劇評講座

2015年3月26日

■入選■【『真夏の夜の夢』演出:宮城聰、作:シェイクスピア】福井保久さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

人はとかく物事を曖昧なままにしておきたいものです。
人は基本的に怠惰ですから、決めないことで責任が生じないことを選び勝ちです。それに曖昧にしておくと夢見がちでいられます。
「真夏の夜の夢」は、主人公の“そぼろ”が自分の心の奥、自分では気が付いていない自分の本音の部分を知る旅の物語ですが、自分の心の奥にある本心が何かなんて、曖昧にしておきたい最たるものです。

老舗割烹料理屋のハナキンの娘“ときたまご”は四日後に結婚式を控えています。相手は父親が決めた板前のデミですが、別の板前のライと相思相愛です。どうしてもライと一緒になりたいときたまごは、ライと「知られざる森」へ駆け落ちをします。幼馴染のそぼろにだけそれを告げました。そぼろはデミを慕っていたことから、駆け落ちのことをデミに伝えます。ときたまごを追うデミ、そのデミを追うそぼろ、4人は知られざる森で不思議な体験をします。 続きを読む »

■準入選■【『忠臣蔵』演出:宮城聰、作:平田オリザ】平井清隆さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 江戸元禄期の武士が実体としてサラリーマン化していた事実は、学問として日本史を学んだ者からすれば、自明のことである。だが、大方の人々にとっては、今舞台の描きようだけでも十分に面白味があると思う。佐藤役の奥野晃士が文机の上で弁を振るうシーンなど、高座で噺をする落語家のようにすら見える。永遠に決済されないだろう書類が飛び交う様も笑いを誘う。
 忠義の為に厳罰をも厭わず主君の仇を討った赤穂浪士、極めてストイックな武士の鑑としてのイメージを持って臨むと、まさにコペルニクス的転換程の衝撃を覚えられた方もおられるかもしれない。誇張はあるにせよ、概ねは舞台で描かれたような「武士像」は正しい。そんな「会社員」達が、討入りと言う結論に達するまでの議論の流れは見事だ。 続きを読む »

■準入選■【『忠臣蔵』演出:宮城聰、作:平田オリザ】土戸貞子さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 一力茶屋の場面は、今回付け加えられたのだそうですが、あのシーンはなぜあるんだろう?と考えました。
 動きの少ないお芝居の中で、後半に差し掛かりともすると眠くなる人もいる(かも知れない)観客へのサービス?それとも、女優さんたちを出したかった?もしかすると、こんなに立派な衣装を持ってますっていうアピール?などと失礼なことを思いながらさらによく考えますと。「あぁ、あれは、これ現代劇って思わないでくださいね。古典ですから。」っていう意思表示だな、と思いました。
 だって、「紗幕の向こうから花魁たちが幻想のように登場し、侍たちを誘惑する。本能に身を任せたいと願う侍たちの中で大石はお軽に鏡越しで読まれた手紙を隠す。この歌舞伎の名場面を再現してみせることで、大石はやはり忠臣蔵の枠組みの中に生きる大石であることを明示する。」っていう効果があるじゃありませんか。うん、なるほど。 続きを読む »

■準入選■【『サーカス物語』演出:ユディ・タジュディン、作:ミヒャエル・エンデ】鈴木麻里さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

明日国はべつのところにある

 サーカス団は決断を迫られていた。今いる土地で翌朝から新しい化学工場の建設が始まる通達とともに、企業から化学製品の宣伝役のオファーがある。条件は、三年前に命を助けて以来彼らと一緒にいる知恵おくれのエリを施設に預けること。工場の毒ガスが元で病気の子を連れていては宣伝に支障がある。契約すれば貧困から解放されるが、悪を自らの手で宣伝することになる。
 戯曲『サーカス物語』は、彼らがこの問題に直面する現実の世界を提示するプロローグ、舞台がおとぎ話の内部に置かれる第一景から第七景、翌朝サーカス団員たちが下した決断を見せるエピローグで構成されている。 続きを読む »

■入選■【『サーカス物語』演出:ユディ・タジュディン、作:ミヒャエル・エンデ】樫田那美紀さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 決して自分を見てはいけない。無邪気さをなくしてはいけない。それが掟の鏡の城に純白のドレスで佇むエリ王女、すなわち現実世界での少女エリは、狂気的なまでに統一されたダンスと歌でエリを囲む無数の影たちに訴える。――「ねえ!頼むから話してよ!」
 10月中旬、インドネシアの演出家ユディ・ダジュディンを演出家に迎え封切りされた「サーカス物語」。この序盤、ジョジョが紡ぐ物語の中でエリによって歌われたこのフレーズは、鏡に囲まれ不自由ない生活をしながらも、世間から遮断されて暮らす王女エリの孤独を色濃く映す象徴的なフレーズである。決して飾らない伸びやかな澄んだ歌声で歌い上げられるからこそ、私たちは全身で受け止めることを余儀なくされ、エリの心の叫びがまるで自分の叫びのように心に痛烈に染み込んでくる一シーンだ。 続きを読む »

■準入選■【『愛のおわり』作・演出:パスカル・ランベール】福井保久さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

