ふじのくに⇄せかい演劇祭2015では、約50年前に「アングラ演劇」と呼ばれたオルタナティブな表現を指針に多様な表現者が集められた。日本随一の演劇の街・下北沢にアトリエを構える劇団東京乾電池は、2016年で創立40年を迎える。「アングラ演劇」の影響下で出発した同劇団をけん引し、映画やテレビでもなじみ深い俳優・柄本明は、独特の風貌と意表を突く演技により、演劇界においてひときわ異彩を放ってきた。SPAC芸術総監督・宮城聰が柄本明と語る、「空気を読む」の彼岸にある、演劇のほがらかな地平とは?
■アングラ演劇と政治の季節
宮城 アングラ演劇の第1世代には、鈴木忠志さん(※)、唐十郎さん(※)、寺山修司さん(※)、別役実さん(※)など、様々な演出家や劇作家がいますが、柄本さんはこういった人の芝居を観て演劇の道に入ったんですか?
柄本 ぼくは鈴木忠志さんの早稲田小劇場なんです。『どん底における民俗学的分析』(1968)ですか。あれを観てね。笑えたんですよねえ。ぼくにとって一番おもしろかった芝居は、最初に観たこの作品じゃないかな。いまだにね。歌謡曲がかかって、役者がすごい形相で出てくるんです。1時間ぐらいの芝居でした。まだ小野碩さんが生きてらして、鈴木両全さん、白石加代子さん、蔦森皓祐さん、高橋美智子さんらが出てましたね。笑えて笑えて…
宮城 柄本さんは、その時、おいくつでした?
柄本 20歳です。
宮城 芝居はされてたんですか?
柄本 いや、そんな場所がカッコよく見えて…「青春の誤解」ですね。当時、時代がそうだったでしょう。ベトナム戦争があって、全共闘(※)の運動があって、ぼくは高卒だったんでノンポリですけど、大学生の友達なんかはそういうものに関わっていて…時代ですね。演劇はアングラ、映画はATG(※)。カッコよく見えたんですよ、なんだかね。
宮城 鈴木さんは、早稲田の喫茶店「モンシェリ」の2階に劇場をつくりました。
柄本 早稲田小劇場はアカデミックでしたね。アカデミックだけど…どういう風に言っていいかわからないんだけど、アカデミックってやっぱりくだらないんだなあって。おもしろかったなあ。その後に唐さんの状況劇場を観ました。ぼくは自由劇場(※)はダメでした。天井桟敷はわかんなかった。とにかく観てはいましたね。早稲田小劇場も続けて観ました。『劇的なるものをめぐってⅠ』(1969)、『劇的なるものをめぐってⅡ』(1970)。最後が『夜と時計』(1975)かな。
宮城 ぼくは高校1年か2年の時、唐さんの『唐版・滝の白糸』や状況劇場を観に行きました。隙間を狙っていたんです。バンドや絵や小説だと、すでにぼくよりはるかに上手いやつがいる。まだ誰も手をつけていないのが演劇だった。状況劇場とか観に行くと、ちょっとエバレルでしょ、内心エバッテルだけだけど(笑)。とは言え、その頃の状況劇場は一世を風靡していましたね。不忍池の紅テントは週刊誌のグラビアにも出ていました。
柄本 そうそう。大変なものでしたね。ただ、なんだろうな、同時に、変な買いかぶり方もあったような気がするね。唐さんは「嫌いだ」って言ってたけど…例えば、全共闘の「異議なし!」とか掛け声がかかったりするのはね。そういうのは好きじゃなかったねえ。芝居をやっているんだから。東映のやくざ映画が盛り上がるにしても、全共闘の運動と結びつけて…。過剰に言葉が飛び交っていた時代。ぼくなんか、そういう話をしている人たちをじっと見ながら、ああいうのは止めようって思ったね(笑)。
宮城 状況劇場を観に行くと、テレビに出てくる役者と違って、こんなのありなんだ…という感じがありました。何を言っているかよくわからない人が出てきて、客席から声がかかったり…何を言っているのかわからないのに(笑)。
柄本 「唐!」とかね。今でもかかってるけど。
宮城 すごく単純に言うと、ぼくなんかは自由を感じたのかな。
柄本 ぼくはどうしても「くだらない」という言葉を使っちゃうんです。「くだらねえよなあ」って言葉になっちゃうんですよね。早稲小も、ある種、格調高くやるんだけど、それが度を越しているというか。アカデミックにつくっていくということが、アカデミックであるがゆえに逸脱していくというか…どうですかね?
