劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『病は気から』(ノゾエ征爾潤色・演出)】『喜劇の英雄』鈴木麻里さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■準入選■

悲劇の英雄

鈴木麻里

 客席に掛けて舞台を眺めると、100席に満たないほどのもう一つの客席が設えられている。制作者からの挨拶が終わると、その隣に現れた舞台監督が、観客の後方からやってくる俳優らしき人々を迎え入れた。制作者からの挨拶が終わると、観客の後方から舞台監督が俳優らしき人々を引き連れ降りてきた。劇場の機構をひとつひとつ解説しながら舞台へ上がり、奥まで一周する。一同黒ずくめである。

 咳き込んで病身に見える一人の男が『病は気から』を上演しようと、自分を病気だと思い込んでいるアルガンなる男について穏やかに決然と語りはじめる。男の体を気遣って周囲が止めるなか、口元から赤い布を垂らして吐血の様を見せながらもやめようとはしない。
 吉本新喜劇を思い起こさせる「Somebody Stole My Gal」が鮮烈に流れる中、一同ぽんぽん黒衣を脱ぎ捨ててカラフルな衣装に早変わり、黒一色だった舞台上の客席も真ん中の12席だけ純白に変った。「BED」と札がついている。

 治療と薬に夢中なアルガン、「病気」に親身とは言いがたい態度で接する女中トットとの軽妙なやり取り、長女アンジが吐露するケロッグへの恋心、医者との結婚を突然強いた長女や反対に加勢する女中との悶着、後妻ベリーヌの媚態、彼女への遺産相続を相談するため弁護士ポンヌフを招く場面など、大筋をモリエールの戯曲に拠りながら役名はじめ語られる言葉はシンプルに書き換えられており、小気味良い速度で舞台が展開していく。
 登場人物たちを軽やかに演じる手つきが、劇中劇としてふと幕を開けた構図に強い説得力を与えている。客席型の舞台装置を縦横に駆け回る俳優陣の身体的な力量と遊び心が、観る者に足場の不都合を感じさせない。

 場面の変わり目などの要所で、アルガン役の俳優は苦しそうに咳をする。
 初演当時、この役は実際に胸を患うモリエール自身によって演じられていた。公演の四回目には激しい咳の発作に襲われながら舞台を務めていたと言う。当人の肉体的苦痛や周囲の心痛に寄り添うことも出来ようが、状況を俯瞰すればこれは劇の外側に設えられたもう一つの喜劇と読み取れる。瀕死の病を患いながらよりによってアルガンを演じる、モリエールの不条理である。

 三幕冒頭、医者との縁談が破れてなお娘の結婚を認めず、頑なに後妻ベリーの肩を持ち続けるアルガンを見かねて、弟ヘラルドと女中トットが一計を案ずる。病の果て遂に亡くなった振りをしてみせて、ベリーの反応を窺おうというのである。悲しむどころか清々してとっとと遺産を手に入れようとする彼女にさすがの彼も追放を選び、今度は娘アンジの反応を待つ。嘆くアンジにアルガンは喜んで生き返ってみせるが、ケロッグが医者になってくれるならば結婚を認めるとなおも無茶な仰せである。

 ここでヘラルドから、アルガン自身が医者になれば良いと提案がある。すぐにでも医者連中を呼んで式を挙げてもらおうと言う。
 モリエールは初期の『飛び医者』以来、『恋は医者』『ドン・ジュアン』『いやいやながら医者にされ』などで、医学と医者を繰り返し槍玉に挙げた。この遺作に於いても、医学への痛烈な風刺を交えながらそれに振り回される男の滑稽を描いてきた。
 実際に病気になったらどうするかについては、「なんにもしません」と劇中でヘラルドに語らせている。自然のままに任せておけば自ずから徐々に回復していく。兄さんには気晴らしにモリエールの芝居でも見せたいとまで言わせている。終には当人に医者を演じさせてしまおうという次第である。
 この場に至って男は激しく咳き込み台詞を中断することもしばしば、アルガンを演じるモリエールの地が見え隠れする状態である。周囲の俳優も役を放棄しかけ芝居を止めようとするが、男は続ける。笑いの絶えない『病は気から』の世界から、ドラマの焦点は刻一刻と死期が迫るなか芝居をやめないモリエールの姿へと移っている。

 劇の外側に設えられたもう一つの喜劇が、悲劇としての正体を現そうとしている。
 モリエールは、死ぬのである。病へは無為にして自ずから治癒する、薬に杞憂が人を弱らせるのだと豪語しながらこの世を去る。自らを無力な医者の一人として数えながら我が身に芝居を処方して身を滅ぼす。
 悲劇の主人公は始終完き聡明であるわけではない。あやまち故に不幸になる様は喜劇的とも言えるが、あやまちが明るみに出た暁にあえて自らの錯誤を引き受ける高潔さが、彼らの物語を尊厳ある悲劇たらしめている。

 医者連中に囲まれて、モリエールは絶え絶えに台詞を吐き続ける。医師になるための試験が数問繰り返されたのち、彼は白衣を与えられた。咳き込んで振り返れば、血糊をべったりまとった姿である。倒れて事切れた彼を、俳優たちは抱え上げ、手取り足取り踊らせながら大笑いした。自らの最期をも喜劇の内に描き切った彼に、最上の敬意を表しているかの様だった。

 彼の行為と作品とを構造化する劇作の力と人物の意志を体現する俳優の力との出会いが、神でも王でもない一人の喜劇作家の武勇から笑いに満ちた高潔な悲劇を産んだ。

参考文献
モリエール(鈴木力衛訳)『病は気から』(1970年4月、岩波書店)
アリストテレース、ホラーティウス(松本仁助、岡道男訳)『詩学・詩論』(1997年1月、岩波書店)
磯田光一「『悲劇』の条件」、『文芸読本 シェイクスピア』(1977年5月、河出書房新社)

■準入選■【『病は気から』ノゾエ征爾潤色・演出】福井保久さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■準入選■

福井保久

 『病は気から』は、人間不信になってしまいそうで、社会の構造の負を見せつけられてしまいます。
 全編が喜劇で、それが際立っているから、どうにもこうにも最後の審判で人の性とその普遍を鑑賞後にも感じ続けます。

 ありきたりな言葉ですが、人というものは350年前とこうも同じものか、そして、可愛く優しく憎たらしく、愚かであることがわかります。

 演劇は、SPACの宮城総監督が舞台に出て、演者を導くという、演者としての宮城さんが出演するというサプライズで始まります。

 8人劇で、8人の中で一番元気で健康な、でも病人かぶれの主人公アルガンが主導します。アルガンは、浣腸と薬で生きながらえていると信じています。ここからして喜劇そのものですし、ここからしてその真意はシリアスで深く、病気と健康がテーマですから、広義に誰もが関わりあっていることを、冒頭で意識します。
 アルガンは自分を病人と信じていますから、それを打開することに躍起です。有能な召使に自分のその病状を叫ぶことで病人に成りきろうとします。後妻はそんなアルガンの亡くなる姿を期待していて遺産が目当てです。
 アルガンには娘が二人います。二人とも可愛く、終盤のアルガンを本当に愛しているかの踏み絵に関しない純粋な二人です。ちなみに後妻は踏み絵を踏みました。
 その長女アンジの婿を、自分の病気を診る医者を選び望み、アンジに強要します。けれど、アンジには恋人がいます。それを無視されて医者との強制的な結婚を迫られます。アンジは恋人と結婚することが適わないこととの引き換えに、結婚したくない結婚を拒否する権利を欲します。ここは人の崇高さを表現しています。

