劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】松竹由紀さん

■準入選■

松竹由紀

 百合は、何故カツラを取らなかったのだろう?

 山沢が登場し、萩原がカツラを取って懐かしく登場するシーンだ。
 この時、私は、当然、百合もカツラを取るだろうと思って見ていた。
 ところが、彼女はカツラを取らなかった。どうしてカツラを取らなかったのか、初っ端から感覚的な躓きを覚えたが、答えはそのうちに分かるだろう。と、思い、軽く流して最後まで見続けていた。
 話が進むにつれて、百合が、萩原を心から愛し、離れたくない気持ちでいたのは、よくわかった。日本人の奥ゆかしい、静かな愛を持つ女性なのだと私なりに理解した。しかし、どれも、その時カツラを取らなかった理由とは全く繋がらないまま、消化不良の状態で終演してしまったのだが、初っ端の感覚的な躓きは、その後の劇中でも続いていた。

 それは、生贄にする百合を捕える村人達が太鼓を叩くシーンだ。

 あれは、とてもとても長い時間だった。村人たちが叩くあの太鼓のリズム。はじめのうちは、特別なにも感じなかったが、徐々に耳が不快感を訴えてきた。あの響き、単調なリズムの繰り返しは、私の中の恐怖を呼び起こした。そのうちに見ていて気持ちが悪くなってきたのだが、この身体の反応も、演劇を見る醍醐味だと、たっぷり気持ち悪くなりながら見ていた。早く終わってくれないかな!と、思っていた。
 集団は怖い。太鼓の音、響き、単調なリズム、そして人々の思いは、恐怖を生み、さらなる恐怖を煽るのだということを初めて体験した。
 恐怖だけではない、生贄に関しては、怒りさえ感じて、体が熱くなった。
 終演後、席を立った後も、その感覚は残っていて、少し気持ちが悪かった。

 2階のカフェに移動し、出演の役者さん達が続々とご挨拶に回っているのを眺めていると、山沢役の奥野さんと話せる機会を得た。良い機会だったので、なぜ百合はカツラを取らなかったのか、聞いてみた。
 奥野さんは、まず、夜叉ヶ池の演目についての説明とともに、カツラを取らない女心などを熱く語ってくれた。たくさんのヒントがあった中で、私が印象的だったのは、
 「百合は、山沢が萩原を連れて行ってしまうのではないかという不安が大きかった。」
 と、いうことである。
 「不安」だったのか。
 雨乞いのための生贄、洪水を防ぐための鐘楼、すべては「不安」で繋がっている。私には、そんなふうに見えてきた。人間の不安。泉鏡花の表現の一部を得られた感じがして、やっとスッキリした。

 ただ単純に、愛する人と一緒に村を出てしまえば良いじゃないの。と、思う私だったが、「不安」を表したものだとしたら、やはりカツラは取らなくて良かったのかもしれない。
 現代を、軽い感覚で生きている私には、理解の及ばないところだった。
 
 
 百合が、カツラを取らなかった理由について、もうひとつ、ユニークな見解を聞いたので書いておきたい。この劇に誘ってくれた、新居町の寺田さんだ。NPO法人 新居まちネットでリーディングカフェを開催した面白いおじ様である。
 その寺田さんの見解はこうだ。
 「昔と今との時間の違いを表現したものだと解釈していた。」
 そういった感じのお話だったと思うが、とにかく「時間」を表現したということだ。
 私にはまったく思いつかなかった発想だ。言われてみると、昔と今の違いを白髪のカツラで表現しているのだと言われる方が、私の感覚の中でも、しっくりとくる。
 見方は1つじゃない。もっとたくさんの人からの意見も聞いてみたいと思った。

 今回は、1つのシーンから2つの解釈が得られた。
 初っ端から感覚的な躓きを抱えたままでいた私には、どちらの理由にせよ、カツラを取らなかったのには意味があると分かって、落ち着いた。あの不快だった太鼓の響きでさえ、 「人間の不安」に対する理解を半ば強引に広げ、深めてくれたのだ。

 決して、最後にスッキリ爽快!という展開ではないが、私の心には、人間の中の不安について目を向ける方法が分かった作品である。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】福井保久さん

■準入選■

福井保久

 宮城聰さんの演出には、様々な要素があり、一度の鑑賞で全部をとらえきるなんてとってもできませんが、場面ごとに劇の真意を匂わせる音楽、緊張からふっと息を抜くユーモア、そこから急にシリアスな演出への転換、そして、光と闇を織り交ぜての役者さん達の動き、観ているだけで楽しいし、深さを感じざるを得ません。
 そして、十分な稽古を重ね洗練されたSPACの演劇にはいつも感動させられます。今回の夜叉ヶ池も素晴らしい演劇でした。

 夜叉ヶ池は、3つ立場の人達で構成されています。
 村の人々、魔界の者達、そして、夜叉ヶ池からなみなみと溢れる清水の麓で、両者を橋渡しする夫婦(正確には夫婦ではないかも)です。
 村の人々の生活と心は平穏な状態から、深刻な日照りが続くことにより変わります。それは当然3者の動きとなります。
 それを見届けるのは、観客を代表する京都の大学講師です。彼の視線で物語が始まり終わります。

 3者がそれぞれメインになる舞台で三者三様の演出があります。

 夫婦と大学講師の場面は、良き人の営みと、悪意がない人の嫌らしさと純な心を伝えます。
 夫も妻も自らの仕事を自覚して淡々と続けています。講師がやってきてもです。また、その講師とのやり取りでは、妻は思いやりとちょっとした悪意の両面を見せます。夫と講師の再会では、懐かしさを感じさせます。この場面には、平穏なことに隠れた貴さが現れています。

 魔界の場面は、宮城さんがユーモアを交えた楽しい演出が光ります。
 その中には魔界の姫がいて、彼女は純粋な心の持ち主です。恋のために全てを捧げる心と、約束(義理人情)を曲げられない姿勢を見せます。姫の周りには鯉、蟹、鯰の妖怪達がいます。グロテスクで仕草が可愛い妖怪達は、姫と同じく純な心を持っています。そこには心の中は外観からは伝わらないというメッセージを感じます。

 村の人々は7人です。政治家、金持ち、教師、神主、農民、ヤクザ、従順な人、世の中を凝縮した人選です。ごく普通の社会に属するそれらの人が、生死の危機を感じた時にとる行動は、魔界の姫の純粋な行動とは真逆でした。
 姫は愛する者のために己を命を厭わないのに対して、村人は己の命のために女(妻)を生贄にします。
 人はこうなるのが常です。
 けれど、魔界の姫の姿も人が創る象徴で、両者はどちらも、人が自ずから持ち合わせた心です。

 だからこの演劇は、人の嫌らしさの極みをみせながら、人の善をも匂わせます。
 人の嫌らしさは、村人が夫婦に、女が生贄になることを迫る行為で表現され、そのピークになる場面の音と迫力は圧巻でした。

 村の人々と魔界の橋渡しをする夫婦が結局は、犠牲になるのですが、何故やり玉に挙げられたのか。それを考えると悲しくなります。
 二人の暮らしは人々にとっての理想像です。だからやられたんだろうと思わずにはいられないからです。

 人には嫌らしさと純粋さの両面があります。その中で、嫌らしさの顔が現れるとそれは徹底されていきます。
 多分夫婦は、村が日照りで困る中でその影響が比較的少なかったのでしょう。決して裕福な暮らしではないけれど、生活に困らない人の揚げ足を取るのが人の性です。そして村人の嫌らしさが助長されたのは、二人が睦ましかったからです。
 7人の村人の中には金持ちがいます。だけど、金持ちでない夫婦がやられるのです、金持ちはやられずに。
 人が持つ嫉妬も生贄を選ぶ大きい一因です。
 それと、誰かを生贄にしようという共通意識の中では、生贄にしやすい者を求めるという安直さが幅をきかせます。その安直さがあたかも行為を正当とする見せ掛けの正義となり、村の共通意識を、誰も疑わなくなります。

 村人が夫婦を責める時、安直に総意した村人の意識が、彼らの行為を推し進めることに正当性を与え、夫婦に女が生贄になるよう言い聞かせ迫ります。そこが圧巻でした。

 この狂った村は葬られます。村人はやり過ぎたからです。魔界(自然)は村人を罰したのではなく、やり過ぎたことに対して自然調整しただけです。神が制裁を加えたのではなく、行き過ぎた村人の行為の末の自然の成り行きでしかありません。
 それを講師は見届けます。私達に見届けて欲しいようにです。

 純粋だった魔界の姫は我が意を得て、恋する者の下に晴れていくことができます。村人、夫婦とは違う皮肉な結果です。
 そして姫はラストに、天空から廃墟になった村を眺め、寄り添いながら死んだ夫婦に語りかけます。けれど夫婦は動き出すことはありません。
 それを見て講師は客席に消えます。私達の下に戻ります。そしてカーテンコールです。
 けれど、夫婦はそのまま動きません。

 このラストは非情です。でもみせかけの非情な演出だと感じました。
 私は心の中で「動くな」と言いながら、素晴らしい俳優(夫婦を除く)達に拍手を贈りました。
 非情に見える演出は、取り戻せない事は常。大きいことも小さいことも。(宮城さんの意図はわかりませんが)私はそう受け止めました。
 そして、それを持ち帰ることが私にとってのこの演劇でした。

2012年11月12日

SPAC秋のシーズン2012 劇評募集

カテゴリー: 未分類

「SPAC秋のシーズン2012」でも全演目で劇評を募集します。
ご投稿いただいた全ての劇評を、
SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)が講評いたします。
批評することも「演劇活動」のひとつです。
皆様のご応募をお待ちしています!