宮城 たぶん鈴木さんは滑稽なものだと思っているでしょうね。あまりにも立派という先入見で、お客さんが笑わなくなったかもしれません。鈴木さん自身は、人間は滑稽なものだということを…
柄本 そうですよね。
宮城 鈴木さんの言い方をすれば、「無残な」ね。
■「空気を読まない」を応援する
宮城 今回の演劇祭では、アングラ小劇場の遺産をどう下の世代が受け継いでいるかということ。それにあの時代に海外でも起こっていた似たような表現を紹介します。ぼくの演出で唐さんの『ふたりの女』を再演しますし、太田省吾さんの戯曲を韓国の演出家イ・ユンテクさんが演出します。台湾の林麗珍(リン・リーチェン)さんは初来日公演。どこか土方巽さん(※)を思わせるものがあります。映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーが書いた戯曲の上演もあります。
柄本 へえ、ホドロフスキーさんが書いているんですか。
宮城 日本のアングラ小劇場ではないですが、寺山さんとシンクロニシティのようにして登場した映画監督ですよね。「アングラ演劇」と言うと日本の演劇の話になるので、ほかの演目も含むことができるように、今回の演劇祭では「オルタナティブ」という言葉を使っています。
柄本 「オルタナティブ」って調べたんですけど、何でしたっけ?
宮城 「これ以外のべつの」「これじゃないもうひとつの」という意味ですね。でも「何かべつの」という訳ではパッとしない。そこで「空気を読まない」と訳してみたんです。新劇がメインストリームであった時代、状況劇場が63年、早稲田小劇場が66年、天井桟敷が67年にできています。新劇に対して「これじゃねえだろう」という感じで出てきたわけですね。
柄本 それを「オルタナティブ」という言葉にしているんですね。
宮城 「空気を読む」というのは、「長い物には巻かれろ」というか、「90%がそうなら残りの10%をそれに合わせよう」とか、最近では「55%がそうなら残りの45%も向こうに合わせておこう」みたいなね。今とにかく若い人たちがそうなんですよ。浮かないようにしようって必死で。
柄本 その逆のことをおっしゃってるんですよね?
宮城 そうです。そうじゃないものってないの?って。
柄本 空気を読むのはやめようよってこと?
宮城 ぼくはそう思うんですけど、今の若い人たちはもっと熾烈というか、ちょっと空気を読まないでいると村八分みたいになったり、なんだか過酷らしい。
柄本 そうなんですか。
宮城 色んなやつがいていいという感じがなくなっちゃってるみたいで。ぼくらの頃はまだクラスの中で全然しゃべらないやつとかいたと思うんだけど…。
柄本 ぼくなんかが劇団の子に言うのは、要するに、見られるということです。見られると色々と感じるでしょう。見られる時に、自分の中のべつの自分と出会うことができる。それはあなたの演劇だというような生意気なことを言っています。それはあなたの演劇であって、あなたしか感じていないことだから、いいとか悪いとか言う筋合いもない。そうなっちゃったんだからって。そう言われると、勝手に考えるでしょう。そういう意味では各自各自。
■見る力が誘う笑いのほうへ
宮城 中高生は見られることを避けてるんだろうなと、今お話を聞いて思いました。彼らはあまり相手を見ないんですよ。ボールを投げる瞬間だけ相手を見てすぐに目をそらす感じで、覗きこまないようにしているみたいです。
柄本 1年に1回、中学校で読み聞かせをやっています。中学1年生かな。一昨日、3クラスやったんです。今言ったこと、たぶんそうだと思う。だからぼく見ないんです。中学生を。そうすると、こっちを見てるみたいですよ(笑)。「質問があります」と中学生が言って立ち上がるでしょう。でもぼくは見ない。そうするとやっぱり向こうは見てるみたいです。ぼくもそういうことを感じてるのかもしれないな…。