 アルガンを中心に、召使を媒体そして、アンジの結婚相手の医者親子、アンジと相思相愛の恋人、末娘のルイジ達で、風刺の効いた喜劇が場内に蔓延します。
 その喜劇は確かに洒落ていたり、野暮ったかったりですが、粋な演出の中に行き過ぎをはさみます。行き過ぎとは、あまりにも予想の範囲をなぞったり、時にベタだったりで、そこには喜劇なのだけれども、笑えられないのです。それは愚かな人の性をみせたり、喜劇を超える誇張を感じるからです。それらが、それらとは無縁の笑いの中に散りばめられているから確信犯でこちらを刺すものをしたためています。これらは全て、最後の審判につなげる伏線です。
 痛烈な喜劇を貫くことの中に、病気でいることを言い聞かせるアルガンのあの姿を、観客一人ひとりに置き換えるという仮定をすれば、最後の審判の意味は一目瞭然です。
 観客それぞれが、病気のように気にすること、とらわれることをイメージし、病気に置き換えれば、アルガンが望んだ儀式は私達の姿そのものです。

 病気でいることを信じていたアルガンが健康そのものであったのに、医者としての権威を得た瞬間に真の病気を得たことは痛烈そのものです。
 そしてあの場面は、既得権益バンザイという医者達(どの業界でも同じです)と世の中(教育されたわれわれ)の望みのどちらをも適えたウィンウィンの実体を、嫌らしく誇張します。私達が持つ価値観を嘲笑するように。

 この演劇は喜劇ですが、すごく醒めています。世の中の価値観を鵜呑みにする個人に警鐘を響かせています。それほどに、最後の審判は恐ろしいほどに、偏った価値観を肯定確認し、納得したいということをどこまでも求める人々の姿に見えます。都合が良いことを私利にする個人の小さい出来事を、世間の同意にする怖いシーンです。
 そしてその後もアルガンの亡骸はもてあそび続けられます。それはみんなを結束させて、安心を得るための手段であり、儀式の一旦ですから。

 繰り返しますが、この演劇は喜劇です。だからそれを続けた最後に、真意を伝えることで、その真意は深く心を刺します。

 この演劇の舞台セットは観客席です。演じるあっちも鑑賞するこっちも同じ舞台だということを示唆します。たぶんこの演劇はどんなセットでも演じられます、でも敢えて観客席のセットとしています。それは、舞台の中で演じられていることは、舞台から観ている者の日常と同じだからです。
 そしてもうひとつの演出は、最初と最後に、SPAC総監督の宮城さんが演者全体を舞台見学者・観客として扱うことです。これも演者と観客が一体をしていることを、印象付けています。それを前提として演劇全体は笑わせるという手法です。
 私にはこの演劇はどこまで笑えないかを試されているように思えてなりませんでした。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】中学生と観た『夜叉ヶ池』鈴木麻里さん

■準入選■

中学生と観た『夜叉ヶ池』

鈴木麻里

 制作担当者からの挨拶と諸注意を経て溶暗すると、ホール内にどよめきが広がり拍手が起こった。文化祭の日の体育館を思い起こさせる様な熱気である。


晃    水は、美しい。何時見ても……美しいな。
百合  えゝ。
晃    綺麗な水だよ。

 今しも入水するところのうら若き男女が走馬灯の様に見た夢として『夜叉ヶ池』のドラマを捉え、現実の二人が没する様を戯曲冒頭の台詞に重ねた場面で幕が開く。
 女に男が重なって倒れ込む。中学生たちは瞬間息を呑み、「ヒュー!」と意気がる様に冷やかした。
 紗幕に「夜叉ヶ池」と投影されると「おおっ」とどよめき、映画のエンドロールよろしくキャストやスタッフの名前が流れる間、期待高まる様子でさざめきが止まらない。晃と百合が戯れることひとしきりあって学円が客席から登場すれば、出オチのごとく皆が笑う。

 晃と学円が百合を残して家を立つ場面までは好き勝手に声を出していた生徒たちが変化を見せる。
 威勢良く飛び出してきた村の百姓与十が横抱きにするのは、巨大な緋鯉である。捕獲にはしゃぐのを襲い退散させたのは、大蟹であった。
 ふくふくと綿入れしてけばけばしい重量感をまとった鯉七、硬質でがりがり細長い脚と鋏を持つ大蟹五郎、かたや消化管の底からこすり上げる様な重たい声で力強く、かたや関節をコキコキ鳴らす様な弾んだ声で軽やかにと風変わりな台詞回し、各々どしどし暴れたりちょこまか駆け回ったり人間離れした様に、客席は押し黙っている。
 そこへふらふらと鯰和尚、剣ヶ峰の公達が夜叉ヶ池の姫君に宛てた恋文を持参するも子細あって文箱の封を切るに、何とそこから当の白雪姫と万年姥が現われる。ト書きにてセリで登場するところ会館の機構で叶わぬのを惜しんで待ったが、薄煙を分けてゆっくりと二人歩み出る様に、会場は一層深く静まり返った。


白雪  ふみを読むのに、月の明は、もどかしいな。
姥   御前様、お身体の光りで御覧ずるが可うござります。
    (……)
白雪  可懐しい、優しい、嬉しい、お床しい音信を聞いた。……姥、私は参るよ。

 姫の台詞回しは、たおやかと言うよりずっとお転婆である。
 異様な存在の相次ぐ登場に、観客は非日常的な雰囲気を味わうことに目を奪われて、物語から置いてけぼりを食う事態になり兼ねない。緩急の効いた所作で池の主としての際立った存在感を保ちながらも人間らしくやや身近に感じられる白雪姫の役作りは、そこで語られる言葉の内実、女の想いに観る者が心を留めて耳を傾ける助けになる様に思われた。


白雪  人の生命の何うならうと、其を私が知る事か! ……恋には我身の生命も知らぬ。……姥、堪忍して行かしておくれ。

 姫が剣ヶ峰行きを思い留まるのは、百合の子守唄に聞惚れ、いなされてのことである。


白雪  思ひせまって、つい忘れた。……私が此の村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい(……)此家の二人は、嫉ましいが、羨ましい。姥、おとなしうして、あやからうな。

 百合は序幕より非常に抑制の効いた細い声でせりふを語り、吹いたら消えてしまいそうな儚く美しい生命を燃やし続ける女といった風情が人間離れして感じられるほどであった。互いの住む世界が交じり合う厳かで幻想的な場面であり、役作りの対比も印象的である。

 お百合が村人たちに追われ家に駆け戻る。雨乞に生贄を捧げんと彼女を捕えに掛かる村人は団扇太鼓を打ち鳴らして男ばかり一致団結、全て女優によって演じられていた妖怪たちの場面とは趣の異なる迫力と緊張感を湛えている。
 客席はこの場に変わると少しざわつき、大きな声で「暑い」と私語する生徒まで出てきた。
 虚構の登場人物には違いないが、村人たちは私たちと近い感覚を持った等身大の存在である。中学生たちは、無意識にほっとしたのではないだろうか。妖怪たちは人智を超えた「日常生活で決して出会うことのない者たち」である。自分たちの「理解」が及ぶ等身大の世界へ場が戻り、お互いの消息を確かめ合う隙を手にした。

 お百合危うしの処で晃と学円が帰る。晃には出て行け生贄は置いて行けと主張する村人に立ち向かうも一同追いつめられたところで、女は愛する者の命を危ぶみ鎌で自刃した。衣の白地を赤く染める血糊に、一気に客席が凍った。

 私たちには百合の行動をあたたかく受け止めることが出来なかった。理解できない現象に遭遇して畏れたという方が正確である。等身大だった存在が、非等身大の世界へと踏み出した。
 晃も自ら命を絶つ。彼方上方に白雪姫一行が現れて、晴れやかに賑々しくパーカッションでリズムを奏でている。村人たちは固まって絵になった。ここで観客に届けられているのは、意味ではない。体に響くビートが心臓マッサージの様にして、分からないことを分からないまま受け止めるこの時間の中に私たちを生かしてくれている。