現在劇評募集中の演目
★『病は気から』★
全公演終了
劇評投稿最終締切日 2012年11月15日

★『ロミオとジュリエット』★
公演期間 2012年11月19日~12月14日

■ 入選すると
原稿料10,000円をお支払いし、SPAC公式サイトに劇評を掲載します。
また、SPACの公演に1回分ご招待します。

■ 準入選すると
SPAC公式サイトに劇評を掲載します。ただし原稿料はありません。

■ 3回入選すると
劇評塾を卒業になります。プロの書き手としての活動をSPACが応援します。

募集要項
◎ 字数:2,000字程度 ◎締切:批評対象の舞台を観劇後10日以内
◎投稿方法:E-mail、またはFAX、郵送(封書)でお送りください。
E-mailの場合は件名欄に、FAXの場合は1ページ目の冒頭に、
郵送の場合は封筒の  表書きに、「投稿劇評」と必ずお書きください。
E-mail:mail@spac.or.jp  FAX:054-203-5732
住所:〒422-8005静岡市駿河区池田79-4 静岡県舞台芸術センター劇評係
※ 原稿には住所、氏名(ペンネームの方は本名・ペンネーム両方)、電話番号・
E-mail等複数の連絡先、観劇日を明記してください。

SPAC文芸部 スタッフ・プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)……社会学者。著書に『不可能性の時代』(岩波新書)等多数。
大岡淳(おおおか・じゅん)……演出家、劇作家、批評家、パフォーマー。
横山義志(よこやま・よしじ)……西洋演劇研究。2008年パリ第10大学博士号取得。

2012年11月10日

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2012」劇評

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2012」の劇評塾に投稿いただいた作品のうち
入選作3作、準入選作6作と、劇評塾卒業生へ依頼した劇評5作を公開します。

『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(SPAC/演出:宮城聰)

  ■準入選■ 番場寛さん
   「人形」から「人間」へ
    ―『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』を観て―

  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 柳生正名さん
   平らかなる昂揚、の果てに
     宮城版「ナラ王の冒険」評

オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』
(パリ・オデオン座/演出:オリヴィエ・ピィ)

  ■準入選■ 番場寛さん
   ジュリエットよ、なぜあなたは…?
    ― オリヴィエ・ピィの『<完全版>ロミオとジュリエット』を観て―
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 柳生正名さん
   鏡の国の、ロミオとジュリエット
    ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間
 

『ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1』
(ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ/構成・演出:パヴォル・リシュカ、ケリー・コッパー)

  ■入選■ 渡邊敏さん
   「ライフ・アンド・タイムズ‐エピソード1」を見て
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 井出聖喜さん
   ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1
    評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話
 

『THE BEE』(NODA・MAP/演出:野田秀樹)

  ■準入選■ 小長谷建夫さん
   まいりました、赤い封筒
 
  ■準入選■ 佐倉みなみさん
   『THE BEE』
 

『春のめざめ』(テアトロ・マランドロ/演出:オマール・ポラス)

  ■入選■ 番場寛さん
   「知の欲望」の解放へ
    ―『春のめざめ』を観て―
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 奥原佳津夫さん
   壁と、落書きと、血痕と
 

『おたる鳥をよぶ準備』(BATIK/構成・演出:黒田育世)

  ■準入選■ 番場寛さん
   反復される「踊ることへの欲望」
    ―『おたる鳥をよぶ準備』を観て―
 
  ■準入選■ 柚木康裕さん
   「おたる鳥をよぶ準備」雑感
 
  ■入選■ 鈴木麻里さん
   おたる鳥を産む準備
 
  ■劇評塾卒業生 依頼劇評■ 阿部未知世さん
   <おたる鳥>に羽毛はあるか
    黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る

2012年11月9日

■依頼劇評■【<おたる鳥>に羽毛はあるか 黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る】阿部未知世さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

<おたる鳥>に羽毛はあるか
  黒田育世・BATIK「おたる鳥をよぶ準備」を観る

阿部 未知世

1. 地方都市の不遇
 浜松(静岡県)という地方都市に住んで、舞踊に関心を持つことには、多くの困難が伴う。
 政令指定都市にしていまや人口80万の浜松市。その最大のホール、アクトシティ大ホールでのバレエ公演は、1994年の落成から現在(2012年)までほぼ18年で、34公演。単純計算で1年に2公演。クラシックバレエについて言えば、ボリショイバレエやニーナ・アナニアシヴィリなど世界最高水準のカンパニーや個人の、「白鳥の湖」に代表されるスタンダードな演目での公演は確かにある。しかし、個人の創造性が全面に押出されるコンテンポラリーダンスとなると情況は一変し、シルビィ・ギエムの2公演に尽きる、と言って過言ではない。(1)
 この地で、日々創造されるコンテンポラリーダンスに関心を持つとなると当然、わずかな映像記録(ネット動画として配信されることが増えたとは言え)と、文章化された記録に頼らざるを得ない。限られた情報と貧困な想像力。この二つのみで今日のコンテンポラリーダンス情況を理解しようとするには常に、ドン・キホーテとなる危険が伴う。まったく見当違いな理解をしているのでは、という危惧の念が常に付きまとっているのだが……。

2. 黒田育世という存在
 今回、黒田育世とそのカンパニーBATIKが、<ふじのくに⇄せかい演劇祭2012>において、世界初演の作品を上演するという。それも野外舞台の「有度」で。演劇祭の最終演目として舞台にかけられるのが、6月30日(土)と7月1日(日)。梅雨さなかのこの時期、雨を免れて上演できる可能性は、かなり低い。<踊る(やる)方も根性なら、観る方も根性だ>と。一種、悲壮感が伴う決意をせざるを得なかった。
 何故なら、それまでにDVDとなった2作品(「ペンダントイヴ」と「BYAKUYA」)を観ただけの人間にとっても、黒田育世が創出する世界は、あまりに激しく、時に暴力的な力となって観る者を、のっぴきならない処へと引き込んで行く。
 それは当然、黒田自身そしてカンパニーの全員が、自らをぎりぎりまで追い込むことでかろうじて可能となる。そこではロマンチシズムも甘さも、想像力さえもが切り捨てられ、ものごとはあたかも、表皮をさらに剥かれた原初のかたちとなって顕われる。
 そんな冷酷とさえ言える、切羽詰まった、ただならぬ空間を、観客として共有することは、正直かなりしんどい。
 DVDで初めて観た「ペンダントイヴ」はまさに、強い衝撃だった。思いつめたように顔を引きつらせ、鋭い金切り声を上げて駆け回る少女。その少女を自らのスカートの中に包み込んで、あたかも自らの子宮に戻そうとするかのような無表情な母親……。
 唐突にもその空気に、世紀末ウィーンに生まれた画家エゴン・シーレの、ひとつの自画像が重なった。手足の先が既に失われ、性器をさらして赤黒い肉の塊となりつつ、観る者を見つめ返す自画像。観る者に、生皮を剥がれた痛み、それも冷たい風が吹きつけてひりひりと痛む、その痛みを実感させる絵画。その絵を眼の前にした時と同じ感覚を生じさせたのだ。
 そしてこの度の<おたる鳥…>。そのテーマはダイレクトに、<死ぬための準備>なのだと言う。女性誌、『フィガロジャポン』のインタビューを受けての黒田の発言を要約してみよう。(2)
 <おたる鳥>とは、黒田の造語。その<おたる>とは、身体にあらゆる感情が満ち足りて、自然に動き出すことを表す言葉で、<踊る>の語源との説もある。内なるものを、理性的に表出するのではなく、抜き差しならない本能的な何ものかとして噴出させる黒田の表現の在り方の、これはまさに核心をついた言葉ではないか。
 その<おたる>が何故、鳥になり、死の準備と繋がるのか。命を手放した肉体を、鳥がついばむ。ついばまれた身体は鳥に運ばれて世界の各処にまき散らされ、やがて植物、食糧となって人間を喜ばせ、満たす。その満たされた身体は生き生きとまた、踊り始まる。そんな鳥のイメージが、まずもって黒田に宿った。
 その黒田には、<人は死なない>という思いがある。死とはすなわち、<死なれる>という体験。死ぬ側ではなく、死なれる側にゆだねられた事象。大切な人の死を自らの内に積み重ねて、最後に自分のすべてを縁者に渡して……。死者となった縁者は、私の中で生き続ける。そして死者となった私は、親しい誰かの中で生きて……。その意味で人は死なない。人の生とは、ただそんな繰り返しだけなのだ。<おたる鳥をよぶ準備>という作品は、こんな思いが結実した作品なのだという。

3. おたる鳥の生成
 公演二日目の7月1日は、朝から激しい雨が続いた。公演前、夕闇が迫る中、階段状の客席の最上階にある入り口に立って、最初に舞台を見降ろした時の驚きはしかし、その雨の凄まじさではなかった。
 緑色の人工芝が一面に敷き詰められただけの舞台に、ひとりの女性が倒れている。びっしょりと濡れて、ぐにゃりと脱力して。やがてその人は起きあがり、続く一連の動作の後、舞台袖に消える。しばらくすると彼女はまた現れ、ひと繋がりの動作に入り、途中でぐにゃりと倒れ、また起き上がって動作を続け、舞台袖に消える。開演前、観客の入場とともに(もしかするとその前から)パフォーマンスは延々と繰り返され……。やがて開演となる。
 舞台は常に極めてシンプルな空間で、はじめは緑の床に、背丈よりも高い緑の板が一枚立っているだけ。その板には、世界地図が貼られている。ここから、黒田を含むBATIKの10人の女性ダンサーによって、<おたる鳥>の寓話が紡ぎ出されて行く。ライトに照らされた強い雨が、激しく渦巻くこの空間へと。
 10人のダンサーの配役は、主人公の黒田、その分身のような存在、さらに超時間的な存在がいて、他の7人はいわばコロスのように働く。
 物語は大きく、三つの部分からなる。
 第一の部分は少女の頃のこと。ひとりだけ孤立した少女がいる。彼女は、口一杯に世界地図の切れ端を詰め込んで、歪んだ身体のまま身動きできない。やがて少女は意を決して、口の中の地図の断片を吐き出す。すると身体の歪みは消え、軽やかに踊ることができた。やがて少女たちは肩を組んで、ワッハッハッハ……と大声で笑いながら踊り続ける……。
 第二の部分は、大人になった少女のエピソード。舞台上手で女(黒田)がひとり、時に顔を引きつらせながらバキバキとした激しい動きを繰り返す。舞台中央では、もうひとりの女が膝まづき、目を閉じて苦しそうにひとつのオブジェを差し上げている。そのオブジェは、ふたつの乳房を持つ女の胸をかたどった、花器のようなもの。膝まづいた女はやがて立ち上がり、しなやかな動きとともに、一番星に掛けた願いを叶える、あたかも希望のような存在となって、ふたりの女は抱擁する。再び左右に分かれるふたり。ひとり(黒田)は、以前より少しなめらかに動き続け、もうひとりはやがて床にずるりと倒れ込み、コロスのひとりと性交を始める。
 このパフォーマンスが繰り返される中、舞台上に高々と掲げられた洗濯物が、時折、それを吊るしたロープごとバシャッと落ちる。やがて再び、するすると掲げられてはまた……。舞台空間は、まるで傷ついたレコードが、繰り返し同じ音を再生するように、一連のこの情況を執拗に繰り返す。
 初めぎこちなく動いた女は、内なる希望と出会うことで、踊り続ける人となる。その踊り続ける人は、単に個人であるにとどまらず、日常にどっぷりと沈み込んで生きる、生活者としてのすべての人でもある。そんなメッセージが伝わるシーンの後、踊る人はやがて息絶え、埋葬されて土へと帰る。
 そして最後の光景。主客が転倒して、観客は劇場の底としての舞台へ。そして無人の客席上段で、いまや<おたる鳥>となった黒田が、ただひとり、力強く踊り続ける。踊る<おたる鳥>と、見上げる私たちの間には、描かれた裸の女たちの絵姿が並んで……。