宮城 安心するんでしょうね。見られた時に何かが起っちゃって何かをしてしまう、その恥ずかしい感じを、極力味わわなくて済むように、体の中に波風が立たないようにしているのかなと思うことがあります。ナンバ歩き(※)になっちゃうこととか、ああいうことが起こらないでほしいと思っているのかな。でもそこから自由みたいなものが出てくるのかなと思うんですよ。ナンバで歩いちゃった、みたいなことからね。ぼくにとってのアングラ小劇場の芝居の魅力は、ものすごく恥ずかしいことになっちゃってる人が、ものすごく恥ずかしい状況の中で、なんだか自由に見えるってことだと思います。
柄本 そうですね。逸脱したというかね。アングラが飽和状態になっていくと、逸脱が目的になっちゃうんですよ。最初から変なことをすればいいということになると、これは違うんです。その人はその人でどうしてもそうなっちゃう…状況劇場なんかはそういうものを見せてくれましたね。
宮城 今の中高生に変なやつらが舞台の上にいるってことを見てもらいたいと思う。変なまんまでいいってね。誰でも変になったりするんだと思うし、それが笑えたりするんだと思うんだけど、今彼らはなるべくそれを隠す、変にならないようにしているようです。
柄本 観る力っていうのが、テレビなんかで画一化されているんじゃないですかね。わかりやすいものでないといけないって。わからないのにね。わかるもんじゃないのに。ある時からテレビにテロップが出始めたじゃないですか。ものすごくゾッとすることなんだけど。わりと大きな変化だったと思いますね。
宮城 ここで笑うところだよって教えてくれるんですよね。
柄本 人間って皆、変だからね。変であるし普通であるし。だってこうやって見ても(周囲のスタッフの中にオシャレなカメラマンを見つけて)ああいう髪型してるよ(笑)。そういうふうに「観る」目線でやっていきゃあ、どうしたって笑えるよね。すみません…ぼくがおかしいのかな(笑)。ぼくは学芸会が好きなんですよ。小学校の低学年だと、それぞれがそれぞれでしょう。本当に一生懸命やる子もいれば、言うことを聞かない子もいる。そういうことにぼくは泣けたりするし、感動したりするんだけどね。
宮城 柄本さんは、ちっちゃい子のような感じを上手になさいますよね。ぼくにとって柄本さんと唐さんの似ているところは、ちっちゃい子のような演技をするところです。ものすごく上手い。
柄本 どうなんでしょうね。ただ、そういうことができる状態の時は悪くはないんじゃないかなという気はします。自由になる端緒を見つけたという感じなのかもしれませんね。
■ただいるだけでおもしろい
柄本 鈴木忠志さんが早稲小の後に、利賀村や水戸(※)でやっていたでしょう。それから静岡も。でも一度も見たことがなかったんですよ。それで劇団の子たちと静岡に一緒に観に行ったんです。宮城さんの『ふたりの女』。舞台の床が、変わっていましたね。どうなっていたんですか?
宮城 野外劇場なので、舞台の床板がすぐに腐っちゃうんですね。そろそろ取り替えなきゃいけないという話になって、剥がしてみたら、根太(※)があった。そこで根太の上で演じた方がおもしろいんじゃないかということになりました。
柄本 そういう風にしようと思ってデザインしたわけでもないんですね?
宮城 劇場そのままです。唐さんの芝居をやる時に、セリフを言ってなくても、俳優の体を見ていられるようじゃなきゃダメだなと思いました。そこにただいるだけでおもしろい状態をどうつくればいいのかなと。
柄本 どのくらいの尺でしたか?