心が通じていない者同士の間では、言葉なんて無意味で通じないもの。
心が通じている者同士では、言葉なんていらないもの。
だとしたら、言葉は単なる伝達の機能しか持たないものなのか、でも人は時に言葉を尽くして相手に自分の想いを伝えようとします。
この演劇でも、多くの言葉が飛び交いました。無意味なものから、自己を代弁するような体中から絞り出すような言葉まで。
でも心が離れている間の仲では心には響かない。でも言わずには要られない。言葉を手に入れた人の性なのかもしれません。 続きを読む »

■入選■【『愛のおわり』作・演出:パスカル・ランベール】渡邊 敏さん

カテゴリー: 2013年秋のシーズン

 「愛のおわり」、という心ひかれるタイトル。フランスの新作劇だという。ポスターを見ると、極限状態、の感じの男女がいる。パスカル・ランベール作・演出、平田オリザ日本語監修。
 フランス人というと、いくつになっても「アムール」の為に生きている、愛の達人、というイメージなので、国全体がいつもすごく忙しそうで、でもそれは愛以外の何かの為である国に住んでいる人間としては、絶対見なくちゃ、と思った。この国では、愛を育むのに必要な心のエネルギーが、圧倒的に、何か別のものに奪われている。
偉大な先達の話を聞くつもりで、それに怖いもの見たさもあって、足を運んだ。(なぜなら、男や女というものを知り尽くしている彼らなので、別れるときはまた、とんでもなく深い洞察力で、えぐるように残酷なことを言うのだろうな、と思ったのだ。) 続きを読む »

2014年12月26日

■依頼劇評■『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」』&『Jerk』(ジゼル・ヴィエンヌ演出) 「距離感」めぐる奇跡的体験 柳生正名さん

■依頼劇評■

「距離感」めぐる奇跡的体験

柳生正名

ジゼル・ヴィエンヌ「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」「Jerk」評
フランスで演劇やダンス、人形制作など多彩な分野で異彩を放つジゼル・ヴィエンヌ。彼女が振付、演出、美術を担当し、ロレーヌ国立バレエ団によって日本初演されたダンス作品「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」に静岡で直面した。文字通り、それは〝直面〟という語でしか表現できない事件だった。少なくとも、その直後に同じジゼルによる演劇作品「Jerk」の直撃を受けるに至るまでは。
オーストリアの作家マゾッホの小説「毛皮を着たビーナス」に基づく「マネキン」の主人公は一人の男である。もっとも、針のように攻撃的な踵を持ったピンヒールが真の主役という捉え方も可能だ。と言うのも、幕開きから終幕まで、ピンヒールは密かに、だが確固として舞台上に存在し続ける。原案となったマゾッホの作はマゾヒズムの語源となったことでつとに知られるが、本作の場合はフェティッシュな嗜好、さらに言えば、「くり返し、女性性たちを演出しないではいられない」(ジゼル)という男の本源的な欲望にスポットライトが当てられる。 続きを読む »

2014年6月27日

■依頼劇評■『ファウスト 第一部』(ニコラス・シュテーマン演出、ハンブルク・タリア劇場)『ファウスト』のポストドラマ的展開について 奥原佳津夫さん

■依頼劇評■

『ファウスト』のポストドラマ的展開について

奥原佳津夫

 ニコラス・シュテーマン演出『ファウスト 第一部』は、劇文学としての文豪ゲーテの詩劇とポストドラマ的演劇形式の拮抗を枠組として、テクストの作品世界を拡げてみせた刺激的な上演だった。歌手、ダンサーと楽師、数人の日本人エキストラが加わるとはいえ、専ら男優A、B(フィリップ・ホーホマイアー、セバスティアン・ルドルフ)と女優C(マヤ・シェーネ)の三人で、この長大な戯曲を三時間の舞台に上げること自体驚くべきことだが、ミニマルな演劇手法で古典戯曲のストーリー展開をなぞることにこの上演の眼目はなく、一人芝居の応酬とでも云うべき特異な手法が、テクストの生成する意味をめまぐるしくゆさぶり、時に裏返し、拡張させてゆく。主要登場人物三人にしぼって名場面集式に物語を構成するのでもなく、ポストドラマ的上演の材料としてテクストを解体するのでもなく、巨大な文学作品を舞台上のパフォーマンスと敢えて対峙させて緊張を持続しつづけた絶妙のバランスが鍵である。 続きを読む »

2014年6月24日

■依頼劇評■極北の劇場はクラインの壺となって テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する――阿部未知世さん

■卒業生 依頼劇評■

極北の劇場はクラインの壺となって

テアトロ・デ・ロス・センティードス<五感の劇場>による
<よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン>を体感する

阿部 未知世

0. クラインの壺をご存じだろうか
 クラインの壺というものがある。
 この壺をガラスで作る時。まずあるのが、片方がぷくりと膨れた、もう片方が鶴の首のように細く長く伸びた、一本のガラスの筒。その首の部分が、ますます細く長く伸びて弧を描き、あろうことかその先端が、ぷくりと膨れた胴体に突入する。首は突入してもまだ伸びながら先端部が広がって、あげくの果てに、開口したままのもう一方の端へと、内側からつながる。これで奇妙にねじれた、不思議な形のガラスの容器が出来た。内側を辿るといつの間にか外側に出てしまい、外側を辿るといつの間にか内側に…。これがクラインの壺なのだ。
 これは一体、何ものなのか。純粋に数学的な、非ユークリッド空間で生起する事象で、境界も表裏の区別も持たない曲面の一種なのだそうな。クラインの壺とは、その曲面をユークリッド空間の3次元に、無理やり埋め込んだ形なのだ(Wikipedia)というが… 続きを読む »