 静岡県芸術劇場での鑑賞事業は充実した設備や環境のもとでの上演が可能であり、中高生にとっても普段出掛けることの少ない専門的な劇場に詣でる機会となる。出張公演には上演側の苦心がある一方で、中学生自身が実際に生活する地域のホールが異空間と化す様を目の当たりにした、得難い経験になったのではないだろうか。それは幕開きからヒトとして時を共にしてきた百合がにわかに「わからない」世界へ足を踏み出す瞬間に立ち会ったことと似ている。


参考文献
泉鏡花『夜叉ヶ池』(1979年8月、講談社)
宮城聰「二十代の俳優へ」(『季刊演劇人 5号』所収、2000年7月、舞台芸術財団演劇人会議)

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】平井清隆さん

■準入選■

平井清隆

 『夜叉ヶ池』は、泉鏡花が大正2(1913)年に発表した戯曲である。今公演に当たり、オープニングクレジットで、あえて時代は「現代」と記されていた。およそ100年も昔に書かれた作品がなぜ「現代」なのか?
 ひとつには、幽玄ともファンタジックとも評される鏡花の作風によるところも大きい。この世とあの世を結ぶ黄昏時のごとき色彩を帯びた独特の世界観は、時間や空間と言う軛から解き放たれている様に思える。また、「紡ぐ」という表現に相応しい鏡花の日本語の美しさも要因であろう。鏡花の織成す言葉は、聞く者、読む者を作品世界へと誘う妖しくも抗う事の出来ない魔力を持っている。だが、無論、それだけではない。
 物語は、ほぼ、晃と百合の住む山里の小さな小屋で進む。晃は、鐘楼守の弥太兵衛の死に目に会った事と、なにより百合の美しさに魅かれ、自らが鐘楼守となった。百合の美しさは、見目だけではない。琴弾谷に流れる清流を思わせる清らかな心根の美しさが、晃をこの地に留め、「物語の人」ならしめたと言える。百合の心は、人が本来備えている、或は、求めている心の美しさなのかもしれない。
 しかし、百合は、必ずしも「人」とは言えない。人と、人ならざる者の間に属する、それこそ黄昏時のような存在である。また、百合の心根を清流にたとえたが、百合の存在そのものが清流であり、自然の代名詞であるとも考えられる。晃と百合の、凛とした透明感のある演技が、それを一層際立たせている。
 人が、人ならざる者の声を聞く術を失って久しい。鐘楼守の後を引き受けることを一笑に付した鹿見村の村人を我々は笑えない。鹿見村の村人は、まだしも、暗闇に怯えることもあったろう。しかし、私たちは、自然に対する「畏れ」すらなくしてしまっている。自然を思うがままに作り替え、天災も人智で防げると思い込んでいる。百合という「いけにえ」で旱魃を逃れようとした村人と、科学・技術という蟷螂の斧を振りかざす私たちとの間に違いはない。村人の姿は、自然を破壊し、自然からしっぺ返しを受ける私たち現代に生きる者の姿そのものではないだろうか。
 だが、村人も真剣ではある。いけにえの儀式に託け、百合を裸に剝こうとする辺りは、下卑た笑い声とともに、人の愚かさ醜くさを端的に表している。しかし、旱魃から逃れ、生き抜こうとする点においては、真剣そのものである。それがたとえ、百合に命の犠牲を強いる身勝手なものであったとしても、破滅に導く引金を自らの手で引く事であったとしても、である。集団心理やエゴによって、いとも容易く狂気に走る様は、効果的に使われた手太鼓の音が鳴るたびに、観る者に恐怖を与える。その恐怖は、私たちの内に潜む醜い面が太鼓の音に共鳴しているのかもしれない。そう思うと、一層、背筋の凍る思いがする。
 一方で、白雪姫とその一党たち、すなわち人ならざる者は、徹頭徹尾、滑稽と言える程ユーモラスに描かれている。晃の百合への想いの真摯さや、村人の狂気とあまりに対照的である。
 白雪姫が鐘の約束を恨めしく思うのも、格別に森羅万象の理に関わるような大仰なものではない。愛しい剣ヶ峰千蛇ヶ池の君の元に行きたいというだけである。その恋とて、ユーモラスな演技と相まって、一世一代の身を焦がす様なものであるとか、魂の片割れを求めるなどと言う様な重厚さは欠片もない。イケメンタレントの「おっかけ」という風情すら漂う。晃と百合の愛の持つ緊張感とは対極にあるように描かれている。白雪姫の出立によって村里が水に飲み込まれる恐ろしい筈のラストシーンですら、コメディでしかない。
 人ならざる者から見れば、人の営み、生死すらも、ちっぽけで、滑稽で、児戯のようなものであるのかもしれない。それは、東日本大震災や九州の長雨などの自然の猛威を目の当たりにした私たちに逆説的に訴えかけてくるように思える。
 舞台の場面ひとつひとつが、現代を生きる私たちに、根源的な課題を問いかけてくる。なるほど、100年も昔のことではなく、現代と言って何の差支えもない。
 全体が、山沢学円という記録者の目を通すことで、客観性・普遍性を持たされていることも見逃せない。唯一、客席から登場し(この登場も秀逸である)、客席へと退場するのも、「物語の人」ではない事を示すものであろう。
 しかし、なにより感じたのは、理屈や解釈ではない。自刃した百合を追い、自ら首元を掻き切り百合と共にある事を選んだ晃。二人の、琴弾谷の清らかな水のごとき愛に殉じた姿を見た者は、その心を動かさずにはいられない。その心の動きこそが、古今を超え、東西を問わず、人が人である証であると言えよう。それこそが、「現代」でも色褪せる事のない、人としての心情なのだと思う。
 晃は言う、「水は美しい」と。至言である。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】松竹由紀さん

■準入選■

松竹由紀

 百合は、何故カツラを取らなかったのだろう?

 山沢が登場し、萩原がカツラを取って懐かしく登場するシーンだ。
 この時、私は、当然、百合もカツラを取るだろうと思って見ていた。
 ところが、彼女はカツラを取らなかった。どうしてカツラを取らなかったのか、初っ端から感覚的な躓きを覚えたが、答えはそのうちに分かるだろう。と、思い、軽く流して最後まで見続けていた。
 話が進むにつれて、百合が、萩原を心から愛し、離れたくない気持ちでいたのは、よくわかった。日本人の奥ゆかしい、静かな愛を持つ女性なのだと私なりに理解した。しかし、どれも、その時カツラを取らなかった理由とは全く繋がらないまま、消化不良の状態で終演してしまったのだが、初っ端の感覚的な躓きは、その後の劇中でも続いていた。

 それは、生贄にする百合を捕える村人達が太鼓を叩くシーンだ。

 あれは、とてもとても長い時間だった。村人たちが叩くあの太鼓のリズム。はじめのうちは、特別なにも感じなかったが、徐々に耳が不快感を訴えてきた。あの響き、単調なリズムの繰り返しは、私の中の恐怖を呼び起こした。そのうちに見ていて気持ちが悪くなってきたのだが、この身体の反応も、演劇を見る醍醐味だと、たっぷり気持ち悪くなりながら見ていた。早く終わってくれないかな!と、思っていた。
 集団は怖い。太鼓の音、響き、単調なリズム、そして人々の思いは、恐怖を生み、さらなる恐怖を煽るのだということを初めて体験した。
 恐怖だけではない、生贄に関しては、怒りさえ感じて、体が熱くなった。
 終演後、席を立った後も、その感覚は残っていて、少し気持ちが悪かった。