宮城 間が15センチくらいの格子状になっていたと思います。
柄本 じゃあ、かなり不安定ですよね。
宮城 そうなんです。皆やたら足を擦りむいていましたけど、いつも気をつけないといけないので、立っているだけで必死なんです。それでなんとか唐さんの本が見ていられるようになるんじゃないかなと思いまして…。
柄本 わかるわかる。確か『ふたりの女』の初演は、石橋蓮司さんと緑魔子さんの第七病棟(※)がやったんでしたね。
宮城 (第七病棟のアトリエがあった)町屋で見ました。
柄本 砂ですよね。
宮城 そうそう舞台に砂が敷かれていて…。
柄本 『砂に書いたラブレター』がかかるんですよね。
宮城 小さなアトリエでどうやったのかと思いますけど、最後は、砂の中に役者が埋もれていってね。
柄本 あれはラジオドラマだったんですよ。それを蓮司さんが見つけてきたみたい。
宮城 ただいるだけでおもしろいって話ですけど、前に麿赤兒さん(※)に聞いて笑っちゃいました。70年代の状況劇場、麿さんや四谷シモンさん(※)がいた頃って、麿さんが一番マトモだったそうですね。
柄本 そうそう、麿さんは学校の先生みたいな人だから。
宮城 麿さんが「新劇的なやつがいる」って批判されていたらしい(笑)。ともかくいるだけでおかしい、テンションというか、セリフを言わないうちからなんとなく…そういうのはなかなか、ぼくから考えると、俳優が練習して獲得できるものではないという感じがして、それでもそれをどうやったらやれるのかなあと思いましてね。
柄本 ぼくは大久保鷹さん(※)も知ってるけど、いい加減にしろですね。いや、いい意味でなんだけど。2人芝居やっててセリフを憶えないんだもん。本番これだよ(イヤホンを耳に入れるしぐさ)。都合のいいことに髪の毛長かったの。稽古はひと月くらいあったのに…。イヤホンを渡されて、大久保鷹がなんて言ったと思う? 普通さ、そういうものを渡されるって屈辱的なことだと思いませんか? 大久保鷹は違うもん。「なんだ、こんな便利なものがあったのか」だって。
宮城 (笑)。
柄本 でも、だからいいんだよね。そういう人間なんだもん。真面目にセリフを憶える人と、そういう人間と、どっち見たい? 真面目とか不真面目とか言うけどさ。まあ、セリフを憶えないのはいけないと思うよ。何かをやる以前の問題だという気がするけど(笑)。だけど、だけどだよ、そういう人間が出てくるんだよ。そういう人いないもん。おもしろいよ。
■共感も悪意も…演劇を続ける人間
柄本 歌舞伎というテーゼがあって、アンチテーゼとして新劇が出る。そのアンチとしてアングラ演劇が生まれて、アングラからお笑い劇団みたいなものが出てきて…アンチの方が勢いを持ちやすいわけでしょう。文句を言う方がさ(笑)。そこから学んでるんでしょう。同じことをやっても仕方がないわけだよね。自分が芝居を始めた頃は、バイトした金で小屋を借りてやるでしょう。それで友達を呼んでさ。だから何をどうやってもいいんだよ。東京乾電池が渋谷のジァン・ジァン(※)である種の勢いを持っていた。即興でつくっていたんですけどね。お客さんは来ていたけど、勢いがなくなっていきました。やたら観客が笑うんだよね。腹立ってくるんだよね。もう即興はダメだと。本をつくらなきゃダメだと。岩松了(※)に相談して2人で話し始めた。「お客さんって劇場に来たら帰らないよね。お客さんが帰ったらおもしろいよね」って話して…そういう風な言葉を使って、使ってって言うか…「緊張感のない芝居をつくろう」とかね。つまり、「おもしろい芝居をつくろう」と言うより勇気がわく。悪意の発揚…。最初に『お茶と説教』(※)をやった時、どんどんお客さんがシーンとしていきました。ものすごい嬉しかった。東京乾電池ってお笑い劇団だと思われてたから。だけどおもしろいのよ。岩松という人の書く本がね。芝居もおもしろかった。色んな演劇があると思うんだけど、やっている人とお客さんの感じが離れていくんだよね。お互い他人なんだということがハッキリする。そんな中でも、クスクスって…。たちの悪い人間もいるんだよ。そのことがわかる人もね。この悪意と言うか何と言うか…でも(共感を跳ね返す力は)誰でも持ってるものじゃない? 人間にはそういうものがついてるんだから。昔っから。新しくとも何ともない。善意だけで生きてるわけじゃねえからさ。そういうものができるっていうのは、アマチュアってのが好きなんでしょうね。