4.<おたる鳥>の……
 休憩時間も含めて、3時間超のこの作品。終演とともに私を満たしたのは、決して心地よいものではない複雑な思いだった。拒否感と痛々しさ。強いて言葉にすれば、このような感覚だった。
 それは、観る側もまた全身びっしょりと雨に濡れ、身体の芯まで冷えていたからのことでは、決してなかった。
 とりわけ痛々しく心に焼き付いて離れなかったのが、ふたつの場面だった。そのひとつが、力強く飛翔する<おたる鳥>の足下にあった裸の女たちの絵姿。何故なら、青空の中に描かれた女たちは、どういう訳かみな、痩せた不格好な肢体をさらしている。顔つきも決して、知的でも美しくもない。何故女たちは、こんなにも寒々とした貧相な存在でしか居られないのか。そして、執拗に繰り返された洗濯物のシーンも。女性の日常とは、こんなにも想像力を奪う、幻滅に満ちた辛いものなのか。時間とともにその疑問は、大きく育って行った。
 この公演と時を接して、四つのダンスパフォーマンスを観る機会があった。フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画、「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」。ニーナ・アナニアシヴィリとグルジア国立バレエによる「白鳥の湖」。イギリスロイヤルバレエ団が踊る、映画「ピーターラビットと仲間たち ザ・バレエ」。金森穣の演出・振付、Noism 1による「Nameless Voice~水の庭、砂の家」。
 パリで最も注目を集める先鋭的なキャバレー<クレイジーホース>。そこで上演されるショーの制作ドキュメントである「クレイジーホース…」に登場するダンサーたちは、コンテンポラリーダンスのフィリップ・ドゥクフレの振付のもと、誇らかに裸身をさらし、同性をさえ強く魅了する。彼女たちの裸身は、充分にエロティックでコケティッシュであるが、彼女たちの存在自体は、ショーのタイトル<Désirs(欲望)>とは裏腹に、欲望の対象物からはかけ離れて誇らかだ。
 今回のツアーで「白鳥…」を舞い納めるアナニアシヴィリはまさに、可憐でロマンチックな白鳥と、華やかで毒を秘めた黒鳥を踊ったのではない。強いオーラを放って自らの内奥から、それらの存在そのものとなっていたのだ。
 ブタ、アヒル、カエルなどなど、動物の着ぐるみを纏って本格的なバレエを踊る、確かなテクニックに立脚したイギリスロイヤルバレエ。彼らが生み出すユーモアと機知に富んだ物語世界は、子どものみならず、大人をも充分に魅了する。たとえそのユーモア感覚が、自らの好みとはちがったとしても。
 水が強く意識されたNoism1の舞台では、出産直前の妊婦が破水する光景を思わせる、砂を使った衝撃的なシーンがあった。津波が引いたばかりの泥濘の中、新たな生を生きようとする人々を思わせる、力強くしなやかな群舞が続く、印象深い光景で舞台は締めくくられていた。
 ジャンルも個性も大きく異なって、しかも大きな感動をもたらす4作品とは、まったく別の地平に展開する、強い痛みを伴った「おたる鳥…」。ここに登場する存在は何故、こうまで無残で痛々しく感じられるのか。
 改めてこの問題に向き合い、その答えを探ってみよう。
 言うまでもないが、<コンテンポラリー>とは、<同時代の>という意味を持つ。<同時代のダンス>とは、今を生きる人々の問題意識や思いそして美意識など、この時代のすべてを反映してやまないもののはずだ。
 そのジャンルでの身体表現を志向した黒田は、理性で創造するのではなく、自らの本能のレヴェルにまで沈潜して産み出すタイプの表現者である。本能のレヴェルとは、人間の精神活動において、それぞれが広大な世界として内包している無意識の領域と、より近く存在している。
 スイスの精神医学者、カール・グスタフ・ユングは、その豊富な臨床体験から人間の無意識領域について卓越した理論を樹立した。彼によれば人間の無意識とは、幾重にも層をなしたもの。無意識領域に比べれば小さな世界でしかない個人の意識の領域に、比較的近く存在している個人的無意識のレヴェルから、その社会や時代に共有される集団的なものへ、さらに深く時間や空間を超えて、人類に共通するところまで、集合的、重層に存在し活動し続けている実在なのだ。
 一般化して言えば、理性の対極をなす本能は、より無意識に根ざしており、精神の対極をなすものとしての身体に根ざしている。時代と民族を横断して存在する宗教的な存在(巫子など)はまさに、超越的なコミュニケーションを図る、より本能的・身体的な存在なのだ。
 何故ならば、超越的な何ものかとは、より集合的なレヴェルでの共同体や集団の(意識化される以前の)意志であり得るのだから。そして、集合的な無意識により敏感な存在が、それをいち早く察知し、共同体の成員へと伝える媒介者となるのだから。舞踊の根源はまさに、そこにあるのではないか。
 非難を恐れずに、敢えて言ってみよう。黒田はまさに、この時代の(コンテンポラリーな)巫女なのだ、と。しかしその巫女は何故、観る者にあんなにも痛みを伝えるのだろう。
 ひとつには、黒田本人またはカンパニーのメンバーに内在する、トラウマが作用しているのかも知れない(これはまったくの邪推かも知れない。仮に内在する何ものかがあっても、その内容に一切踏み込むつもりはない)。
 そうではなく、同時代の無意識的な意志であるのかも知れない。その意志とは一体どんなものなのか。何故に、痛みを生み出すのか。舞台上に充満するのは、まぎれもなく<女>なるもの。力ずくで何かが出来るが、どこか不安で、しばしば引き攣り、伝統的な女性の役割を嫌悪して……、そんな女性はしかし、残念なことに美しくも聡明にも見えず……。
 それは、男性原理がいまだ過度に優越した現代の時代精神(明確な区別のもとでの競争的で攻撃的な)を、迷わず我がものとして生きる、(ある種の有能な)女性の姿と重なるのではないか。
 黒田はまさに、今という時代に深く浸透された、そんな女性たちの内なるきしみを、その優れた共感能力で、わが身に体現させたのではないか。そう思えた時、公演以来わが裡にとどまり続けた、かたくなな何ものかが、ふと和らぐのを感じたのだった。

 断っておくがこの思いは、現代のフェミニズム運動を批判するものでは、決してない。女性を旧態依然たる性に基づく役割分担へと押し込めてよしとするものでは、決してない。真の平等を求めて続けられて来た、女性たちの活動の永い歴史に、心から敬意を払うものである。

 時代は今、大きな転換期のただなかにある。その情況のなか、時空を超えた存在としての<おたる鳥>が誕生した。それはまだ、うぶ毛すら生えていない赤裸の状態かもしれないが、時代の風を受けて大きく育って行くだろう。仮に違和感の強い姿となっても、それはまぎれもなく時代のひとつの実相であることは間違いない。眼を離さずにおこう。
<了>

―――――――――――

脚注
(1) 浜松市文化振興財団から提供を受けたデータによる。

(2)雑誌『フィガロジャポン』のオフィシャルサイトによる。
   http://madamefigaro.jp
   2012年4月26日の浦野芳子のコラムによる。
  なお、同氏によるレビューが、7月10日のコラムに掲載されている。
  上記のコラムはそれぞれ、雑誌掲載もある。

■依頼劇評■【壁と、落書きと、血痕と】奥原佳津夫さん『春のめざめ』(オマール・ポラス演出)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

壁と、落書きと、血痕と

 奥原佳津夫

 いい本を選んだと思った。以前、この劇団の『スカパンの悪だくみ』を評した際、演劇手法の確立した演出者/劇団にとって、取り組む戯曲との距離が重要である旨を述べたが、主人公の少年少女に寄り添いながら、大人たちの世界を戯画化して描いたり、終盤では表現主義的幻想シーンに飛躍したりするこの戯曲の一筋縄ではいかない構成が、この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーのシアトリカルな遊びに満ちた仮面劇の手法と相俟って成果をあげることを期待させる、絶妙の戯曲選定と思えたからである。結果は―よい意味で予想を裏切り、戯曲は構成や表現技法という表層を越えて、期待以上に咀嚼、消化されていた。