 2階のカフェに移動し、出演の役者さん達が続々とご挨拶に回っているのを眺めていると、山沢役の奥野さんと話せる機会を得た。良い機会だったので、なぜ百合はカツラを取らなかったのか、聞いてみた。
 奥野さんは、まず、夜叉ヶ池の演目についての説明とともに、カツラを取らない女心などを熱く語ってくれた。たくさんのヒントがあった中で、私が印象的だったのは、
 「百合は、山沢が萩原を連れて行ってしまうのではないかという不安が大きかった。」
 と、いうことである。
 「不安」だったのか。
 雨乞いのための生贄、洪水を防ぐための鐘楼、すべては「不安」で繋がっている。私には、そんなふうに見えてきた。人間の不安。泉鏡花の表現の一部を得られた感じがして、やっとスッキリした。

 ただ単純に、愛する人と一緒に村を出てしまえば良いじゃないの。と、思う私だったが、「不安」を表したものだとしたら、やはりカツラは取らなくて良かったのかもしれない。
 現代を、軽い感覚で生きている私には、理解の及ばないところだった。
 
 
 百合が、カツラを取らなかった理由について、もうひとつ、ユニークな見解を聞いたので書いておきたい。この劇に誘ってくれた、新居町の寺田さんだ。NPO法人 新居まちネットでリーディングカフェを開催した面白いおじ様である。
 その寺田さんの見解はこうだ。
 「昔と今との時間の違いを表現したものだと解釈していた。」
 そういった感じのお話だったと思うが、とにかく「時間」を表現したということだ。
 私にはまったく思いつかなかった発想だ。言われてみると、昔と今の違いを白髪のカツラで表現しているのだと言われる方が、私の感覚の中でも、しっくりとくる。
 見方は1つじゃない。もっとたくさんの人からの意見も聞いてみたいと思った。

 今回は、1つのシーンから2つの解釈が得られた。
 初っ端から感覚的な躓きを抱えたままでいた私には、どちらの理由にせよ、カツラを取らなかったのには意味があると分かって、落ち着いた。あの不快だった太鼓の響きでさえ、 「人間の不安」に対する理解を半ば強引に広げ、深めてくれたのだ。

 決して、最後にスッキリ爽快!という展開ではないが、私の心には、人間の中の不安について目を向ける方法が分かった作品である。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】福井保久さん

■準入選■

福井保久

 宮城聰さんの演出には、様々な要素があり、一度の鑑賞で全部をとらえきるなんてとってもできませんが、場面ごとに劇の真意を匂わせる音楽、緊張からふっと息を抜くユーモア、そこから急にシリアスな演出への転換、そして、光と闇を織り交ぜての役者さん達の動き、観ているだけで楽しいし、深さを感じざるを得ません。
 そして、十分な稽古を重ね洗練されたSPACの演劇にはいつも感動させられます。今回の夜叉ヶ池も素晴らしい演劇でした。

 夜叉ヶ池は、3つ立場の人達で構成されています。
 村の人々、魔界の者達、そして、夜叉ヶ池からなみなみと溢れる清水の麓で、両者を橋渡しする夫婦(正確には夫婦ではないかも)です。
 村の人々の生活と心は平穏な状態から、深刻な日照りが続くことにより変わります。それは当然3者の動きとなります。
 それを見届けるのは、観客を代表する京都の大学講師です。彼の視線で物語が始まり終わります。

 3者がそれぞれメインになる舞台で三者三様の演出があります。

 夫婦と大学講師の場面は、良き人の営みと、悪意がない人の嫌らしさと純な心を伝えます。
 夫も妻も自らの仕事を自覚して淡々と続けています。講師がやってきてもです。また、その講師とのやり取りでは、妻は思いやりとちょっとした悪意の両面を見せます。夫と講師の再会では、懐かしさを感じさせます。この場面には、平穏なことに隠れた貴さが現れています。

 魔界の場面は、宮城さんがユーモアを交えた楽しい演出が光ります。
 その中には魔界の姫がいて、彼女は純粋な心の持ち主です。恋のために全てを捧げる心と、約束(義理人情)を曲げられない姿勢を見せます。姫の周りには鯉、蟹、鯰の妖怪達がいます。グロテスクで仕草が可愛い妖怪達は、姫と同じく純な心を持っています。そこには心の中は外観からは伝わらないというメッセージを感じます。

 村の人々は7人です。政治家、金持ち、教師、神主、農民、ヤクザ、従順な人、世の中を凝縮した人選です。ごく普通の社会に属するそれらの人が、生死の危機を感じた時にとる行動は、魔界の姫の純粋な行動とは真逆でした。
 姫は愛する者のために己を命を厭わないのに対して、村人は己の命のために女(妻)を生贄にします。
 人はこうなるのが常です。
 けれど、魔界の姫の姿も人が創る象徴で、両者はどちらも、人が自ずから持ち合わせた心です。

 だからこの演劇は、人の嫌らしさの極みをみせながら、人の善をも匂わせます。
 人の嫌らしさは、村人が夫婦に、女が生贄になることを迫る行為で表現され、そのピークになる場面の音と迫力は圧巻でした。

 村の人々と魔界の橋渡しをする夫婦が結局は、犠牲になるのですが、何故やり玉に挙げられたのか。それを考えると悲しくなります。
 二人の暮らしは人々にとっての理想像です。だからやられたんだろうと思わずにはいられないからです。

 人には嫌らしさと純粋さの両面があります。その中で、嫌らしさの顔が現れるとそれは徹底されていきます。
 多分夫婦は、村が日照りで困る中でその影響が比較的少なかったのでしょう。決して裕福な暮らしではないけれど、生活に困らない人の揚げ足を取るのが人の性です。そして村人の嫌らしさが助長されたのは、二人が睦ましかったからです。
 7人の村人の中には金持ちがいます。だけど、金持ちでない夫婦がやられるのです、金持ちはやられずに。
 人が持つ嫉妬も生贄を選ぶ大きい一因です。
 それと、誰かを生贄にしようという共通意識の中では、生贄にしやすい者を求めるという安直さが幅をきかせます。その安直さがあたかも行為を正当とする見せ掛けの正義となり、村の共通意識を、誰も疑わなくなります。

 村人が夫婦を責める時、安直に総意した村人の意識が、彼らの行為を推し進めることに正当性を与え、夫婦に女が生贄になるよう言い聞かせ迫ります。そこが圧巻でした。

 この狂った村は葬られます。村人はやり過ぎたからです。魔界(自然)は村人を罰したのではなく、やり過ぎたことに対して自然調整しただけです。神が制裁を加えたのではなく、行き過ぎた村人の行為の末の自然の成り行きでしかありません。
 それを講師は見届けます。私達に見届けて欲しいようにです。

 純粋だった魔界の姫は我が意を得て、恋する者の下に晴れていくことができます。村人、夫婦とは違う皮肉な結果です。
 そして姫はラストに、天空から廃墟になった村を眺め、寄り添いながら死んだ夫婦に語りかけます。けれど夫婦は動き出すことはありません。
 それを見て講師は客席に消えます。私達の下に戻ります。そしてカーテンコールです。
 けれど、夫婦はそのまま動きません。

 このラストは非情です。でもみせかけの非情な演出だと感じました。
 私は心の中で「動くな」と言いながら、素晴らしい俳優(夫婦を除く)達に拍手を贈りました。
 非情に見える演出は、取り戻せない事は常。大きいことも小さいことも。(宮城さんの意図はわかりませんが)私はそう受け止めました。
 そして、それを持ち帰ることが私にとってのこの演劇でした。

2012年11月12日

SPAC秋のシーズン2012 劇評募集

カテゴリー: 未分類

「SPAC秋のシーズン2012」でも全演目で劇評を募集します。
ご投稿いただいた全ての劇評を、
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)が講評いたします。
批評することも「演劇活動」のひとつです。
皆様のご応募をお待ちしています!