宮城 そうは言っても、なかなか柄本さんみたいに、観客の期待を裏切ることが、案外できないですね。
柄本 そうですね。
宮城 劇団にお客さんが来てきてますから。
柄本 だからまあ、そういう方法を使って、新たにこう行かないとダメだということで、やったんだと思う。観客への敵意だけじゃないよ、作戦も含めてね。
宮城 それができた劇団ってあんまり多くない。お客さんもあれが観たいという感じで来るでしょう。そのまま続けて、あるところまで行って解散。そういう人の方が多いですよね。
柄本 来年で40年になります。
宮城 劇団を続けるの簡単なことじゃないですよ。
柄本 うち、60人くらいいるんですよ。多いですよね。大変という意識はないね。いい加減だからかな、俺が。
宮城 実際、多くの劇団は解散してますね。
柄本 今、劇団ってものがなかなかない。プロデュース公演ばっかりになっている。(劇団は)好きだからやってんじゃない? て言うか、そういうことで始めちゃったわけでしょう。そういうことになっちゃったということじゃないのかな。ここで頑張ったからとか、何にもないもん。しょうがないよ、こういうことになっちゃったんだよ。他に可能性はあったかもしれないよ(笑)。ごめんね、そういう言い方で。でもね、こういうものって昔からなくならないわけでしょう。皆がわさわさ集まってきて、誰かが号令かけて、何かが始まるわけだけども…なんだろうね。芝居ってどれくらい? 紀元前?
宮城 紀元前ですね(笑)。
柄本 そういう頃からずっとやってるわけだから、これからも続くんじゃないの?
宮城 人間がいるところに必ず芝居があるから。
柄本 お祭りですよね。
写真撮影は「アトリエ乾電池」「トロワ・シャンブル」にて
構成:西川泰功
写真撮影:有本真大
柄本明(えもと・あきら)
劇団東京乾電池座長・俳優・演出家。
1948年、東京生まれ。高校卒業後、商社に就職。劇団マールイ、電気亀・団(後のオンシアター自由劇場)を経て、1976年劇団東京乾電池を結成。映画『カンゾー先生』(今村昌平監督)で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞。
宮城聰(みやぎ・さとし)
SPAC芸術総監督・演出家
※
鈴木忠志/演出家。1939年生まれ。1966年早稲田小劇場(後のSCOT)結成。1995年から2007年まで初代SPAC芸術総監督。
唐十郎/劇作家、俳優、演出家。1940年生まれ。1963年シチュエーションの会(後の状況劇場)結成。
寺山修司/詩人、劇作家。1935年生まれ。1967年演劇実験室天井桟敷結成。1983年逝去。
別役実/劇作家。1937年生まれ。鈴木忠志らとともに早稲田小劇場結成。
全共闘/全学共闘会議の略称。1960年代後半の大学紛争を担う。
ATG/日本アート・シアター・ギルドの通称。映画製作・配給会社。60年代より非商業主義映画を普及。
自由劇場/串田和美、斎藤憐、佐藤信、吉田日出子らにより1966年に結成。
土方巽/舞踏家。1928年生まれ。暗黒舞踏を創始。60年代アングラ演劇に多大な影響を与える。1986年逝去。
ナンバ歩き/手をほとんど振らないか、振る際は同じ側の手足を同時に動かす歩き方。
利賀村や水戸/富山県南砺市利賀村には富山県利賀芸術公園が、茨城県水戸市には水戸芸術館ACM劇場があり、ともに鈴木忠志が創設に尽力。
根太/床板を支える横木。
第七病棟/石橋蓮司、緑魔子らにより1976年に結成。1979年唐十郎作『ふたりの女』初演。
麿赤兒/舞踏家、俳優。1943年生まれ。状況劇場参加の後、1972年舞踏集団大駱駝艦結成。
四谷シモン/人形作家。1944年生まれ。1967年より状況劇場に出演。
大久保鷹/俳優。1943年生まれ。1965年より状況劇場に出演。
ジァン・ジァン/東京・渋谷に1968年から2000年まで存在した小劇場。
岩松了/劇作家、演出家、俳優。1952年生まれ。オンシアター自由劇場を経て東京乾電池結成に参加。
『お茶と説教―無関心の道徳的価値をめぐって』/1986年初演、岩松了作。平凡な日常に潜む小さな悪意を淡々と描く。後の「静かな演劇」の先駆とも言える。