 ピトレスク(絵画的)な舞台づくりに優れた演出者だが、この作品でも視覚的な魅力は存分に発揮されている。
 舞台美術は、まず空間を圧するようなコンクリート造の壁。古びて、所々鉄筋をのぞかせながらも厳然としてそこにある。床には土砂が敷かれ、壁に囲まれた砂場のようだ。遠く、鳥の囀りや子供たちの喚声が聴こえて開演。明かりが入ると背景には森が浮かんで、鞄を背負った子供たちが行進してくる。なんともノスタルジックで、甘美でさえある光景。
 セノグラフィの含意は、いささか露骨すぎるほどに明瞭である。コンクリート壁(廃校の校舎をイメージしたが)は、大人たちの側の定める規範であり規律であり、時に一方的な先入観でもある。故に、成長したヴェントラは身を屈めて、背丈に合わぬ切穴から自室に出入りしなければならない。砂場は、そこで汚れながら成長してゆく、子供たちの場所である。メルヒオールとヴェントラが出会う森は、コンクリート壁で律することのできぬ外界であり、(題名の示すとおり)自然のままの本能や衝動の領域であり、そして理性の届かぬ深層心理の闇を抱えた空間でもある。性衝動に衝き動かされる少年の幻想として、森の中に少女たちの裸身が浮かぶ耽美的なシーンは、それをよく表している。

 演出者は、徹底してアクチュアルな課題としてこの劇を提示する。そして、もちろんそれは正解であり、試験に追い立てられる生徒も、未成年の性の問題も、若年層の自殺も、この19世紀末の戯曲が描く世界は、驚くほどに現代的である。いかに“教育”が変わろうと“科学”が進歩しようと、やはり子供たちは(大人の)社会との軋轢に苦しむし、その苦しみは21世紀の今日に、ますます深く複雑であるかもしれない。
 この上演では仮面劇の手法は採られず、俳優たちはカツラと衣装を替えて複数の役を演じ分ける。素顔の俳優の演技はリアリティを持って、観客に主人公たちへの親近感を抱かせるが、それは近代劇的なリアリズム演技とは異なり、一瞬にしてシアトリカルな表現へと飛躍する、云ってみれば、この劇団の仮面の演技を経た上での、その先にある素顔の演技、と評価すべきものだろう。

 演出者は得意のシアトリカルな手法で、ショッキングなシーンを生々しく視覚化し際立たせてゆく。ヴェントラの被虐嗜好に触発されメルヒオールの嗜虐性がめざめるシーンでは、ヴェントラの人形を代理に使う(俳優は操られるように人形と同じ動きをする)手際のよい処理で激しい暴力を現前させ、また人形を使うことによって、少年少女の未熟なコミュニケーションを示唆しもする。壁に血痕を残して拳銃自殺したモーリッツの死体が、大人たちの環視の中、警官に引きずられていくシーンは凄惨だし、裏堕胎医らしき老婦人が無造作に手術用手袋をして、掻爬棒を操るうちにヴェントラの断末魔の悲鳴が響く中絶手術失敗のシーンは戦慄的でさえある。
 家出少女イルゼが登場するシーンの現代化は目を引く。ストロボライトの激しく明滅する中、街の不良グループめいた一団がなだれこんで、壁に落書きをしてゆくのだ。ここで19世紀のドイツは、現代のどこにでもある都市へと直結させられる。男たちに連れ戻されイルゼが身を潜める都会の夜の闇は、我々のすぐ身近に拡がっている。実際、この戯曲のアクチュアリティを現前させるという意味では、歴史的な文脈は不要だろうし、それほどにこの戯曲の提起する問題は現代の我々に近しい。
 この(もちろん原戯曲にはない)落書きは、上演のコンセプトを端的に示すものと云えるだろう。ここでの落書きは、前衛を勘違いしたグラフィティ、ストリートアートの類では断じてない。規制の壁に書きなぐられるのは、“FREE” “Condemned to Agony (逃れられぬ苦しみ)” そしてムンクの「叫び」の戯画―悶え苦しむ若者たちの叫びなのだ。だからこそモーリッツの拳銃自殺は、壁の落書きに、仕上げのような紅の一点を残すのである。

 すっかり、心情的に少年少女たちに寄り添って観ていた観客は、職員会議の場面で、客席側から登場した教師に “大人の側” として意見を求められ(直接マイクで問いかけられ)居心地の悪さを感じる。計算の行き届いた演出が心憎いばかり。“大人たち” の場面を、この一箇所に集約したことが効果をあげた。

 終幕の墓地の場面の処理は、特筆に価するだろう。
 砂場は白い十字架が立てられて墓場となり、モーリッツの亡霊は、石膏像のような白塗りの裸身で壁の上に現れる。メルヒオールを生の側に引き留める「仮面の紳士」は登場しない。その台詞は、子供役を演じた俳優たちが次々に登場し、子供のカツラを脱ぎながら(大人の素顔をさらしながら)渡り台詞のようにして語る。そして、亡き友との再会を約し「いつか俺が禿げるころ…」の台詞を口にするメルヒオールは、少年のカツラを脱いだ、頭頂部の薄くなった中年男である。
 それは、自らの時間を止めてしまった(少年の姿のまま石膏像化した)モーリッツに対して、生きつづけて、自らに時間を重ねてゆくことを余儀なくされた者たちの姿だ。つまり、亡霊の死の誘惑を退けるのは、作品の超越的な語り手である「仮面の紳士」(作者ヴェデキント自身が持ち役にし、築地小劇場の本邦初演では小山内薫が演じた)ではなく、生きつづける者たちの総意なのだ。現代的な上演として、実に説得力のある作品解釈だと思う。
 彼らは、友人モーリッツの死を悼みはしても、死へと誘う亡霊を「あれはモーリッツではない」ときっぱりと否定する。そうすることによってのみ、生の時間を継続させてゆくことができるのだ。だから亡霊も、「悪かったね」と納得して静かに身を横たえるのだ。
 大人になった一同が、冒頭の登場シーン同様、メルヒオールの号令で駆け去ってゆく幕切れは、この作品が、生きつづけ時を重ねた者たちの、追憶の劇でもあったことを思わせる。
 この演出者/劇団の演劇表現は、この戯曲を咀嚼、消化することによって、一段の深化を見せたようだ。

 ―と、ここで筆を擱いてもよいのだけれど、以下、もっと深読みしたい読者/観客のための補足として、作り手の視点がそこに据えられてはいないことを承知の上の、無いものねだりである。
 それは、1891年に発表されたこの戯曲が上演禁止となり、初演まで15年を待たねばならなかったのは、劇中の描写が不道徳の謗りを受けるものであったため(だけ)か、ということである。もちろん一義的にはそうなのだが、結論から云えば、ヴェデキントの批判の矢は、過激な題材というに留まらず、更なる深奥に達していたように思うのである。
 まず、迂遠なようだが、ヴェデキントという特異な劇作家/演劇人の立ち位置を、演劇史的な背景を踏まえて確認しておきたい。現在、一般には恐らくこの『春のめざめ』と、ベルクの歌劇『ルル』の原作者(『地霊』『パンドラの箱』)としてのみ記憶されるこの生来のアウトサイダーについては、当時隆盛を極めたブレットル(芸術キャバレー)との関わりを抜きには語れない。自らシャンソニエとしてリュートを爪弾いて自作の大道歌を唄うばかりでなく、その詩は各地でレパートリーとして取り上げられた、ブレットルの象徴的詩人である。ヴェデキント作品へのキャバレー文化の影響は夙に指摘されているが、当時のキャバレーが表現主義(反自然主義)芸術の温床であったことも忘れてはなるまい。(作中にムンクの『叫び』を引用したのは演出者の卓見である。)ブレットルの詩人は後に演劇俳優に転身して、前述のとおり「仮面の紳士」や、『パンドラの箱』の「切り裂きジャック」をはじめ、自作戯曲の主要な役を演じることになる。(“現代のメフィスト”と異名されたその怪演は、共演の後輩俳優ヴェルナー・クラウスに影響を残したとも云われる。)
 時は19世紀末から20世紀初頭―近代市民社会の成熟に随伴する近代リアリズム演劇の確立期である。その近代劇の完成へと向かう流れをメインストリームとするならば、対立項として、同時期にキャバレー文化から表現主義演劇へと繋がる伏流を捉えるべきだろう。(その支流には、ヴェデキントに私淑したブレヒトがいる。)1906年、マックス・ラインハルト演出による『春のめざめ』初演は、表現主義的手法が勝ってアクチュアリティに欠けるものだった、とは演劇史の教える所だが、彼もまたキャバレー出身の演出家である。
 この作者26歳の最初期の戯曲に、異彩を放つ後半生を投影するのは、無論誤りである。にもかかわらず、後年の戯曲に顕著な批判の対象は、すでに明確なのだ―その矛先は、題材としては近代市民社会とその道徳律、表現形式としては近代リアリズム演劇、に向けられる。この戯曲の中で、教師たちが殊のほか戯画化され(身体的な特徴をもじって命名され)バーレスク風に描かれているのは、主人公の少年たちにとって無理解な大人だという劇的な対立構造ばかりが理由ではなく、 “学校” の “教師” である彼らが代表する近代市民社会の規範そのものが、作者の攻撃対象だったからである。
 今回の上演では、全体のトーンの中で教師たちの場面が特に滑稽に作られていたわけではない。(尤も、メルヒオールの処置をめぐる父母の会話は、瞬く照明の枠の中、古い映画のような大仰な身振りで演じられ、効果をあげていたが。)この観点からすると、むしろ仮面劇の手法を採ったほうが、原戯曲の作意には忠実だったかもしれない。冒頭、「構成や表現技法という表層を越えて…」と書いたが、表層は核心に触れ、時に表現技法はそれ自体雄弁であるのが、演劇芸術の面白味である。

 翻って我が国をみるに、昭和の初めまでは邦訳出版されたいくつかのヴェデキント劇(『死と悪魔』『佝僂の巨人カアル・ヘットマン』など、奇しくも久保栄訳)がその後忘れ去られたことも、近代劇のドメスティックな特殊形態である「新劇」のその後の展開と、上述のヴェデキントの演劇史的な立ち位置に照らせば納得もゆこう。(余談ながら、昭和5年発行の世界戯曲全集版『春のめざめ』(菅藤高徳訳)では、「堕胎薬」は「×××」(伏字)になっている。当時の“道徳律”の一端が窺われて興味深い。)

 以上は、評者個人が、そうした背景も含めて『春のめざめ』という戯曲に魅力を感じている、というだけのことで、今回のアクチュアルな上演の成功に、賛辞を惜しむものではない。ただ、この劇団の本拠地スイスや、演出者の故国コロンビアに、どんな近代史があるのかは知らぬが、壁の落書きという“抵抗の身振り”を的確に捉え得たのであるから、喩えて云えば―古びてなお聳え立つ壁の土台(その拠って立つ基盤の史的パースペクティブ)をも窺わせたならば、作品は更に強固で鋭利なものとなっただろう。