現在劇評募集中の演目
★『病は気から』★
全公演終了
劇評投稿最終締切日 2012年11月15日

★『ロミオとジュリエット』★
公演期間 2012年11月19日~12月14日

■ 入選すると
原稿料10,000円をお支払いし、SPAC公式サイトに劇評を掲載します。
また、SPACの公演に1回分ご招待します。

■ 準入選すると
SPAC公式サイトに劇評を掲載します。ただし原稿料はありません。

■ 3回入選すると
劇評塾を卒業になります。プロの書き手としての活動をSPACが応援します。

募集要項
◎ 字数:2,000字程度 ◎締切:批評対象の舞台を観劇後10日以内
◎投稿方法:E-mail、またはFAX、郵送(封書)でお送りください。
E-mailの場合は件名欄に、FAXの場合は1ページ目の冒頭に、
郵送の場合は封筒の  表書きに、「投稿劇評」と必ずお書きください。
E-mail:mail@spac.or.jp  FAX:054-203-5732
住所:〒422-8005静岡市駿河区池田79-4 静岡県舞台芸術センター劇評係
※ 原稿には住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号・
E-mail等複数の連絡先、観劇日を明記してください。

SPAC文芸部 スタッフ・プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)……社会学者。著書に『不可能性の時代』(岩波新書)等多数。
大岡淳(おおおか・じゅん)……演出家、劇作家、批評家、パフォーマー。
横山義志(よこやま・よしじ)……西洋演劇研究。2008年パリ第10大学博士号取得。

2012年11月10日

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2012」劇評

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2012」の劇評塾に投稿いただいた作品のうち
入選作3作、準入選作6作と、劇評塾卒業生へ依頼した劇評5作を公開します。

『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(SPAC/演出:宮城聰)

  ■準入選■ 番場寛さん
   「人形」から「人間」へ
    ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―

  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 柳生正名さん
   平らかなる昂揚、の果てに
     宮城版「ナラ王の冒険」評

オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』
(パリ・オデオン座/演出:オリヴィエ・ピィ)

  ■準入選■ 番場寛さん
   ジュリエットよ、なぜあなたは…?
    ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 柳生正名さん
   鏡の国の、ロミオとジュリエット
    ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間
 

『ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1』
(ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ/構成・演出:パヴォル・リシュカ、ケリー・コッパー)

  ■入選■ 渡邊敏さん
   「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 井出聖喜さん
   ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1
    評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話
 

『THE BEE』(NODA・MAP/演出:野田秀樹)

  ■準入選■ 小長谷建夫さん
   まいりました、赤い封筒
 
  ■準入選■ 佐倉みなみさん
   『THE BEE』
 

『春のめざめ』(テアトロ・マランドロ/演出:オマール・ポラス)

  ■入選■ 番場寛さん
   「知の欲望」の解放へ
    ―『春のめざめ』を観て―
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 奥原佳津夫さん
   壁と、落書きと、血痕と
 

『おたる鳥をよぶ準備』(BATIK/構成・演出:黒田育世)

  ■準入選■ 番場寛さん
   反復される「踊ることへの欲望」
    ―『おたる鳥をよぶ準備』を観て―
 
  ■準入選■ 柚木康裕さん
   「おたる鳥をよぶ準備」雑感
 
  ■入選■ 鈴木麻里さん
   おたる鳥を産む準備
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 阿部未知世さん
   <おたる鳥>に羽毛はあるか
    黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る

2012年11月9日

■依頼劇評■【<おたる鳥>に羽毛はあるか 黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る】阿部未知世さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

<おたる鳥>に羽毛はあるか
  黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る

阿部 未知世

1. 地方都市の不遇
 浜松(静岡県)という地方都市に住んで、舞踊に関心を持つことには、多くの困難が伴う。
 政令指定都市にしていまや人口80万の浜松市。その最大のホール、アクトシティ大ホールでのバレエ公演は、1994年の落成から現在(2012年)までほぼ18年で、34公演。単純計算で1年に2公演。クラシックバレエについて言えば、ボリショイバレエやニーナ・アナニアシヴィリなど世界最高水準のカンパニーや個人の、「白鳥の湖」に代表されるスタンダードな演目での公演は確かにある。しかし、個人の創造性が全面に押出されるコンテンポラリーダンスとなると情況は一変し、シルビィ・ギエムの2公演に尽きる、と言って過言ではない。(1)
 この地で、日々創造されるコンテンポラリーダンスに関心を持つとなると当然、わずかな映像記録(ネット動画として配信されることが増えたとは言え)と、文章化された記録に頼らざるを得ない。限られた情報と貧困な想像力。この二つのみで今日のコンテンポラリーダンス情況を理解しようとするには常に、ドン・キホーテとなる危険が伴う。まったく見当違いな理解をしているのでは、という危惧の念が常に付きまとっているのだが……。

2. 黒田育世という存在
 今回、黒田育世とそのカンパニーBATIKが、<ふじのくに⇄せかい演劇祭2012>において、世界初演の作品を上演するという。それも野外舞台の「有度」で。演劇祭の最終演目として舞台にかけられるのが、6月30日(土)と7月1日(日)。梅雨さなかのこの時期、雨を免れて上演できる可能性は、かなり低い。<踊る(やる)方も根性なら、観る方も根性だ>と。一種、悲壮感が伴う決意をせざるを得なかった。
 何故なら、それまでにDVDとなった2作品(「ペンダントイヴ」と「BYAKUYA」)を観ただけの人間にとっても、黒田育世が創出する世界は、あまりに激しく、時に暴力的な力となって観る者を、のっぴきならない処へと引き込んで行く。
 それは当然、黒田自身そしてカンパニーの全員が、自らをぎりぎりまで追い込むことでかろうじて可能となる。そこではロマンチシズムも甘さも、想像力さえもが切り捨てられ、ものごとはあたかも、表皮をさらに剥かれた原初のかたちとなって顕われる。
 そんな冷酷とさえ言える、切羽詰まった、ただならぬ空間を、観客として共有することは、正直かなりしんどい。
 DVDで初めて観た「ペンダントイヴ」はまさに、強い衝撃だった。思いつめたように顔を引きつらせ、鋭い金切り声を上げて駆け回る少女。その少女を自らのスカートの中に包み込んで、あたかも自らの子宮に戻そうとするかのような無表情な母親……。
 唐突にもその空気に、世紀末ウィーンに生まれた画家エゴン・シーレの、ひとつの自画像が重なった。手足の先が既に失われ、性器をさらして赤黒い肉の塊となりつつ、観る者を見つめ返す自画像。観る者に、生皮を剥がれた痛み、それも冷たい風が吹きつけてひりひりと痛む、その痛みを実感させる絵画。その絵を眼の前にした時と同じ感覚を生じさせたのだ。
 そしてこの度の<おたる鳥…>。そのテーマはダイレクトに、<死ぬための準備>なのだと言う。女性誌、『フィガロジャポン』のインタビューを受けての黒田の発言を要約してみよう。(2)
 <おたる鳥>とは、黒田の造語。その<おたる>とは、身体にあらゆる感情が満ち足りて、自然に動き出すことを表す言葉で、<踊る>の語源との説もある。内なるものを、理性的に表出するのではなく、抜き差しならない本能的な何ものかとして噴出させる黒田の表現の在り方の、これはまさに核心をついた言葉ではないか。
 その<おたる>が何故、鳥になり、死の準備と繋がるのか。命を手放した肉体を、鳥がついばむ。ついばまれた身体は鳥に運ばれて世界の各処にまき散らされ、やがて植物、食糧となって人間を喜ばせ、満たす。その満たされた身体は生き生きとまた、踊り始まる。そんな鳥のイメージが、まずもって黒田に宿った。
 その黒田には、<人は死なない>という思いがある。死とはすなわち、<死なれる>という体験。死ぬ側ではなく、死なれる側にゆだねられた事象。大切な人の死を自らの内に積み重ねて、最後に自分のすべてを縁者に渡して……。死者となった縁者は、私の中で生き続ける。そして死者となった私は、親しい誰かの中で生きて……。その意味で人は死なない。人の生とは、ただそんな繰り返しだけなのだ。<おたる鳥をよぶ準備>という作品は、こんな思いが結実した作品なのだという。

