を途切れさそうとする。その葛藤は、詩人の葛藤と同じ葛藤である。想像力は自由だが、現実はそれを妨げようとする。観客の中で起こった想像力の自由さと、現実がそれを妨げようとする葛藤は、詩人の言葉の葛藤そのものだ。

カーテンコールで他の観客の拍手を聞いて、私はとても安心したような気持ちになった。2時間の孤独な観劇を終え、現実の他者である他の観客の存在が、やっと傍に帰ってきてくれたように思えた。そして、他の観客も私同様に本作品を称えていることが奇妙に素晴らしいことに思えたのだった。