(於.静岡芸術劇場 2012年7月1日所見)

■依頼劇評■『ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1 評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話』井出聖喜さん(構成・演出:パヴォル・リシュカ、ケリー・コッパー)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1
評者と、音楽ファンで演劇には時に一知半解を振りかざす友人Hとの電話による対話


井出聖喜

私: ああ、H? その後、身体の方はいいの? ……それはよかった。ところで、ちょっといいかな。この間SPACでおもしろい芝居を見てね。
彼: SPACか……。また、難しい芝居じゃないのか。
私: いや、それがミュージカルなんだ。オフ・ブロードウェイ。
彼: ふうん。日本で言ったら宮本亜門の『アイ・ガット・マーマン』みたいなものか。
私: 単純な思いつきにしては、いい所を突いているかもしれない。『アイ・ガット・マーマン』は二台のピアノと三人の女優が共に「ブロードウェイの女王」エセル・マーマンの生涯を演じていくというものだが、この作品も小編成のバンドと三人の女優が一人の女性の半生をたどっていくというものだ。ただし、途中から男優三人が加わり、更に後半ではバンドのメンバーも舞台上でのパフォーマンスに加わることになるのだが、決定的に違うのは、こちらの作品はエセル・マーマンのような有名人の物語じゃないという点だなあ。無名の人物の幼児期の、だれかがちょっと好きだったとか、教室でもらしちゃったとかいう、まあ取るに足りないエピソードを脈絡無く連ねたもの。タイトルは『ライフ・アンド・タイムズ──エピソード1』というんだ。
彼: エピソード1? まるで『スターウォーズ』じゃないか。 『ファントム・メナス』ってね。……しかし、そっちの方は全く壮大じゃなさそうだなあ。日常を拡大鏡で覗いてみたといった感じなんだろ。
私: 『スターウォーズ』は宇宙的に壮大で、これは日常茶飯事的トリヴィアリズムに縮こまっているか……。いや、それがそうとも言えないんだなあ。これもある種、壮大な物語と言えなくもないんだ。
彼: へえー、どういうことだ。
私: この作品の演出家でもあり戯曲作家でもあるパヴォル・リシュカとケリー・コッパーが、今回の上演で鉄琴とフルートを担当しているクリスティン・ウォラルに電話インタビューをし、彼女の半生を語ってもらった。その時は2時間で終わったが、この電話インタビューはその後も続き、全部で10回、16時間に及んだらしい。今回の作品はその最初の部分の話を元にしていて、現在エピソード4まで上演されているようなんだ。すべてのエピソードが完結すると24時間に及ぶということだ。
彼: 24時間! よくやるよっていう感じだなあ。ワーグナーの『ニーベルングの指環』よりも長くなるなあ。しかし、延々とやるから壮大だ、ということではないだろう。
私: 確かにそうだ。僕がこの作品を壮大だというのは、必ずしもそういう意味ではないんだ。しかし、そのことについて言う前に、少し説明しておかなくてはならないことがある。この作品、休憩10分を挟んで、3時間半に及ぶんだが、驚いたことにその間すべての言葉に音楽が付けられているんだ。
彼: すべてに? ロイド・ウェッバーのミュージカルみたいにか。──ということは、まあ、電話の話を元に作詞をした、つまり韻文に仕立ててあるんだな。
私: あ、さっきの僕の言い方がまちがっていたな。「話を元にして」ではなく、「話をそのまま」なんだ。つまり、日本語で言ったら「そんでね、なんつったっけ、……ああ、そう、」式のダレた言葉までそっくりそのままメロディーに乗って歌われるんだ。
彼: 会話体がそのままか。ということは、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の「You’re Herod’s race! You’re Herod’s case!」のように韻を踏んではいないんだな。『サウンド・オブ・ミュージック』の中の美しいナンバー『エーデルワイス』の「Small and white clean and bright」のように、言葉のリズムが自然に音楽を呼び起こすようにはなっていないんだな。そんなものがメロディーに乗るのか?
私: それが見事に乗っかってるんだ。驚いたよ。コミカルな曲調、叙情的な旋律、ドラマチックな盛り上がり、メニューは実に豊富なんだ。実は、メロディーに乗って切れ目無く次々に言葉が飛び出してくるものだから、最初はちょっとメリハリがないというか、焦点が絞れないというか、そんな感じを持った点もあったんだけど、10分の休憩を挟んだ後半、主人公が親戚の面々について語るところに付けられた音楽は、ちょっと郷愁を誘うような、哀調を帯びた悠然たるメロディーで、本当に聞き惚れてしまったよ。その辺りから音楽全体に変化が出てきて、作品世界が芳醇な香りを放つようになるんだな。
彼: ふうん。それは、聞いていないこちらの身には何とも言えないなあ。……で、ダンスはどうなんだ。あるんだろ、ミュージカルなんだから。それともスティーブン・ソンドハイムの作品のように、ダンスはなし?
私: ダンスねえ。少なくともボブ・フォッシーの作品のような、あるいはディズニー・ミュージカルのようなダンス・シーンはない。つまり、クラッシック・バレエもモダン・ダンスも、ブレイク・ダンスも、ここにはないんだ。強いて言えば、ラジオ体操とピンポンパン体操の中間程度におもしろくて地味な身体パフォーマンスがあるといったところかな。これは、主人公の幼児期から小学校低学年の時期を描いていることから来ているのかもしれない。また、この身体の動きのフォームは固定されたものではなく、舞台下のバンドのそばにいるプロンプターによって即興的に提出されるカードの指示に基づいており、毎回異なっているんだ。これは、固定された言葉や旋律に即興的な身体の動きをぶつけることで俳優を絶えざる緊張感の中に置く、そしてそのことによって演技の鮮度を高めさせようとしていると思うんだ。
彼: はっきり言えよ。お前は最初におもしろいと言ったが、「興味深い」といった外交辞令的な意味であってだなあ、心底楽しんだわけじゃないんだろ。
私: いや、楽しかったよ。それも滅法。
彼: ということは、その電話で自分の半生を語ったという女性の話というか、人生が波瀾万丈のドラマを持っていたということか。
私: それについては全くなし。さっきも言ったけど、だれの話にも出てきそうな、ごく普通のエピソードばかりなんだ。
彼: そんなもの、どこがおもしろいんだ?
私: 確かにな。……Hさあ、僕の子供の頃の話、例えばササキトモコちゃんの話、聞きたいか?
彼: 何だよ、それ。知らねえし、聞きたくもないよ。
私: そうだよな。僕も話すつもりはない。いや、君に限らず、ほかの誰にもね。それは、自分の個人的な体験や思い出など人様に聞かせる価値などないと思っているし、君が言うように、誰も僕の話になど興味を持ってくれないと思っているからだ。個人のありふれた体験を、「神話的時間」に掬い取ってみせたり瑞々しく表現してみせたりするのには、特権的才能を持った作家による高度な文学的、映像的洗練を必要とするわけだ。──で、君や僕のような平凡な人間の体験は、僕らの内部に封印され、行き場を失ったまま、その人の死と共に雲散霧消してしまうことになる。今、地球上に70億の人間がいるとすると、その70億の固有のエピソードやドラマが、誰にも知られることなく、次々に消えていくんだ。
彼: だからどうだって言うんだ。それでいいじゃないか。俺たち日本人には少年期を生き生きと描いた井上靖のいくつかの小説があるし、『となりのトトロ』だってある。お前の小さかった頃の話などだれにも知られることなく消えたってだれも惜しまない。
私: 僕が言うのはね、個人のありふれた体験を普遍的な世界に高め、仕立て上げるんじゃなくて、ありふれた体験そのものが光り輝き出すことがあるってことを、この作品で知ったということなんだ。日常の些事それ自体がドラマであるってね。もちろん豊かな音楽や俳優の見事な歌唱力という要素はあるが、それも含めて、実はこの作品そのものが一種の触媒なんじゃないかって思ったんだな。どういうことかって言うとね、この作品に身を浸しながら、ある瞬間、僕は自分の中に長いこと埋もれていて埃をかぶっていたずっと以前の記憶が、ほんとうにあふれんばかりに豊かに蘇ってくるのを感じることがあったんだ。そうして、平凡な人間の平凡な体験の数々が、実はそのまま瑞々しくも豊かなドラマであって、そうした豊かなドラマがこの世界には殆ど無数に存在するってことに思い至ったんだ。僕が言う「壮大」ってのは、そういう意味なんだ。
彼: 体験そのものを輝かせるというのはいいとしても、だからといって「ええっと、それで」といった意味のない、はっきり言えば無駄な言葉をそのまま残しておくことにどんな意味があるんだ?
私: この作品を作り上げた二人のうちの一人パヴォル・リシュカは、電話でのインタビューそれ自体は単なる素材であって作品にはなっていないと言っている。その素材を作品化するのに一年半近くかかっているようだ。しかし、それはさっきも言ったように、素材を芸術家の審美眼で取捨選択して、だめな部分を切り捨てていくというのではなく、素材のすべてに光を与えようという、これまでだれも試みたことのない実験を成功させるために必要とされた長い時間だったんだな。そして、行きつ戻りつする語り口、記憶を修正したり言い間違ったり言い直したりするしどろもどろのおしゃべり、それらをすべてそのまま作品化するというのは、そのリアルな語りの中にこそ、その人物のリアルな体験が息づいている、言い換えれば「語り口」と「語られた内容」とは不可分のものである、とこの作品のクリエイターたちは考えたということなんだと思う。
彼: そういうものかねえ。……ところで、今回上演されたのはエピソード1なんだよな。次のエピソード2が静岡で上演される予定はあるのか。
私: さあね。そうなることを希望するとしか言えないね。
彼: 1でも2でも、もう一度上演される機会があったら、仕事の都合を付けて、実家のお袋に会いがてら見に行ってみようかな。何しろお前の話は信用できないから、自分で確認するのが一番、というわけだ。