3. おたる鳥の生成
 公演二日目の7月1日は、朝から激しい雨が続いた。公演前、夕闇が迫る中、階段状の客席の最上階にある入り口に立って、最初に舞台を見降ろした時の驚きはしかし、その雨の凄まじさではなかった。
 緑色の人工芝が一面に敷き詰められただけの舞台に、ひとりの女性が倒れている。びっしょりと濡れて、ぐにゃりと脱力して。やがてその人は起きあがり、続く一連の動作の後、舞台袖に消える。しばらくすると彼女はまた現れ、ひと繋がりの動作に入り、途中でぐにゃりと倒れ、また起き上がって動作を続け、舞台袖に消える。開演前、観客の入場とともに(もしかするとその前から)パフォーマンスは延々と繰り返され……。やがて開演となる。
 舞台は常に極めてシンプルな空間で、はじめは緑の床に、背丈よりも高い緑の板が一枚立っているだけ。その板には、世界地図が貼られている。ここから、黒田を含むBATIKの10人の女性ダンサーによって、<おたる鳥>の寓話が紡ぎ出されて行く。ライトに照らされた強い雨が、激しく渦巻くこの空間へと。
 10人のダンサーの配役は、主人公の黒田、その分身のような存在、さらに超時間的な存在がいて、他の7人はいわばコロスのように働く。
 物語は大きく、三つの部分からなる。
 第一の部分は少女の頃のこと。ひとりだけ孤立した少女がいる。彼女は、口一杯に世界地図の切れ端を詰め込んで、歪んだ身体のまま身動きできない。やがて少女は意を決して、口の中の地図の断片を吐き出す。すると身体の歪みは消え、軽やかに踊ることができた。やがて少女たちは肩を組んで、ワッハッハッハ……と大声で笑いながら踊り続ける……。
 第二の部分は、大人になった少女のエピソード。舞台上手で女(黒田)がひとり、時に顔を引きつらせながらバキバキとした激しい動きを繰り返す。舞台中央では、もうひとりの女が膝まづき、目を閉じて苦しそうにひとつのオブジェを差し上げている。そのオブジェは、ふたつの乳房を持つ女の胸をかたどった、花器のようなもの。膝まづいた女はやがて立ち上がり、しなやかな動きとともに、一番星に掛けた願いを叶える、あたかも希望のような存在となって、ふたりの女は抱擁する。再び左右に分かれるふたり。ひとり(黒田)は、以前より少しなめらかに動き続け、もうひとりはやがて床にずるりと倒れ込み、コロスのひとりと性交を始める。
 このパフォーマンスが繰り返される中、舞台上に高々と掲げられた洗濯物が、時折、それを吊るしたロープごとバシャッと落ちる。やがて再び、するすると掲げられてはまた……。舞台空間は、まるで傷ついたレコードが、繰り返し同じ音を再生するように、一連のこの情況を執拗に繰り返す。
 初めぎこちなく動いた女は、内なる希望と出会うことで、踊り続ける人となる。その踊り続ける人は、単に個人であるにとどまらず、日常にどっぷりと沈み込んで生きる、生活者としてのすべての人でもある。そんなメッセージが伝わるシーンの後、踊る人はやがて息絶え、埋葬されて土へと帰る。
 そして最後の光景。主客が転倒して、観客は劇場の底としての舞台へ。そして無人の客席上段で、いまや<おたる鳥>となった黒田が、ただひとり、力強く踊り続ける。踊る<おたる鳥>と、見上げる私たちの間には、描かれた裸の女たちの絵姿が並んで……。

4.<おたる鳥>の……
 休憩時間も含めて、3時間超のこの作品。終演とともに私を満たしたのは、決して心地よいものではない複雑な思いだった。拒否感と痛々しさ。強いて言葉にすれば、このような感覚だった。
 それは、観る側もまた全身びっしょりと雨に濡れ、身体の芯まで冷えていたからのことでは、決してなかった。
 とりわけ痛々しく心に焼き付いて離れなかったのが、ふたつの場面だった。そのひとつが、力強く飛翔する<おたる鳥>の足下にあった裸の女たちの絵姿。何故なら、青空の中に描かれた女たちは、どういう訳かみな、痩せた不格好な肢体をさらしている。顔つきも決して、知的でも美しくもない。何故女たちは、こんなにも寒々とした貧相な存在でしか居られないのか。そして、執拗に繰り返された洗濯物のシーンも。女性の日常とは、こんなにも想像力を奪う、幻滅に満ちた辛いものなのか。時間とともにその疑問は、大きく育って行った。
 この公演と時を接して、四つのダンスパフォーマンスを観る機会があった。フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画、「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」。ニーナ・アナニアシヴィリとグルジア国立バレエによる「白鳥の湖」。イギリスロイヤルバレエ団が踊る、映画「ピーターラビットと仲間たち ザ・バレエ」。金森穣の演出・振付、Noism 1による「Nameless Voice~水の庭、砂の家」。
 パリで最も注目を集める先鋭的なキャバレー<クレイジーホース>。そこで上演されるショーの制作ドキュメントである「クレイジーホース…」に登場するダンサーたちは、コンテンポラリーダンスのフィリップ・ドゥクフレの振付のもと、誇らかに裸身をさらし、同性をさえ強く魅了する。彼女たちの裸身は、充分にエロティックでコケティッシュであるが、彼女たちの存在自体は、ショーのタイトル<Désirs(欲望)>とは裏腹に、欲望の対象物からはかけ離れて誇らかだ。
 今回のツアーで「白鳥…」を舞い納めるアナニアシヴィリはまさに、可憐でロマンチックな白鳥と、華やかで毒を秘めた黒鳥を踊ったのではない。強いオーラを放って自らの内奥から、それらの存在そのものとなっていたのだ。
 ブタ、アヒル、カエルなどなど、動物の着ぐるみを纏って本格的なバレエを踊る、確かなテクニックに立脚したイギリスロイヤルバレエ。彼らが生み出すユーモアと機知に富んだ物語世界は、子どものみならず、大人をも充分に魅了する。たとえそのユーモア感覚が、自らの好みとはちがったとしても。
 水が強く意識されたNoism1の舞台では、出産直前の妊婦が破水する光景を思わせる、砂を使った衝撃的なシーンがあった。津波が引いたばかりの泥濘の中、新たな生を生きようとする人々を思わせる、力強くしなやかな群舞が続く、印象深い光景で舞台は締めくくられていた。
 ジャンルも個性も大きく異なって、しかも大きな感動をもたらす4作品とは、まったく別の地平に展開する、強い痛みを伴った「おたる鳥…」。ここに登場する存在は何故、こうまで無残で痛々しく感じられるのか。
 改めてこの問題に向き合い、その答えを探ってみよう。
 言うまでもないが、<コンテンポラリー>とは、<同時代の>という意味を持つ。<同時代のダンス>とは、今を生きる人々の問題意識や思いそして美意識など、この時代のすべてを反映してやまないもののはずだ。
 そのジャンルでの身体表現を志向した黒田は、理性で創造するのではなく、自らの本能のレヴェルにまで沈潜して産み出すタイプの表現者である。本能のレヴェルとは、人間の精神活動において、それぞれが広大な世界として内包している無意識の領域と、より近く存在している。
 スイスの精神医学者、カール・グスタフ・ユングは、その豊富な臨床体験から人間の無意識領域について卓越した理論を樹立した。彼によれば人間の無意識とは、幾重にも層をなしたもの。無意識領域に比べれば小さな世界でしかない個人の意識の領域に、比較的近く存在している個人的無意識のレヴェルから、その社会や時代に共有される集団的なものへ、さらに深く時間や空間を超えて、人類に共通するところまで、集合的、重層に存在し活動し続けている実在なのだ。
 一般化して言えば、理性の対極をなす本能は、より無意識に根ざしており、精神の対極をなすものとしての身体に根ざしている。時代と民族を横断して存在する宗教的な存在(巫子など)はまさに、超越的なコミュニケーションを図る、より本能的・身体的な存在なのだ。
 何故ならば、超越的な何ものかとは、より集合的なレヴェルでの共同体や集団の(意識化される以前の)意志であり得るのだから。そして、集合的な無意識により敏感な存在が、それをいち早く察知し、共同体の成員へと伝える媒介者となるのだから。舞踊の根源はまさに、そこにあるのではないか。
 非難を恐れずに、敢えて言ってみよう。黒田はまさに、この時代の(コンテンポラリーな)巫女なのだ、と。しかしその巫女は何故、観る者にあんなにも痛みを伝えるのだろう。
 ひとつには、黒田本人またはカンパニーのメンバーに内在する、トラウマが作用しているのかも知れない(これはまったくの邪推かも知れない。仮に内在する何ものかがあっても、その内容に一切踏み込むつもりはない)。
 そうではなく、同時代の無意識的な意志であるのかも知れない。その意志とは一体どんなものなのか。何故に、痛みを生み出すのか。舞台上に充満するのは、まぎれもなく<女>なるもの。力ずくで何かが出来るが、どこか不安で、しばしば引き攣り、伝統的な女性の役割を嫌悪して……、そんな女性はしかし、残念なことに美しくも聡明にも見えず……。
 それは、男性原理がいまだ過度に優越した現代の時代精神(明確な区別のもとでの競争的で攻撃的な)を、迷わず我がものとして生きる、(ある種の有能な)女性の姿と重なるのではないか。
 黒田はまさに、今という時代に深く浸透された、そんな女性たちの内なるきしみを、その優れた共感能力で、わが身に体現させたのではないか。そう思えた時、公演以来わが裡にとどまり続けた、かたくなな何ものかが、ふと和らぐのを感じたのだった。