■依頼劇評■『鏡の国の、ロミオとジュリエット ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間』柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

鏡の国の、ロミオとジュリエット
 ピィ〈完全版〉を流れる二つの時間

柳生正名

 それは不思議なロミオとジュリエットだった。少しばかり、刺激的なもの言いをすれば、これがロミオとジュリエットか、と思われるほどに―静岡で〈完全版〉と銘打たれたオリヴィエ・ピィ演出を観た第一印象である。
 この名作は映画、バレエ、ミュージカルなどの分野で多様な時代設定に読み換えられてきた。今回も登場人物は今風のドレスやスーツ姿。舞台には椰子の木が登場し、ヒロインの手に自動式拳銃が握られ…ただ、こうした道具立てが「らしくなさ」をもたらしたのではない。むしろ、舞台を二〇世紀米国に移したウエスト・サイド物語より「らしくなく」、かつ、その「らしくなさ」にむしろ魅かれている自分に気付く―そういった性格のものだ。
 ピィにはオデオン座芸術監督としての最後の作品となった本作。台本の仏語訳に自ら当たったことでも話題を呼んだ。台詞は細部では省略があった半面、例えば、シェイクスピア=shakes pear(洋梨を振る)といった言葉遊びが淫猥な仕草ともども追加され、観客の笑いを誘った。ただ、〈完全版〉の名の通り、基本は原文に忠実。そもそも、原文自体、卑俗な地口と厳格な韻文の融合であり、それはより「らしさ」が増してしかるべき試みだったはず。にもかかわらず、「らしくなさ」―それも好ましい―を感じた理由は何か。
 例えば幕切れ。二人の亡骸を目の当たりに、それまで反目してきた両家の当主は口々に黄金のロミオ像、ジュリエット像の造立を誓う。しかし、その和解の言葉と裏腹に、彼らが手から撒き散らすのは白い粉―それは、二人の死をよそに続く争いの不毛を象徴する「灰」さながらだった。
 場面はキャピュレット家の納骨堂内という設定だ。石壁は舞台の淵ぎりぎりまでせり出し、間に穿たれた窮屈な階段上に、一同は寿司詰めで並び、灰が撒かれる。大団円の高揚感は薄く、まるで時間の袋小路に行き当たったがごとき閉塞感と重苦しさが漂う。
 気付かされるのは、二人の愛が悲恋として完結し、メロドラマ「らしく」観客の涙を絞るためには、両家の和解という結果を伴うことが重要である点だ。和解という結末があればこそ、いつの時代も変わらぬ若者の典型である二人が、聖別された犠牲として栄光を帯び、その愛は世紀の悲恋として自己完結する。受肉した神の子キリストが自らを犠牲として人類を救済したのと同様に。
 が、今回の結末は、むしろ街が戦乱によって灰燼に帰したかのイメージだ。そのまま、場面は争いにすさんだ冒頭に戻るかと錯覚するほどに―結局、二人の死は和解を生まず、悲恋が平和という実を結ぶこともない。この結末から連想されるのは、むしろ、果てしなく繰り返し、決して完結しない物語だろう。
 主役2人の演技も、特に幕間を挟んだ3幕2場以降の後半部、格調を喪わない台詞回しといい、手振りを主体に感情の高まりを自然に表現する所作といい、観客の涙を絞らんがためのけれんには走るところはない。自ら死を選ぶ場面も、巨大な運命に押し潰される悲哀や、恋の成就を彼岸に託す思いを、取り立てて強調せず、むしろ本能の赴くまま突っ走る、普通の若者として演じ切った。
 先にウエスト・サイド物語と図らずも比較したが、悲恋物語といった場合、われわれはハリウッド映画に典型的な物語の作法―冒頭で世界を立ち上げ、中盤で盛り上げ、最後に最高潮を据える―という図式を期待しがちだ。多分、それは終幕で涙を絞る「感動」を演出するための心理学的法則にかなう。加えて、そこにはヘブライズムに源を持つ歴史観=「神による世界創造」から「最後の審判を経た救済」という図式さえ、うっすら透けて見える。しかし、今回の舞台は演出でも演技でも、そうした方程式が微妙に外されている。
 《言葉》が役者の身体に降り、受肉することで起こる奇蹟―という演劇観からうかがえるように、ピィ自身にはカソリック信仰に裏打ちされた形而上学的志向が強い。にもかかわらず、今回は逆の道を選んだように見える。なぜか?―この点を考えるため、今回の演出をもう少し掘り下げて見てみよう。
 舞台装置は、矩形にモジュラー化された木製ブロック3基ほどが主体の簡素なもの。これを役者が移動させると、場は時にヴェローナの広場、二人が恋を語らうバルコニー、またキャピュレット家の墓所へと変化する。
 装置の簡素さは、劇の土台をなすシンプルな構造に観客の思いを誘う。この点は、開幕から終幕までほぼ変わらず舞台上にあり続ける唯一のもの―メイクアップ用鏡台に注目するとき、はっきりする。鏡は役者にとって神聖なものだ。能楽では楽屋と舞台との境界、揚幕のすぐ内に「鏡の間」が存在する。シテはその姿見の前で面をつけ、役への変容を遂げるが、今回の演出は通常、観客の目から隠される、その存在をあえて舞台上にさらした。
 そして、幕開きの1幕1場。モンタギュー役のマチュー・デセルティーヌは鏡台の前に坐し、ベンヴォーリオと息子ロミオをめぐる言葉を交わした次の瞬間、ロミオに早替わりする。さらに、3幕1場、カンタン・フォール演じる瀕死のティボルトが黒いヴェールをまとい、キャピュレット夫人に変ずる印象的な瞬間。また、オリヴィエ・バラジュークが、ジュリエットの父キャピュレットと許婚パリスの二役を多重人格者さながら演じた場面もまた、鏡の持つ変容の魔力を感じさせた。こうして、鏡の存在は登場人物それぞれが抱く欲望の深層意識レベルでの一致をあばき、人間関係の「対称」的構造を露わにした。
 即ち、ロミオとジュリエットを筆頭に対立する両家の当主、その夫人、ロミオの親友マーキューシオとジュリエットの従兄ティボルト、ロミオの従僕とジュリエットの乳母―と、鏡に映り合ったような「対称」性に沿い、登場人物は互いに諍い、愛し合う。主人公二人が舞踏会で出会った瞬間、口づけを交わすという尋常でない心の振幅さえ、物語を貫く「対称」性からは、ごく自然なこととなる。この物語では近代リアリズム的な心理の流れより、形式の自己完結性が優先する。そのことが鏡によって暗示された、といえるだろう。
 実際、1幕3場でジュリエットは乳母や母親と言葉を交わしつつ、拳銃をもてあそび、自身に向け撃つ真似までする。いったん、鏡台に仕舞われた拳銃は3幕3場、ヴェローナ追放の沙汰を受け、発作的に自殺を試みるロミオの手に握られる。鏡台を仲立ちに、そもそも二人が共有する死への願望が浮き彫りにされ、親同士の争いが二人を死に追いやった風の、ロマンティックかつ単純な解釈に疑問を投げ掛ける。そして、二人が鏡像同士としての「対称」性を分け合う存在であることも示す、際立った演出だった。
 実は、この物語で「対称」性はこうした人間関係にとどまらず、劇的構成にまで貫徹する。ドラマを動かす最大の推進力となる「争い」の場面を見ていこう。1幕冒頭、舞台にはⅠ①キャピュレット家の使用人二人が登場、Ⅰ②モンタギュー家の使用人二人とでくわす。そこにⅡ③モンタギューの甥ベンヴォーリオ、Ⅱ④キャピュレット夫人の甥ティボルト、Ⅲ⑤数人の市民、Ⅳ⑥キャピュレットと同夫人、Ⅳ⑦モンタギューと同夫人と加わる過程で小競り合いが次第に本格的な争いへと発展。最後にⅤ⑧領主エスカラスの仲介で当座の和解が図られる。常に「対称」的な人間関係を踏まえつつ、身分が競り上がる構造だ。
 次に、作劇上、物語の大きな転機となる3幕1場の争いだ。今度は、両家の使用人同士のいざこざは省略されるが、Ⅱ①モンタギュー側のベンヴォーリオ、その友人マーキューシオと従者たち、Ⅱ②キャピュレット側のティボルトら数人、Ⅱ③ロミオ、Ⅲ④市民、Ⅴ⑤領主と従者、Ⅳ⑥モンタギュー夫妻、⑦キャピュレット夫妻―1幕の争いと両家の先後関係を入れ替えた上で、同様の「対称」構造を形成する。注意すべきは、領主の親族かつロミオの友人たるマーキューシオと、モンタギュー嫡男かつキャピュレットの婿であるロミオだ。二人は人間関係の「対称」性に深く組み込まれつつ、「対称」性をかく乱する存在であり、ともにティボルトと命のやり取りを行うことで、物語に悲劇的加速度を与える。
 そして、大詰め5幕3場、「争い」の解決の場。タイトルロールの二人が死んだ直後の墓所には、Ⅰ①キャピュレットが婿に選んだパリスの小姓、Ⅰ②ロミオの従者バルサザーが、ともにⅢ③夜警、を伴い登場した後、Ⅴ④領主と従者、Ⅳ⑤キャピュレット夫妻、⑥モンタギュー夫妻―の順で現れ、両家長は灰を撒く。ピィの演出は〈完全版〉にふさわしく、原作の指定にほぼ忠実に人間を動かしており、以上の三つの場面がそれぞれ形づくる劇的「対称」性は忠実に舞台に再現される。
 ここまで見たように、この物語はロミオとジュリエットという二人が織り成す悲恋を軸とした流れとは別に、社会的な二つの力の相克が生み出す三つの争いの場を柱とした劇的構造をはらんでいる。悲恋は終幕が迫るにつれ高まりを見せるが、争いという視点から劇的な頂点を形成するのは3幕1場のマーキューシオとティボルトの死の場面だ。
 話は飛躍するが、筆者は芭蕉の「おくのほそ道」の構成が、平泉、出羽、象潟の3場面に感動の頂点を持ち、特に中央の出羽が最も高い三峰構造と論じたことがある。さらに、その形状は金融市場のチャート分析に用いる「三尊天井」の概念を連想させることも。横軸に時系列、縦軸に例えば株価を刻んだグラフには、中央が高く、前後に同じ高さの2峰が並ぶ「対称」形状がしばしば出現する。それは、そこまで続いたトレンド(上昇・下落)が完了し、別のトレンドに転換するサインと理解される。この三尊パターンが完成した時点で相場には一定の終結感が生じるが、取引は続き、新たなトレンドを経て、また三尊パターンが登場する。この、仏教用語に由来する概念は次への継続を前提とした読点的存在であり、ヘブライズムの終末に向かう物語と言うより、東洋的輪廻の流れの内にある。
 とすると、「ロミオとジュリエット」は、「争い」の物語としては中央の峰を軸に折り返すと前後が重なる三尊天井的「対称」構造をとりつつ、悲恋物語としては右肩上がりの「非対称」性を持つ。言い換えれば、ヘブライズム的時間と東洋的な繰り返す時間という、二つの相反する原理を内包する。
 本作では通常、ヘブライズム的時間を前面に押し出した演出が行われる。観客に幕切れで「感動」を与えるのが芸術という考え方は根強く、商業的成功にもつながりやすいからだ。ただ、シェイクスピアのテキストを読み込み、それに忠実たらんとすれば、本質的な劇的構成を反映し、もう一方の「対称」構造を持つ時間も、また舞台上に姿を現してしかるべきだ。その結果、幕切れに向かう劇的昂揚の質が、通念的なメロドラマとは異なり、かつて某国の宰相が連発した「感動」という言葉にはぴったりこない形の上演になるとしても…。今回の「らしくなさ」―例えば、大団円の―は、〈完全版〉に相応しく、シェイクスピアの意図した劇本来の姿が、演出、演技両面で正当に汲み取られた結果と感じる。
 ここに言うシェイクスピアの意図とは何か。考えるに、彼が生きた時代から四百年を経た現在も、国家であれ、個人のレベルであれ、世界から争いが消える気配はない。歴史を紐解けば、そうした争いは、若者二人が交わす一度きりの恋などには無関係に、幾度でも繰り返す時間の内に息づくものなのだ。この事実から露わになる人間の本質的な愚かしさと悲しさ。それをリアルに把握せずに、美しい物語にひたることの欺瞞性―これこそ、かの劇聖が強調したかった点であり、この物語を「悲劇」たらしめる根本的な要素ではないか。
 本作を最後に「解任」という形で、この国立劇団を離れたピィ自身、在任中は自らの信念を貫くため、争いに巻き込まれ、攻撃の矢面に立つことがあったかもしれない。今回の舞台で、パリスとの結婚を拒む娘に執拗な攻撃性を見せる家長キャピュレットの造型を観て、なぜかそう感じた。そのような争いの体験こそ、ピィがこの悲劇の上演史に一頁を書き加える原動力となったのでは―とつい穿った見方さえしてみたくなる。それほど、この舞台と彼の退任が衝撃だったということだ。
(戯曲の構造をめぐる考察にあたっては、市川真理子氏の論文「『ロミオとジュリエット』の劇構成」〈小樽商大人文研究64号〉を参考にさせていただきました)(了)

■依頼劇評■『平らかなる昂揚、の果てに 宮城版「ナラ王の冒険」評』柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

平らかなる昂揚、の果てに
   宮城版「ナラ王の冒険」評

 柳生正名

 まごうかたなく、それは祝祭だった。演劇という祭が持ちうる力の大きさに感嘆し、ある意味で畏怖を感させられるほどに―6月の静岡県舞台芸術公園野外劇場。有度山麗の木々を背景としながら、舞台は6メートル四方そこそこ。そこに、ゆうに20人を超える演者全員が上がり、宮城聰演出「マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜」は大団円を迎えていた。
 舞台が発散する熱気に手拍子で応える客席。その昂揚を目の当たりに、遥か昔、小林秀雄訳で読んだランボオの一節が思い出された。
 嘗ては、若し俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出た宴であった。
 今回の舞台を一見して気付く点―それは登場人物の出で立ちが、およそ白一色だったことだ。古代インドの物語が平安朝に伝播し、演じられた、との設定通り、主人公二人を含めた王族は束帯・十二単、神々は伎楽風の仮面をまとう。ただ、装束の色使いは当時、身分などで厳密に決められており、全員が純白の衣ということはありえなかったはずだ。
 さらに、装束の素材はすべて紙のように見えた。小道具やコロス演じる獣の着ぐるみ、木、果ては炎も同様で、舞台全体がほぼ白一色に塗り上げられた印象だ。
 ふと思い出されたのは現代美術作家・村上隆が提唱した「スーパーフラット」という概念だ。日本の伝統絵画から漫画・アニメにまで共通した平面的、二次元的な絵画空間を意味する。省略と余白が多用され、遠近法や陰影など立体感の表出が控えられる結果、表現上の装飾性、遊戯性が増すのである。
 さらに、そのフラットさには日本社会の階層性の薄さとの関連が指摘され、また、ポップアートの旗手アンディ・ウォーホルが自作について「裏には何もない。表面だけ見て欲しい」と述べたのと同様、本質/表層という図式を根本に据えた西欧的世界観・芸術観へのアンチテーゼを読み込むこともされる。
 アニメに代表される日本のサブカル製品が、海外で熱狂的なファンを得ていることは、今や常識だ。村上が制作した漫画風の絵画やアニメのフィギュアさながらの立体作品も国際的に高く評価されている。
 今回の演出について言えば、能を思わせる橋掛かりを取り入れ、自然林を借景にするなど、野外劇場の奥行きを積極的に活用する。ただ、全体を白一色としたことで、観客はあたかも鳥獣戯画や北斎漫画などの線画を観る感覚を味わっただろう。これに、歌舞伎、狂言や神楽を思わせる様式的で身体の垂直軸を意識した所作が加わり、日本的で「フラット」な世界観が体現されていた気がする。
 さらに、印象的だったのはコロスが演じた聖なる木や森の造型だった。本作はそもそも、宮城演出の特色である所作役(ムーヴァー)と語り役(スピーカー)の分離を基調とする。コロス役のムーヴァーが白一色の群体をなし、枝が風にそよぐさまなどを、しなやかな腕の動きで表現してみせた。その美しさは際立っていたが、日本人からみると演出自体にさほどの発想の飛躍は感じない。古来、日本では神も、人も、さまざまな動物、植物、果ては岩や山川まで、ひとつの命を分け持つというフラットな形のアニミズム思想が根強いためだろう。インドからもたらされた仏教が、この国に根付く過程で「山川草木悉皆成仏」という独自の命題を掲げるに至ったほどに。
 もちろん、ナラ王の物語の中にもアニミズムはある。蛇と人が語らい、神と人が一人の美女をめぐり恋のさや当てを見せ、といった具合だ。ただ、インド文化の枠組みは、意識作用を持たない植物や無生物に解脱、つまり成仏はありえない、という立場を取ると聞く。
 実際、ナラ王物語の原作を読むと、ダマヤンティー姫が無憂樹に話しかける場面があるが、樹自らは言葉で応えない。ヴァーフカに身をやつしたナラ王がサイコロ賭博の奥義を巡り、リトゥパルナ王と問答する際には、今回の舞台ではシクンシの木にどれだけの葉や実があるか、瞬時に見極めるために「木全体を見よ」と深遠な哲学が語られた。ただ、人間という主体に対し、木はあくまで観照の対象という客体的立場にとどまる。
 インド文化では人間界にカーストが存在するのと同様、自然界にも明確な階層が存在する。日本人ほど、木と人間は一体とは思わず、木を人間が演じることも自然とは感じないのではないか。
 そもそも、この物語では登場するすべての存在が、自らの階層から逸脱することはない。物語の中で結ばれるナラ王とダマヤンティー姫は王族同士。王と生き別れ、森をさまよう姫を呑みこんだ途端、にしきへびは狩人に腹を割かれ、その狩人は姫に身分違いの懸想をした途端、絶命する。王と姫がさまざまの試練を受ける羽目に陥る直接の原因、言わば、物語の根本動因も、人たる姫を神たるカリが階層を超え、横恋慕したことだ。このように、すべてが自らの階層にとどまることを指向する物語と、すべてを均質な白に塗りつぶすフラットな発想と、本来はひとつの舞台上に両立しがたいはずである。
 であるがゆえに、そういった異質さの境界を取り除き、薄っぺらな表層に伸ばすことで生まれる、本質/表層の別が曖昧化する感覚。それこそ「誰の心も開き、酒という酒は悉く流れ出る」祝祭性の本質ではないか。
 ここまで、宮城版「ナラ王の物語」は白一色と言わんばかりに論じてきたが、実は、登場場面は限られるものの、強いアクセントを放つもう1色が存在する。それは「赤」だ。
 カリ神に憑かれたナラ王が、弟プシュカラとのさいころ賭博に我を忘れる場面、コロスは勝者を白と赤の手旗で示す。ナラが白、プシュカラは赤。いずれが勝つか見極めようとする群集の姿が、平安末期の源平合戦で右往左往する貴族を髣髴とさせた
 それ以上に、赤が重要な意味合いを帯びるのは、ナラ王とダマヤンティー姫の結婚直後のこと。民草をよく養う王にふさわしく、狩られた猪をナラ王が手際よくさばき、みなに振舞う。結婚の際に神々から料理の奥義を授かったことを受けてのエピソードだ。舞台で、獲物となる紙の猪は外面こそ白いものの、包丁を入れられると、飛び出す絵本よろしく、背が割れ、中から紅の扇のような肉が取り出される。これを王が箸でつまみ、姫の口に運ぶ仕草は、白い世界のなか、赤の存在が印象的でエロティックな隠喩にさえ満ちていた。
 これが終幕近く、計略により呼び寄せたリトゥパルナ王の撲、醜い姿に変化したヴァーフカを、姫がナラ王その人と知る伏線にもなる。調理した焼肉の味で姫は正体を見破る。
 さらにナラ王に取り付いていた悪神カリは、王がサイコロにまつわる奥義を会得した瞬間、その体内にとどまることができなくなり、飛び出す。そして、呪心の象徴である赤い手ぬぐいを放り投げると、その場を逃げ去る。
 日本で紅白と言えば、祝事を表象し、「日の丸」色である半面、切腹の正式な作法は御白州で白装束をつけて、という具合に死と生が交錯する危うい美学もはらんでいる。今回、肉にこの色が与えられたのは、バラモン教定着後のインド、さらに仏教を通じその影響を受けた日本でも、肉食に負のイメージが負わされてきたことを受けているのかも知れない。インドでは現在もバラモン階級の多くが菜食を貫いていると聞く。
 そして、逆説的だが、そういう背景があってこそ、大団円で、善神も悪神も、王族も平民も、食べる側も食べられる側も、ありとあらゆる存在が、あらためて白一色に立ち返ることの圧倒的な昂揚感が生まれてくる。際立った存在感を持つダマヤンティー役のムーヴァー美加理やスピーカー阿部一徳も含め、主演、助演、コロス役の区別無く、舞台に上がり、ひとつの台詞を一糸乱れず斉唱する演出は、橋掛かり脇で民俗音楽風の曲を奏で続ける演者、手拍子で応える客席、さらには背景をなす自然の木々も巻き込み、巨大な祝祭空間を作り上げる。ここでみられる昂揚の基盤は、「スーパーフラット」に通じる美学によって形づくられたもののように思える。
 舞台上の全員の口から唱和される、その台詞は、和歌や俳句さながらの七五調だった。背景に流れる音楽は、各奏者が国籍も由来も雑多に寄せ集められた楽器によってまちまちな拍子を奏でつつ、全体として調和をなすポリ(複)リズムを基調としたもの。その上に、日本伝統の韻律が完璧に収まり、多様な文化の階層を取り払って、人々の心を昂揚させるさまは、魔術的な宇宙の出現を思わせた。
 宮城によれば、製作過程で作曲サイドからは、音楽的にあまりにのっぺりしたその台詞回しが問題にされたという。結局、「台詞が完璧に合うこと」を重視し、七五調での上演となったが、それゆえ、フラット性が最上の形で舞台に具現されたのではないか。
 ここまで、演出の側面から宮城版「ナラ王の冒険」のフラットな側面を焙りだしてきたが、もうひとつ、物語構造についても考えるべきかもしれない。原作と対照した場合、宮城版の台本は冒頭部分の重要なエピソードが省略されている。
 実はナラ王が、深窓の姫ダマヤンティーに直接目通りできたのは、使者として彼女に神々の求婚を伝える任務を負ったためだ。姫は決断の鮮やかさと冴えた機知で、神の祝福を巧みに取り付けつつ、意中のナラ王と結ばれる。が、結果的に神の求婚をはねつけた姫への恨みは残る。これがカリという悪神に具現化され、王との生き別れという結果を招く―これが、二人の冒険譚の前史となる。
 物語をつむぐ立場からは通常、神の意思を拒絶した結果、人間がさまざまな苦難を味わう―そんな展開こそ、一番おいしい部分と映るはずだ。しかし、今回の演出では省略され、舞台は神々が二人の結婚を祝福する場面から始まる。その分、登場人物のさまざまな言動の裏に根本的原因を仮定し、それが何かを探る、という西欧流の鑑賞姿勢をとると、この筋立てには物足りなさを感じざるをえない。
 つまり、動機→行為という図式の上に成り立つ心理的遠近法の立場からは、この舞台の主人公たちの言動は平板で、時に不条理だ。しかし、だからこそ、そこに生の人間性が投げ出された実存の生々しさを見出すこともできる。動機/行為、本質/表層という人間中心の視座にとらわれ、森羅万象を包み込む宇宙観を描き切れない近代の物語との対比で、むしろ、そのフラットさに可能性を感じる―2006年、この舞台がパリで絶賛を博した理由も、ひとつはそこにあっただろう。
 ただ、こうしたことを、例えば「フラット」性に集約される日本文化・社会の優越性というような方向で論じるのは大きな誤りだと思う。この概念自体、頭に「スーパー(超越的)」の語が冠されるように、実は醒めた視線による自己批評性―そこには日本社会の階層性の薄さのみならず、消費文化の薄っぺらさや横並びの風潮まで読み込まれた―が前提されたはずだ。そうした点を捨象して「フラットな日本の賛美」に走ったりすれば、近くは1980年代のバブル経済が、国民全体を巻き込む総上流志向というフラットな風潮として現われた愚を繰り返しかねない。
 一部愛好家にのみ受容される現代演劇の枠を脱し、言語という障壁も乗り越え、よりフラットな世界との交わりとしての祝祭性―今回の舞台が、そんな思いに裏打ちされたものだったことは間違いない。ただ、決して安直な伝統回帰には向かわず、単なるエンタテインメントに終わることもせず、むしろ、そのフラットさを極端(言い換えれば超越的)な形で示す―それによって、例えば昨今、格差拡大が叫ばれる一方で、「絆」なる言葉が多用されるがごとき、妙に平ぺったい風潮への醒めた批評性を感じさせる性格のものだった。
 ちょうど、ほとんど白一色の舞台上、「酒という酒は悉く流れ出る」大団円の昂奮の中でも、それまでに、さりげなく、しかし緻密に配された「差し色」赤の視覚的記憶が強烈な違和感を放ち、「すべからく、醒めつつ淫すべし」と耳元で囁き続けると思われたように。個人的感慨ながら、それは、ランボオが、未開の祭儀さながらの混沌の美に満ちた自らの詩業に幕を下ろす、その最後に「断じて近代人でなければならぬ」と書き留めたことと、どこか通底する気さえする。(了)
(以上敬称略)