 断っておくがこの思いは、現代のフェミニズム運動を批判するものでは、決してない。女性を旧態依然たる性に基づく役割分担へと押し込めてよしとするものでは、決してない。真の平等を求めて続けられて来た、女性たちの活動の永い歴史に、心から敬意を払うものである。

 時代は今、大きな転換期のただなかにある。その情況のなか、時空を超えた存在としての<おたる鳥>が誕生した。それはまだ、うぶ毛すら生えていない赤裸の状態かもしれないが、時代の風を受けて大きく育って行くだろう。仮に違和感の強い姿となっても、それはまぎれもなく時代のひとつの実相であることは間違いない。眼を離さずにおこう。
<了>

―――――――――――

脚注
(1) 浜松市文化振興財団から提供を受けたデータによる。

(2)雑誌『フィガロジャポン』のオフィシャルサイトによる。
   http://madamefigaro.jp
   2012年4月26日の浦野芳子のコラムによる。
  なお、同氏によるレビューが、7月10日のコラムに掲載されている。
  上記のコラムはそれぞれ、雑誌掲載もある。

■依頼劇評■【壁と、落書きと、血痕と】奥原佳津夫さん『春のめざめ』(オマール・ポラス演出)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

壁と、落書きと、血痕と

 奥原佳津夫

 いい本を選んだと思った。以前、この劇団の『スカパンの悪だくみ』を評した際、演劇手法の確立した演出者/劇団にとって、取り組む戯曲との距離が重要である旨を述べたが、主人公の少年少女に寄り添いながら、大人たちの世界を戯画化して描いたり、終盤では表現主義的幻想シーンに飛躍したりするこの戯曲の一筋縄ではいかない構成が、この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーのシアトリカルな遊びに満ちた仮面劇の手法と相俟って成果をあげることを期待させる、絶妙の戯曲選定と思えたからである。結果は―よい意味で予想を裏切り、戯曲は構成や表現技法という表層を越えて、期待以上に咀嚼、消化されていた。

 ピトレスク(絵画的)な舞台づくりに優れた演出者だが、この作品でも視覚的な魅力は存分に発揮されている。
 舞台美術は、まず空間を圧するようなコンクリート造の壁。古びて、所々鉄筋をのぞかせながらも厳然としてそこにある。床には土砂が敷かれ、壁に囲まれた砂場のようだ。遠く、鳥の囀りや子供たちの喚声が聴こえて開演。明かりが入ると背景には森が浮かんで、鞄を背負った子供たちが行進してくる。なんともノスタルジックで、甘美でさえある光景。
 セノグラフィの含意は、いささか露骨すぎるほどに明瞭である。コンクリート壁(廃校の校舎をイメージしたが)は、大人たちの側の定める規範であり規律であり、時に一方的な先入観でもある。故に、成長したヴェントラは身を屈めて、背丈に合わぬ切穴から自室に出入りしなければならない。砂場は、そこで汚れながら成長してゆく、子供たちの場所である。メルヒオールとヴェントラが出会う森は、コンクリート壁で律することのできぬ外界であり、(題名の示すとおり)自然のままの本能や衝動の領域であり、そして理性の届かぬ深層心理の闇を抱えた空間でもある。性衝動に衝き動かされる少年の幻想として、森の中に少女たちの裸身が浮かぶ耽美的なシーンは、それをよく表している。

 演出者は、徹底してアクチュアルな課題としてこの劇を提示する。そして、もちろんそれは正解であり、試験に追い立てられる生徒も、未成年の性の問題も、若年層の自殺も、この19世紀末の戯曲が描く世界は、驚くほどに現代的である。いかに“教育”が変わろうと“科学”が進歩しようと、やはり子供たちは(大人の)社会との軋轢に苦しむし、その苦しみは21世紀の今日に、ますます深く複雑であるかもしれない。
 この上演では仮面劇の手法は採られず、俳優たちはカツラと衣装を替えて複数の役を演じ分ける。素顔の俳優の演技はリアリティを持って、観客に主人公たちへの親近感を抱かせるが、それは近代劇的なリアリズム演技とは異なり、一瞬にしてシアトリカルな表現へと飛躍する、云ってみれば、この劇団の仮面の演技を経た上での、その先にある素顔の演技、と評価すべきものだろう。

 演出者は得意のシアトリカルな手法で、ショッキングなシーンを生々しく視覚化し際立たせてゆく。ヴェントラの被虐嗜好に触発されメルヒオールの嗜虐性がめざめるシーンでは、ヴェントラの人形を代理に使う(俳優は操られるように人形と同じ動きをする)手際のよい処理で激しい暴力を現前させ、また人形を使うことによって、少年少女の未熟なコミュニケーションを示唆しもする。壁に血痕を残して拳銃自殺したモーリッツの死体が、大人たちの環視の中、警官に引きずられていくシーンは凄惨だし、裏堕胎医らしき老婦人が無造作に手術用手袋をして、掻爬棒を操るうちにヴェントラの断末魔の悲鳴が響く中絶手術失敗のシーンは戦慄的でさえある。
 家出少女イルゼが登場するシーンの現代化は目を引く。ストロボライトの激しく明滅する中、街の不良グループめいた一団がなだれこんで、壁に落書きをしてゆくのだ。ここで19世紀のドイツは、現代のどこにでもある都市へと直結させられる。男たちに連れ戻されイルゼが身を潜める都会の夜の闇は、我々のすぐ身近に拡がっている。実際、この戯曲のアクチュアリティを現前させるという意味では、歴史的な文脈は不要だろうし、それほどにこの戯曲の提起する問題は現代の我々に近しい。
 この(もちろん原戯曲にはない)落書きは、上演のコンセプトを端的に示すものと云えるだろう。ここでの落書きは、前衛を勘違いしたグラフィティ、ストリートアートの類では断じてない。規制の壁に書きなぐられるのは、“FREE” “Condemned to Agony (逃れられぬ苦しみ)” そしてムンクの「叫び」の戯画―悶え苦しむ若者たちの叫びなのだ。だからこそモーリッツの拳銃自殺は、壁の落書きに、仕上げのような紅の一点を残すのである。