2012年11月8日

■準入選■ 【「おたる鳥をよぶ準備」雑感 】柚木康裕さん(構成・演出・振付:黒田育世)

■準入選■

「おたる鳥をよぶ準備」雑感

柚木康裕

 舞台とはライブである。そこに演者がいて初めて成り立つ。ライブであるということは、繰り返すことができないということだ。たとえ何度再演されても、その時のその場所での舞台は二度と現れることがない。この1回性が醸し出す緊張感、このユニークネスこそが舞台の面白さだと思う。この事実は今日素晴らしかった舞台が明日もまた素晴らしいと言い切ることは出来ないことを意味している。最良の舞台のためにどれほど備えをしていても、時に舞台の印象を決定的に替えてしまうようなハプニングが起こることもあるだろう。たとえばそれは野外舞台での雨である。

 SPACふじのくに⇄せかい演劇祭の最後をかざったダンス公演「おたる鳥をよぶ準備」はこのユニークネスでは突出していたのではないだろうか。世界初演であること。今後3都市を巡回するが野外公演は静岡だけであること。さらに演劇祭のプログラムに目を向ければ、一日3演目あるうちの最終演目だったこと。つまり観劇者のなかにはこの日3本目という方もいたこと。そして千秋楽だった日曜日の公演に雨というハプニングが加わったこと。まさに今しか経験できないことが揃った。これこそライブの醍醐味である。

 とはいえ、雨中の観劇は勘弁というのが本音である。オマール・ポラス「春のめざめ」を観劇後さらに3時間の長丁場に集中力が続くのかだけでも不安だったが、悪いことに追い打ちを掛けるような雨である。雨粒がカッパを通して身体を打つ。正直言って始まるまでは心が折れていた。だがしかし始まってしばらくするうちに雨降りの舞台を愉しんでいる自分がいることに気が付いた。(子どものようだが)雨など一度濡れてしまえばどうということはない。雨に濡れながら踊るダンサーを観ていると心が回復しだし、次第に舞台に集中していった。

 もしかしたら雨はこの舞台に良い効果を与えているのではないだろうか。
 (雨も舞台装置としてあらかじめセットされていたのではないだろうか)

 黒田育世率いる女性だけのダンスカンパニー「BATIK」の名前は知っていたが、舞台を観るのは初めてだった。YoutubeでBATIKのダンスを垣間見たが、今回の「おたる鳥をよぶ準備」もBATIKらしい舞台といえるようだ。ダンサーたちの力強さは驚くべきもので、大声を張り上げ絶えず動きまわる。確かにダンスを褒める時に使う華麗という言葉は見あたらない。しかし洗練という言葉なら与えることは出来るだろう。身体性、・スペクタクル性、物語性、ループの使い方、それらを支える松本じろの創り出すミニマルサウンドが合わさり現代性あふれるダンスに仕上がっているように感じた。ただしこの現代性とは常に細分化された結果として表れてくるので、好き嫌いがはっきりと分かれることになるだろう。大衆が楽しめるには社会全体で共感できる価値観が必要だが、相対化が進む社会では価値観も細分化され共感の幅も自ずと狭くならざるをえない。

 1877年(明治10年)初演だったクラシックバレエ「白鳥の湖」はこれまで多くの共感を集めてきた。それは優美で華麗な踊りと音楽の成果だが、同時に勧善懲悪的な対立項が分かりやすく示された物語だったからだろう。王子と悪魔、白鳥と黒鳥のように。そしていつでも大衆は王子と白鳥の立場に付く。美しくみられたいという願望を投影し、常に王子を探し、白鳥に憧れてきた。だが2012年の今、舞台上には「おたる鳥」がいる。

 「おたる鳥」とは黒田育世の造語で「満ち足りて体が動き出すこと」という意味だそうだ。「おどる」の語源といわれている。まさにこの舞台はそれを体現しているような舞台だ。激しく、執拗に踊る。少女たちは白鳥になりたいのではなく、王子様も待ちはしない。なぜならもうすでにそれらが失われていることを知っているから。彼女たちは内なるおたる鳥を呼び寄せるために踊る。その時に美しく「おどる」必要はない。なぜなら「おどる」ことそれ自体が美いのだから。3時間に及ぶ舞台を見ながら、私はそう感じていた。

 雨はなかなか止まず、結局終わりまで降り続いた。時折その雨が効果的に舞台へ介入していた。雨がなかったらどんなふうに見えていたのだろうか?屋内でも今日の野外公演以上に素敵なものになるのだろうか?確かめるためにはもう一度観るしかない。きっとその時はまったく違った「おたる鳥」を体験することになるだろう。