 すっかり、心情的に少年少女たちに寄り添って観ていた観客は、職員会議の場面で、客席側から登場した教師に “大人の側” として意見を求められ(直接マイクで問いかけられ)居心地の悪さを感じる。計算の行き届いた演出が心憎いばかり。“大人たち” の場面を、この一箇所に集約したことが効果をあげた。

 終幕の墓地の場面の処理は、特筆に価するだろう。
 砂場は白い十字架が立てられて墓場となり、モーリッツの亡霊は、石膏像のような白塗りの裸身で壁の上に現れる。メルヒオールを生の側に引き留める「仮面の紳士」は登場しない。その台詞は、子供役を演じた俳優たちが次々に登場し、子供のカツラを脱ぎながら(大人の素顔をさらしながら)渡り台詞のようにして語る。そして、亡き友との再会を約し「いつか俺が禿げるころ…」の台詞を口にするメルヒオールは、少年のカツラを脱いだ、頭頂部の薄くなった中年男である。
 それは、自らの時間を止めてしまった(少年の姿のまま石膏像化した)モーリッツに対して、生きつづけて、自らに時間を重ねてゆくことを余儀なくされた者たちの姿だ。つまり、亡霊の死の誘惑を退けるのは、作品の超越的な語り手である「仮面の紳士」(作者ヴェデキント自身が持ち役にし、築地小劇場の本邦初演では小山内薫が演じた)ではなく、生きつづける者たちの総意なのだ。現代的な上演として、実に説得力のある作品解釈だと思う。
 彼らは、友人モーリッツの死を悼みはしても、死へと誘う亡霊を「あれはモーリッツではない」ときっぱりと否定する。そうすることによってのみ、生の時間を継続させてゆくことができるのだ。だから亡霊も、「悪かったね」と納得して静かに身を横たえるのだ。
 大人になった一同が、冒頭の登場シーン同様、メルヒオールの号令で駆け去ってゆく幕切れは、この作品が、生きつづけ時を重ねた者たちの、追憶の劇でもあったことを思わせる。
 この演出者/劇団の演劇表現は、この戯曲を咀嚼、消化することによって、一段の深化を見せたようだ。

 ―と、ここで筆を擱いてもよいのだけれど、以下、もっと深読みしたい読者/観客のための補足として、作り手の視点がそこに据えられてはいないことを承知の上の、無いものねだりである。
 それは、1891年に発表されたこの戯曲が上演禁止となり、初演まで15年を待たねばならなかったのは、劇中の描写が不道徳の謗りを受けるものであったため(だけ)か、ということである。もちろん一義的にはそうなのだが、結論から云えば、ヴェデキントの批判の矢は、過激な題材というに留まらず、更なる深奥に達していたように思うのである。
 まず、迂遠なようだが、ヴェデキントという特異な劇作家/演劇人の立ち位置を、演劇史的な背景を踏まえて確認しておきたい。現在、一般には恐らくこの『春のめざめ』と、ベルクの歌劇『ルル』の原作者(『地霊』『パンドラの箱』)としてのみ記憶されるこの生来のアウトサイダーについては、当時隆盛を極めたブレットル(芸術キャバレー)との関わりを抜きには語れない。自らシャンソニエとしてリュートを爪弾いて自作の大道歌を唄うばかりでなく、その詩は各地でレパートリーとして取り上げられた、ブレットルの象徴的詩人である。ヴェデキント作品へのキャバレー文化の影響は夙に指摘されているが、当時のキャバレーが表現主義(反自然主義)芸術の温床であったことも忘れてはなるまい。(作中にムンクの『叫び』を引用したのは演出者の卓見である。)ブレットルの詩人は後に演劇俳優に転身して、前述のとおり「仮面の紳士」や、『パンドラの箱』の「切り裂きジャック」をはじめ、自作戯曲の主要な役を演じることになる。(“現代のメフィスト”と異名されたその怪演は、共演の後輩俳優ヴェルナー・クラウスに影響を残したとも云われる。)
 時は19世紀末から20世紀初頭―近代市民社会の成熟に随伴する近代リアリズム演劇の確立期である。その近代劇の完成へと向かう流れをメインストリームとするならば、対立項として、同時期にキャバレー文化から表現主義演劇へと繋がる伏流を捉えるべきだろう。(その支流には、ヴェデキントに私淑したブレヒトがいる。)1906年、マックス・ラインハルト演出による『春のめざめ』初演は、表現主義的手法が勝ってアクチュアリティに欠けるものだった、とは演劇史の教える所だが、彼もまたキャバレー出身の演出家である。
 この作者26歳の最初期の戯曲に、異彩を放つ後半生を投影するのは、無論誤りである。にもかかわらず、後年の戯曲に顕著な批判の対象は、すでに明確なのだ―その矛先は、題材としては近代市民社会とその道徳律、表現形式としては近代リアリズム演劇、に向けられる。この戯曲の中で、教師たちが殊のほか戯画化され(身体的な特徴をもじって命名され)バーレスク風に描かれているのは、主人公の少年たちにとって無理解な大人だという劇的な対立構造ばかりが理由ではなく、 “学校” の “教師” である彼らが代表する近代市民社会の規範そのものが、作者の攻撃対象だったからである。
 今回の上演では、全体のトーンの中で教師たちの場面が特に滑稽に作られていたわけではない。(尤も、メルヒオールの処置をめぐる父母の会話は、瞬く照明の枠の中、古い映画のような大仰な身振りで演じられ、効果をあげていたが。)この観点からすると、むしろ仮面劇の手法を採ったほうが、原戯曲の作意には忠実だったかもしれない。冒頭、「構成や表現技法という表層を越えて…」と書いたが、表層は核心に触れ、時に表現技法はそれ自体雄弁であるのが、演劇芸術の面白味である。

 翻って我が国をみるに、昭和の初めまでは邦訳出版されたいくつかのヴェデキント劇(『死と悪魔』『佝僂の巨人カアル・ヘットマン』など、奇しくも久保栄訳)がその後忘れ去られたことも、近代劇のドメスティックな特殊形態である「新劇」のその後の展開と、上述のヴェデキントの演劇史的な立ち位置に照らせば納得もゆこう。(余談ながら、昭和5年発行の世界戯曲全集版『春のめざめ』(菅藤高徳訳)では、「堕胎薬」は「×××」(伏字)になっている。当時の“道徳律”の一端が窺われて興味深い。)

 以上は、評者個人が、そうした背景も含めて『春のめざめ』という戯曲に魅力を感じている、というだけのことで、今回のアクチュアルな上演の成功に、賛辞を惜しむものではない。ただ、この劇団の本拠地スイスや、演出者の故国コロンビアに、どんな近代史があるのかは知らぬが、壁の落書きという“抵抗の身振り”を的確に捉え得たのであるから、喩えて云えば―古びてなお聳え立つ壁の土台(その拠って立つ基盤の史的パースペクティブ)をも窺わせたならば、作品は更に強固で鋭利なものとなっただろう。

(於.静岡芸術劇場 2012年7月1日所見)